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歴史

2017年4月17日 (月)

「小田原~熱海」人車鉄道と軽便鉄道の話(2)

小田原熱海間に、軽便鉄道の敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった」で始まる芥川龍之介の短編小説『トロッコ』。モノの本によれば、神奈川県湯河原出身の力石平三が26歳の時に上京して、ある雑誌社に務め、芥川の弟子となって小説のもとになる材料を提供した。小田原~熱海間にそれまでの人車鉄道に代わって軽便鉄道が開業したのは明治40年12月のこと。主人公と思える力石少年が、切り替えのための土木工事を興味深く見物して体験したことを回想手記にまとめ、芥川がそれをもとに大正11年、30歳の時に短編小説に仕上げたものだと言われている。

300pxatami_railway_in_taisho_era(写真は熱海軽便鉄道、ウィキペディアより)

◆自分も長崎の少年時代にトロッコを利用した道路工事現場で似たような経験をしたので、良平少年の気持ちが手にとるように分かる。以前は芥川の実体験から書かれたものとばかり思っていたが、東京生まれで都会しか知らない芥川が、材料だけをもとに見たこともない農村生活や少年の経験、心理を生き生きと描写しているのはやはり天才としか言いようがない。小説では具体的に工事現場はどの辺で、どこまで行ったのかは記せられていないが、風景描写や諸状況から独断すると、湯河原町の東のはずれ辺りから小田原方面へ向かって真鶴町を越え、ひょっとしたら今の小田原市の西端、江之浦や根府川近くまで行って、夕闇迫るトロッコ道を一人涙を堪えながら、走って引き返したものと思われる。


軽便鉄道といえば、夏目漱石の「坊ちゃん」を思い出す。漱石が四国・松山に赴任し、軽便鉄道に乗って温泉に通ったのが、明治28年(1895)。 小田原と熱海間の軽便鉄道の開通が明治40年(1907)だから、12年前のことだった。松山軽便鉄道は距離も短く、平坦な場所だったため建設も比較的に楽だったのだろう。その点小田原~熱海間軽便鉄道は距離も長く、地形的にも難工事だったことは想像に難くない

◆まず、線路幅を61cmから76.2cmへ拡幅。勾配個所は極力減らし、カーブを緩めるための土木工事が必要だった。その時排出された大量の土砂を運ぶのが、少年が見た「トロッコ」だった。全線の距離は小田原・早川口~熱海間で25.3km、駅数14、所要時間2時間15分だったというから人車鉄道に比べ、早くなったとは言え、半分程度の短縮に過ぎなかった。その後会社の所有者や形態の変遷を経て、大正13年(1924)に廃止。1922年には国に移管され熱海線となって本格的なSLが運転された。(軌間は標準の106.7cm) 1934年に丹奈トンネルが開通すると同時に熱海線は東海道線に改められた。

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(写真は1907年、軽便鉄道に切り替えの際に導入された7号蒸気機関車。熱海駅前に展示されている。)

【軽便鉄道余話】

・営業当初は蒸気機関車煙臭さや夏の時期の暑さが不評を買った。またSL特有の煤煙に辟易した沿線住民が列車を襲撃する襲撃する時間も発生したという。
・漱石の弟子内田百閒が、湯河原町滞在していた夏目漱石を訪ねた際、軽便鉄道に乗車した。客車は小さくて中腰でないと立っていられず、のろくて勾配区間では逆行しそうになり、線路上の落ち葉でも機関車が滑るため、機関士がいちいち降りてどけていたと書き残している。

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写真左は根府川駅近くの新白糸橋の上を走るJR東海道線。鉄橋の下を国道135号線が走っている。それと並行して手前に新幹線が走っている(写真右側)。
撮影場所は県道740号線、100mほどの間に四つのルートが走る。(終わり)

2017年4月15日 (土)

「小田原~熱海」人車鉄道と軽便鉄道の話(1)

◆小田原~湯河原~熱海間は今でこそ新幹線、JR東海道線、国道135号線と付随する有料道路、県道740号線(旧道)など複数の交通手段があるが、江戸時代から明治初期にかけては交通の難所だった。今でも急峻な海岸線を見れば一目瞭然だ。明治21年(1888)に小田原馬車鉄道が国府津~箱根湯本間に開業したが、熱海方面に行くためには小田原で駕籠か人力車に乗り換えて、悪路を走るしかなく大変不便だった。因みに明治22年にはこの難所を避ける形で(御殿場回り)、東京~神戸間を走る東海道鉄道が開通している。

◆熱海の人達は箱根に対抗して、客の呼び込みを図るため、鉄道の早期開通を希求した。しかし、資金難と難工事のため取りあえず生まれたのが、世にも奇妙な豆相人車鉄道だった。この鉄道は、明治29年(1896)3月、熱海~小田原間で全線開通した。それまでは海岸線や狭い崖渕の道を駕籠か馬か人力車で通るしかなかった。この鉄道はトロッコ方式の車両を車夫が人力で押して走らせるもので、明治40年に軽便鉄道が開業するまで約10年余りの間、交通の主役として活躍した。正確なルートは定かではないが、大半は山よりの旧道(現県道740号線)と海よりの国道135号線を重なりながら南下していった。地形的にも曲がりくねった勾配の厳しい道で、下り坂では足踏み式のブレーキで速度を調整しながら、線路幅61cmの狭い軌道を走るため、スリル満点の乗り心地だったという。

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 ウィキペデアより                            根府川のモニュメント

◆この人車鉄道は1両が最大6人乗り、2~3人の車夫が押し、全長25.6kmを約4時間かけて走った。最大6車両が一組となって、1日6往復のダイヤが組まれ、上等・中等・下等の車両ランクがあって、運賃もかなり高額だった。従って地元住民が気軽に利用できるような交通機関ではなく、乗客は湯河原・熱海への湯治客や観光客が殆どだった。また乗客は登り勾配区間では下車させられたり、客車の後押しを手伝わされたりしたというから滑稽な乗り物として紹介されることも多かったという。

◆この人車鉄道の車両を自費で復元した人がいる。小田原市根府川の山の中腹にある「離れのやど 星ケ山」の代表内田昭光さんで、内田さんは残された写真を元に、設計図を描き起こし、2009年に車両を復元させた。内田さんの話によると、重さは150kg、平地なら大人一人でも簡単に押すことができるそうだ。もともと地元のミカン栽培を生業にしており、祖父の代にはその畑の中を人車鉄道が走っていたという話を聞いたことが、復元の切っ掛けだったという。
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「離れのやど星ケ山」敷地内にある復元された人力車両。片側真ん中に乗降口があり、4人、2人の対面乗車方式。これは上等タイプで、幌屋根式やガラス窓無しタイプなどいくつかのパターンがあった。

◆国木田独歩もこの人車鉄道に乗ったことがあり、その時の体験談をもとに短編「湯河原より」を書いている。また、知人に「実に乙なものであり、変なものである」という感想を記した書簡を送っている。今や小田原~熱海間はJR東海道線で約25分、新幹線では約9分。およそ120年ほど前に、西欧技術の粋であるSLが全国的に普及し始めた頃、独自の工夫で編み出した日本的な人車鉄道。牧歌的な中にも、将来への技術の発展を予想させる「芽」が見て取れる。(続く)

2016年12月 6日 (火)

歴史における和暦と西暦の食い違い

12_2歴史小説を読んだり、歴史を学んだりするとき、年代・日付のことで迷ったり、疑問に思ったりすることはないだろうか。例えば本能寺の変は天正10年6月、西暦では1582年6月と習う。この場合は月が符合しているから特に問題はないが、日付を付記すると和暦では6月2日、西暦では6月21日となるそうだ。つまり旧暦と新暦の違いがあるからで、例えば今日12月6日は旧暦では11月8日に当たる。
12月や1月など、年をまたぐ時期に起こった事件や出来事などの表記はどうなっているのだろうか。この疑問に明確に答える記事に出会った。本年9月21日の読売新聞「歴史の年月日 正確な表現を」と題する笠谷和比古氏(注)の署名記事だ。副題に「西暦の年と和暦の月日の奇妙な合体」とある。

(注)1949年神戸市生まれ、国際日本文化研究センター名誉教授。日本近代史、武家社会論。著書に「歴史の虚像を衝く」、「関ケ原合戦と大阪の陣」など多数。

12月は赤穂浪士討ち入りの月。この事件は「元禄15年12月14日」に発生。元禄15年は西暦では1702年にあたる。ところが西暦の方が早く改まるため、和暦で年の瀬に起こった討ち入り事件は西暦では1703年1月30日の出来事だったという。よく見かける間違いは西暦年と和暦の月日を合体させた疑似西暦の例で、この場合1702年12月14日も1703年12月14日もともに間違いということになる。

こうした例は関ケ原合戦・・(和暦)慶長5年9月15日、(西暦)1600年10月21日・・(間違い例)1600年9月15日、王政復古の大号令・・(和暦)慶応3年12月9日、(西暦)1868年1月3日・・(間違い例)1868年12月9日や1867年12月9日、鳥羽伏見の戦い・・(和暦)慶応4年1月3日、(西暦)1868年1月27日・・(間違い例)1868年1月3日など数多い。
こうして見ると鳥羽伏見の戦いは1月3日と覚えているので、王政復古の宣言の正しい西暦
1868年1月3日と混同してしまう。


笠谷氏は言う。「疑似西暦を野放しにしていると、このようなトリックにからめ取られてしまいかねない。(略)もはやどれが正しい西暦で、どれが疑似西暦であるかの判別もつかないまま戸惑うことになるだろう。歴史家として多くの本や資料に当たる中で、懸念し続けてきた問題である。(略)表記が少し長くなっても、せめて関ケ原合戦なら『慶長五(1600)年九月十五日』、王政復古なら『慶応三(1868)年十二月九日』とする書き方が適切だと呼びかけたい」と締めている。確かに西暦表示をする場合、正しいからといって月日まで置き換えてしまうのは無理があるだろう。読みながら実際の日にちはひと月以上のズレがあるということを念頭に置いて読むべきだろう。

2016年10月30日 (日)

富士山の宝永大噴火から300年

◆2014年9月、木曽御嶽山が大噴火。死者58名・行方不明者5名の大惨事を惹き起こした。今年に入ってからも、箱根山や口永良部島、浅間山などで火山活動が活発化した。4月の熊本地震(4/14日と4/16日に震度7の大地震が発生、7月2日までに発生した震度3以上の累計件数は406件に達した)の後、10月8日には阿蘇山中岳が噴火。また10月21日には鳥取県中部地震(M6.6)が発生。ここ数年の間に日本列島は地震・火山活動が活発化していることは間違いない。

◆10/15日と10/22日に放映されたブラタモリは「富士山青木ヶ原樹海の正体」をテーマに取り上げていた。青木ヶ原樹海の正体は、富士山最大級の大噴火・平安時代の「貞観噴火」で流れ出た溶岩の上に、1000年以上かけて再生した30平方kmにもなる広大な森だったという内容だった。記録に残る富士山の噴火で三大噴火と言われる噴火は、①延暦の大噴火(800年~802年)、②貞観の大噴火(864年~866年)、③宝永の大噴火(1707年12月16日に始まった大噴火)である。

◆平安時代は火山活動が活発化、延暦の大噴火では大量の火山灰を降らし、802年の噴火で相模国の足柄路(古代の東海道)は1年間閉鎖され、迂回路として箱根路が利用された。貞観の大噴火では北西斜面約10kmの地点の割れ目から大量の溶岩が流出し、青木ヶ原樹海の元となった。そして今から309年前の宝永の大噴火では富士山東南斜面で大爆発が起こり、噴煙の高さは20km、100km離れた江戸でも火山灰が2~5cm積もった。地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、爆発的な噴火になったという。一番大きな火口の最上部が宝永山となった。

富士山爆発と地震の関連】
・貞観大噴火は、貞観地震(869年)の5年前に起きた。陸奥沖の日本海溝付近を震源としている大地震(推定M8.3以上)であることから貞観三陸地震とも呼称され、5年前の3.11東日本大震災は貞観地震の再来ではないかと言われている。だが、同じパターンであるなら10年前に富士山が大噴火していることになるが、そうはなっていない。
・宝永の噴火の始まる49日前に宝永の大地震(最大級の地震で、震源は南海トラフ、M8.6~8.9)が発生。震源域となった南海トラフを東北に延長すると、駿河湾を通って、富士山西麓の活断層、富士川河口断層帯と連続しているので、東南海地震の方がより影響が大きいと思える。いずれにしろ関東近辺で起こる大きな地震の場合、前後25年以内に富士山に何らかの活動が発生している事例が多く、地震と富士山活動とは関連性があるとされる。
・富士山が噴火する場合、何らかの予兆が観測されているので、当面は大丈夫と思われるが予断は許されない。直線で45km圏内に住む身であれば、被害の程は計り知れないが、その時はその時と開き直るしかないだろう。


【ついでに】
宝永の大噴火では降灰が細かい塵となって、長い間江戸市民を苦しめ、多くの人が呼吸器疾患に悩まされたという。その模様を表した狂歌が残されている。
これやこの 行くも帰るも 風邪ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳
(百人一首、蝉丸の「これやこの行くも帰るも 分かれては 知るも知らぬも あふ坂の関」の戯れ歌)

2016年9月20日 (火)

日本人の起源「沖縄ルーツ」に新資料

◆弊ブログの7月18日付けで「日本人のルーツを探る壮大な実験」という記事を掲載した。この記事は7/10日の読売記事等を引用して、日本人の祖先は3万8千年前から2万5千年前に遡って、3つのルートで移住してきたと推測されるというもの。もっとも早かったのが、3万8千年前に、朝鮮半島から対馬を経由して九州に入ってきた「対馬ルート」だった。続いて3万年前に大陸と陸続きだった台湾から海を越えて琉球列島に入る「沖縄ルート」で、その後島伝いに北上、九州に辿りついたとされる。最後は2万5千年前に北方からサハリンを経由して南下してきた「北海道ルート」だったというもの。

◆3万8千年前から2万5千年前の間に、3方向から来たそれぞれの民族は旧石器時代、新石器時代、先土器時代を経て次第に混血し、1万6千年前から始まった縄文時代になって日本人の原型になったという。その後、「現代の日本人は遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいる」というレポートを総合研究大学院大の研究チームが発表した。縄文人のDNAはアイヌと最も近く、次に琉球人、その次に本土の日本人「ヤマト人に近かったという。

◆さて、日本人の沖縄ルーツに直接関わる記事が、本日(9/20)の読売新聞に掲載された。「世界最古級の釣り針-2万3000年前-貝製、沖縄の遺跡から出土」という記事である。沖縄南部の南城市サキタリ遺跡から旧石器時代の貝製の釣り針が約2万3千年前の地層から見つかったというのだ。日本本土で釣り針の使用が確認されているのは縄文時代の早期(約1万1千年前)の獣骨製のもので、これを1万年以上遡ることになる。今回見つかった釣り針は過去に東南アジア・東ティモールで出土した貝製の釣り針と並ぶ世界最古級で、材料や加工法も共通しているという。

◆沖縄で見つかった釣り針は円錐形の巻貝の底を円弧状に加工し、一方の先端を尖らせたもので、円弧の直径は1.4㎝、付け根に紐を巻き付け、ウナギなどを釣っていたと見られるという。さらに驚くべきは、釣り針の下の下層から、国内で2番目に古い約3万年前の人骨も出土したことだ。沖縄で見つかる旧石器時代の化石人骨は形質やDNAの分析で、そのルーツは東南アジアとする見解がより有力になってきている。それはさて置き、我々のご先祖様は相当グルメだったようだ。日本人得意の魚を釣るというDNAはこの頃から出来上がっていた?

2016年7月20日 (水)

「ネアンデルタール人」VS「人・犬連合」

◆本ブログ゙の7/8日付けで、「縄文火炎土器の芸術性」、7/18日付けで「日本人のルーツを探る壮大な実験」と題する記事をUPした。もちろん考古学を勉強した訳でもなく、ただ単に野次馬的関心を持ったからである。今度は、我々人類(ホモ・サピエンス)が4万5000前に出現した直後、それ以前にヨーロッパを中心に約20万年住んでいたネアンデルタール人が絶滅した理由を書いた記事に興味を持った。読売紙のベテラン記者が執筆した科学エッセー「ヒトとイヌ 最高の相棒」という記事だ。

ネアンデルタール人(旧人)は、我々現代人類に最も近い絶滅した親戚だ。ある研究者によると現生人ネアンデルタール人の遺伝子を平均2%持っているという。現生人類が欧州に到達したのは4万5千年前で、ネアンデルタール人が絶滅するのは約4万年前だから、約5000年間に亘って両者は共存・交流しており、混血もしていた。彼らは我々と同じ大きさの脳とはるかに強靭な肉体を持っていた。白っぽい皮膚、金髪や赤毛、青い目など、いくつかのコーカソイド的な特徴はネアンデルタール人から受け継いだ可能性が高いとしている。

ネアンデルタール人は何故死滅したのか、諸説あって、定まっていない。例えばクロマニョン人(新人)との暴力的衝突により絶滅したとする説、獲物が競合したことにより段階的に絶滅に追いやられたとする説、ホモ・サピエンスと混血し、急速に吸収されてしまったとする説など諸説ある。現在のイタリアに当たる地域で起きた複数の大噴火がヨーロッパにいたネアンデルタール人の食料不足を招き、壊滅的な打撃を与えたという説もある。しかし、現生人類の多くは主にアフリカやアジアにも住んでいたため、絶滅するほどの影響は免れたのだと言う。

◆(以下は読売記事から抜粋) ネアンデルタール人を追い詰めたのは寒冷化と現生人類の登場だったと言われる。これに加えて『人と犬がネアンデルタール人を絶滅させた』との著書を出した米ペンシルバニア州立大学名誉教授のP・シップマン博士はイヌの家畜化が絶滅と関係しているのではないかと主張する。ヒトはオオカミから従順な性質のものを選抜し、とした。人と犬は最高の相棒だった。人は体力で劣ったが、他者と協調する精神に富んでいた。犬は獲物を見つける優れた嗅覚、追い詰める走力を持っていた。また犬は運搬にも、早期警戒センサーにも、いざとなれば食用にもなってくれた。まさに犬は人にとって理想の「道具」になってくれた。

◆「人間・犬連合」に比べ、ネアンデルタール人の生き方は硬直的だった。大型動物に接近戦を仕掛ける狩猟スタイルに固執した。それは狩る側にもリスクの大きい成功率の低い狩猟法だった。彼らは愚か者ではなく、火を使い、ある程度の文化・芸術も持っていたが自由な発想、豊かな想像力、柔軟な行動などの点で、人間の敵ではなかったのである・・と結論付けている。つまりこのことは「硬直的な考えやスタイルの戒め」、「柔軟な発想、行動力の遂行」がいかに大切かを教えているようだ。現代でもいろんな局面で当てはまりそうだ。

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2016年7月18日 (月)

日本人のルーツを探る壮大な実験

日本人の起源について、国立科学博物館のプロジェクトチームが壮大な実験を通して、検証する試みが動き始めた。7/10日の読売新聞に大きく報じられていたが、日本人の祖先は3万8千年前から2万5千年前に遡って、3つのルートで移住してきたと推測されるという。最も早かったのが、3万8千年前に、朝鮮半島から対馬を経由して九州に入ってきた対馬ルート」だった。続いて3万年前に大陸と陸続きだった台湾から海を越えて琉球列島に入る「沖縄ルート」で、その後島伝いに北上、九州に辿りついたとされる。最後は2万5千年前北方からサハリンを経緯して南下してきた北海道ルート」だったという。

◆3万8千年前から2万年前の間に、3方向から来たそれぞれの民族は旧石器時代、新石器時代、先土器時代を経て次第に混血し、1万6千年前から始まった縄文時代になって日本人の原型になったという。旧石器時代の遺跡は日本全国で1万個所以上見つかっているというから、全土に広がっていたようだ。BC300年頃から、大陸から稲作金属器を伴って断続的に渡来人がやってきて弥生文化が始まった。近年のミトコンドリアDNAやY染色体の研究で日本人と中国人、韓国人は若干違っており先住の縄文人とは完全に対立していたわけではなく、次第に融和、混血していったものと考えられている。弥生時代はBC300年頃からAD300~350年だから、長い縄文時代に比べればほんの僅かな期間でしかない。それだけ中国・韓国の先祖達は、素朴で平和な日本の風土に、急激に争いの文化をもたらしたのではないかと勝手に思っている。

◆さて、日本人の起源となった3つのルートの話だが、プロジェクトチームは第2の「沖縄ルート」について、「簡素な石器しか使えない時代に、世界で最も困難な航海だったのでは」と推測。当時の航海を再現しようと学者、研究者、沖縄の若者らが加わり、想定される当時の製法で作った草舟を使って、まず日本最西端の与那国島から西表島までの約75kmの航海に挑戦した。昨夜7:00のNHKニュースが2隻の草舟で漕ぎ出したチームの様子をクリアな映像で伝えた。長さ約6.4m、幅約1.3m、7人乗りの草舟は時速2km~3km。草舟の性能を確かめるのが目的だった。ところが早くも初日の午後には、潮流の影響を受けて大きく北に流され、伴走船によって予定のコースに引き戻されたという。実に倍以上の距離のロスを生んだ。伴走船が無かったら、全員遭難したところだった。

Dscf1501 西表島の風景2016・5月

◆前途多難を思わせるが、3万年前はもっと大変だったに違いない。特に初めて渡った人は方向さえ不明、海流、風、天候などに阻まれ、何度も失敗し、時に命を落としながら、次第に経験を重ねて、成功させたに違いない。それは現代人が宇宙に挑戦し、月面に人を送り込んだ冒険に匹敵するか、それ以上のことだったかもしれない。今回の成功をみて来年はいよいよこのルートの第一歩、台湾から与那国島まで100kmに挑戦するという。成功を期待したい。
Dscf1496 西表島マングローブの森

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こんなカヌーでのんびり渡るような時代ではなかったことは確かだ。西表島で。

2016年6月 4日 (土)

真田幸村と現代の日本

◆今年の関東甲信地方の梅雨入りはまだはっきりしないが、梅雨とは無縁のようなすっきり爽やかな天候に恵まれた1日、江戸東京博物館で開かれている特別展真田丸」を観覧してきた。4月7日に信州上田城址公園で開かれていた「真田丸」大河ドラマ展も観覧したが、全く別物の展覧会だった。

◆上田城のそれが「大河ドラマ」の大仕掛けなPR展であるのに対し、江戸博物館の展覧会は史実に忠実に迫った学術的なもので、当時の絵図面、屏風絵、刀剣、具足、旗指物なども展示されている。しかし古文書が圧倒的に多く、いわば歴史マニア向けといった展覧会だった。では何故今「真田丸」なのか?真田幸村ブームは過去何度もあった。真田家は戦国時代を彩る一武将であっても、信長、秀吉、家康を主軸とした本流ではなく、あくまで傍流に過ぎない。信濃の一国衆でありながら、真田昌幸と長男信之、次男信繁(幸村)親子が巧みな外交戦略と戦上手と言われる戦術で列強の中を生き抜いてゆく姿が現代と一脈通じるものがあるように思えてならない。

◆大坂の陣で家康に「もはやこれまで」と言わせるほどの武勇を持った幸村。「日本一の兵(つわもの)」と後世に語り継がれた武将でありながら、戦場の露と消えた生き方が日本人の心に響くのだろう。しかし武勇・戦略は超一流ながら、政治力に欠けていた。世の趨勢が徳川に傾いていく時流にあって、大坂方のリーダー淀殿はそれを潔しとしない。彼女の権力欲は嫡男秀頼を総大将に仕立て、自分が采配を振るおうとするが、織田のブランド力だけで戦に勝つほど甘くはない。それが分っていないところに悲劇があった。勝とうとするなら知略・経験に富んだ司令官を登用すべきだった。

◆大坂方には大名は一人も味方につかず、有力武将は真田幸村後藤又兵衛木村重成長曾我部盛親などで、大阪の陣を通して徳川勢を梃摺らせる働きをしている。しかし大方は関ケ原の敗戦で牢人となった兵士や戦の経験もない粗末過ぎる幕僚達で、およそ長の器でもないお気に入りの大野治長を重用し、真田ら実力派の意見を無視した。淀殿は滑稽なことに叔父にあたる信長の末弟の織田有楽斎を大阪城に招き、冬の陣で司令役的役割を担わせた。ところが有楽斎は家康とも通じる仲、城内の動きは筒抜けだった。冬の陣後、徳川に有利な形で和議を成立させ、その後大阪城を遁走した。

◆幸村にとって不幸だったことは、せめて淀殿が北条政子のような人物であれば救われたであろうが、実力ある指揮官不在の中で、幸村自身失うものは何も無い。幸村には知勇はあっても、政治力がなかった。雇われの身分という負い目を考慮せず、豊臣家の御為第一に、淀殿・秀頼を説得、周囲の武将も説き伏せ、自ら最高指揮官に就けば、あるいは家康を撃退させ、時を置かず秀頼が二代目を引き継ぐことができたかもしれない。

◆今の日本は米国という後ろ盾が付いているが、周囲にはロシア、中国という大国が自国の勢力を強めるべく権謀術数を駆使している。日本は小国ながら技術力・経済力を有し、一目も二目も置かれる存在だ。ところが、人が好いというか政治力にイマイチ欠ける。米国という後ろ盾が無くなった場合も想定して、いかに政治力を培っていくか「真田丸展」を見ながらふっと思った。

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上田城「真田丸」大河ドラマ展より。 

2016年3月25日 (金)

小田原北条氏の不思議(最終回)

【疑問その5】 小田原北条氏は最終的に籠城戦を選び、滅亡に至った。他に選択肢はなかったのだろうか?

[選択3の場合] 籠城体制をとるが、初戦で一撃を加え補給路を断つなどのゲリラ戦を展開、早い段階で有利な条件で和睦する。

◆1589年11月24日付で、業を煮やした秀吉は北条氏に対して宣戦布告状を発した。氏政は弟氏照に向かって「これ見られよ。秀吉という猿面男が分限も知らず、かかる過言の奇怪さま」とののしったというが、この時点で北条氏の滅亡は決定したと言ってよい。なぜなら「彼を知り、己を知れば百選危うからず」(敵についても味方についても情勢をしっかり把握していれば幾度戦っても敗れることはない)という孫子の兵法を知ってか、知らずか、いずれにしろ外交上の失敗が、秀吉の北条攻めのきっかけを与えてしまった

◆ポイントとなったのは小田原城の防御の堅固さと、過去の籠城戦への過信だった。1561年の長尾景虎(後の上杉謙信)の小田原攻め(9万6千余)と、1569年の武田信玄の小田原攻めに対して、籠城戦で撃退したという錯覚だろう。確かに謙信の場合1か月、信玄の場合は4日で撤退している。どちらの場合も補給困難と、長期戦になることの恐れ、国内事情の変化等もあって、撃退したというより撤退したという方が正確だった。それより留意しなければならないことは、それまで従属していた上野・武蔵の国衆が簡単に寝返って、謙信の側についたことだった。これは後々領国経営の在り方に影響を与えることになる。

天正18年(1590)3月3日、ついに小田原合戦が開始する。本体は秀吉を総大将とする16万余、うち「家康」を指揮官とする別動隊1万余と三成・長束佐竹が合流した「三成軍」約2万余だった。さらに北の方から南下した前田上杉真田の「北方軍」が3万5千余。これらの別働軍が手薄になった北条氏の支城を個別撃破していった。海上からは長曾我部加藤九鬼氏の「水軍」約5千余が下田などの海城を落とし、制海権を得て海路補給をしつつ、小田原の海岸に殺到した。総兵力は22万とされる

Dscf3749_2 (北条氏が築いた大外郭の跡)

◆秀吉は4月5日に箱根湯本の早雲寺に本陣を置くと、中旬には周囲9kmに及ぶ小田原城総構えをぐるりと包囲する長大な包囲陣を完成させた。これに対し小田原軍がとった作戦は大外郭の補強修築と関東の100を超える支城から守備隊を残し、残りは小田原本城に集結させ、本城5万6千、支城2万弱、計7万5千で迎え撃つという籠城戦だった。分散した支城軍は忍城(映画「のぼうの城」のテーマとなった)、韮山城(守将は政氏の弟で氏規、今川氏の人質時代から家康と誼を通じ、外交面で活躍)などの例外を除き、次々と落とされていった。秀吉は余裕で、側室や茶人を呼んで、6月26日にはあの石垣山一夜城を完成させている。そして、7月5日、北条軍無条件降伏。13日には秀吉は小田原城に入り、関八州を家康に与えた。

2009_1009jpg_72◆勝機を見つけるとするならば、秀吉は前年11月の宣戦布告後、駿河の清水あたりに倉庫を建てて、着々と兵糧を集結させていた。そこへ密かに夜襲をかけて火を放てば大きな痛手となる。また秀吉が沼津や三島に着陣する頃を見計らって、奇襲攻撃をかけるなどゲリラ戦を展開すれば、活路は見えたかもしれない。さらに箱根の三島側中腹にある北条氏の出城「山中城」は著名な城郭研究者である千田氏もこの城の堅固さを特筆すべきものと認めている。その山中城は緒戦の段階で半日で落とされたが、守兵の過少と裏切りが原因だった。この城に兵力を集中して、緒戦で相当な痛手を与えておいてから、和睦に持ち込むという展開であれば、結果として領土の一部は割譲され、責任者の断罪は免れないかもしれないが、北条氏の家は存続したかもしれない。(写真は山中城の障子堀跡)

◆8回に亘り、長々と「小田原北条氏の不思議」をテーマにして書き綴ってきましたが、これらの歴史を学ぶと、改めて大局観に立ったものの見方、情報収集・分析の大切さ、内向きに偏らない外交姿勢と対外戦略などの重要さが感じられます。皆さんが北条氏の立場だったらどの選択肢を選びますか? ご意見、コメント、感想など投稿していただければ幸甚です。(終わり)

2016年3月23日 (水)

小田原北条氏の不思議(7)

【疑問その5】小田原北条氏は最終的に籠城戦を選び、滅亡に至った。他に選択肢はなかったのだろうか?

[選択 2] 徳川・伊達との緩やかな同盟関係を強固なものに改め、豊臣対東国3国同盟の図式に持ち込んで、徹底抗戦する。

◆1583年、家康の次女督姫が北条5代氏直に輿入れし、家康とは義父と娘婿の関係になった。家康は1586年に秀吉に従属を表明するが、この間にその動きを察知し、それを阻止するような外交戦略を展開すべきであった。家康も当初は拒否していたが、秀吉の巧みな外交戦術によって、渋々臣下になる形をとった。

◆一方で東北の伊達氏は全国屈指の大名で、東北制覇を目指して南下政策を進めていた。常陸の佐竹氏は伊達に立ちはだかる強力な対抗勢力で、何度も奥州の諸大名と連合しては伊達政宗と戦うが、蘆名氏が滅んだ後は殆どの勢力が伊達氏に付いたため、佐竹義重は北から伊達政宗、南から北条氏政の二大勢力に挟まれ、存亡の危機に立たされた。伊達と北条は相互補完の関係になった。佐竹氏は秀吉と同盟を結び、北条攻めの際はいち早く小田原攻めに参陣する。

徳川家康北条氏伊達政宗も大大名であったし、秀吉の臣下に入ることは望んでいなかった。この三者が固い同盟を結び、集団的自衛権を発揮すれば、秀吉にとっては大変な脅威だ。もし手を出せば「西軍対東軍の対決」となり、謂わば10年早い「関ケ原の戦い」となる。その場合、上杉を味方につけないまでも中立の立場におけば、充分成算は見込める。

Dscf1336_2◆なお、東軍の盟主を家康とするか、北条とするかだが、年齢の上では氏政の方が家康より5歳上、しかし氏政は名目上引退して家督を氏直に譲っている。後々のことを考えたら家康に譲った方がベターだろう。氏政は大軍を率いるには疑問符が付くからだ。東軍が勝てば北条や伊達はそれぞれ関東と東北を盤石なものにすることができるし、家康は近畿から中部を治めるだろう。そうなれば、首府は江戸ではなく名古屋か大阪になっていたかもしれない。そしてあの忌まわしい朝鮮出兵などはなかったはずだ。(続く)

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