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歴史

2019年1月19日 (土)

人力車の話題

◆近年、京都・奈良・鎌倉・浅草などの多くの観光地で、人力車をよく見かけるようになった。若い女性や中高年夫婦、外国人客などが座席に座って、膝に赤い毛氈を掛け、それを若い男性の車夫が一人で引く。意外とイナセで格好いい。調べてみると1970年、飛騨高山で利用されたのが最初で、次第に全国の有名観光地に広がり、伊東や道後といった温泉街でも見かけられるようになった。観光名所をコースで遊覧し、車夫がガイドの説明を兼ねるケースも多いらしい。

◆人力車が日本に登場するようになったのは、明治2年(1868)のこと。発明者は和泉要助という男だった。彼は外国人が乗る馬車にヒントを得て、馬の代わりに人力で走らすことを考えた。試行錯誤の上試作車を走らせて、東京の話題に上った。彼は知人二人の協力を得て完成させ、東京府に営業の認可を得て、翌明治3年に日本橋の袂に「御免人力車処」の幟を立てて開業したとされる。日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より早く、小回りが利き、馬よりも人間の労働コストの方がはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。

◆1870年には東京府は発明者と見られる3名に人力車の製造と販売の許可を与え、運転免許証の発行が開始された。人力車は急速に普及し、1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消した。逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な輸送機関になった。職を失った駕籠かき達の多くが人力車の車夫に転職したのは当然の成り行きだった。19世紀末には日本に20万台を超す人力車があったという。因みに1880年代にはインドに輸出され、東南アジアにも広がった。また中国では日本製の人力車が爆発的に広がり、国産化されるようになって、上海には大小100を超える人力車工場があったという。

Photo_2◆人力車は都市部で路面電車が普及し、乗り合いバスやタクシーが出現するようになると衰退の一途を辿るようになった。都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃をピークに減少し、人力車の姿は殆ど見られなくなった。ところが、1950年頃(昭和25年)、長崎駅前に古びたカーキ色の幌を被った人力車が10~20台ほど並んでいた。みすぼらしいナリをした中年の男達が、客待ちでたむろしている姿を目撃したのだ。当時小学校1、2年頃で気恥ずかしい気になった。あとで分かったことだが、戦後、車両の払底・燃料難という事情から、お蔵入りの人力車が僅かに復活した例があったとのことだが、長崎駅前で見た光景はその一例だったのだろう。

◆何故、気恥ずかしい気になったのか。多分、人を馬車並みに扱う乗り物自体が前近代的であり、東南アジアの光景を何かで見ていたのだろう。そんな人力車が映画の世界ならともかく、21世紀を迎えた昨今、颯爽と蘇るとは思いもよらなかった。歴史とは、文化とは分からないものだ。しかし、何故今「人力車」の話題なのか。それは書いた本人にもよくわからない。   (参考資料:ウィキペディア)

2018年7月28日 (土)

天正遣欧少年使節団のこと

先月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録された。今年は日本にキリスト教が伝来されてから、約470年が経つ。1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してから、九州方面を中心に布教活動は広がり、有力キリシタン大名も出現した。天正10年(1582)には、大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、4名の少年使節団がローマ法王の元へ派遣されるまでに至った。ザビエル来日から33年後のことである。
    ◇           ◇           ◇
選ばれた少年使節団は伊東マンショ(主席正使)15歳・・豊後大友宗麟の名代。千々石ミゲル(正使)14歳・・大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。中浦ジュリアン(副使)15歳・・大村藩、原マルチノ(副使)13歳・・大村藩の4名。少年たちは、有馬晴信(今の島原方面を治める大名)が建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。1582年2月、イエズス会のヴァリニャーノに引率されて長崎港を出港した。
     ◇           ◇           ◇
一行は2年半かけて1584年8月、ポルトガルのリスボンに到着。以後マドリッド、イタリアのトスカーナ、ピサ、フィレンツェを経て、1585年3月、ローマに入り、ローマ教皇グレゴリオス13世に謁見した。法王は礼儀正しい4人の少年に涙し、異例の抱擁接吻をしたという。ローマ市も市を挙げて大歓待した。その後ヴェネツィア、ベローナ、ミラノなどを訪問して、1586年4月リスボンを出発、帰路に着いた。全行程、実に8年5か月余、一行4人は苦労の長旅を終え、1590年(天正18年)7月、長崎に帰港した。しかし4人の悲劇はすでに始まっていた。
     ◇           ◇           ◇
一行が苦労の長旅をしている間に、長崎で大村純忠が死去、豊後では大友宗麟が死去、最悪なのは1587年、豊臣秀吉によってバテレン追放令が発布されたことだった。この時点では異国人宣教師が追放されただけで、まだ禁教にはなっていなかった。1591年3月、聚楽第に招かれた使節団は巨大なアラビア馬を関白秀吉に献上。さらに秀吉の前で、西洋音楽を演奏した。歴史にif は禁物だが、秀吉に信長や光秀のような教養や素養があれば、西洋音楽にも理解を示したであろうが、そうはならず事態は悪化していった。1596年には長崎西坂の地で26聖人の殉教事件が起きた。
     ◇           ◇           ◇
4人のその後だが、伊藤マンショは司祭に叙階されるも、江戸幕府がキリスト教禁令を発布した1612年に長崎で死去した。千々石ミゲルは棄教。中浦ジュリアンは司祭に叙階されるが、1633年長崎で穴づりの極刑を受けて殉教、2007年に福者に列せられる。原マルチノは持ち帰った印刷機でキリシタン関連の出版をし、司祭になったが1629年、追放先のマカオで死去した。こうした苦難の歴史が秘かに引き継がれた先に、今回の世界遺産登録があることを我々は忘れてはならない。

Photo

「天正遣欧少年使節顕彰の像」:1982年、使節の出発400年を記念して、長崎空港(長崎県大村市)近くに建立されたもの。

2018年7月 3日 (火)

潜伏キリシタン世界遺産登録を祝す

ユネスコの世界遺産登録委員会は6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を世界文化遺産に登録すると発表した。長年の苦労が報われたことをまず喜びたい。長崎では数年前からこの運動を始めていたが、そのことを全面支持する旨、本ブログで書いたことがある。長崎・天草地方には、約250年に亘る隠れキリシタンの歴史があり、平戸島、五島列島、西彼杵半島、また熊本県天草諸島の集落に、子孫らが守ってきた文化や教会群が散在する。これらを世界遺産に登録しようと2016年に一度申請したものの、諮問機関の指摘でいったん取り下げた。
     ◇       ◇       ◇
何故だろうか。問題はコンセプトの捉え方にあった。当初は、小さな集落にある素朴な教会建築の文化的価値を中心に登録申請したものの、今ある教会群は、当然ながら禁教期間の250年間、一度も現存したものではない。明治以降に禁教が解かれたあと、集落の信徒らの献身的な努力で建築されたもので、長くても150年ほどのもの。建築物それ自体に大きな文化的価値があるとは認められなかった。要は物理的建築物よりも、潜伏期間の歴史に焦点を当てたものに改めるべきとの指摘がなされた。
     ◇       ◇       ◇
1614年、全国にキリスト教禁教令が発令、1637年、「島原・天草の乱」(原城跡の史跡)のあと、キリシタンたちは長崎・五島・天草の目立たぬ海岸集落に散って、既存の宗教や社会と共生しながら秘かに信仰を続けた歴史があった。そして、幕末の1865年(慶応元年)、長崎の外国人居留地のフランス人らによって大浦天主堂が建築された。それを機に浦上村の潜伏キリシタン14、5名が命懸けで名乗り出て、信仰を告白した。弾圧に耐えながら250年、信仰を貫き通した事実は「宗教史上の奇跡」として世界に驚きを与えた。こうした歴史的、文化的、宗教上の価値を構成する12の資産をもとに再度申請して、登録されたものだった。登録を審査するユネスコ委員の中には「類まれな資産だ」、「登録に値する」などと称賛が相次いだと言う。
     ◇       ◇        ◇
今まで、平戸、島原、西彼、五島、天草などを訪れる機会が何度かあったが、これらの遺産群に直接お目にかかったことは少ない。五島の福江島ではいくつかの趣きのある教会に立ち寄ったが、残念ながらこの中からは登録遺産に選定されたものはなかった。ただ、長崎市内で育ったこともあり、大浦天主堂は何度も訪れている。一昨年、娘家族との長崎旅行の際の大浦天主堂の感想一番、「入館料が高いばかりで、中身は詰まらない」。
何でもそうだが、こうした歴史建造物などは見る人に下地があるかないかによって、評価に天地の差が出る。先日NHKで国宝「大浦天主堂」の歴史的建造物の意義、建築に関わる秘話、ステンドグラスが醸す光の芸術等々、深く掘り下げた番組を放送していた。こうした情報を得た上で、実物に触れるならば、大きく評価が変わったものと思われる。


Photo 大浦天主堂

2018年5月 2日 (水)

西郷隆盛余話

明治31年(1898)12月18日、上野公園で維新の英傑西郷隆盛像の除幕式が行われた。故郷鹿児島の城山で自決後(1877年)、賊軍の将の汚名を着せられから実に21年が経過していた。幕末から明治維新にかけて功があった志士たちの霊を祀るため建てられて靖国神社には、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作など維新殉教者として合祀されている。ところが明治維新の最高の功労者とされた西郷隆盛は没後140年が経っても祀られていない。(太平洋戦争のA級戦犯東條英機が祀られているのにどうしたことか?)
          ◇          ◇          ◇
明治新政府は、薩摩士族に担がれて反政府軍の総大将となった西郷隆盛軍が起こした西南戦争(明治10年)により、賊軍の将として靖国神社に合祀することを拒否してきた。ところが、もっとも西郷を理解していたとされる勝海舟が明治17年、西郷南洲七回忌の際遺族の為に名誉回復の運動を起した。特に西郷の人柄を愛した明治天皇は「逆臣」となった西郷を憐れみ、名誉回復に踏み切る。明治天皇にとっては西郷も木戸も大久保も「建国の父祖共同体」の第一人者に他ならない。だからこそ、成り行きによる政治的敗北から、西郷を救い出さねばならなかった(御厨貴氏)。こうして、黒田清隆らの努力もあって、明治22年(1889)2月11日、大日本的国憲法発布に伴い、大赦で赦されることになった。

Photo 上野公園:西郷隆盛像 

話を西郷像の除幕式に戻そう。当日は名士800余名が参集して盛大に式典が執り行われた。万座の中で銅像が姿を現したときに、糸子未亡人が「うちの人はこげん人じゃなか!」と叫んだ話が有名なエピソードとして残っている。このとき隣に列席していた実弟の西郷従道が糸子未亡人の足をギュッと踏みつけ、「似てようが、似ていまいが人様の善意を損ねるようなことを言ってはいけない」と諭したという。
           ◇          ◇          ◇
この糸さんの発言については、「主人は浴衣姿で散歩なんかしなかった」と言う意味と、(実際は故郷鹿児島での狩りの姿を表現したもの)単純に顔が違うと言う意味だったとする説がある。写真嫌いで通した西郷の顔写真は1枚も残っていないが、そのためか、西郷の死後、多くの肖像画が残されている。中でもイタリアのキヨッソーネが描いた肖像画は死後の翌年、西郷とゆかりの深い人からのアドバイスを参考に、比較的西郷に似ていたとされる西郷従道と従姉弟の大山巌の顔を合成して描いたと言われ、西郷の遺族や親族が「この肖像画こそ翁(隆盛)そのもの」と確認し、夫人の糸子に贈呈されたという。

Photo_2 
キヨッソーネ 画::西郷隆盛肖像画
           
銅像の制作は明治26年に、今の芸大に委託された。同校はできるだけ精巧な像を作るべく、要望風采の情報を集めた。特に実弟の従道氏の写真を参考にしたというが、銅像の現物を見ると、キヨッソーネが描いた肖像画よりも、元横綱武蔵丸に似ているように思える。糸子さんが「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったのはこの辺のことを指しているのか? 最後に勝海舟が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌を掲げる。

 「
濡れ衣を 干さんともせで 子供らの なすがままに 果てし君かな

2018年4月23日 (月)

明治150年の歴史から何を学ぶか(最終回)

自分がまだ小学生だった頃、明治生まれの祖母からよく聞かされた。「東郷さん(元帥)は偉かった。みんなを元気にさせた。昭和の戦争は酷かった。原爆でなにもかも焼けてしまった」と。明治・大正・昭和を生きた平凡な一庶民の慨嘆だが、案外本質を突いているかもしれない。
              ◇          ◇           ◇
明治という時代は、江戸時代という長い時間をかけて生育された果実が収穫される時期だった。江戸時代の様々な遺産が明治という時代に「理想」として実った時期だったというのが司馬さんの明治観である。しかし、明治の人が目指したのは「坂の上の雲」だったから、いくら坂を上ってもそれは掴めないものであり、上りつめた坂はやがて下りになる。白い雲を掴めないまま坂を下っていくと、その下には昭和という恐ろしい泥沼があったと磯田氏は解説する。
           ◇          ◇           ◇
その泥沼の中から頭を出した鬼胎が昭和戦争を惹き起こし、日本を破滅に引きずり込んだ。日本人は戦争で「神州不滅」とか「七生報告」とかいったおよそ合理的でない思想をさんざん吹き込まれ酷い目に遭った。技術の向上より、不都合な事実を注視せず、深く考えないで不合理が罷り通る。極端に言えば明治の頃の装備のまま、第二次大戦の敗戦まで行ってしまった。戦後、その反作用か、目に見える即物的なものを強く信じる合理的な世代が生じて、高度経済成長期に、一気に物質文明至上主義に向かった。
           ◇          ◇           ◇
高度経済成長は確かに日本人の生活を豊かにした。だが、物欲は満たされたものの、何か大切なものを失ってしまった。国民全員が「坂の上の白い雲」を目指すような大きな目標は無くなった。公共心が希薄になり、自己中心的な生き方が主流となった今、この国は何を目指し、どこへ行こうとしているのか。司馬さんが言い残しかったこと、それは「公共心が非常に高い人間が、自分の私利私欲ではなく、合理主義とリアリズムを発揮した時に、凄まじいことを成し遂げる」、逆に「公共心だけの人間がリアリズムを失った時、行く着く先はテロリズムや自殺にしかならない」ということではなかったのかと磯田氏は言う。
           ◇          ◇           ◇
【おわりに】 2001年11月、司馬さんの居宅があった東大阪市に「司馬遼太郎記念館」が開館された。半年後の翌年5月、ここを訪れた。司馬さんは1996年2月72歳で没したが、1989年、66歳の時、「21世紀に生きる君たちへ」、「洪庵のたいまつ」を書き残し、小学校の国語の教科書に掲載された。司馬さんが膨大な執筆活動の最後に、推敲に推敲を重ねて執筆したという。まさに我々に残された遺書とも言うべき作品であり、早速1冊買い求めた。
未来を思う司馬さんの真摯な姿勢が随所に滲み出ている。何の脈絡もないが、蜀の丞相孔明が主君劉備の後主劉禅に残した「出師の表」が思い起こされた。磯田さんは「司馬遼太郎で学ぶ日本史」の「おわりに」の部分で、次のように書いている。「20世紀までの日本の歴史と日本人を書いた司馬遼太郎さんが言い残したことを21世紀に生きる我々が鏡として、未来に備えていくことが大切だ」と。まさにその通りだと痛感させられたことが、このシリーズを締めくくるあたっての感想である。(終)

2018年4月 1日 (日)

明治150年の歴史から何を学ぶか(5)

【明治の時代に孕んだ鬼っ子】
司馬さんは明治と言う時代を一つの理想として書いたが、昭和については「この国のかたち」の中で、「昭和ひとケタから20年の敗戦までの10数年は、長い日本史の中でもとくに非連続の時代だった」と書いている。また別の箇所では、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る40年間は、日本史の連続性から切断された異胎の時代」だった、また「明治憲法下の法体制が、不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じ」とも表現している。

◆磯田氏は社会の病とは、潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう。その病根は、明治という時代に生じていたのではないか、明治という時代はまだそれが発症していない「幸せな潜伏期間」だったのではないかと述べている。明治の日本は合理的な法に基づく近代的な国家を目指していたが、一方で、「日本の軍には天の助けがある、天皇の率いる軍は天祐を保有しているから、神風も吹き、負けたことがない」と考えていた。国をあげて超自然的な力を信じ教えていたところに病根の潜伏期間」があり、司馬さんが言う「鬼っ子」を孕んでいたとの表現と同義語ではなかろうか。

【鬼胎の時代が生まれた背景】
その背景には「ナショナリズムの暴走」があった。「日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない」と司馬さんは言う。日露戦争で、辛うじて勝利した日本はギリギリの条件で講和せざるを得なかった。国際情勢を知らない大衆やメディアは、「平和の値段が安すぎる、講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ」と叫んだ。ついには3万人が結集して、日比谷焼き打ち事件が起こった。司馬さんはこれを「魔の季節への出発点」という。日清戦争の勝利で中国に強い優越感を持ち、今度は白人の国に勝ったことで、「世界の一等国の仲間入りした」と、日本人は次第に傲慢になり、謙虚さを失っていった

【ドイツスタイルの導入と統帥権】
昭和の戦争が日本を破滅に導いた最大の要因は、明治憲法制定時に国家制度も、軍の方式もドイツのスタイルを導入したことであり、憲法に「統帥権」を掲げたことである。明治国家は草創期には陸軍はフランス式、海軍はイギリスに学ぶという多様性があった。ところが国家モデルの目標を設定するに当たり、大隈重信らが推す英国方式(国会中心の政府)と伊藤博文が推すプロイセン・ドイツ方式が対立した。結局、欧州では後進国ながら、皇帝を中心に強固な軍事力で急速に国力を高めて、近代化を遂げたドイツを日本がモデルにすべきだとした伊藤が大隈らを追放したことによって日本の方向が定まった。明治14年の政変だが、もし大久保利通があと4年生きていたら、どういう判断をしただろうか。

◆ドイツは軍隊が国家を持っていると言われる程の軍国主義国家であり、参謀本部制度という独特の制度で、軍が国家を動かすと言われる程だった。日本が軍事的に強い国家の法制度を取り入れたのだから、軍が国家を左右して破綻に至ったドイツと同じ運命を辿ったのは自明の理と言えよう。明治22年憲法発布時にはまったくドイツ式に変貌し、その作戦思想が日露戦争の陸軍でも有効だったということで、ますますドイツへの傾斜が進んでいった。(続く)

2018年3月21日 (水)

ガリバーと三浦按針の話 (下)

◆では、何故三浦按針がガリバーとされた伝承が残るのか。17~18世紀のヨーロッパでは、風刺的架空旅行文学が一種の流行を生んでいた。実在の三浦按針は多くの書簡を祖国に送り、その書簡集が1625年に刊行されている。また1690年に日本に渡航し、2年間滞在したドイツ出身でオランダ船船医となったケンペの「廻国奇観」(1712年刊)や「日本誌」、その他にもいくつかの日本情報は英国にも伝わっていた。特にケンペルの「廻国奇観」は、鎖国政策が安定した高い文化と国造りに望ましい効果をもたらしている事例として、「ポジティブな日本像」として伝播したようだ。

◆スウィフトが「巨人の国」や「馬の国」など他国との交流の無い島国を理想郷に近いイメージで描いているのも、こうした影響があったのではないかと言う説もある。三浦按針やケンペルらの日本紀行を題材とした情報は、「ガリバー旅行記」に直接、間接に反映されている。按針が横須賀、浦賀、平戸等にに痕跡を残していること、またケンペルが船医であったことなどはその一例だが、彼らの日本での行動をもとに、スウィフトが類い稀なる想像力を駆使して、虚・実を絡ませ、日本におけるガリバー像を構成したことは間違いないだろ。

◆ガリバーは日本紀行の中で、「踏み絵」を迫られるが、英国人であるガリバーは、その儀式を免除して欲しいと申し出る。「踏み絵を躊躇するオランダ人など初めて見た」と怪訝な顔をされたとあるが、何とかうまく自分をオランダ人として偽り通して、長崎からアムステルダム行の船に乗り込むことができ、イギリスに帰国したとある。こうした記述は、日本の事情によほど精通していないと書けるものではなく、按針やケンペルの日本情報がおおいに役立ったものと思われる。

◆なお、徳川幕府は1639年、西欧との結びつきを断ち、長崎の出島に築いたオランダ商館を除いて鎖国時代に入った。この間のわずか20年ほどの短い期間でW・アダムスは徳川家康の庇護を受け、三浦按針という日本人として活躍した。その後100年近く経って、母国でガリバーという架空の人物の一分身として復活したとも言えるのではなかろうか。ついでながら原作者のスウィフトは故国アイルランド、及びイングランドの外に出ていた形跡は見られない。しかし、創作する上での想像力や、時の英国の政治、社会、文明に対する鋭い風刺は稀有なものである。スウィフトは晩年精神病を患い、1745年77歳でこの世を去った。(本稿終)

2018年3月20日 (火)

ガリバーと三浦按針の話 (上)

ガリバー旅行記の主人公「ガリバー」は実は三浦按針だったという話は、三浦半島の横須賀、浦賀、観音崎あたりに伝承として残っている。これは全く根拠のない話ではなく、歴史を辿れば面白い事実が浮かび上がってくる。

◆『ガリバー旅行記』はアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトによって、1713年に執筆開始され、1726年59歳の時に完成した風刺小説である。原題は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリバーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』という長いもの。子供向け絵本でも有名な「小人国」は第一篇に、「巨人国」は第二篇に登場し、第三篇で四つの島国を旅した後、日本に上陸する。因みに第四篇で「馬の国」が登場する。登場するすべての国が架空の島国であるのに対し、日本のみ実在の国であるところが面白い。

◆「旅行記」では第三篇の最後の部分5ページほどに日本旅行記が登場する。物語では、日本渡航の前1709年5月、ラグナダ国王の親書を携えて出航。日本の東端の港ザモスキに着いた後、江戸で皇帝(徳川将軍)に謁見した。その後Nangasac(長崎?)まで護送され、同年6月オランダ船で出国し、イギリスに帰国したと記述されている。このザモスキと言う地が、横須賀市の観音崎ではないかと言うのである。

◆三浦按針はもともとウィリアム・アダムスという英国人。オランダ船リーフデ号の航海士だったが、関ケ原の戦いの半年前、1600年3月、豊後の国(大分県)臼杵に漂着した。この時オランダ人航海士ヤン・ヨーステンも同時に漂着し、後に二人とも家康の家臣に召し抱えられた。ヤン・ヨーステンは現在の八重洲の地名に由来にもなったことで有名だが、御朱印貿易に従事した。W・アダムスは、家康の外交顧問として重用され、また西洋式帆船を完成させた功績等により、250石取の旗本に取り立てられ、名字帯刀を許されて、相模国三浦郡(現横須賀市逸見)に所領と邸を拝した

◆家康はこの頃、観音崎に隣接する浦賀湊を貿易港に指定し、南蛮貿易としてスペイン商船のみ入港を認めた。マニラ・メキシコなどとの貿易が目的だったからである。按針の尽力により1604年にスペイン商船が初めて入港し、その都度、西国から承認が浦賀に急行し、浦賀は国際貿易港として賑わったという。また按針は1609年、平戸の商館開設に関わり、オランダとの貿易が開始された。家康死後(1616)は秀忠、家光と次第に貿易から手を引き、鎖国政策へと舵を切った。按針は次第に居場所も窮屈になり、晩年は平戸で暮らして、故国へ帰ることを望んだが叶わず、1620年、波乱の生涯を閉じた。(続く)

2018年3月17日 (土)

明治150年の歴史から何を学ぶか(4)

【格調高いリアリズムと精神重視の非合理性】
◆司馬さんが目指すリーダー像とは、国を誤らせない、集団を誤らせない、個人を不幸にしないリーダーということに尽きる。その対極にあるのが、合理主義とは相容れない偏頗な「思想」にかぶれ、仲間内だけでしか通用しない異常な行動をとる人や集団だと言う。日本人の中には勝敗や結果に関係なく、忠義の思想・動機が大事だと言うような情緒に感動する人がいて、そうした史実はいくつもあるが、幕末の長州藩の一部にもその傾向が見られ、勤皇攘夷にかぶれたあまり、禁門の変では天皇を守るどころか、結果的に朝敵にされてしまった。

◆司馬さんはこの時の長州の「思想」や「ドグマ」に偏った組織の在り方、精神性に、後の昭和の陸軍の原型を見ていた気がすると書き残している。昭和の陸軍が日本を破滅に導いた遠因は、明治37~38年(1904~05)の日露戦争に辛勝した日本軍そのものに内包されていた。日露戦争は枝葉を切り取れば、「合理性とリアリズムを重視した体質」と、「忠義の思想や神州不滅などのドグマ」という相反する思想が葛藤しつつも、前者のリアリズムを重んじる姿勢が上回り、辛うじて勝ち取ったという戦争だった。

◆明治の日本は列強に比べれば小さな国で、「弱者の自覚」があり、ある種の謙虚さが残っていた。そうして国民が「坂の上の白い雲」を目指して一心に坂道を上って行った時代だった。文明開化と言う形で、小さな蕾が開花を迎えようとするこの時期に、日本は海外の動向、特にロシアの脅威に無縁で済ます訳にはいかなくなった。「日露戦争」こうした世界情勢の中で勃発したが、司馬さんは「坂の上の雲」の中で、秋山真之乃木希典という人物を対比させて、リアリズムについて述べている。

◆どちらも「格調の高い精神で支えられたリアリズム」を体現しているのだが、秋山は明るいリアリズムで合理的、一方、乃木は暗い、公のための滅私という不合理なリアリズムを体現している。明治という時代はこの二つのタイプの日本人がいて、国家が成り立っていたと書き分けている。司馬さんは乃木という、国民からはその「格調高く愚直な精神」が非常に愛された人物を通して、明治のリアリズムの「」の部分を、しっかりと見つめた。

◆秋山は、「どんな武器を渡されてもそれで戦うのは軍人の本分である。しかし兵器の優劣が戦争の結果を左右する」と、日本海海戦の勝利のあとに故郷松山で語っている。「どんな兵器でも死ぬ気で戦います」というリアリズムを持って戦えば、勝てる公算が高くなる。然し、「死んでも戦います」という人が、リアリズムを失えばそれは「自殺」になる。昭和の歴史はそれが当たり前になってしまった。司馬さんが言いたかったことは、まさに「格調高い精神に支えられたリアリズムと合理主義を合わせ持っていたならば、あのような愚かな戦争に突入することはなかったであろう」と言うことだろう。

2018年3月 2日 (金)

明治150年の歴史から何を学ぶか(3)

明治150年の節目に当たる今年、弊ブログでも歴史学者磯田道史氏が著した「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」を主軸に、司馬氏の歴史観をまとめた「この国のかたち」や幕末・維新を題材にした歴史小説を参考にして、幕末・明治と現代との関りについて話を進めている。

江戸時代からの遺産の引継ぎ
明治維新を成し遂げた薩長土肥はそれぞれ特徴ある政治家・軍人・官僚等数多くの人材を新政府に提供した。また教育に熱心だった会津藩、文化・技術を重視した加賀藩なども優れた人材を輩出。つまり江戸時代はそれぞれの藩がその特徴に応じた人材を輩出し、それが明治維新を迎えたことで、各藩の最も良質な部分が中央に集められた。即ち、この江戸時代の多様さこそ、明治政府が江戸日本から引き継いだ最大の財産だった。


第二の遺産
司馬さんは江戸時代からの遺産として、庶民の民度の高さ、順法精神、識字率・知的レベルの高さを挙げている。加えて、権威に従順、親孝行、忠孝といった考え方が浸透し、「正直」という徳目が重視された。こうした考えは「公共心の高さ公への奉仕」に繋がっていく。その背景には「島国の閉鎖社会」という環境の中に在って、自分勝手な行動はつまはじきされてしまうことになるという側面があるからだろう。こうした価値観は戦後日本社会にも引き継がれ、公共心の高さ、マナーの良さなどが海外から称賛されるところではあるが、他方、価値観の多様性で公共心の欠如道徳心の後退などマイナス面の行動が増えたことは残念なことではある。 


江戸時代の負の遺産
司馬さんは、負の遺産として「東アジアへの蔑視の姿勢」をあげている。江戸期の海禁政策(所謂鎖国)のもと、「中国、朝鮮は儒教の国だと言っても形式のみで、儒教道徳がいちばん貫かれているのは日本ではないか」と言う意識が根付いて、独善性が高まった。明治になり、日清戦争で清国に勝ったことで中国・朝鮮を下に見る傾向は強くなった。


◆脱亜入欧思想の蹉跌
脱亜論」は、福沢諭吉がアジアと手を携えようとして苦しみ、朝鮮の近代化の難しさに絶望した挙句に吐いた言葉だったという。「脱亜入欧」とは日本はアジアを脱して、西欧の仲間入りをすべきだという考えだが、のちに「西欧は偉いが、東アジアは劣っているから支配して当然だ」というように誤解された。その誤解が優越感に変わり、東アジアの中で孤立しやすい社会や思想を作り出していった。司馬さんはこうした傾向に対する心配や危惧を抱いていたが、まさに現在に至る朝鮮半島、中国との根深い対立はここに端を発していると言えるのではなかろうか。(続く)

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