2022年4月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

書籍・雑誌

2017年3月30日 (木)

金権主義と恋愛の関係(下) -小説「金色夜叉」に学ぶ-

◆仮に、宮が富山のプロポーズを断り、貫一との結婚を選んでいたら、平凡な恋愛小説に終わっていただろう。しかし、貫一は資産家との結婚を宮の裏切りと見た。当の宮自身もそうした後ろめたさを感じるところもあった。読者にとっても、宮への批判とこの先の展開が気になるところで、作者紅葉の巧妙なストーリーの運びがみてとれる。今の若い娘は、貧乏学生より玉の輿を取るのに何の抵抗があるだろうか。これで逆恨みされるなどあり得ない。しかし、小説はここから、金権主義と恋愛の関係について考えさせるよう、大きく展開していく。

◆「金色夜叉」はセリフの部分を覗いて、華麗な美文調の文語体で書かれている。現在の我々にはやや読み辛いところがあるが、明治の頃の庶民の教養が伺い知れる。しかし、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われ、ストーリーの展開の通俗性ばかりが強調され、日本文学の伝統的技法に寄せた名文(三島由紀夫紀)の部分が真剣に検討されることは少なくなった。

Photo〇さて、宮の熱海行きを聞いて、貫一は宮の本心を確かめるべく熱海へ直行する。そこで見たものは富山と散歩中の宮の姿。富山も宮を追っかけて熱海へ来たのだった。その夜、宮と海岸に出た貫一は宮を詰問する。宮は訳を話し何度も詫びを入れるも、貫一の怒りは収まらず、ついには「操を破った浮気女」と罵倒する。ここで、泣いて許しを請う宮を怒りに震える貫一が蹴り飛ばす有名なシーンが生まれた。

「1月の17日、宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は貫一は何処でこの月を見るのだか!再来年の今月今夜…10年後の今月今夜…一生を通して僕は今月今夜は忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らしてみせるから、月が…月が…月が…雲ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで今夜のように泣いていると思ってくれ」(原文)

貫一にすがりつく宮を突き放し、勢いのまま蹴り倒すと、泣き伏す背中に恨みの言葉を投げかける。「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい、貴様のな、心変わりをしたばかりに間寛一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は行きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ…(原文) 何たる男の未練!か弱い女性相手の悪口雑言!そして女々しい責任転嫁!読んでいる方が恥ずかしくなる。どう読んでもこの部分はいただけない。

◆しかし、何故これが名セリフとなり、名シーンとなるのだろうか。まだ男尊女卑の風潮が残り、女性の心変わりは許されないという時代の背景があったにせよ、決して許されるものではない。実は金権主義の風潮が表面化し、「金がすべての世の中」なりつつある今、作者はそのアンチ・テーゼとして金権主義と恋愛の関係を対比することによって問題点を浮き彫りにしたのではなかろうか。

〇貫一が消息を絶ってから4年。宮は貫一への思いを残したまま結婚生活を続けるが、優しい夫、裕福な暮らしの中でも、夫を心から受け入れることはできなかった。貫一は名うての高利貸しのもとで、夜叉の如く、冷酷非情と言われながら金を追い求め、己の所業の虚しさを嘆いていた。「5年前の宮が恋しい。俺が100万円積んだところで、昔の宮は得られんのだ! 思えば金もつまらん。少ないながらも今の金が熱海に追っていった時の鞄の中に在ったなら…ええ!」  俗っぽい話が、しかし気になる話が延々と続いていく。(終)

2017年3月29日 (水)

金権主義と恋愛の関係(上) -小説「金色夜叉」に学ぶ-

◆熱海の海岸を散歩すると、いやでも貫一・お宮像お宮の松が目に入る。言うまでもなく、尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の有名な一場面をモチーフにしたもの。余談だが、ある学生が「きんいろよるまた」と読んだという笑い話も残っている。
自分はこの像を見るたびに気恥ずかしい思いに捕われる。外国人が見てどう思うだろうか?多くの外国人は「男性が女性を足蹴にしている、何故?」、「なぜこんな銅像が建っているの?」、当然だろう。日本在住54年のC・W・ニコルさん(1995年日本国籍を取得)さえ、「男性が女性を蹴ることは許せない。例え、文学作品の一部だとしても許せない。撤去した方がいい」という意見を伝えている。確かにその通りで、いくら外国人に説明しても理解を得るのは困難だろう。日本人の自分さえ理解できないのだから。


Photo◆では何故、一見野蛮なこのシーンが日本人には受け入れられいるのだろうか。それには原作と時代背景を知る必要がある。この作品は1897年(明治30)1月に読売新聞に連載され、1年で一旦終了するが、読者の強い人気と要望もあって、「続編」、「続々編」等が断続的に連載され、1902年5月まで連載された。しかし紅葉の病気もあり、未完のまま終わっている。因みに紅葉は翌1903年に満35歳で没している。

◆時代は明治中期を過ぎ、日清戦争に勝利した日本は資本主義が発達し、鉄鋼・造船・鉱業・銀行などの産業資本が確立、労働組合の結成など近代化に邁進していた。社会的には貴族、上流社会、庶民、書生など様々な階層が混然一体となって前向きに進んでいた時代だった。
一方文学界でも、樋口一葉、泉鏡花、与謝野鉄幹・晶子、国木田独歩など古い日本文化の上に立った新しい風が吹き始めていた。そうした中で尾崎紅葉は「金権主義と恋愛の関係について」をテーマに「金色夜叉」を発表し、大衆の心を捉えた。


〇15歳の時に両親を亡くした間寛一は、彼の父親に恩を感じていた鴫沢隆三夫妻に引き取られ、息子同然の世話を受ける。鴫沢家には一人娘「」がいた。当初夫妻は宮との結婚は考えていなかったが、貫一の素行の正しさ、学問に励む姿勢に惹かれ、次第に宮との結婚を考えるようになった。貫一も宮を愛し、宮もゆくゆくは彼の妻になるものと納得していた。ところがある日、着飾った女性が集まるカルタ会の会場で、英国帰りで銀行家の御曹司富山唯継に見染められ、その後人を介して結婚を申し込まれる。宮は着飾らなくても際立った美貌の持ち主だった。

〇宮は貫一に好意は持っていたものの、一方で高貴な暮らしに憧れ、玉の輿に乗ることを夢見る普通の娘だった。そうした期待を持っていたこともあり、貫一を愛する気持ちを整理できないまま、富山との結婚を決意する。貫一に直接言えない宮は、父の隆三
に伝言を頼み、母と二人で熱海に向かう。隆三にとっても資産家と姻戚を結ぶことは名誉なことであり、貫一に対する後ろめたさもあって、「海外留学も援助するから宮のことは諦めてくれ」と頼む。貫一は大恩人である隆三の頼みには黙って頷くしかなかった。(続く)

2014年2月20日 (木)

話題の書「呆韓論」について(最終回)

根本的に異なる国民気質
◆朝鮮半島で生まれた数少ない四文字熟語に「外華内貧」という言葉がある。見栄えを良くすることが大事で、見えない部分は手抜きする、極端に言えば「嘘」をつくことを躊躇わない国民性があるという。例えば韓国製の工業製品や韓国型新幹線、原発などの見えない部分に韓国製の安い不良部品が使われているケースがあるというのだ。賄賂の授受で不合格品を通し、逮捕・起訴されるケースが多々見られるのは、「技術者魂よりおカネ」ということらしい。

◆この国では建築物に関して「垂直・水平」を追求するという感覚がなく、あってもその許容範囲は極めて広いと筆者は指摘する。新築のホテル・マンションに傾きが見られたり、デパートの自然崩壊で死者が300人、漢江に架かる橋が自然崩壊、新装したばかりの名門高級ホテルが大雨によって最上階が水漏れ、閉鎖されるなど、いくつも報道されている。要するに「垂直・水平」の感覚が無い職人が造ったものと容易に想像されるというのだ。その背景には、不正・不具合を容認する風土があり、このような環境の中では日本のような職人気質は軽視され、匠の技など育つはずがないということらしい。

◆何故そうなるのか。その根底には「韓国人による韓国人への差別」があり、今日では職種に対する強烈な貴賎意識学歴崇拝主義が一体となり、まるで李王朝時代と変わらないような身分制度を形作っているというのだ。即ち汗と油にまみれるような職業は下層階級と蔑視され「人間扱いされない奴婢みたいな存在だ」という。「額に汗する仕事そのものを蔑視し、そうした仕事をする人を蔑視し、そうした仕事に従事する人自身も自分の仕事に何らの誇りも持っていない」と筆者は言う。「これが、朝鮮半島の歴史が作り上げた産業文化の底流だ。彼らが造る製品、あるいは半製品・部品が精度に欠けるのは至極当然な帰結なのだ」と結論付ける。

◆しかしながら、日本が国内でいくら韓国の非を取上げ、反論しても事態は一向に改善しない。むしろ逆に得意の「交渉学」を駆使し、官民一体となって米国はじめ海外の政界にロビー活動を展開している。日本を貶める戦略、即ち「被害者は自分達、加害者は日本」を執拗に繰り広げているのだ。さらに許せないのは学校教育で子供達に誤った教育「日本悪者論」を体に沁み込ませていることだ。古今の歴史をみても悪者の繁栄は長くは続かない。韓国はいずれ経済的に行き詰るだろう。匠が育つような国の体質ではないからだ。(終)

2014年2月18日 (火)

話題の書「呆韓論」について(4)

古代の日韓交流と文化の対比
◆「仏は午後に(552)百済から」と中学生の頃だったか、覚えたものだった。その後538年百済の聖明王が仏像・経典を伝えたと改められた。そして577年に造仏・造寺の技術者が渡来して、飛鳥文化の花が開いたと教科書で教わった。当時、中国・韓国は先進国で、師匠であり兄貴的立場だったと思い続けていた。しかし必ずしもそうとばかり言えない側面があったことを本書で知った。
即ち、「」(589~618)の正史「隋書」に「新羅・百済は倭国を大国とする。優れた品々が多いからで、倭国を敬仰して常に使いを往来させている」と刮目すべき一節が記されていたのだ。出典は隋の跡を継いだ「唐」の最高インテリが書いたものだという。つまり6世紀後半頃には朝鮮半島とは対等以上の付き合いをしていたことになる。


◆そういえば、最近、4世紀中葉に日本で発生したと見られる「前方後円墳」が韓国南部で11基も確認され話題となった。5世紀後半から6世紀半ばにかけて集中的に造営されており、日本固有の円筒埴輪も出土している。これは何を物語るか?百済に渡った(または派遣された)有力和人が造成したものなどの説があるが、いずれにしろ当時の日本が韓国と同等以上の交流をしていたことを、先の「隋書」の記述は裏付けているのではなかろうか

◆日本人の技術の優秀さは世界が認めるところであるが、そのルーツはこの時代からすでに見られる。例えば仏像を例にあげよう。最古の仏像と謂われる飛鳥寺の大仏法隆寺の釈迦三尊像は渡来系の仏師鞍作鳥(止利仏師とも)の作と言われているが、作風は北魏風といわれる。聖徳太子を模したといわれる法隆寺の夢殿救世観音は作者不詳。また法隆寺の百済観音像は作風から見て、百済の仏像とはいえず(朝鮮半島では石像が多い)、用材は楠木を使用していることから日本で作られた像であることは間違いない。いずれにしろ、この頃までは渡来人の影響があったことは確かだが、彼らの技術を吸収した日本の仏師たちはさらに技術を磨き、日本独自の高度で繊細、かつ大胆・豪放な表現を創り出していった。その技術は鎌倉時代の運慶・快慶へと繋がり、仏教美術へ昇華していった。今に残る中国・韓国・東南アジアの仏像がよく云えば素朴、悪く云えば稚拙であることは一目瞭然だ。

◆さらに建築物にも同様な事が言える。当初は渡来人達が設計や技術を指導したであろうが、彼らは主に石や煉瓦の文化。日本には宮大工という匠の技がすでにあった。百済から577年に造寺工が渡来してわずか11年後、飛鳥寺が完成(588年)。607年には国産最古の木造寺院法隆寺を完成させた。その後続々と寺院を建立し、750年には最大の木造建築物東大寺を完成させた。

◆当時韓国はどうだったか?現在世界遺産に登録されている「石窟庵と仏国寺」は新羅の景徳王の751年に着工、774年に完成した。その名の通り石窟の寺院で、表は木造となっている。またそこからほど近い仏国寺は木造の大伽藍だったとされるが、石窟庵と併せて新羅美術の最高峰・集大成という呼び声もある。しかしその完成時期は法隆寺・興福寺・東大寺より遅く、規模内容ともに日本の仏教技術に較べ見劣りすることは確かだ。
さらに韓国の仏教は、李氏朝鮮時代に儒教優先のため仏教が弾圧された。この寺院も廃寺となったが、日本の朝鮮統治時代に日本によって発見され、復興が始まった。1973年の改修工事で、再建されたという。ついでながら2010年に日本の仏師の福井照明氏が製作した四天王像などの12体の仏像が寄贈され、仏国寺・聖宝博物館に常設展示されているという。これに対して、韓国は対馬の寺院から仏像を盗み出し、返さないなどと騒いでいある。このギャップ、もっと世界に向けてPRしてよいのではないか。(続く)

2014年2月17日 (月)

話題の書「呆韓論」について(3)

日本語と韓国語(ハングル)について
◆言語はその国の民族にとっても個人にとっても重要だ。かつて日本は戦争中、敵国の英語の使用を禁止し、野球用語等が日本語に置き換えられた。それと同じように、反日民族主義の一環として日本語排斥運動というのがあるそうだ。韓国で日常的に使われている日本語(倭語)を本来の韓国語に置き換えようという「国語醇化運動」があるという。例えば「出口」という言葉は日中韓で共通した漢字表記だったが、それを改め、日本語に訳すと「出て行く所」という長い名詞の韓国語になったという。

◆ところが、日本人が創作した概念語にはどうにも変えられない壁がある。江戸時代末期から明治初頭にかけて日本人が考えだした漢字熟語は、中国でも韓国でもそのまま使われ、定着しているという。例えば、科学、経済、主義、資本、共産、社会、哲学等。これらは福沢諭吉をはじめとする学者、思想家達が欧米の書物を翻訳して、広まったもの。また、公害、衛生、系列など比較的新しい言葉から、目的、視点、立場といった名詞まで、日本人が創作した漢字で溢れているという。もちろん表記はハングルだが、韓国の反日インテリにとっては悔しくて堪らないことらしい。日本では今でも新しい横文字がカタカナに置き換えられて溢れている。「一国の言葉が、他国の言語に入っていくのは、文化力によるもの。日本語の日常会話に和製英語が多くあるのも、同じ理由だ」と筆者は言う。逆に日本語が世界の共通語になった単語も多数見られる。

ハングル文字という独特な表音文字がある。この文字について韓国では「世界のすべての発音を表記できる文字」だと自慢するが、これは大きな間違いで韓国語の発音でさえ完全には表記できない欠陥があるという。(詳細は省略)そもそもこのハングル文字はそれまで一部の上層階級だけが使用していた漢文を、李朝第4代の世宗(セジュン)が1446年に「庶民も読める文字」を作って広めようと「訓民正音」を公布したもの。その序文には「愚民は言いたいことがあっても、その情を書けないことが多い。予はこれを哀れに思い、新たに28文字を作った。人々が日常役立ててくれることを望む」と。なんとハングルとは哀れな愚民に与えられた文字だったと筆者は指摘する。

◆漢字の渡来が朝鮮半島より遅れた日本では、奈良時代に日本語の発音に合せた借字を使用。それをもとに日本独特の平仮名を作ったのが9世紀の半ば以降で、ハングルの誕生より実に550~580年も前のことだった。この一事を見ても民族の文化の度合いがまるで違うということが浮かび上がってくる。日本人はこんな話を自慢はしない。(続く)

話題の書「呆韓論」について(2)

現代に通じる両班(ヤンパン=貴族)思想
◆日本が室町時代、3代将軍足利義満の頃、1392年に朝鮮半島に李氏朝鮮が建国された。李氏朝鮮は約500年間、儒教を中心とした厳格な身分制度の封建時代が続いた。1897に日清戦争の結果、「」の冊封体制から離脱し、日本の影響下に置かれた。国号を大韓帝国と改めて近代国家への道を歩み始めた。謂わば、日本が封建身分制度を開放したと云えるのだが、韓国からみれば植民地体制下に置かれたということになる。

◆王朝の体制は小中華体制とも云うべきか、朱子学の知識を問う科挙に合格することが官職を得るための第一歩だった。貴族の子弟だけが科挙を受験でき、合格してからも多額の賄賂を遣い、ようやく官職に就くことができた。そのため官職に就くや、それに付随する権力を行使して不正蓄財に励み、血縁者を登用させようと画策した。

◆今日の韓国の上層社会で見られる受験戦争と、ひと握りの特権階級の存在は李王朝の権力闘争の歴史を想起させないか。日本が身分制度を開放して、機会均等を持ち込んだものの、現代の韓国人は、長年染み付いた体質から脱却することを拒み、過去の体質を現代風に蘇らせる道を選択したということなんだろう。旧植民地時代を知る80~90歳代の人は少なくなっているが、日本の悪口を言う人は殆どいないという。
これに関連する話題であるが、昨年5月、ソウルで老人達が集まる市民公園で(日本で言えば、巣鴨地蔵か)ある事件が起こった。95歳の老人が「日本の統治時代は良かった」と述べたことに腹を立てた37歳の男が老人に暴行を加え、死亡させた。この傷害致死事件で男は懲役5年の判決を受けたという。年長者を大切にする儒教社会が聞いて呆れる。しかしこれには但し書きが付くそうだ。「金持ちの老人は」というフレーズが前につけば・・。


◆今日の韓国の上層社会(高級官僚や大手財閥の経営陣)は李王朝の両班(ヤンパン)の権力闘争と本質的に変わらないと筆者は言う。上に対しては「イエスマン」で、ライバルに対しては時に讒言(告げ口)を弄し、蹴落す。そして利権をあさり、中下層に対してはどこまでも横柄だ。弱い者には強く、強いものにはゴマを擦って、スリ寄る。確かに今の韓国の姿勢に通じているようだ。(続く)

2014年2月16日 (日)

話題の書「呆韓論」を読んで(1)

◆最近「反韓論」をテーマにした本がよく売れているという。その中の一つで、ベストセラーになっているという室谷克実著「呆韓論」(産経新聞出版)を読んだ。著書の室谷氏は時事通信の政治部記者時代、ソウル特派員を長く務め、韓国の内情に詳しい人物だ。特に日本では 殆ど触れられない、彼の地の有力紙が報じる情報がふんだんに盛り込まれている。まさに自分が知らなかった多くの事実について、正確なデータを基に展開しているのに刮目させられる。日韓関係が何故こうなるのか、双方の考え方の違い、歴史、政治経済情勢、社会体制などの違いがリアルに描かれ、彼此の差を知ることによって、その本質に迫ることができる。単なる「嫌韓論」ではない、一読に値する「韓国論」ではなかろうか。

◆感情論的な韓国サイドと同じ次元に立って、言い争う事は本意ではない。本書が提供する多くの情報を読むにつけ、呆れると同時に、滑稽さを通り越して哀れさを感じざるを得ない。その中でも、600年続いた李氏王朝の両班(ヤンパン=貴族)思想の本質が現在にも脈々と生きている事実、2012年末から始まったジャパン・ディスカウント運動(課題は何でもよいから、ともかく国際社会で日本を貶める活動)、ハングルという言語の問題、韓国生まれの「外華内貧」(外面を華やかに飾り、内面は二の次、三の次)という考え方、古代に遡る日韓の歴史、偏った戦後の日本の左翼的教育、など言及したいことはいくつかあるが、ここでは言語の問題、現代に通じる両班(ヤンパン)思想、古代の歴史問題に絞って、続編で所感を述べてみたい。

◆その前に触れておきたいことがある。著者は韓国の有力紙と謂われる、朝鮮日報中央日報東亜日報毎日経済新聞が昨年4月25日から10月5日までに掲載した、社説、署名入り論説、大学教授論評等の記事から抽出した、計7本の記事を翻訳して、本書に紹介している。もちろん反日、安倍体制批判などの記事であるが、その内容たるや悪意に満ち、虚偽、歪曲、捏造、蔑視、ありとあらゆる罵詈雑言をもっともらしく書き連ね、読むに絶えなくなって、気持が悪くなる。朝鮮日報などは国内事情、例えば大学生の就職難の状況、経済状況などの報道は良識あるメディアとして評価されている新聞であるにも拘わらずこの態度。問題は深刻だ。(続く)

2010年11月29日 (月)

長崎ぶらぶら節

◆小説「長崎ぶらぶら節」が作詞家なかにし礼氏によって発表されたのは今から
11年前の平成11年11月だった。当時早速単行本を買い求め一気に読んだ。
直木賞を受賞し、ベストセラーとなって映画化され、TVドラマに舞台にと一躍ブーム
を起こした。

◆長崎に生まれ育った私は、大人たちの宴会の席で、よくこの唄が歌われている
のを聞いて、自然と覚えていった。まだ一般的にはローカルな唄だったが、このブー
ムによって少なくとも題名だけは全国区になった。そしてこの小説を書いた「なかに
し礼」氏に大変関心を持った。満州から引き上げ後、北海道で少年期を過ごした氏
がヒット曲の作詞家として名を極める。その氏が何故「長崎ぶらぶら節」なのか?


◆氏は長崎に縁もゆかりもなかったが、全国の民謡を調べているうちにこの唄に
行き当たった。なにか惹かれるものを感じ、1年間長崎に通ってこの唄が発掘された
経緯、エピソード等を徹底的に取材した。そして長崎丸山の名芸妓「愛八」と長崎学
研究者「古賀十二郎」の事実に基づいた小説が完成した。


◆小説を読んでいて、字間、行間から長崎の「おくんち」や「ハタ揚げ」などの行事、
街の喧騒など独特の音や匂いが滲み出てくるのを感じる。そして何より全編古い
正当な長崎弁でセリフが書かれているのに驚かされた。長崎出身者が書いたと
思われる以上に長崎の街や人となりを忠実に描写している。なかにし礼氏の凄さ
に改めて感服させられた小説だった。


  ★「長崎ぶらぶら節」
  長崎名物 紙鳶(はた)揚げ 盆祭り 秋はお諏訪のシャギリで
  氏子がぶうらぶら  ぶらり ぶらりと いうたもんだいちゅう

  遊びに行くなら 花月か中の茶屋  梅園裏門たたいて 
  丸山ぶうらぶら  ぶらり ぶらりと いうたもんだいちゅう

  紙鳶(はた)揚げするなら  金毘羅 風頭山(かざがしら)
  帰りは一杯機嫌で 瓢箪ぶうらぶら  
  ぶらり ぶらりと いうたもんだいちゅう 

◆遊び好きの長崎人の遊びの感覚を見事に唄っている、お座敷向きの
粋な民謡ではある。





  

  

      

2010年7月27日 (火)

世論と輿論

◆評論家の西部邁氏が「正論」7月号で「文明の敵・民主主義を撃て」の
中で共感が持てる意見を表明している。要約すれば、「世論(せろん)」
とは大衆社会にあって「世間で流行している暫時の意見」のことと断じ
ている。
◆ただし世論とは別に、民衆の中には歴史・慣習・伝統を尊重し、常識
的な判断を下す「輿論(よろん)」もあることを氏は示し、それを評価
する。輿論には「政治家に関する人物判断については大きくは的を外さず、
政策については議会の審議にひとまずまかせる」
良識や節度といった
徳性
が備わっているからだ。
◆未来は不確定で人間が間違いを犯す可能性がある以上、こうした徳性
こそ求められると主張する。要すれば、良識や節度といった徳性が備わっ
ている「輿論」が大きくは的をはずしていないと判断する政治家をもり
立て信頼することが、民主党が大敗して波乱含みの今、必要ではないか
と思いを巡らした。        (7/26付、読売新聞「思潮」より)

2010年5月29日 (土)

芥川龍之介の「トロッコ」

◆芥川龍之介の短編「トロッコ」は少年時代の未知に対する冒険心と不安な
感情を生きいきと描いて、読んで共感を覚えたものだ。昭和26,7年頃だろうか、
場所ははっきりと覚えていないが、長崎市の郊外の道路工事現場だったと思う。
まさに短編「トロッコ」のシーンの中に溶け込んだように、悪ガキ数人と「トロッコ」
を押したり、乗ったりして遊んだ。遠い昔の消えかかりそうな思い出だ。
◆この短編の舞台となったのは小田原、熱海間に軽便鉄道(小型の蒸気機関
車)が開業する明治40年、その敷設工事現場と少年の住む沿線の村落である。
小説を読むと芥川自身の少年時代の体験をもとに書いたものではないかと思
われる。事実、みかん畑や沿岸の海が見えるシーンが登場し、臨場感溢れる
ものであるから、そう思うのも止むを得ない。ところが芥川は東京本所生まれ、
住まいも、新宿とか田端あたりで、この近辺を取材した形跡は見当たらない。
◆さらに、芥川がこの作品を発表したのが、大正11年2月、30歳の時だった。
小田原、熱海間の軽便鉄道が開業したのは明治40年12月、15年後のことだ。
明治40年頃の芥川は中学・高校(一高)と抜群の成績で秀才の名を欲しい儘に
していた。その彼がどうしてこのような田舎風景を小説に仕上げることができた
のか。◆さらに2年後には「一塊の土」という短編を発表した。どちらも都会育ち
で、歴史好きの作家にはおよそ似つかわしくない田園の風物詩であり、土着の
人間模様を描写したものだ。調べてみると、芥川の弟子の原稿をもとに書いた
ものらしい。「一塊の土」もこの弟子が材料提供者として協力したともいわれて
いる。都会しか知らない作者が、農村生活をこのように造形したことは当時、
大きな反響を呼んだそうだ。やはり天才と言うほかない。