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歴史

2018年5月 2日 (水)

西郷隆盛余話

明治31年(1898)12月18日、上野公園で維新の英傑西郷隆盛像の除幕式が行われた。故郷鹿児島の城山で自決後(1877年)、賊軍の将の汚名を着せられから実に21年が経過していた。幕末から明治維新にかけて功があった志士たちの霊を祀るため建てられて靖国神社には、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作など維新殉教者として合祀されている。ところが明治維新の最高の功労者とされた西郷隆盛は没後140年が経っても祀られていない。(太平洋戦争のA級戦犯東條英機が祀られているのにどうしたことか?)
          ◇          ◇          ◇
明治新政府は、薩摩士族に担がれて反政府軍の総大将となった西郷隆盛軍が起こした西南戦争(明治10年)により、賊軍の将として靖国神社に合祀することを拒否してきた。ところが、もっとも西郷を理解していたとされる勝海舟が明治17年、西郷南洲七回忌の際遺族の為に名誉回復の運動を起した。特に西郷の人柄を愛した明治天皇は「逆臣」となった西郷を憐れみ、名誉回復に踏み切る。明治天皇にとっては西郷も木戸も大久保も「建国の父祖共同体」の第一人者に他ならない。だからこそ、成り行きによる政治的敗北から、西郷を救い出さねばならなかった(御厨貴氏)。こうして、黒田清隆らの努力もあって、明治22年(1889)2月11日、大日本的国憲法発布に伴い、大赦で赦されることになった。

Photo 上野公園:西郷隆盛像 

話を西郷像の除幕式に戻そう。当日は名士800余名が参集して盛大に式典が執り行われた。万座の中で銅像が姿を現したときに、糸子未亡人が「うちの人はこげん人じゃなか!」と叫んだ話が有名なエピソードとして残っている。このとき隣に列席していた実弟の西郷従道が糸子未亡人の足をギュッと踏みつけ、「似てようが、似ていまいが人様の善意を損ねるようなことを言ってはいけない」と諭したという。
           ◇          ◇          ◇
この糸さんの発言については、「主人は浴衣姿で散歩なんかしなかった」と言う意味と、(実際は故郷鹿児島での狩りの姿を表現したもの)単純に顔が違うと言う意味だったとする説がある。写真嫌いで通した西郷の顔写真は1枚も残っていないが、そのためか、西郷の死後、多くの肖像画が残されている。中でもイタリアのキヨッソーネが描いた肖像画は死後の翌年、西郷とゆかりの深い人からのアドバイスを参考に、比較的西郷に似ていたとされる西郷従道と従姉弟の大山巌の顔を合成して描いたと言われ、西郷の遺族や親族が「この肖像画こそ翁(隆盛)そのもの」と確認し、夫人の糸子に贈呈されたという。

Photo_2 
キヨッソーネ 画::西郷隆盛肖像画
           
銅像の制作は明治26年に、今の芸大に委託された。同校はできるだけ精巧な像を作るべく、要望風采の情報を集めた。特に実弟の従道氏の写真を参考にしたというが、銅像の現物を見ると、キヨッソーネが描いた肖像画よりも、元横綱武蔵丸に似ているように思える。糸子さんが「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったのはこの辺のことを指しているのか? 最後に勝海舟が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌を掲げる。

 「
濡れ衣を 干さんともせで 子供らの なすがままに 果てし君かな

2018年4月23日 (月)

明治150年の歴史から何を学ぶか(最終回)

自分がまだ小学生だった頃、明治生まれの祖母からよく聞かされた。「東郷さん(元帥)は偉かった。みんなを元気にさせた。昭和の戦争は酷かった。原爆でなにもかも焼けてしまった」と。明治・大正・昭和を生きた平凡な一庶民の慨嘆だが、案外本質を突いているかもしれない。
              ◇          ◇           ◇
明治という時代は、江戸時代という長い時間をかけて生育された果実が収穫される時期だった。江戸時代の様々な遺産が明治という時代に「理想」として実った時期だったというのが司馬さんの明治観である。しかし、明治の人が目指したのは「坂の上の雲」だったから、いくら坂を上ってもそれは掴めないものであり、上りつめた坂はやがて下りになる。白い雲を掴めないまま坂を下っていくと、その下には昭和という恐ろしい泥沼があったと磯田氏は解説する。
           ◇          ◇           ◇
その泥沼の中から頭を出した鬼胎が昭和戦争を惹き起こし、日本を破滅に引きずり込んだ。日本人は戦争で「神州不滅」とか「七生報告」とかいったおよそ合理的でない思想をさんざん吹き込まれ酷い目に遭った。技術の向上より、不都合な事実を注視せず、深く考えないで不合理が罷り通る。極端に言えば明治の頃の装備のまま、第二次大戦の敗戦まで行ってしまった。戦後、その反作用か、目に見える即物的なものを強く信じる合理的な世代が生じて、高度経済成長期に、一気に物質文明至上主義に向かった。
           ◇          ◇           ◇
高度経済成長は確かに日本人の生活を豊かにした。だが、物欲は満たされたものの、何か大切なものを失ってしまった。国民全員が「坂の上の白い雲」を目指すような大きな目標は無くなった。公共心が希薄になり、自己中心的な生き方が主流となった今、この国は何を目指し、どこへ行こうとしているのか。司馬さんが言い残しかったこと、それは「公共心が非常に高い人間が、自分の私利私欲ではなく、合理主義とリアリズムを発揮した時に、凄まじいことを成し遂げる」、逆に「公共心だけの人間がリアリズムを失った時、行く着く先はテロリズムや自殺にしかならない」ということではなかったのかと磯田氏は言う。
           ◇          ◇           ◇
【おわりに】 2001年11月、司馬さんの居宅があった東大阪市に「司馬遼太郎記念館」が開館された。半年後の翌年5月、ここを訪れた。司馬さんは1996年2月72歳で没したが、1989年、66歳の時、「21世紀に生きる君たちへ」、「洪庵のたいまつ」を書き残し、小学校の国語の教科書に掲載された。司馬さんが膨大な執筆活動の最後に、推敲に推敲を重ねて執筆したという。まさに我々に残された遺書とも言うべき作品であり、早速1冊買い求めた。
未来を思う司馬さんの真摯な姿勢が随所に滲み出ている。何の脈絡もないが、蜀の丞相孔明が主君劉備の後主劉禅に残した「出師の表」が思い起こされた。磯田さんは「司馬遼太郎で学ぶ日本史」の「おわりに」の部分で、次のように書いている。「20世紀までの日本の歴史と日本人を書いた司馬遼太郎さんが言い残したことを21世紀に生きる我々が鏡として、未来に備えていくことが大切だ」と。まさにその通りだと痛感させられたことが、このシリーズを締めくくるあたっての感想である。(終)

2018年4月 1日 (日)

明治150年の歴史から何を学ぶか(5)

【明治の時代に孕んだ鬼っ子】
司馬さんは明治と言う時代を一つの理想として書いたが、昭和については「この国のかたち」の中で、「昭和ひとケタから20年の敗戦までの10数年は、長い日本史の中でもとくに非連続の時代だった」と書いている。また別の箇所では、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る40年間は、日本史の連続性から切断された異胎の時代」だった、また「明治憲法下の法体制が、不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じ」とも表現している。

◆磯田氏は社会の病とは、潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう。その病根は、明治という時代に生じていたのではないか、明治という時代はまだそれが発症していない「幸せな潜伏期間」だったのではないかと述べている。明治の日本は合理的な法に基づく近代的な国家を目指していたが、一方で、「日本の軍には天の助けがある、天皇の率いる軍は天祐を保有しているから、神風も吹き、負けたことがない」と考えていた。国をあげて超自然的な力を信じ教えていたところに病根の潜伏期間」があり、司馬さんが言う「鬼っ子」を孕んでいたとの表現と同義語ではなかろうか。

【鬼胎の時代が生まれた背景】
その背景には「ナショナリズムの暴走」があった。「日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない」と司馬さんは言う。日露戦争で、辛うじて勝利した日本はギリギリの条件で講和せざるを得なかった。国際情勢を知らない大衆やメディアは、「平和の値段が安すぎる、講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ」と叫んだ。ついには3万人が結集して、日比谷焼き打ち事件が起こった。司馬さんはこれを「魔の季節への出発点」という。日清戦争の勝利で中国に強い優越感を持ち、今度は白人の国に勝ったことで、「世界の一等国の仲間入りした」と、日本人は次第に傲慢になり、謙虚さを失っていった

【ドイツスタイルの導入と統帥権】
昭和の戦争が日本を破滅に導いた最大の要因は、明治憲法制定時に国家制度も、軍の方式もドイツのスタイルを導入したことであり、憲法に「統帥権」を掲げたことである。明治国家は草創期には陸軍はフランス式、海軍はイギリスに学ぶという多様性があった。ところが国家モデルの目標を設定するに当たり、大隈重信らが推す英国方式(国会中心の政府)と伊藤博文が推すプロイセン・ドイツ方式が対立した。結局、欧州では後進国ながら、皇帝を中心に強固な軍事力で急速に国力を高めて、近代化を遂げたドイツを日本がモデルにすべきだとした伊藤が大隈らを追放したことによって日本の方向が定まった。明治14年の政変だが、もし大久保利通があと4年生きていたら、どういう判断をしただろうか。

◆ドイツは軍隊が国家を持っていると言われる程の軍国主義国家であり、参謀本部制度という独特の制度で、軍が国家を動かすと言われる程だった。日本が軍事的に強い国家の法制度を取り入れたのだから、軍が国家を左右して破綻に至ったドイツと同じ運命を辿ったのは自明の理と言えよう。明治22年憲法発布時にはまったくドイツ式に変貌し、その作戦思想が日露戦争の陸軍でも有効だったということで、ますますドイツへの傾斜が進んでいった。(続く)

2018年3月21日 (水)

ガリバーと三浦按針の話 (下)

◆では、何故三浦按針がガリバーとされた伝承が残るのか。17~18世紀のヨーロッパでは、風刺的架空旅行文学が一種の流行を生んでいた。実在の三浦按針は多くの書簡を祖国に送り、その書簡集が1625年に刊行されている。また1690年に日本に渡航し、2年間滞在したドイツ出身でオランダ船船医となったケンペの「廻国奇観」(1712年刊)や「日本誌」、その他にもいくつかの日本情報は英国にも伝わっていた。特にケンペルの「廻国奇観」は、鎖国政策が安定した高い文化と国造りに望ましい効果をもたらしている事例として、「ポジティブな日本像」として伝播したようだ。

◆スウィフトが「巨人の国」や「馬の国」など他国との交流の無い島国を理想郷に近いイメージで描いているのも、こうした影響があったのではないかと言う説もある。三浦按針やケンペルらの日本紀行を題材とした情報は、「ガリバー旅行記」に直接、間接に反映されている。按針が横須賀、浦賀、平戸等にに痕跡を残していること、またケンペルが船医であったことなどはその一例だが、彼らの日本での行動をもとに、スウィフトが類い稀なる想像力を駆使して、虚・実を絡ませ、日本におけるガリバー像を構成したことは間違いないだろ。

◆ガリバーは日本紀行の中で、「踏み絵」を迫られるが、英国人であるガリバーは、その儀式を免除して欲しいと申し出る。「踏み絵を躊躇するオランダ人など初めて見た」と怪訝な顔をされたとあるが、何とかうまく自分をオランダ人として偽り通して、長崎からアムステルダム行の船に乗り込むことができ、イギリスに帰国したとある。こうした記述は、日本の事情によほど精通していないと書けるものではなく、按針やケンペルの日本情報がおおいに役立ったものと思われる。

◆なお、徳川幕府は1639年、西欧との結びつきを断ち、長崎の出島に築いたオランダ商館を除いて鎖国時代に入った。この間のわずか20年ほどの短い期間でW・アダムスは徳川家康の庇護を受け、三浦按針という日本人として活躍した。その後100年近く経って、母国でガリバーという架空の人物の一分身として復活したとも言えるのではなかろうか。ついでながら原作者のスウィフトは故国アイルランド、及びイングランドの外に出ていた形跡は見られない。しかし、創作する上での想像力や、時の英国の政治、社会、文明に対する鋭い風刺は稀有なものである。スウィフトは晩年精神病を患い、1745年77歳でこの世を去った。(本稿終)

2018年3月20日 (火)

ガリバーと三浦按針の話 (上)

ガリバー旅行記の主人公「ガリバー」は実は三浦按針だったという話は、三浦半島の横須賀、浦賀、観音崎あたりに伝承として残っている。これは全く根拠のない話ではなく、歴史を辿れば面白い事実が浮かび上がってくる。

◆『ガリバー旅行記』はアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトによって、1713年に執筆開始され、1726年59歳の時に完成した風刺小説である。原題は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリバーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』という長いもの。子供向け絵本でも有名な「小人国」は第一篇に、「巨人国」は第二篇に登場し、第三篇で四つの島国を旅した後、日本に上陸する。因みに第四篇で「馬の国」が登場する。登場するすべての国が架空の島国であるのに対し、日本のみ実在の国であるところが面白い。

◆「旅行記」では第三篇の最後の部分5ページほどに日本旅行記が登場する。物語では、日本渡航の前1709年5月、ラグナダ国王の親書を携えて出航。日本の東端の港ザモスキに着いた後、江戸で皇帝(徳川将軍)に謁見した。その後Nangasac(長崎?)まで護送され、同年6月オランダ船で出国し、イギリスに帰国したと記述されている。このザモスキと言う地が、横須賀市の観音崎ではないかと言うのである。

◆三浦按針はもともとウィリアム・アダムスという英国人。オランダ船リーフデ号の航海士だったが、関ケ原の戦いの半年前、1600年3月、豊後の国(大分県)臼杵に漂着した。この時オランダ人航海士ヤン・ヨーステンも同時に漂着し、後に二人とも家康の家臣に召し抱えられた。ヤン・ヨーステンは現在の八重洲の地名に由来にもなったことで有名だが、御朱印貿易に従事した。W・アダムスは、家康の外交顧問として重用され、また西洋式帆船を完成させた功績等により、250石取の旗本に取り立てられ、名字帯刀を許されて、相模国三浦郡(現横須賀市逸見)に所領と邸を拝した

◆家康はこの頃、観音崎に隣接する浦賀湊を貿易港に指定し、南蛮貿易としてスペイン商船のみ入港を認めた。マニラ・メキシコなどとの貿易が目的だったからである。按針の尽力により1604年にスペイン商船が初めて入港し、その都度、西国から承認が浦賀に急行し、浦賀は国際貿易港として賑わったという。また按針は1609年、平戸の商館開設に関わり、オランダとの貿易が開始された。家康死後(1616)は秀忠、家光と次第に貿易から手を引き、鎖国政策へと舵を切った。按針は次第に居場所も窮屈になり、晩年は平戸で暮らして、故国へ帰ることを望んだが叶わず、1620年、波乱の生涯を閉じた。(続く)

2018年3月17日 (土)

明治150年の歴史から何を学ぶか(4)

【格調高いリアリズムと精神重視の非合理性】
◆司馬さんが目指すリーダー像とは、国を誤らせない、集団を誤らせない、個人を不幸にしないリーダーということに尽きる。その対極にあるのが、合理主義とは相容れない偏頗な「思想」にかぶれ、仲間内だけでしか通用しない異常な行動をとる人や集団だと言う。日本人の中には勝敗や結果に関係なく、忠義の思想・動機が大事だと言うような情緒に感動する人がいて、そうした史実はいくつもあるが、幕末の長州藩の一部にもその傾向が見られ、勤皇攘夷にかぶれたあまり、禁門の変では天皇を守るどころか、結果的に朝敵にされてしまった。

◆司馬さんはこの時の長州の「思想」や「ドグマ」に偏った組織の在り方、精神性に、後の昭和の陸軍の原型を見ていた気がすると書き残している。昭和の陸軍が日本を破滅に導いた遠因は、明治37~38年(1904~05)の日露戦争に辛勝した日本軍そのものに内包されていた。日露戦争は枝葉を切り取れば、「合理性とリアリズムを重視した体質」と、「忠義の思想や神州不滅などのドグマ」という相反する思想が葛藤しつつも、前者のリアリズムを重んじる姿勢が上回り、辛うじて勝ち取ったという戦争だった。

◆明治の日本は列強に比べれば小さな国で、「弱者の自覚」があり、ある種の謙虚さが残っていた。そうして国民が「坂の上の白い雲」を目指して一心に坂道を上って行った時代だった。文明開化と言う形で、小さな蕾が開花を迎えようとするこの時期に、日本は海外の動向、特にロシアの脅威に無縁で済ます訳にはいかなくなった。「日露戦争」こうした世界情勢の中で勃発したが、司馬さんは「坂の上の雲」の中で、秋山真之乃木希典という人物を対比させて、リアリズムについて述べている。

◆どちらも「格調の高い精神で支えられたリアリズム」を体現しているのだが、秋山は明るいリアリズムで合理的、一方、乃木は暗い、公のための滅私という不合理なリアリズムを体現している。明治という時代はこの二つのタイプの日本人がいて、国家が成り立っていたと書き分けている。司馬さんは乃木という、国民からはその「格調高く愚直な精神」が非常に愛された人物を通して、明治のリアリズムの「」の部分を、しっかりと見つめた。

◆秋山は、「どんな武器を渡されてもそれで戦うのは軍人の本分である。しかし兵器の優劣が戦争の結果を左右する」と、日本海海戦の勝利のあとに故郷松山で語っている。「どんな兵器でも死ぬ気で戦います」というリアリズムを持って戦えば、勝てる公算が高くなる。然し、「死んでも戦います」という人が、リアリズムを失えばそれは「自殺」になる。昭和の歴史はそれが当たり前になってしまった。司馬さんが言いたかったことは、まさに「格調高い精神に支えられたリアリズムと合理主義を合わせ持っていたならば、あのような愚かな戦争に突入することはなかったであろう」と言うことだろう。

2018年3月 2日 (金)

明治150年の歴史から何を学ぶか(3)

明治150年の節目に当たる今年、弊ブログでも歴史学者磯田道史氏が著した「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」を主軸に、司馬氏の歴史観をまとめた「この国のかたち」や幕末・維新を題材にした歴史小説を参考にして、幕末・明治と現代との関りについて話を進めている。

江戸時代からの遺産の引継ぎ
明治維新を成し遂げた薩長土肥はそれぞれ特徴ある政治家・軍人・官僚等数多くの人材を新政府に提供した。また教育に熱心だった会津藩、文化・技術を重視した加賀藩なども優れた人材を輩出。つまり江戸時代はそれぞれの藩がその特徴に応じた人材を輩出し、それが明治維新を迎えたことで、各藩の最も良質な部分が中央に集められた。即ち、この江戸時代の多様さこそ、明治政府が江戸日本から引き継いだ最大の財産だった。


第二の遺産
司馬さんは江戸時代からの遺産として、庶民の民度の高さ、順法精神、識字率・知的レベルの高さを挙げている。加えて、権威に従順、親孝行、忠孝といった考え方が浸透し、「正直」という徳目が重視された。こうした考えは「公共心の高さ公への奉仕」に繋がっていく。その背景には「島国の閉鎖社会」という環境の中に在って、自分勝手な行動はつまはじきされてしまうことになるという側面があるからだろう。こうした価値観は戦後日本社会にも引き継がれ、公共心の高さ、マナーの良さなどが海外から称賛されるところではあるが、他方、価値観の多様性で公共心の欠如道徳心の後退などマイナス面の行動が増えたことは残念なことではある。 


江戸時代の負の遺産
司馬さんは、負の遺産として「東アジアへの蔑視の姿勢」をあげている。江戸期の海禁政策(所謂鎖国)のもと、「中国、朝鮮は儒教の国だと言っても形式のみで、儒教道徳がいちばん貫かれているのは日本ではないか」と言う意識が根付いて、独善性が高まった。明治になり、日清戦争で清国に勝ったことで中国・朝鮮を下に見る傾向は強くなった。


◆脱亜入欧思想の蹉跌
脱亜論」は、福沢諭吉がアジアと手を携えようとして苦しみ、朝鮮の近代化の難しさに絶望した挙句に吐いた言葉だったという。「脱亜入欧」とは日本はアジアを脱して、西欧の仲間入りをすべきだという考えだが、のちに「西欧は偉いが、東アジアは劣っているから支配して当然だ」というように誤解された。その誤解が優越感に変わり、東アジアの中で孤立しやすい社会や思想を作り出していった。司馬さんはこうした傾向に対する心配や危惧を抱いていたが、まさに現在に至る朝鮮半島、中国との根深い対立はここに端を発していると言えるのではなかろうか。(続く)

2018年2月15日 (木)

明治150年の歴史から何を学ぶか(2)

1.革命の三段階
◆司馬さんは旧体制から新時代に変革するためには革命の三段階を経ると言う。
第一段階では新しい時代の理想主義を掲げる思想家が出現する。ところが、そうした思想家の多くは非業の死を遂げる。幕末においてはその代表は吉田松陰、横井小楠、橋本佐内らだろう。
第二段階ではその思想を実行に移す革命家、戦略家が出現する。長州藩の高杉晋作、桂小五郎、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬などだ。しかし彼らも天寿を全うしない。
第三段階では多くの犠牲者達の上に、革命の果実を受け取る権力者が出現する。その代表は新政府の政界・官界・軍事に君臨した山形有朋だろう。
すでに革命の進行段階で腐敗は始まっていた。山形はじめ明治政府の要職に就いた革命の志士たちはその果実を貪ろうとした。「組織は変質し、腐敗する」は古今東西あらゆる組織や人物に共通する。明治新政府も例外ではなかった。


◆司馬氏は革命が三段階を経る中で、技術者の出現が重要であると指摘する。その技術とは科学技術でもよいし、法制技術、軍事技術であってもよい。革命の思想が尊王攘夷というイデオロギー、つまり精神的なものであるのに対し、技術の革新は合理主義的な考えを伴う。単に「尊王攘夷」を唱え、革命を起こそうとしただけでは明治維新は成立しなかった。司馬さんは日本の陸軍の近代化を成し遂げた人物として長州藩の村医者であった大村益次郎を挙げる。彼は旧来の武士階級はむしろ新国家の敵と考えた。農民や庶民に連発式のライフル銃を持たせ、近代的な西洋式の組織化された軍隊を創った。その成果は幕府の長州征伐、討幕の戊辰戦争に顕著に表れた。数で劣る素人集団が旧体制の武士集団を破るという近代化された軍事の力を形で示した。彼は徹底した合理主義者だった。

2.合理主義と無私の精神
◆技術者の出現で特筆すべきは、本来体制側に回るはずの各藩の諸侯の中にも開明的な考えを持ち、軍事力の増強・改革、殖産興業にも注力する藩主が現れたことだ。薩摩の島津斉彬、佐賀の鍋島閑叟、宇和島の伊達宗城など開明的な大名達は、軍艦を建造したり、製鉄、アームストロング砲などの近代兵器を採用。日本の防衛力強化に備えたが、それらの技術の革新も糾合して、世の中の動きは薩長同盟を主軸とした「尊王開国」に傾いていった。また、討幕の標的となった徳川幕府も軍制改革、技術革新を通して勝海舟、榎本武揚、江川太郎左衛門らいわゆるテクノクラートを輩出し、後に維新政府の人材登用に応える形となった。

◆大村の合理主義は時に他者との軋轢を生みかねない。しかし変動期には大村のような合理主義的な人物が登場して国を動かす。ところが静穏期に入ると日本人は途端に合理主義を捨て去る。またリーダーシップに欠かせないものが「無私の精神」、つまり自分を勘定に入れない客観性であり、この二つを兼ね備えたリーダーシップでないと合理性を失った日本社会を変革させることはできないと司馬さんは言う。戦後の日本社会を見るに、ある種の不合理が罷り通り、病根の深さを窺い知ることができる。リアリズム合理性というものが最終的に勝利を収め、時代を動かすという司馬さんの言葉は慧眼に値しよう。(続く)

2018年1月29日 (月)

明治150年の歴史から何を学ぶか(1)

◆明治維新とは何だったのか。
明治維新をひと言で表現するならば・・・司馬遼太郎氏は「この国かたち(1)」の中で次のように書いている。
明治維新は、国民国家を成立させて日本を植民地化の危険から救い出すというただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命だった

幕府及び雄藩は「清国の植民地化、相次ぐ外国船の来航」等の現実を前に国防意識を高め、沿岸防備に傾注する。特に幕府はペリー来航以降(1853)、日本に洋式海軍を起こそうと、長崎海軍伝習所を設置(1855~1859)。オランダから教師団を招き、軍艦の操縦だけでく造船・医学・語学など様々な教育が行われた。この頃の幕府は懐が広く、勝、榎本ら幕臣だけではなく、後に戊辰戦争で敵方に回る薩摩、長州、佐賀、その他の諸藩からも多くの人材を受け入れた。

日本が中国、朝鮮などアジア諸国と決定的に違うのは、攘夷の相手国であった西欧諸国の先進技術や学問を積極的に取り入れ、消化吸収して自分のものとしていった点だ。先進5か国とは不平等ながらも条約を結び、外交交渉で植民地化を阻止した。その上、その技術・学問を独自に発展させ、日清・日露戦争で欧米列強と対峙するまで、わずか40年~50年しか要しなかった。幕末・明治の頃、当時の中国・朝鮮は日本を「西洋の猿真似国家」だと蔑んで、自分たちは旧態依然のままの国家である道を選んだ。

◆国防意識、西欧との違い
Photo話を幕末の庶民の国防意識に戻そう。当時の庶民の国防に関する肌感覚はどうだったか。長崎の伝習所で航海術・砲術・測量術を教えたオランダの士官カッテンディーケが残したエピソードを司馬さんは取り上げている。彼は長崎の町があまりにも無防備なことに驚き、町の商人に「敵に攻められたらどうするのか」と尋ねた。すると商人は「それはお上(幕府)のなさること。我々の知ったことではない」と答えたのに対し、さらに驚いたと言う。
(写真はオランダが幕府に対して練習艦として寄贈した「観光丸」の復元艦)

勝とカッテンディーケは互いに信頼し合う仲だった。「オランダ人はいかなる人であっても自然にオランダ国民です。自分の身と国とを一体のものとして考え、ある場合はオランダ国の代表として振舞い、敵が攻めてきた場合には自ら進んで防ごうとする。それが国民というもの。日本が何故そうでないのか不思議だ」と言うような話を交わしたのではないかと司馬さんは想像する。

当時の普通の日本人は「日本国が世界の一部であり、自分が日本人である」という認識が希薄だったようである。戦後70年余を経た現代の日本人と江戸末期の日本人の間には、ある意味共通点があるように思える。それは国防意識の問題だ。「国防はお上の問題、あっしらには関わりござんせん」という当時の考えと、「憲法で不戦を謳っており、防衛は国が考えること」という現代の考えとの間に大きな違いはなさそうだ。つまり民主主義国家となり、国民の政治参加意識は高まったはずの今の日本でも、防衛意識においては150年前と大差がないように思えるのだが。(続く)

2018年1月22日 (月)

大河ドラマ「西郷どん」を見て。

◆大河ドラマ「西郷どん」の評判がイマイチのようだ。一つは西郷役の鈴木亮平がイメージにそぐわないという見方。もう一つは言葉の問題があるらしい。歴史好きにとっては原作者の想像による少年時代の描写などどうでもよいのだが、関東と関西では視聴率に差があると言う。それはセリフによるものらしく、東北日本にいくほどリアル過ぎる薩摩弁の展開についていけないというような面もあるとか。歴史学者の磯田道史氏は「西南日本の薩長史観と、東北日本のアンチ薩長の地域対立が今なおあると見てよい」と言うが、果たして・・・?

◆幕末・明治を題材にした歴史小説は数多くあるが、多くの作者はリアル感を出すため当時の地域の言葉、即ち薩摩弁、土佐弁、関西弁、江戸弁、公家言葉などを会話の中に用いる。それらの小説を読んでいるうちに自然とその言葉に馴染んでくるものだ。学校の教科書で学ぶ歴史は受験のための勉強で、面白くもなんともない。ところが若い頃見た大河ドラマ「竜馬がゆく」は実に面白く、原作を読みたくなって、一気に司馬遼太郎の歴史の世界に入り込んだ。その辺りが自分の歴史好きになった原点でもある

◆幕末・維新の歴史の主役の一人西郷隆盛維新三傑の一人とされ、数多くの小説、映画、ドラマに登場してきた。西郷の魅力は「自他の区別なく、弱者の気持ちになれる大きな包容力にあった。その絶大なカリスマ性を日本人は愛し続けてきた。ところが、一方で西郷は一度謀略を始めると暗殺、口封じ、欺瞞、何でもやった。恐ろしく暗い闇を抱えた男でもあった。善悪に振れ幅のあるこの絶対値の大きさこそが西郷の人物的魅力の泉である」と磯田氏は言う。

◆西郷隆盛と歴史的談判をして、江戸城無血開城を実現した勝海舟は明治5年以降、東京赤坂の氷川神社近くに寓居し、明治32年77歳で没した。政治の裏表を知り尽くした勝が当時の新聞記者らの前で話した語録が「氷川清話」として残されている。その中の一部を抜粋する。「自分は天下に恐ろしい人物を二人見た。それは横井小楠西郷南洲だ。横井の高い思想とその言を用いて天下の大事として実行に移す人物がいたら、それこそ由々しい大事だと思っていた。その後、西郷と面会してその大事を成すものは西郷ではあるまいかと秘かに恐れていたが、果たしてその通りになった」と書かれている。

◆また「坂本龍馬が西郷隆盛の人物を見てみたいというから紹介状を書いてやった。薩摩から戻ってきて言うには、なるほど西郷と言うやつは分からぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もしバカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと言ったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだ」という有名な話も残っている。西郷の良き理解者であった勝海舟だが、「西郷に到底及ばなかったことはその大肝識大誠意だった」と述べている。

Photo◆しかし、西郷は幕府を倒したものの、新国家の青写真を持っていなかった。「私の知る限りそれを持っていたのは土佐の坂本龍馬だけだった」と司馬さんは述べている。大久保、桂、伊藤らが主導する明治新政府は、そのモデルを西欧に求め、東京帝国大学を設置してエリートを養成。中央集権体制を確立し、優秀な官僚を地方に配して、近代国家建設に邁進した。しかし急激な構造の変化は、負の面をもたらす。明治新政府の一部の腐敗、欧米風潮の浸透は西郷が目指す理想の国家像とは乖離していた。西郷が大切にする「天を敬い、人を愛す」の精神は現代社会にも相通じるものがあるのではなかろうか。

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