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音楽

2017年2月17日 (金)

今日は春一番

スーパーに買い物に出かけた。晴れているので歩いて出かけようとしたら、雨が降るかもしれないから車の方が良さそうだと言われ、しぶしぶ従った。ところがそれが正解だった。帰る頃には、晴れているのに横殴りの雨が降ってくる。時折、暗くなって強風が吹き荒れ、大粒の雨が叩き付ける。まさに予報通り「春一番」だ。
「春一番」と言えばキャンディーズの歌を思い出す。昭和51年3月の発売だから、今から41年前。ところが全然古臭さを感じない。むしろ今では珍しいほど美しい日本語の歌詞が新鮮だ。


   「春一番」  作詞・作曲:穂口雄右  歌:キャンディーズ
雪が溶けて川になって  流れて行きます
つくしの子がはずかしげに  顔を出します
もうすぐ春ですね  ちょっと気取ってみませんか
風が吹いて暖かさを  運んできました
どこかの子が隣の子を  迎えにきました
もうすぐ春ですね  彼を誘ってみませんか
泣いてばかりいたって 幸せは来ないから
重いコート脱いで  出かけませんか
もうすぐ春ですね  恋をしてみませんか 

日だまりには雀たちが 楽しそうです
雪をはねて猫柳が  顔を出します
もうすぐ春ですね  ちょっと気取ってみませんか
おしゃれをして男の子が  出かけて行きます
水をけってカエルの子が  泳いで行きます
もうすぐ春ですね  彼を誘ってみませんか
別れ話したのは  去年のことでしたね
ひとつ大人になって  忘れませんか 
もうすぐ春ですね  恋をしてみませんか

雪が溶けて川になって  流れて行きます
つくしの子がはずかしげに  顔を出します
もうすぐ春ですね  ちょっと気取ってみませんか
別れ話したのは  去年のことでしたね
ひとつ大人になって  忘れませんか 
もうすぐ春ですね  恋をしてみませんか
もうすぐ春ですね  恋をしてみませんか


Photo今年の啓蟄は3月5日。まだ2週間以上ある。毎年のことだが、ほんの一瞬の春の兆しなのだろう。
そういえば今年の北国の雪は例年に増して深いようだ。
外はまだ強風が吹き、ガラス窓を揺らしている。


2016年12月24日 (土)

今日はクリスマスイブ

最近のクリスマスは昔みたいにバカ騒ぎをすることはなくなった。その代りかどうか、家の周りや庭先などにLEDライトを飾り付け、雰囲気を出す家が増えてきたようだ。街中からも伝統的な静かなクリスマス・ソングは少なくなり、訳の分からないクリスマスソングのようなものが流れている。NETで調べてみてもクリスマスソングは200以上。自慢じゃないが、そのほとんどを知らない。
正統派クリスマスソングと言えばやはり讃美歌。「聖夜」、「荒野の果てに」、「諸人こぞりて」、「神の御子は今宵しも」等々。ポップス、子供向けとなると、「ホワイト・クリスマス」、「ジングルベル」、「サンタが街にやってきた」、「赤鼻のトナカイ」、「ママがサンタにキッスした」、「We Wish You a Merry Christmas」、「ウィンター ワンダーランド」などがすぐに思い浮かぶ。


1988年、40代半ばだったか、JR東海のCMソングで山下達郎の「クリスマス・イブ」という和製ポップスが大ヒットした。100年に1度の大ヒットだという人もいる。この頃以降だろうか、様々なクリスマスソングが生まれたらしい。しかし古い人間と言われようとも「White Christmas」の右に出るクリスマスソングは無いと思っている。
高校1年か2年の音楽の授業の時だった。ある時、独身女性の先生が黒板に英文の歌詞をスラスラと書いた。タイトルは”White Christmas” 続いて先生のピアノの伴奏と歌唱指導で何度か練習した。高校の音楽の授業で教科書には載っていない英語のポピュラーソングを習うとは当時としては画期的な事だったと思う。


「ホワイト・クリスマス」は古風なクリスマスの情景の思い出を歌ったアーヴィング・バーリン作詞・作曲のクリスマス・ソングで、1942年に同名の映画の中でビング・クロスビーが主題歌として歌ったもの。子供向けのクリスマス・ソングが多い中で、この歌はちょっと大人のムードが漂う歌としてフランク・シナトラなど多くの歌手がカバーした。この歌はオリジナルの英語歌詞以外で歌うことは禁止されているそうで、確かに日本語訳詩の歌は聞いたことが無い。
なお、ダークダックスは1951年のクリスマスに、後の主要メンバー3人が、あるパーティーで「ホワイトクリスマス」を合唱したことが、グループ結成のきっかけになったという。
この歌がアメリカで発表されてから17、8年経った頃、九州の片田舎の高校の音楽の授業で歌ったという格別の思いが、ずーっと刻み込まれたクリスマスソングとなった訳である。


Photo_2     White  Christmas
  I'm dreaming of a white Christmas
  Just like the ones I used to know
  Where the tree tops glisten
  And children listen
  To here sleigh bells in the snow
   I'm dreaming of a white Christmas
  With  every Chiristmas card I write
  May your days be merry  and bright
  And may all your Christmasses be white


品種:ホワイトクリスマス

2016年10月23日 (日)

唱歌「故郷の空」

 Photo_4  

1. 夕空晴れて 秋風吹き                 
  月影落ちて 鈴虫鳴く
  思えば遠し 故郷の空
  ああ わが父母 いかにおわす     

2. 澄ゆく水に 秋萩垂れ
  玉なす露は 芒
(すすき)に満つ            

  思えば似たり 故郷の野辺
  ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ 


誰もが一度は小学校の音楽で習った「故郷の空」。原曲はスコットランド民謡、明治21年5月、「明治唱歌第1集」に「故郷の空」として掲載された。作詞(訳詩)は大和田建樹(1857~1910)。この頃、いわゆるオリジナルな文部省歌はまだ少なく、軍歌調なもの、日本の古典を題材にしたものが多かった。大和田は「故郷の空」の他にもフォスターの「故郷の人々」を訳詩したが、この頃別の作詞家が、「春風」(吹けそよそよ吹け~)や「埴生の宿」訳詩している。ついでながら大和田建樹は有名な「鉄道唱歌」(明治33年)、「青葉の笛」(明治39年)を作詞している。

さて、「故郷の空」に話を戻すが、この時期になるとこの歌のメロディが頭をよぎる。秋の澄み渡った空気が思い出させるのか。子供の頃覚えたての歌を口ずさんでいると、父親が少し音程のずれた歌声で合わせてきた。そして母親も。なんで知っているのかと思ったものだが、この歌は両親が生まれるはるか以前から日本に根付いていたものだったのだ。

故郷長崎市内はいわゆる田畑や山里、田園風景にはかなり遠い。ただ、頬をなでる秋風、虫の声、赤トンボ、風になびくススキの揺れなどは感じられた。家からほど近い廃れた外人墓地で遊び、夕空をバックに家路に着くころ、空気がなんとなく透明なうす紫色に感じられた。
後年、「故郷の空」の原曲はスコットランド民謡『Comin' Thro' The Rye』(ライ麦畑で出逢ったら)と知った。

  If a body meet a  body, Comin' Thro' the Rye
  If a body kiss a body, Need a body cry?      (以下略)


スコットランドの古き良き開放的な男女の営みを、ライ麦畑でのやりとりを通して、おおらかに描いている。身の丈ほどの高さに成長するライ麦。そんなライ麦畑の中で、男と女が出逢ったら・・・。
作者は有名な「蛍の光」(Auld Lang Syne) のロバート・バーンズ。この歌も日本では別れの歌に変貌しているが、「故郷の空」をもっとも原曲に近い形で表現したのが、なかにし礼が作詞し、ザ・ドリフターズが歌った「誰かさんと誰かさん」であることは言うまでもない。これが世に出たとき、一部年配者から「冒涜的な替え歌」という批判が出たと言う。さもありなんと思うが、訳詩は原曲に忠実でなくとも、名曲になりうること、国民の感性に合ったものが一番と思う次第である。

2015年11月14日 (土)

世界の民謡等を下敷きにしたポピュラー音楽

◆前回の古典音楽編に続き、今回は世界の民謡やカンツォーネ編を纏めてみた。原曲をアレンジしてポピュラー音楽に仕立て上げ、映画音楽やヒットチャートでリバイバルした曲も結構多い。まずは我が青春の永遠のスター、エルヴィス・プレスリーの曲から取上げてみたい。

・「ラブ・ミー・テンダー」:1956年、エルヴィス・プレスリーが同名の初主演の映画の中で歌いヒットした。原曲は1861に作られたアメリカ民謡の「オーラリー」という曲。
・「It's Now or Never」:(今しかない、絶好のチャンスだ)という意味だが、原曲は1898年のナポリ歌謡祭の優勝曲「オーソレミオ(私の太陽)」。プレスリーが1960年に歌い、全世界でヒット。一連のナポリ歌謡祭のリバイバルの先駆けとなった。
・「サレンダー(surrender)」:(降参!降伏する)という意味だが、原曲は1902年ナポリ歌謡祭の入賞曲「帰れソレントへ」。1961年に歌い大ヒットした愛の歌。
・「この胸のときめきを」:原曲は1965年のサンレモ音楽祭入賞曲で、「私はあなたなしでは生きられない」。翌年イギリスの女性ポップス歌手ダスティ・スプリングフィールドが「この胸のときめきを」にアレンジしてヒットさせた。1970、エルヴィスがカバーしてさらに大ヒット。


◆エルヴィス・プレスリーは1961年映画「ブルーハワイ」の中で数々の名曲を歌っているが、その中の1曲「NO MORE」。原曲はラテン音楽のスタンダード「ラ・パロマ」。スペイン生まれのセバスチャン・イラディエールが、19世紀に作った「ラ・パロマ」の英訳替え歌。またこの映画の中で歌った「好きにならずにいられない」(Can't Help Falling in  Love)は18世紀フランスのシャンソン「愛の喜び」が原曲。この曲はプレスリーの不朽の名作にもなった。同じくプレスリーの1961年の映画「GIブルース」。この中で歌った「別れの歌-ムシデン」の原曲はドイツ民謡(ムシデン)「さらばふるさと」。この中で人形劇に飛び入り参加して、英語で歌う場面がある。途中子供達とドイツ語で「ムシデン」を合唱、印象的な場面だった。

◆1959年ハりー・ベラフォンテが歌って大ヒットした「ダニー・ボーイ」。この曲はもともと北アイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」で、彼のリメイク版は世界的に大ブレイクした。
・「マイ・ボニー」(原題はMy Bonnie Lies Over the Ocean)は、もともとスコットランド民謡。 アメリカに渡ってC&Wの「カウボーイの夢」となり、欧州に於いては1961~2にビートルズが同名の「マイボニー」をロック調で歌い、復活させた。ビートルズというグループ名になる前だった。
・日本の童謡がアメリカのポピュラー音楽になって日本に入ってきたことがあった。「ウスクダラ」などを歌ってアメリカで人気のあった黒人系混血のアーサー・キット。これがなんと童謡「証城寺の狸囃子」の日本語の歌詞をところどころ残し、「Sho-Jo-ji (The Hun
gry Raccoon お腹が減ったアライグマ)として、1955年(昭和30)にレコーディングして、日本にも入ってきたのだ。当時小学校の6年生の頃だったか。単純に日本の童謡をアメリカ人が歌うのかと喜んだものだったが・・・。
この他にもまだまだあるようだが、また別の機会に調べたい。

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2015年11月11日 (水)

古典音楽を元ネタにしたポピュラー音楽

◆先日、ミニ・コンサートを鑑賞する機会があった。プロの女性ボーカルとピアノ演奏家のコラボで、映画音楽や懐かしのスタンダードの名曲を鑑賞し、しばし青春の一ページに浸ってきた。この時思ったことは、原曲はクラシック音楽だが、それが映画音楽やポピュラー音楽にアレンジされ、ヒットした曲は意外に多いと再認識したことだ。自分でも今一度整理してみようかなと思い、知っているところからランダムに一覧にしてみた。

【原曲がクラシック音楽】
・「エリーゼのために」:原曲は言わずと知れたベートーベンのピアノの名曲。これがなんとザ・ピ-ナッツが歌ってヒットとした「情熱の花」に大転換。(1959年)
・「時の踊り」:原曲はイタリアのオペラ作家ポンキエリの「ラ・ジョコンダ」の中の「時の踊り」。これもザ・ピーナッツが歌ってヒットした「レモンのキス」(1962年)。
原曲はピアノの詩人ショパン「ノクターン」(夜想曲)第2番。これは超有名な映画「愛情物語」のテーマ曲に使用された。1956年のアメリカ映画。
・モーツァルト「ピアノ協奏曲」第21番の第2楽章。1785年、モーツァルト29歳の時の作品。この原曲が1967年のスウェーデン映画「みじかくも美しく燃え」のテーマ曲になった。
原曲はバッハ「メヌエット」ト長調からと云われる。これが1965年にアメリカで生まれ、翌年サラ・ヴォーンがヒットさせたラヴァーズ・コンチェルト。日本でも多くの歌手がカバーした。
・交響詩「モルダウ」はボヘミア生まれのスメタナが交響詩「わが祖国ーモルダウ」を作曲し、チェコを代表する国民的音楽家になった。日本では音楽の教科書はもちろんのこと、さだまさしが「男は大きな河になれ」、イルカが「いつか見る虹~モルダウから」(NHK「みんなのうた」)、平原綾香「Moldau」など広くカバーされている。平原綾香はその他にも多くのクラシックをモチーフにした曲を収録している。
・ドボルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章の有名な一節は死後、「家路」、「遠き山に日は落ちて」など愛唱歌に編曲された。平原綾香も「新世界」のタイトルで2009年発表した。
・ホルストの組曲「惑星」。ホルストは英国の作曲家で、「惑星」は1914年から作曲を始め1920年に初演された。この中の第4曲にあたる「木星(Jupiter)」がもっとも知られた作品。この原曲に日本語の歌詞をのせて歌う事を提案したのが平原で、2003年の作品。
・オッフェンバック喜歌劇「天国と地獄」序曲。これは言うまでも無く、「カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは文明堂」のテレビCMで有名。このCMはテレビCM草創の頃の作品で、今もって継続されているようだ。
以上の他にもまだ沢山あるようですが、今回はこの辺で。

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2015年9月23日 (水)

「里の秋」

◆9月も終盤に入り、ようやく秋らしくなってきた。この時期、我が家ではカミさんが「栗の渋皮煮」を作る。甘みと渋みが混じった栗の実を口に入れると「秋だな」と実感する。この渋皮煮を見て思い出すのは、童謡里の秋」。
自分は戦後、両親、祖母、弟妹と地方都市の街中で暮らしていたから、この歌で歌われている背景とはあまり縁がなかったが、この風景は戦後少年期を過ごした我々にとって、原風景のように心に沁み込んでくるのだ。


◆30年ほど前、一家で房総半島をドライブした時のこと、千葉県九十九里浜に近い成東町付近で道に迷った。その時静かな村落で「里の秋」の歌碑を見つけた。この歌は信州や東北の山里をイメージしていたので、「何でこんなところに」と意外に思ったものだったが、昭和57年に郷土の詩人斎藤信夫を顕彰するために成東町が建てたものだという。

     「里の秋」        作詞:斎藤信夫   作曲:海沼 實

1 静かな静かな 里の秋    お背戸に 木の実の 落ちる夜は  
  ああ 母さんと ただ二人  栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい 星の空    鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は
  ああ 父さんの あの笑顔  栗の実 食べては 思い出す

3 さよなら さよなら椰子の島  お船にゆられて 帰られる
  ああ 父さんよ 御無事でと 今夜も 母さんと 祈ります


Photo_2◆この歌は1945年(昭和20)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午後」の中で、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。大変な反響を呼び、以後翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。その20年代を通して、「訪ね人」のメッセージが放送されたのを良く覚えている。
しかし、この歌を作詞したのは4年前、1941年(昭和16)12月のことで、題名も「星月夜」だった。太平洋戦争突入の臨時ニュースに高揚感を覚えた斎藤は、その想いで書き上げたと云われている。1、2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3、4番は「父さんの活躍を祈っています。将来僕も国を護ります」というような内容で締めくくられていたそうだ。早速童謡にしてもらうため海沼に送ったものの、曲が付けられることはなかった。


Photo_3◆やがて終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、要望に沿った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。しかし、3番4番はそのまま使えないと判断。斎藤に歌詞の書き換えを要請。当時、戦地からの帰国を待ちわびる大勢の留守家族がいることを念頭にようやく3番の歌詞が生まれた。曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だったという。
作曲家海沼實は戦前から童謡作曲家として数々の作品を残し、親しまれていたが、戦後も「里の秋」、「みかんの花咲く丘」、「夢のお馬車」など童謡の黄金期を形成した作曲者として、その功績は屈指のものと評価されている。


◆この歌の背景には、戦争がようやく終わって平和が訪れた。しかし、南方の戦地に赴いた優しい父親はまだ帰ってこない。静かな秋の夜、残された母と子二人は裏で採れた栗の実を煮て、優しい父・夫を思い浮かべ、ひたすら無事の帰還を待ちわびている。戦争の悲しみ、虚しさ、そして平和と家族の大切さ、その想いが込められた童謡であることが、多くの人の胸を打つ理由なのだろう。

2015年4月28日 (火)

ポール・マッカートニーの日本公演

▼もとビートルズのポール・マッカートニーが昨年体調不良でドタキャンしたが、今回は挽回すべく、約半世紀ぶりに日本公演を果たした。今回は京セラドーム、東京ドーム(3回)、そして懐かしの日本武道館、計5回の公演で、72歳のコンサートを無事終了し、荒稼ぎして帰ったようだ。
はじめて来日した昭和41年(1966)当時は、学生時代の後半だった。その2~3年前から世の中はビートルズ・ブームで、世界中で彼ら4人の独特の歌声がヒット・チャートを独占した。ファン層はミーチャン・ハーチャンばかり、なんでこんなに騒ぐのか、俺の趣味ではないなという感じだった。ところがその後「イエスタデイ」、「ヘイ・ジュード」、「レット・イット・ビー」などがヒットするにつれて、考えを改めるようになった。そしてそれらの作曲がポールマッカートニーと知って、彼に対する評価が一段とあがった。


▼先日、加山雄三コンサートで聞いた話だが、ビートルが初来日した1966年日本武道館での公演の際、日本のポップス界のトップということで加山雄三に参加の要請があったという。その際、おばあちゃんに「こんな話があるんだけど」と相談したら、「いいチャンスじゃない。行ってきなさいよ」と後押しされて、以来交流が続いているという。
あまた、日本武道館で音楽コンサートが行われたのはこの時が初めてだったが、「日本の武道の殿堂でポップスなどとんでもない」という空気が支配的だった。翌1967年、映画「南太平洋の若大将」で柔道部の試合に加山雄三が登場するシーンが武道館で撮影された。そのとき多くの観客役で集まってくれたファンに対し、お礼の意味でライブができないかと考え、交渉したが、「武芸の殿堂でロックなど不謹慎だ」となかなか許可が降りなかったという。前年にはビートルズが公演しているというのに・・おかしな国だ。結局、撮影の一環として、了承をとりつけライブを開催。喜ばれたという。
アーティストにとって武道館での公演は勲章となっているが、日本人第一号が加山雄三だった。その後彼は幾度となく武道館でコンサートを行っているが、昨年77歳で武道館での最年長コンサートの記録を更新した。ポール・マッカートニーより6歳年長の加山雄三、決して負けていない。

Photo 
クンシランが盛りです。

2015年4月 2日 (木)

続・加山雄三「FINALコンサート」

会場:神奈川県民ホールで
◆加山雄三は昭和35年(1960)慶応技術大卒後、東宝と専属契約。翌年早くも「大学の若大将」で主役を演じ、以後「若大将シリーズ」がスタートした。1965年には「エレキの若大将」の中で歌った「君といつまでも」が350万枚の大ヒットでブレイク。映画にも数多く出演しているが、俳優としては特筆すべきものは見当たらない(と思う)。いわゆるアクが強くないからだろう。

◆彼の人生はまるで挫折が無かったかのようだが、1965年、父上原謙らと共同オーナーで開業した「ホテルパシフィック」がひとつの影を落とした。茅ヶ崎海岸にそびえ立つ斬新なデザインの建物は、当時としては最先端の高級リゾート・娯楽施設として注目を集めた。筆者が社会人になって間もなく1967年か68年頃、雑誌の仕事でこのホテルでロケをした。プールサイド、砂浜などでモデルを使った撮影に立ち会った。しかし、それから僅か2~3年経った1970年、ホテルを運営していた企業が倒産。売却されたが、残った借金がズシリと彼の肩にのしかかった。ホテル自体は、所有者が転々と変わったが、1988年に完全廃業。1997年までは廃虚として残ったが、翌年取り壊された。

◆借金返済のため苦労したようだが、それはおくびにも出さず、奥さんが買ってくれた中古のピアノで次々と名曲を世に出していった。筆者が好きな彼のオリジナル曲は「旅人よ」と「海、その愛」、オリジナルではないが「My Way」。「旅人よ」は彼の提案で、観客全員で歌った。感動ものだった。また昨年の武道館コンサートで歌った「座・ロンリーハーツ親父バンド」という曲はバックコーラスに「さだまさし、谷村新司、南こうせつ、森山良子」の4人が付いたそうだが、ここではそのコーラス抜きで歌った。ただし、多くの中高年がステージの下に集まって、まるで今の若者のように立ったまま声援を送り、体を動かす。この時が今回一番の盛り上がりようだった。

◆とにかく78歳とは思えぬ若々しい声の張り、声量、風貌、まだまだ行ける気がするのだが、この全国ツアーを最後に、音楽の舞台から引退し、80歳になったら現在設計しているクルーザーに乗って世界一周するのだという。まさに彼の歌にもある「Dreamer ~夢に向かって いま~」を実践しているのだ。あれほどのスーパースターでありながら、今なお夢を追っている。「夢は思えば叶うんだ。人生辛いこと、悲しいこといろいろあるだろうが、くよくよしたって始まらない。前を向いて明るく進もうよ」と言う単純・明快なメッセージが彼の歌から聞こえてくる。彼が残したレジェンド、湘南サウンズは「ワイルド・ワンズ」、「サザン・オールスターズ」らに引き継がれてきた。そういえば茅ケ崎には「加山雄三通り」と「サザン通り」がある。このコンサートで元気を頂いた。
Photo 会場:神奈川県民ホール

2015年3月31日 (火)

加山雄三「FINALコンサート」を観賞

◆永遠の若大将「加山雄三のFINALコンサート」のチケットを息子夫妻からプレゼントされ、横浜の県民ホールで観賞してきた。加山雄三は昨年喜寿を記念し、日本武道館で大コンサートを開いた。そしてそこから全国47都府県のツアーコンサートを始め、30数番目に生まれ故郷の横浜で開催。当日2450席ほどの大ホールは中高年で満席。日本武道館でのライブと同じ曲目を同じ順番で計45曲、3時間近くに亘って熱演した。期待した以上の感動ものだった。

◆加山雄三といえば、慶応ボーイ、恵まれた環境で、恵まれた才能を明快、かつ単純に開花させ、まさに映画「若大将」のイメージがそのまま実像と重なる。確かに和製ポップスの草分けでシンガーソング・ライターの走りだった。ピアノ演奏、ギタリスト、ウクレレ奏者、俳優、タレント、司会者としての顔以外に、絵画はプロ級、スキーは国体出場、クルージングは趣味の域を超え、自ら船の設計をしている。そして作曲家としての弾厚作、作曲した数は530を超えるという。天はこの男に二物どころか数多くの才能を与えた。まさに天賦の才を活かしていとも簡単にマルチの才を開かせているように見える。まるで水鳥が水面下の足の動きを見せず、悠々と水に浮いているかのように。

◆加山雄三は1937年4月生まれ。今年78歳になる。戦争中に生まれ、終戦の年は8歳、戦中・戦後の苦労もあったはずだが、それらを微塵も見せず、茅ケ崎での悪ガキ時代の話を楽しく語った。14歳のとき(1951年)習い始めたピアノで何と処女作「夜空の星」(♪僕の行くところについておいでよ~)を作曲したという。その当時から天賦の才の片鱗を見せていたのだ。両親が俳優という家庭の環境もあったのだろうが、運と才能だけで50年以上もこの世界でやっていける訳は無い。

◆それだけでは彼のファンにはなっていなかったのだが、彼の音楽の原点がエルビス・プレスリーとそのもとであるC&Wにあること。その辺の周波数が自分にマッチしていることにあった。このコンサートでも、ロックの王様プレスリーのコピーと言えばコピーだが、自作の本格的ロックンロールミュージックに自作の英詩をつけた若い時の作品を、ショッパナから5曲連続で熱演。今のロックはただうるさいだけでメロディがない。また、彼が尊敬する歌手がペリーコモ、アンディ・ウィリアムス、フランク・シナトラ、カーペンターズであることも波長が合う。ただ単に彼らの影響を受けただけではなく、ペリーコモとは家族ぐるみの付き合いで、来日したレーガン大統領夫妻の前で彼とデュエットしたエピソードなどを披露した。ビートルズ、ベンチャーズとの交流も含め、まさに国際的大物である。(続く)

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湘南平から茅ケ崎方面を望む


2014年5月 1日 (木)

今日から5月

今日から5月。5月といえばゴールデンウィークで昔はウキウキしたものだが、今では人混みを避けたがるようになっている。
明日は「夏も近づく八十八夜」、立春から数えて八十八日目ということで、季節の変化が少しずつ変わってきている現在では、あまりピンとこない。
この時期は、昔から歌われた唱歌「茶摘み」が思いだされる。
女の子たちが「せっせっせ~、♪夏も近づく八十八夜~(トントン)」と歌いながら手のひらをあわせて調子をとっていた。
こういうところにも日本人が持つ独特の季節感が共有されていたのだろう。この「茶摘」は明治45年3月尋常小学唱歌に指定されたが、作詞・作曲家は不詳だという。


   『茶 摘』  
 1 夏も近づく八十八夜   野にも山にも若葉が茂る
   「あれに見えるは 茶摘みじゃないか  あかねだすきに菅の笠」

 2 日和(ひより)つづきの きょうこの頃を 心のどかに摘みつつ歌う
   「摘めよ 摘め摘め 摘まねばならぬ 摘まにゃ日本の茶にならぬ」 


先日、イコモスが群馬県の「旧富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産に登録勧告という嬉しいニュースが駆け巡った。当時の日本の輸出品のトップは生糸だったが、それに次ぐものが緑茶だった。「茶摘」の2番の歌詞の中にも、当時の日本の風潮がよく見て取れる。