金権主義と恋愛の関係(下) -小説「金色夜叉」に学ぶ-
◆仮に、宮が富山のプロポーズを断り、貫一との結婚を選んでいたら、平凡な恋愛小説に終わっていただろう。しかし、貫一は資産家との結婚を宮の裏切りと見た。当の宮自身もそうした後ろめたさを感じるところもあった。読者にとっても、宮への批判とこの先の展開が気になるところで、作者紅葉の巧妙なストーリーの運びがみてとれる。今の若い娘は、貧乏学生より玉の輿を取るのに何の抵抗があるだろうか。これで逆恨みされるなどあり得ない。しかし、小説はここから、金権主義と恋愛の関係について考えさせるよう、大きく展開していく。
◆「金色夜叉」はセリフの部分を覗いて、華麗な美文調の文語体で書かれている。現在の我々にはやや読み辛いところがあるが、明治の頃の庶民の教養が伺い知れる。しかし、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われ、ストーリーの展開の通俗性ばかりが強調され、日本文学の伝統的技法に寄せた名文(三島由紀夫紀)の部分が真剣に検討されることは少なくなった。〇さて、宮の熱海行きを聞いて、貫一は宮の本心を確かめるべく熱海へ直行する。そこで見たものは富山と散歩中の宮の姿。富山も宮を追っかけて熱海へ来たのだった。その夜、宮と海岸に出た貫一は宮を詰問する。宮は訳を話し何度も詫びを入れるも、貫一の怒りは収まらず、ついには「操を破った浮気女」と罵倒する。ここで、泣いて許しを請う宮を怒りに震える貫一が蹴り飛ばす有名なシーンが生まれた。
〇「1月の17日、宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は貫一は何処でこの月を見るのだか!再来年の今月今夜…10年後の今月今夜…一生を通して僕は今月今夜は忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らしてみせるから、月が…月が…月が…雲ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで今夜のように泣いていると思ってくれ」(原文)
貫一にすがりつく宮を突き放し、勢いのまま蹴り倒すと、泣き伏す背中に恨みの言葉を投げかける。「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい、貴様のな、心変わりをしたばかりに間寛一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は行きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ…(原文) 何たる男の未練!か弱い女性相手の悪口雑言!そして女々しい責任転嫁!読んでいる方が恥ずかしくなる。どう読んでもこの部分はいただけない。
◆しかし、何故これが名セリフとなり、名シーンとなるのだろうか。まだ男尊女卑の風潮が残り、女性の心変わりは許されないという時代の背景があったにせよ、決して許されるものではない。実は金権主義の風潮が表面化し、「金がすべての世の中」なりつつある今、作者はそのアンチ・テーゼとして金権主義と恋愛の関係を対比することによって問題点を浮き彫りにしたのではなかろうか。
〇貫一が消息を絶ってから4年。宮は貫一への思いを残したまま結婚生活を続けるが、優しい夫、裕福な暮らしの中でも、夫を心から受け入れることはできなかった。貫一は名うての高利貸しのもとで、夜叉の如く、冷酷非情と言われながら金を追い求め、己の所業の虚しさを嘆いていた。「5年前の宮が恋しい。俺が100万円積んだところで、昔の宮は得られんのだ! 思えば金もつまらん。少ないながらも今の金が熱海に追っていった時の鞄の中に在ったなら…ええ!」 俗っぽい話が、しかし気になる話が延々と続いていく。(終)
最近のコメント