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趣味

2016年2月16日 (火)

「カネのなる木」に花が咲く

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25年ほど前、「金のなる木」の小さな鉢植えを買って育て、今では身の丈1.6mほどの高さになった。これほど簡単で手間がかからず、長生きし育てやすい植物は無い。冬場一度だけ霜が当たる戸外に置いたところ、枯死寸前になったことがある
それでも生き延びた部分を少し切り取って、再度育てたところ、元気に蘇った。相当強い生命力だ。その間、何度も枝を切っては、鉢で増やし人様にお分けしたので、分身は10数鉢になるだろうか。霜が降りない路地で、自然の状態で栽培すると樹高は3m以上になるという

通称「金のなる木」または「成金草」と呼ばれるが、学名はCrassula  Ovata、南アフリカ頭部原産の多肉植物で、日本には昭和初期に渡来したそうだ。正式な和名はベンケイソウ科のフチベニベンケイ(縁紅弁慶)、カゲツ(花月)やオウゴンカゲツ(黄金花月)とも呼ぶそうが、あまり聞かない。面白いことに英語でも「dollar plant」 Or 「money tree」と呼ぶそうだ。

一昨年あたりから、冬の間に花が咲くようになった。小さな可愛い花がいくつか咲いたが、たくさん咲かせる方法はあるようだ。次の冬はもっと咲かせてみよう。

2014年4月 9日 (水)

懐かしのラジオ・テレビ番組(3)

◆テレビがお茶の間に普及し始めると、テレビの特性を活かした番組が多数登場するようになる。NHK総合テレビの「ジェスチャー」もそのひとつ。これをラジオでやったら面白くも何ともないだろう。1953年2月から(TV放送開始の時)1968年まで続いた人気番組で、白組、紅組に分かれて、身振り手振りの表現が何かを当てるゲーム。柳家金語楼水の江滝子らの熱演に視聴者は大爆笑。目で楽しむテレビならではの番組だった。

◆少し遅れてスタートした「私の秘密」(1955年4月~1967年3月)は珍しい体験や、秘密のある一般の人々を題材にクイズ展開。市会の高橋圭三アナの冒頭の挨拶、「事実は小説より奇なりと申しまして、世の中には変わった珍しい経験をお持ちの方がたくさんいらっしゃいます」は、有名な決まり文句となった。これも実はアメリカの人気番組『I’ve Got a  Secret』の日本版として製作されたものだったそうだ。解答者に渡辺紳一郎藤原あき藤浦洸塩月八重子らの著名人が起用された。「ジェスチャー」と合わせ、いずれもゴールデンタイムの人気番組となって、老若男女に親しまれた。

◆もうひとつ強い印象が残っている番組に「私だけが知っている」という番組があった。1957年11月から1963年3月までNHK総合テレビで放送されたクイズバラエティ番組で、まず殺人事件のドラマが演じられ、徳川夢声扮する探偵局長と、有吉佐和子、江川宇礼雄、池田弥三郎扮する探偵局員が、知的な謎解きで真犯人を推理するというもの。この探偵局員に後に「芸術は爆発だ!」で大ブレークするあの岡本太郎が出演していたのが大変印象的だった。また問題となる殺人事件のドラマの作者は戸板康二、笹沢佐保、夏樹静子、島田一男、鮎川哲也ら著名作家たちが執筆した。前半のサスペンスドラマを含め、すべて生放送であったため、死んだはずの被害者が少し動いたとかのハプニングがあったりして、面白かった。探偵局員の推理が終ると、解説を交えた後半のドラマが続き、「結論を急ごう」の名ナレーションの後、犯人が明かされた。

◆3回に亘って、1955年頃から1960年頃にかけて、自分が少年時代に聞いたり、見たりしたラジオ、テレビ番組の中から特に印象に残る番組を取上げてみた。いずれも家族みんなが一つのラジオ、テレビの前で一緒に聞き、一緒に見て夕食後の団らんを楽しんだ。今の家庭では、食事も別、テレビもそれぞれ自分の部屋で見たい番組を見て、スマホやゲームに夢中になり、「家族の団らん」という言葉は死語になりつつあるようだ。時代が違うと言ってしまえばそれまでだが、果たしてこんな状態でいいのだろうか。(終り)

2014年4月 7日 (月)

懐かしのラジオ・テレビ番組(2)

◆「話の泉」より大人から子供まで人気があった番組に「とんち教室」があった。1949年(昭和24年)1月から20年近く続いたNHKラジオのバラエティ番組である。テーマ曲の「結んで開いて」で始まり、司会は青木一雄アナウンサー。「私はとんち教室の青木先生です。出席をとりまーす」と恒例の挨拶で始まった。毎回各界の著名人やお笑いタレントが生徒役として出演しており、青木先生が出題するお題を生徒達が珍答、名答を繰り広げるもの。大喜利のはしり的な番組で、長年に亘って聴取者に愛された。

◆私がよく覚えているのは、石黒敬七(柔道家)、長崎抜天(漫画家)、春風亭柳橋(6代目)、桂三木助(3代目)、初代西崎緑(日本舞踊西崎流家元)さん達。
その他玉川一郎(ユーモア作家、笑劇作家)、大辻司郎(漫談の創始者・宗家)、宮尾しげを(漫談家)、柳家金語楼、宮城まり子、三益愛子、清川虹子さんら多数出演していたようだが、その頃はテレビの時代になっていたので、もう聞くことは殆どなかった。機知、とんち、シャレでお茶の間を明るくしてくれた名番組だった。


◆もうひとつの看板番組に「二十の扉」というのがあった。1947年(昭和22年)から1960年(昭和35年)までNHKラジオ第一で放送され、1953年テレビ放送開始とともに、テレビでも同時放映された。日本のオリジナルだと思っていたが、アメリカで放送されていた同様のクイズ番組『Twenty Questions 』をモデルに、CIE(民間情報教育局)監修のもとで制作されたものであることを知ったのは最近のことである。

◆聴取者から寄せられたある問題を解答者が司会者に質問し、次第に絞っていって20の質問の間に答えに辿りつけば正答というもの。司会の藤倉修一アナは当時『街頭録音』や『社会探報』などの社会派番組を担当していたが、その活躍を見たCIEの担当によって抜擢された。解答者には藤浦洸(作詞家)、大下宇陀児(作家)、丹下キヨ子(俳優)らがレギュラー解答者を務めた。その他芸能人とは別に知性とセンスがあるとされる人物をCIEが直接面接を行って選出したという。聴取率調査では何度も1位となり、大人から子供まで世代を問わず、誰でも楽しめたことから、国民的な知名度と人気を誇った。

2014年4月 6日 (日)

懐かしのラジオ・テレビ番組(1)

◆「話の泉」という番組があった。昭和21年12月スタート、昭和39年3月まで約18年に亘り、NHKラジオ第一で放送されたクイズバラエティ番組である。この番組を何となく聞くようになったのは小学校高学年から中学生の頃(昭和29年~32年頃)だった。ユーモラスで含蓄のある会話は半分も理解できなかったが、国民的な知識娯楽番組として長く愛された。インテリジェンスに溢れた大人達のシャレた会話はちょっぴり大人の雰囲気を味あえる教養番組でもあった。クイズの出題といってもトークセッションを繰り広げるというもので、聴取者から寄せられた問題やテーマに対し、解答者達が持っている蘊蓄や雑学や博識を出し合って、答えていくものだった。

◆初代の司会者は徳川夢声だったそうだが、3回目から解答者に回る。私が聞き出した頃は三代目司会者高橋圭三アナの頃で、解答者には作詞・作曲家・音楽評論家の堀内圭三、詩人で童謡作詞家サトウ・ハチロー、無声映画の弁士あがりで元祖マルチタレントの徳川夢声、新聞記者あがりの博学者渡辺紳一郎、映画監督で脚本家の山本嘉次郎、音楽評論家太田黒元雄といった当代の著名人ら錚々たるメンバーが名を連ねていた。

◆この「話の泉」という番組のリメーク版ともいえる「新・話の泉」が2001年頃からNHKラジオ第一放送の特別番組で始まった。故立川談志が、この「話の泉」を平成の現代によみがえらせようと情熱を傾け、「新・話の泉」として不定期ながら復活を果たした。さすが立川談志である。惜しくも2011年に没したが、現在の司会者は「歴史秘話ヒストリー」の渡邊あゆみアナウンサーで、2010年4月からは、特集番組「新・話の泉スペシャル」として放送。主に祝日やゴールデンウィーク、お盆などに放送されている。現在の解答者は山藤章二、毒蝮三太夫、嵐山光三郎、桂文枝、松尾貴文等である。

◆本年1月13日に放送された「成人の日特集」から内容の一部を引用しよう。
(問い)少年の頃、大人になったら『ああ、こんなことがしたい』と思ったことを、聴かせてください。
山藤章二・・・「天ぷらそば」を食べたい。 (高価だったんだね)
松尾貴文・・・パチンコをしてみたい。 (ウーン、分かる、分かる)
毒蝮三太夫・・・街中に自分のポスターを張ってみたい。(目立ちたがり屋だったんだ)
桂 文枝・・・長髪にしてみたい。 (格好付け屋だった?)
嵐山光三郎・・・松島トモ子さんと結婚したい。(我々の子供の頃のアイドルだったよね)

2014年3月 1日 (土)

絵葉書と切手合わせ (続き)

絵葉書と切手合わせの記事の続きです。

・「正倉院宝物 鹿草木きょうけちの屏風」 奈良国立博物館 切手(1960年)

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・「芥子」 小林古径筆 (大正10年作) 東京国立博物館  切手(1998年)

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また、このお洒落で高尚な遊び心を無粋な消印で汚されるのを避けるため、その地方の郵便局独自の「風景印」という特別なスタンプを切手の隅にわずかにかかるように捺してもらって投函するとのこと。このきめ細やかな心遣いに頂いた人は痛く感激するだろう。今回お送り頂いた封書のその部分の写真を紹介する。

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独自のスタンプがかすかにかかっている。

【付記】  日本切手にハングル
梁瀬さんから頂いた切手に珍しい切手があった。戦前の日本の切手にハングルが加刷されたもので大変貴重だ。以下は平成25年10月2日掲載された梁瀬さんのコラム「明風清音」の「日本切手にハングル」から引用して紹介する。
1945年8月15日戦争が終結し、朝鮮半島は38度線を境に、北がソ連の傘下に、南がアメリカの軍政下に置かれた。このハングル加刷切手はアメリカ軍政下の初期に使用されたものらしい。即ち1945年9月頃から使用され、翌1946年4月30日に販売中止となった。そして日本切手とともに同年6月30日に使用禁止となった。当時の朝鮮に置いて、日本の支配から離脱したといってもすぐには独自の切手を発行することができず、それまで使用されていた日本切手に、急遽ハングルを加刷して間に合わせたらしい。

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 デザインは左:春日大社  右:ガランピ灯台

この混乱期には通貨の単位がまだウォンではなく(セン=チェン)であった。梁瀬さんが調査したところによると4種類あったという。いずれも既存の日本切手の上に「朝鮮郵票」(チョソンウッピョ)と黒々と加刷され、切手の値に銭(チョン)が使われていた。
その4種類とは、「産業戦士」6銭→20チョン、「春日大社」14銭→5チョン、「靖国神社」27銭→30チョン、「ガランピ灯台」40銭→10チョンである。日本の元の額面とは全く関係ない。因みに、ガランピ灯台とは台湾最南端にある灯台で、日本の統治領だったことを偲ばせる。

また図案はともかく、紙質と印刷はまことにお粗末なものだったと指摘する。そしてそのような混乱の時代に小学生、中学生として過ごしてきた体験から、朝鮮半島でも同様な混乱期があったことに思いを巡らせ、改めて戦後日本の窮乏時代を思い出したと述懐している。(本稿終わり)

絵葉書と切手合わせ

本ブログの1月13日の記事に、母校長崎西高の大先輩で、大阪教育大学名誉教授の簗瀬 健さんの新聞連載コラムの中から「光に時間はあるのか」という随筆を紹介させて頂いた。
それが縁となって、お手紙などで交流させて頂くことになり大変感謝しております。先生は奈良市在住、今年80歳を迎えられ、平成18年から月1回のペースで奈良新聞に「明風清音」のタイトルで、1回1200字ほどの随筆を寄稿されています。今年8月で100回になるそうで、このたび、今までに執筆された分の全コピーを頂きました。
また、格調高い明治の文語体による氏の随筆集(近代文芸社刊)も贈呈して頂いた。これらの作品は膨大なもので、まだ一部しか拝読していないが、それだけでもお若い時分からの高度な教養の積み重ねと人生、科学、芸術、歴史、紀行など多岐に亘る造詣の深さが随所に滲み出ており、大変感銘を受けている。


ところで、「明風清音」の初めの頃に書かれた、「絵葉書と切手合わせ」を読み、なんと「粋で、お洒落で、高尚で、目の付けどころが違うものか」と思ったものだが、このほどその実物をいくつか送って頂いた。
自分達が子供の頃、誰しも一度は切手収集に惹かれたものだった。特に切手趣味週間に発行される美術切手シリーズは垂涎の的。昭和23年第1回の菱川師宣の「見返り美人」とその後に発行された歌川広重の「月に雁」は小学校5、6年の頃(昭和29、30年)には、既に希少価値があり、高嶺の花だった。ただ集めるだけなら根気とおカネをかければ、困難なことではないかもしれない。
梁瀬さんはそこが全く違う。そうした美術切手を買い求めるだけでなく、その元になる作品を所蔵している美術館などが発行している絵葉書と合わせてセットにし、文通に使っているというのだ。絵葉書を頂いた友人、知人は同じデザインの切手を見て驚く。氏は日本の美術切手だけでなく、世界の美術切手と絵葉書のセットも合わせて、今までに約250種類にもなったという。同じ遊び心でもなんと高尚で、粋な趣味だろうか。そのいくつかをここに紹介させて頂く。

「富嶽三十六景・神奈川沖波裏」 葛飾北斎筆 東京国立博物館 切手(1963年)

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・「正倉院宝物・樹木羊ろうけちの屏風(部分)奈良国立博物館 切手(2003年)

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・「国宝 納涼図」 久隅守景筆  東京国立博物館   


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・「重文夏秋草図屏風」 酒井抱一筆(江戸期) 東京国立博物館 1970年万博記念


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 (続く

2013年8月 4日 (日)

久し振りの船釣り

◆小田原港まつりの一環「小田原太公望」に参加し、久し振りに船釣りをしてきた。10艘ほどの釣り船に、女性や子供を含む20人程の釣り客を乗せ、8:00amに出港。
好天、微風、波も静かで好条件。そのうち我が家のマンションが正面に見える場所にも寄った。普段ベランダから時折釣り船を見ているが、今日は逆に海の方から我が家を見る。海岸から0.5~1.0km程の沖、水深30m~40mところ数か所で仕掛けを投入する。


◆釣れるのはほとんどサバばかり。3匹同時に掛かる時もあるが、近くの客とお祭りになることが多い。鯵やイサキ、カマスが混じることもあるが、本命のワカシは本日ゼロだった。移動時間もあるので正味2時間ほどか。12時には帰港して打ち上げとなる。釣果は中型の鯖21、小型の鯵とイサキがそれぞれ2と、満足いくものものではなかったが、まぁまぁというところか。

◆しかし、乗合釣り船はどうも性に合わない。釣りはボートで少し沖に出て単独でやるのが一番だ。誰にも邪魔されず、創意工夫が楽しめる。但し、相模湾はそのまま太平洋に直結しているので、波が高い日が多く、ボート釣りが出来る日は限られてくる。そのため海岸からの投げ釣りか、乗合船利用となる。最近は海岸からの投げ釣りは以前ほど釣れなくなったせいか、釣り人も少なくなった。

◆釣りは故郷長崎に限る。25年ほど前、長崎港外の福田というところで、ゴムボートに乗って釣りをした。夕方1時間半ほどやっただけだが、鯛、イトヨリ、カサゴなどバカ釣れだった。また5年前、五島を旅行した時、レンタカーで福江島を巡った。静かな湾があったので試しに、携帯用釣竿を出したところ、まさに入れ食い状態。2時間もしないうちバケツ一杯になった。こんな近場では誰も釣りをしないのか、全く擦れていないという感じに感嘆する。

Photo 
本日の釣果

2 ベランダのブーゲンビリア

2011年4月22日 (金)

5年振りのシンビジウム

◆5年前の平成18年9月、茨城県取手市から小田原市の現在地に引っ越してきた。
戸建住宅からマンションに変ったため、鉢植えなどは一部しか持ってこられなかっ
た。その中にシンビジウムが3鉢あった。引っ越す前は毎年春に花を咲かせていた
のに、引っ越してきた翌年からはばったり咲かなくなった。海に面したベランダという
環境の変化が影響したのだろうか。


◆だめかと思いつつも、枯らさない程度に水と僅かばかりの肥料はずっと与えてい
た。ところが先月下旬、何気なく見たときに、蕾を持っているのに気がついた。
嬉しくなりさらに大事に育てたところ、先日まる5年振りに花が開いた。随分遅咲き
のシンビジウムとなったが、あとの2鉢も来年には咲いてくれるだろうか。


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引っ越したあとに株分けして増やしたクンシ蘭
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ついでながら下の写真の花も、引越しの際持ってきたものです。名前が
わかりません。ご存知の方は教えて頂ければ幸甚です。
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2010年12月 7日 (火)

「ナブラ」の話

ベランダから海面を眺めていると、時折黒っぽい塊がその形を自在に変幻させて
薄くなったり、濃くなったり、しばらく見えなくなったと思ったら、数m移動したところ
にまた現れたりする。1~2か所の時もあれば、同時に数ヶ所見えることもある。大き
さは変化するので、一概に言えないが、直径3、4mから大きい時は10数mにもなる。

この正体は海面近くの小魚の群れで、大型魚に追われて群れ集まり、海面が波
立ち、ざわめいたりする。この黒い塊を「ナブラ」、ざわつく様子を「ナブラが立つ」と
いう。もともとは漁師用語だそうで、小田原の海では3,4月頃から9,10月頃にかけて
よく見られる。ナブラの正体は主にカタクチ鰯で春先から秋にかけて成長し、最大で
も12、3cm位になるだろうか。

さてこの「ナブラ」を追っかけているのが、ブリの成長段階のワカシやイナダ、サバ
ソーダカツオなどで大きさ30~50cm位。この時海面が大きくざわつき、小魚がパニ
ック状態となってこれらのハンターが水面で獲物に飛び付き、捕食している様子が
見えることもある。

この「ナブラ」が立った時が釣りのチャンスで、投げ竿の仕掛けが届く範囲で(砂
浜から30m~140m位。もっと飛ばす人もいるが)ひたすら「投げては巻き、巻いて
は投げる」の繰り返し。仕掛けは小魚に似せたルアーか、シラスに擬した数本の釣
り針がついたサビキ仕立て。船釣りの場合は沖の広い範囲で狙えるからチャンス
も広がる。釣りの経験の浅い筆者でも「見よう見まね」で釣れる時は数匹釣れる事
もある。船釣りでは30~40匹釣ったこともあった。40~50cmにもなるとその引きは
強烈で、釣りの醍醐味が楽しめる。

「ナブラ」が立つと追っかけるのは大型魚だけではないことがある。どこにいたの
かカモメが数羽飛んできて、ナブラの中に突っ込み小魚を狙う。大きなナブラだと
数10羽が飛び交って大騒ぎとなる。一度180度見える範囲の海面全域でカモメが
群舞し、一大競演となったことも目撃した。

また「ナブラ」ではないが、60~70cmのボラが数10匹、あちこちで海面を飛び
跳ね、1mほどの放物線を描いてバシャ、バシャと水しぶきを立て豪快に海面に
ぶつかっていく場面も年数回見かける。海の表情は実に面白い。

★なお、「ナブラ」についてはインターネットで「ナブラ」で検索すると、You Tubeの
「ナブラの動画」を見ることができます。興味のある方は覗いてみてください。

2010年4月15日 (木)

箱根外輪山 明神ケ岳に登る

◆昨日、箱根古期外輪山のひとつ明神ケ岳に登った。明神ケ岳は小田原市
のどこからも望める、櫛形みたいに稜線が緩やかな山だが、標高1169m、
金時、明神、明星と人気のハイキングコースだ。
一方、この山道は奈良・平安以前の古代に東西を結ぶ箱根超えのルート
である碓氷道が通っていたと推定されている。
◆天候が穏やかに回復した春の1日、シルバー仲間と道了尊の愛称のある
曹洞宗の名刹大雄山最乗寺の横からスタート。穏やかな外観から受ける
印象とは裏腹に、登り始めの30分と最後の胸突き八丁は予想以上にきつく、
頂上まで3時間弱の行程。頂上はあいにく春霞のような靄がかかっていた
ものの、360度の眺望は素晴らしい。弓なりの湘南海岸線の延長に三浦
半島、目を少し北に転ずれば丹沢の山々。正面に箱根の主峰神山や
駒ケ岳、白い煙は大涌谷、眼下に強羅の旅館街、目を転じると金時山の
向こうに富士山が…見えるはずだが残念。
◆お腹も減って空気もうまいので、弁当が美味い。下山は反対側の宮城野
へ向かって急勾配の悪路を用心しながら降りる。足がかなりガクガクするが、
宮城野の日帰り温泉につかって汗をながす。湯上りの生ビールがことの
ほか美味かった。

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