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日記・コラム・つぶやき

2017年7月22日 (土)

星影の話

♪月なきみ空に きらめく光 嗚呼その星影 希望のすがた♪ 「星の界(よ)」、
星影やさしく またたくみそら あおぎてさまよい こかげを行けば♪ 「追憶」、
星影さやかに 静かに更けぬ 集いの喜び 歌うはうれし♪ 「星影冴やかに」、
また、演歌「星影のワルツ」、「星影の小径」etc. 星影という言葉は歌や詩などでよく耳にする。だが、「星影」って何だろう。星の影? 星に影があるのか? 辞書を引くと「星の光、ほしあかり」とあり、用例として「星影の明るい夜、またたく星影」などと使われる。国立天文台 渡部潤一教授はコラム「星空の散歩道」の中で「星影とは古い言葉で、『星の光』を意味します。光があるところには必ず影がありますから、その連想で星影=星の光という言葉が生まれたのでしょう」と書いている。


Photoところで、同氏は地球上の物体に影を生じさせる天体は、太陽、そして金星、さらになんと天の川の四つだけだという。確かに月は満月の澄み切った夜に自分の影をはっきりと地面に映し出したことを体験している。
金星は太陽と月を除けば最も明るい天体だ。「明けの明星の場合は、夜明け前の暗いとき、地平線から上がったばかりの頃、宵の明星の場合は逆に夕闇が消えて、西の地平線に沈みかけた頃、それぞれ白い紙の上に手をかざしてみると、金星の光で影ができているのがわかる」という。都会では無理だろうが、何もない自然の中で試してみる価値はありそうだ。

さて、もう一つの天体天の川は最近では見ること自体難しい状況であるが、子供の頃九州の西の片隅でも空気の澄んだ夜にははっきりと見ることができた。光害がなく、透明度が高い夜空が見えるところでは天の川の光で、地面に自分の影ができるそうだ。と言っても我が国では無理のようで、南半球のオーストラリアの原野で見られたという体験を渡部教授はコラムに書いている。

「天の川の中でも最も明るい部分は、夏に見えるいて座の方向。いて座の方向とは天の川銀河の中心部で、凸レンズ状の最も厚い部分だ。2000億個もの星の大集団『天の川銀河』を横から見たもので、その方向が太く明るく見えるという。いて座は南半球の中緯度では頭の真上にやってくるから、確かに影は作りやすい。天の川が真上に来るような場所では影ができるのも不思議ではない」という。

さらに続けて、「オーストラリアの中心部、アウトバックと呼ばれる乾燥地帯に出かけた。地平線までほとんど減光のない透明度の高い夜空に、深夜になると天の川の中心部、いて座が真上にやってきた。すると、あたりはほのかに明るくなっていった。白いシートの上に立つと、ぼんやりとした自分の影が銀河の中心と反対方向にできているのがわかった。手をかざして動かすと、それにつれてぼんやりとした手の影が動くのが見えた。確かに天の川で影ができたのです。」(要旨)と書いている。あんなかすかな星明りで影ができる。まさにこれこそ正真正銘の星影だ。
(参考:国立天文台教授 渡部潤一氏のコラム「星空の散歩道」より「星影を楽しむ」)

2017年7月11日 (火)

梅雨明け間近

◆梅雨明けを思わせるような、真夏の陽射しが二日続けて降り注いだ。そう言えば、昨日の朝(7/10)、今年初めてセミの鳴き声を聞いた。去年は11日に初鳴きを聞いている。去年より1日早まったことになるが、それだけ温暖化が進んでいるのだろうか。カラーっと晴れているようで、ムシムシした湿気は居座っている。梅雨はまだ明けていない証拠だろう。

◆北部九州の福岡県と大分県に跨る地域で、集中豪雨の被害が凄まじい。遠く離れた有明海で遺体が発見されるなどあまりにも痛ましい。近年、茨城県常総方面、広島県などの集中豪雨のように毎年のように大災害が発生しているが、水害に限らず、地震、津波、台風、大火事、竜巻など日本に住んでいる限り、どこにいても災害に襲われる危険性と隣り合わせだ。これだけはどうすることもできない宿命と諦めるしかないのだろうか。

◆鴨長明の方丈記の一節を読み返す。日本民族は遊牧民や石造りの家に住む民族とは全く異なるイメージの棲家に住んでいる。当時の日本の住居の災害時の弱さは、はかないイメージそのものだが、現在でも大災害の前には大差はないといってよいだろう。長明は大火、辻風(竜巻)、飢饉、地震などの災害を経験している。棲家のはかなさを感じるのであれば、堅固な家に住めばよいわけだが、長明は一丈四方(四畳半の広さ)、つまり方丈の庵に閑居し、安静を得た。人の命のはかなさは水の泡のようなものだと、はかなさに徹する美学を実践した。すべての執着を捨ててしまえば怖いものはないのかもしれないが・・・。

2017年7月 7日 (金)

七夕の夜に思いを寄せて

◆今夜は七夕。そもそも「七夕」と書いて「たなばた」と読むのは何故だろうか?ものの本によれば、いにしえの日本の禊(みそぎ)行事として棚機(たなばた)というものがあった。選ばれた乙女は「棚機女」(たなばたつめ)と呼ばれ、機屋はたや)にこもって神様の為に心をこめて棚機を操作して着物を織った。乙女が織った着物を棚に備えて、神様を迎え、秋の豊作を祈り、人々の穢れを祓うというものだった。奈良時代に遣唐使によって「織女、牽牛の星の伝承」が伝わり、織姫・彦星となって、宮中行事に取り入れられた。やがて仏教のお盆を迎える準備として7月7日の夜に行われるようになり、「七夕」と書いて「たなばた」と読むようになった。

2◆しかし、今夜は「織姫と彦星が1年に1度のデートを楽しむ」なんてロマンティックな話はさて置いて、天の川を挟んで夏の夜空に輝く、こと座のベガ(織姫)とわし座のアルタイル(彦星)、この二人の橋渡しをする白鳥座のデネブの話を天文の観点から調べてみた。夏の夜、浮世の喧騒を離れて、天の川を背景にこの三つの星が描く「夏の大三角」に思いを寄せるのも一興かと・・。


◆地球から見える天の川は「天の川銀河」と呼ばれ、渦巻き状の銀河横から見たものだと言われている。大きさ・形状は直径約8万~10万光年のディスク状で、厚さは中心部で約1万5千光年、周縁部で約1000光年、凸レンズ状の形状を持つ。銀河には約2000億~4000億個の恒星が含まれていると考えられている。太陽から銀河中心までの距離は約26,000~35,000光年と見積もられている。

Photoしかし、銀河系が普通の渦巻き銀河ではなく、中心部は棒渦巻銀河であると考えられるようになったのは1980年代になってから。中心には超大質量ブラックホールがあると考えられている。相対的なスケールを考えると銀河系を直径130kmに縮めた場合、太陽系は約2mほどの大きさになるという。銀河系の中心は地球から見て、いて座の方向に約3万光年離れた所に位置しており、いて座Aの中心部に超大質量ブラックホールが存在することが確実視されている。(写真は棒状渦巻銀河の想像図)

ベガ織姫)は、こと座でもっとも明るい恒星で、地球から比較的近く、およそ25光年の距離にある。この星には塵のリングが見つかっており、惑星が存在するのではないかと考えられている。また、この星は写真に撮影された最初の恒星でもある。西暦13,000年頃には北極星になるらしい

アルタイル彦星)は、わし座で最も明るい恒星。非常に若い恒星(おそらくは数億歳)であるため、水素の核融合反応によって生じたヘリウムが中心核を形成し、35億歳前後で赤色巨星へと変化して最終的に白色矮星になると考えられている。

デネブ白鳥座で最も明るい恒星。質量で太陽の15倍、半径は108倍、光度も太陽の54,400倍以上と、恒星としては非常に大きくて明るい白色超巨星である。ベガやアルタイルは質量や半径が太陽の2~3倍程度、光度も太陽のせいぜい数十倍程度であり、夏の大三角形の中ではデネブだけが突出している。3つの星が肉眼でほぼ同じ明るさに見えるのは、デネブだけが太陽系から極端に離れているからである。(太陽からの距離は約1400光年と推定) 仮にベガの位置にデネブがあったとすると、金星の最大光度よりも15倍も明るく、三日月とほぼ同じ明るさの点光源で見えることになる。デネブは恒星進化論に従えば、数千万年後には赤色超巨星を経て超新星爆発を起こして、中性子星かブラックホールに進化すると考えられるそうだ。いやー、宇宙って面白いですね。

2017年6月25日 (日)

郷土愛と愛国心

◆「この国が気に食わない、社会が嫌だ、政治が嫌だ」と言って、国や社会に対し斜に構えている人でも、オリンピックで日本選手が活躍したり、サッカーやラグビーのワールドカップで強豪相手に必死に戦っている姿を見れば、自然と応援に力が入るようになる。何故だろうか?それは人として意識しようがしまいが、日本人のアイデンティティという根源的なものが自然発生するからではないだろうか。ここに一種の愛国心が芽生える素地がある。これが行き過ぎて、観客同士の小競り合い、反発、暴動などに発展することがあるが、これはもう愛国心とは言えない。単に民度の低さを露呈しているに過ぎない。

◆同様に人は自分が生まれ育った郷土に愛着を感じるものだ。それは年齢を重ね、郷土を離れて遠くに住むほど、その思いは強くなる。自分は九州長崎の出身であるが、青春時代にはどこか遠い所、有体に言えば都会に住みたいと思っていた。そして半世紀を過ぎ、東京も含めていくつかの知らない土地に住んで、今は神奈川県小田原に住んでいる。そうして住んだところはそれなりに愛着を感じている。多分北海道に生まれ育っていても、沖縄に生まれ育っていても長崎と同様に郷土愛を持ったに違いない。都会に生まれ育っていれば、その人にはそこが郷土であり、そういう意味では日本全国にそれぞれの郷土愛があることが自然の成り行きというものだ。それが愛国心に発展するものであり、逆に言えば郷土愛の希薄な人は愛国心も希薄になると言えよう。

◆ケント・ギルバート氏著作の「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」を読んだ。長年日本と日本人について探求し、日本人が気づかない視点からの指摘や論評など、一読に値する。この書を読んで改めて中国や韓国に生まれ育たなくてよかったとつくづく思う。「愛国心」の観点がまるで違うのだ。氏は言う。最近の日本でも「」に対する意識が薄れてきているように思う。これはGHQによる戦後日本人の洗脳工作で、「日本は戦争で悪いことばかりした」と刷り込まれたことが大いに影響しているというのだ。

◆即ち、「国家に忠誠を尽くすことは非民主主義的であり、非人間的であり、ファシズムそのものであり、愛国心は悪だと思い込んだ国民は自分の祖国に誇りを持てない。国民の精神が荒廃すればその国の衰退は必然だが、GHQの洗脳教育の狙いはまさにそこにあった。この悪影響が大半の日本人の心の底流にある」と喝破している。日本人は本来「」の精神から出発し、そこから「」よりも「」を重んじる精神を培った。中国、韓国は全く逆で「公」より「私」の精神構造に支配されているという。思い当たる節は山ほどある。

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2017年6月19日 (月)

時の流れを感じる今日この頃

梅雨の谷間にポッカリ空いた隙間、その間から夏の陽射しが顔を出した。すっきり、爽やかな風が肌に心地よく、昨日までのジメジメした空気をどこかに吹き飛ばしてくれたようだ。世の中、いやな事ばかり続くが、梅雨の谷間に晴れ間があるように、いいこともある。そんなことを期待して日々の暮らしを送っている。

年を経るとともに、時間の流れも速くなる」とはよく聞く話だ。そんなことを人生の峠を越えたあたりから、実感として感じている。 ある大先輩から聞いた話によると、
「10歳の時に感じる時間を1とすると、20歳で1.4倍、50歳で2.5倍の速さになるという。年齢比の平方根で時間の感覚が短くなるのだそうだ。20歳と80歳では年齢比が1:4だから、その平方根で2倍違うという事になる。自分の場合、10歳の時と比較すると2.7倍も時間の流れが速くなっていることになる。
確かに少年時代の夏休み40日間は長かった。暇で長かったのではない。充実して長かったように思う。時間だけではない。距離も長く、空間も広かった。因みに60歳の頃小学校の校庭を訪れたことがある。「えっ!こんなに狭かったか」と驚いた。そんな経験は誰しも持っているだろう。空間も年齢比の平方根で感覚が狭くなるのだろうか。


「歳月は人を待ってくれない」という。70の峠を越えた今、むなしく馬齢を重ねただけだろうか。いや、まだまだやり残したことはある。限られた時間の中で、日々ひとつづつ片づけていくしかない。
ベランダのハイビスカスが今を盛りと咲き誇っている。これも普段から過保護にならない程度世話を焼いているからだろう。この花のようにもうひと花、ふた花咲かすような野心は持ち合わせていないが、「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」で、良い方に変わっていくよう、残された齢を過ごしたいものだ。


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  (2017年6月19日、ベランダで)

2017年6月 6日 (火)

小田原提灯作りの話

Photo◆JR小田原駅の改札を出ると、目の前に天井からぶら下がった大きな提灯が目に入る。また、小田原漁港の入り口の防波堤には灯台の役目を兼ねて、大きな小田原提灯が建っている。小田原と提灯と言えば、童謡「お猿のかごや」が思い浮かぶ。
江戸時代、旅人の間に暗い夜道の携行に適し、しかも旅にマッチした提灯のニーズがあった。東海道の宿場町であった小田原ではそうしたニーズを汲み取って商品開発した。言い伝えでは小田原在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように造ったのが最初と言われる。即ち、明るいときにはコンパクトに折り畳んで収納し、暗くなれば伸ばしてぶら下げ、足元を照らすという画期的なものだった。


Photo_2◆小田原提灯として全国的に有名になったが、提灯の産地として現在も存続しているのは、八女提灯岐阜提灯讃岐提灯などごくわずか。小田原では2015年5月時点で、提灯屋自体が2店のみで、まさに風前の灯となっている。
それは提灯の用途を考えると当然の成り行きだった。盆提灯や御神燈など祭礼・儀式に使われる高度な職人技を必要とするものは伝統技法を伝えた有力な産地のみが残った。小田原提灯は懐中電灯に取って代わられ、民芸品、インテリア、土産物などとして細々と生き続けるしかない。年一度小田原提灯祭りの時のみ、息を吹き返す。普段は体験ツアーのツールとして観光客相手や小学校の工作体験に供している。


◆そうした中で、小田原なりわい交流館に孫たち家族を案内して提灯づくりを体験させてみた。ボランティアの指導者がついて、教え、手伝ってくれるので誰でも簡単に作ることができる。費用は材料費込みで1000円。時間は1時間半ほど。作ってみて、江戸時代に大人気商品となった訳が少しは分る気がする。細い竹ひご10数本を型にリング状にまとめ、予めデザインされた和紙を張り、蛇腹状にして上蓋にそれら胴の部分が全て収まるようになるから、最小の体積となり、携行には最適状態になる。また、通常の提灯とは異なり、中骨が平たく、紙との糊代面積が大きいために剝がれにくく、雨や霧に強かったとのこと。そして作業工程は比較的に簡単なため、安価であったという。しかし実用品には芸術的・美術的価値は皆無であった。

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小田原なりわい交流館:かつては鰤御殿と言われた建物を移築したもの。)

2017年6月 2日 (金)

復元された大磯「旧吉田茂邸」を訪問

◆戦後日本の復興の礎を築き、その後の保守・親米路線を決定づけた政治家吉田茂。「ワンマン宰相」、「バカヤロー開散」、「大磯詣で」、「吉田学校」など数々の逸話を残し、昭和42年(1967)に没し、戦後初の「国葬」で葬儀が行われた唯一の政治家である。(因みにその後国葬は廃止され、1975年6月に佐藤栄作の葬儀が国民葬で行われた)。

吉田茂は昭和20年から、生涯を閉じた昭和42年まで、養父の後を継いで大磯の別荘を本邸として過ごした。約9000坪の敷地に900㎡の邸宅は「吉田御殿」とも呼ばれ、政界引退後も多くの政治家が「大磯詣で」を行い、内外の賓客はもとより、当時の皇太子と美智子妃殿下も招かれた。没後、邸宅は西武鉄道(大磯プリンスホテル)に買い取られたが、地元住民の保存運動が起き、近代政治史の歴史文化遺産として保全・活用が検討された。2012年から神奈川県の管理下に置かれ、隣接する「県立大磯城山公園」の拡大地域として一般公開されることが決定。ところがその矢先、2009年3月、漏電が原因と見られる火災が発生、総ヒノキ造りの本邸が全焼してしまった。

◆余談ながら筆者は2006年夏、小田原に越して以来、国道1号線に面した吉田邸前を何度も往来していたが、焼失する前に一度だけ邸内を見学したことがある。但し、建物の中には入れず、広大な庭と銅像を見学しただけだった。旧吉田邸は大磯町が町有施設として再建することになり、本年4月ようやく復元工事が完了した。公開から2ヶ月足らずで入館者が年間目標の3万人を突破したという。その直後、先週金曜日に小雨の中を訪問・見学してきたという次第。

◆近代数寄屋建築風の総ヒノキ造りの新館は、新築独特の木と畳の香りが優しく鼻腔に届く。全体にシンプルですっきりした造作は自然の明るさをふんだんに取り入れ、日本建築の粋をいかんなく発揮し、広大な庭園とよく調和している。落ち着いた応接間、広い食堂、愛用した書斎があって、さらに金の間(居間)、銀の間(寝室)からの眺望もすばらしい。船の形をした檜造りの風呂桶は西洋風バスタブをイメージしたものか。

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2階書斎からサンルームを見る。                広い食堂

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  2階書斎                    2階浴室 檜造りのバスタブ

◆庭園の一角に「七賢堂」がある。元々、明治36年に伊藤博文が、維新の元勲のうち岩倉具視大久保利通三条実美木戸孝允の4人を祀った「四賢堂」を自身の大磯の邸宅「滄浪閣」に建てたものだった。伊藤博文の死後、婦人が伊藤を加えて、「五賢堂」とした。昭和35年に吉田茂邸に移設され、37年に吉田茂が西園寺公望を合祀した。吉田の死後、昭和43年に佐藤栄作が吉田茂を合祀して、「七賢堂」と改めた。正面の扁額「七賢堂」の文字は佐藤栄作が揮毫したもの。
兜門やサンルームとともに焼失を免れ、旧吉田邸の歴史を感じさせる貴重な建築物となっている。美しい日本庭園は、海外赴任生活が長かった吉田茂の嗜好の多様性の現れであり、バラ園、洋風樹木など様式に捉われない構成で、特徴が色濃く反映されている。

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七賢堂

Dscf2172 吉田茂銅像:昭和58年建立。日米講和条約の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けていると言われている。銅像付近からの眺望はよく、富士山、伊豆半島、箱根、相模湾、房総半島、三浦半島などが一望できる。

(この点だけは我が家と同じか)

2017年5月31日 (水)

核・ミサイル攻撃を防ぐ妙案

北朝鮮が3週連続で、ミサイルを日本海に向けて発射した。日本政府は例によって厳重な抗議をするとともに、制裁強化のため関係国と調整を図る。北朝鮮にとっては「どこ吹く風」とばかり屁とも思わない。逆に日本が世界に向けて騒げば騒ぐほど、「標的は在日米軍基地に留まらず、全土に拡大するぞ」と脅しをかける始末。
そこで核とミサイルの開発と実験を止めさせる妙案を考えた。


①【自爆誘導作戦】 誘導ミサイルはGPSを利用して、搭載したCPに予め標的に向かう情報をインプットする。そこで発射前にそのCPに向かってサイバー攻撃をかける。進路を変更して、発射地点に戻り、そこで爆発するようにプログラムを書き換える。また発射基地のシステム全体にサイバー攻撃をかけ、混乱させる。北朝鮮は発射実験をすればするほど結局自殺行為となり、大打撃を受けることになる。そこで北は開発・実験を中止することとなり、メデタシ、メデタシと相成る。
この作戦の難点は、サイバー攻撃要員と北の情報収集するためのスパイの養成が必要となり、日本独自では時間が掛かりすぎるという欠点がある。


②【西部劇風決闘作戦】 北朝鮮は迎撃ミサイルの実験も行い、成功したと吹聴した。そこでアメリカはその技術を褒めて、どのくらいのものか試してみようと持ち掛ける。西部劇では背中合わせから10数えて歩き、振り返りざま発射するというシーンをよく見かけるが、それにあやかって予めルールを決める。日時を決めて同時にミサイルを発射する。標的は太平洋の真ん中として人への影響がないところが良い。
攻撃ミサイルの発射後、今度は互いのミサイルを迎撃するミサイルを発射する。迎撃ミサイルで撃ち落とされた方が負け。北が勝てば「核・ミサイル保有国」と認め、仲間入りさせる。負ければ核とミサイルを放棄し、今後一切開発しないと約束させる。その代り、国際協調で食料・経済援助を約束する。これで四方すべてが丸く収まる。メデタシ、メデタシ。ちょっと、マンガティック過ぎるかな?(笑い)

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2017年4月19日 (水)

「教育勅語」と「十七条の憲法」

◆森友学園問題に端を発した「教育勅語」が俄然注目を集めるようになった。私の友人で明治神宮まで出かけ、ペーパーをもらってきた人がいる。その印刷物には、「教育勅語原文」及び「口語文訳」、発布の意図を分かりやすく説明した「明治天皇と教育勅語」、そして勅語の要点を記した「教育勅語の十二徳」がA4一枚に収められている。

◆「十二徳目」のうち前半の6項目は、個人として立派な人格、平和な家庭、道義的な良い社会づくりを目指すものであり、後半の6項目では勉学、人格向上、社会貢献、遵法・秩序など教育の向上を指針としている。「教育勅語」と呼んでも、明治天皇に限らず、いつの世でも目指す指針は不変のものと思われる。
但し、最も問題視されているのが最後に謳われた「義勇」即ち、原文では「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と述べられている点だろう。口語訳では「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて国の平和と安全に奉仕しなければなりません」と書かれている。これとて普通に考えれば、自国が他国から攻められようとすれば、愛国心があれば祖国を守ろうとする気持ちを持つのは自然の成り行きと言える。


◆問題なのは、かつての日本軍は軍国主義を推し進めるために、この規定を拡大解釈して、「教育勅語」そのものを国が求める人材の在り様に利用したことにある。御上からの押し付けが結局この国の歴史に大きな過ちを残した。戦後昭和23年、国会で勅語の排除と失効が決議されたことで決着しているはずだ。
ところがこの葬られたはずの「教育勅語」が忘れた頃に頭をもたげてくる。その要因は現代社会における道徳心の欠如、社会秩序の乱れ、倫理観の喪失などと裏腹の関係にあると言っても過言ではない。「戦後の道徳教育がないがしろにされてきた結果の顕れである」とはよく聞く話である。


◆明治天皇を1400年ほど遡った祖先の一人、聖徳太子が604年に「十七条の憲法」を定めた。現代語訳を読んでみたが、これは法典というより道徳律であり、当時の朝廷に仕える諸氏族、役人に対して、守るべき態度・行動規範を示した服務規定ともいうべきものである。これが現代でも政治家・役人・勤め人等にそのまま当てはめられるのではないかと思われる。「教育勅語」のように子供たちに直接押し付けるのではなく、まず教える側の教師や教育者に対して、「十七条の憲法」を参考にした「期待される教師像」を明文化してみてはどうだろうか。子供は後姿を見て育つものだ。

 閑話休題:新解釈笑辞典
  ・「教育勅語」・・子供達には暗唱を強要しながら、それを指導した教育者は
   真逆なことをして、国会で糾弾されたり、破産することを指す。 

2017年4月11日 (火)

桜は満開になったが・・

小田原でも桜の満開は例年になく遅く、8~9日(土・日)頃満開になったようだが、
気持ちは少しも弾まない。
それもそのはず、ここ1週間ほど雨、曇り、小雨の繰り返しで、まさに
菜種梅雨と呼ぶにふさわしい春雨前線にスッポリはまってしまったようだ。
今日も朝から小雨が降り続き、冷え冷えとしている。

桜はスカッとした青空を背景にしてこそ、その美しさを100%発揮する。
今年の桜は週末までもってくれるのか、それとも散ってしまうのか。
ちょうど今のような時期の桜の哀れを詠んだ和歌を見つけた。


 花は散り その色となく ながむれば
          むなしき空に  春雨ぞ降る


                        (式子内親王 『新古今和歌集』)

Dscf2085 (2017年4月10日小田原市内)

 

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