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日記・コラム・つぶやき

2022年4月30日 (土)

近頃、巷(ちまた)で流行る者

マスク、ワクチン、ソーシャルディスタンス、

クラスター、パンデミックにゼロコロナ、

PCRにウィズコロナ、リモート授業にリモート会議、

次々変わる変異株。

オレオレ詐欺に振り込め詐欺、賽銭泥棒に自販機ドロ、

覆面ドロかと思いきや、テレビ局が顔かくし。

収穫まじかの農作物、一夜のうちに盗人被害、

痴漢・盗撮大騒ぎ、増える一方の性犯罪。

セクハラ、パワハラ、マタハラ、モラハラ。

弱者いじめの煽り運転、ルール無視の交通事故。

ながらスマホで大惨事、安全軽視の観光船。

小さな諍い、おおきな暴力、人の命の軽量化、

いとも安易な殺人行為。

ネット上での誹謗中傷、思い込みの正義感、

匿名ゆえの卑劣な攻撃、デジタル暴力の大氾濫。

極め付きは、明るい未来の21世紀が、現実は20世紀に逆行したこと。大国のエゴによる昔の侵略戦争が、リアルな姿となって蘇り、世界の人々の目に曝け出された。
まさに、プーチンのプーチンによるプーチンのためのウクライナ侵攻が今も続行されている。核戦争が現実のものとなってきた。これを何としても止めない限り、人類の滅亡は空想のものではない。

 

 

2021年3月12日 (金)

少年時代の心象風景(6)最終回

第六話 幻の荷馬車にぶら下がる。
◆中学校に上がって、通学距離がかなり伸びたが、30分とは掛からなかった。道路も次第に整備されて行った。アスファルト舗装される前の通学路。下校途中に屡々、大きな荷馬車に出くわした。馬方さんに曳かれ、尻尾を振り振り歩いていく。ある日、「今日は何も積んでいない。空だ。」友人たちと目配せして、一人が荷台の後ろにぶら下がる。また一人、更に一人。その雰囲気が馬方に伝わったのか、こちらを振り返ると、凄い形相で睨みつけ、大声で「コラッ!」と怒鳴られる。いったん、謝ってまた別の日に同じことを繰り返す。
何の変哲もない風景だが、田園風景ではない。古びたトラックやオート三輪も通る。周りは人家や工場、崖などが連なる。間もなく完全舗装され、バスが走るようになった。僅か1~2年の短い間の出来事だったが、なぜか忘れられない光景となっている。

第七話 貯木場で材木乗り
◆同じく、下校途中の道草の話。通学路の道路沿いに浦上川から水を引いた大きな貯木場があった。ラワン材などの角材が数本ごとに繋がれ、筏のようだった。大きな丸太もあった。これらの木材は輸入木材だったのだろう。この木材に乗り移ってユラユラ揺らす。木材の間から水面が見える。かなりのスリルだが、子供たちは無鉄砲だった。今では考えられない行為だが、当時は注意する人も殆どいなかった。これらの貯木場は現在は三菱重工の野球グラウンドやスポーツ施設、クラブハウスなどになっている。

第八話 工場の中のレトロな機関車
◆浦上川沿いの通学路の対岸は戦前から大きな製鋼所があり、戦禍で一旦破壊されたが、戦後すぐ復興した。我々が通学する頃は最盛期となり、1日中大きな音を立てて活況を呈していた。その工場の中を小さな機関車がコマ鼠のように動き回り、何か物は混んでいる。その機関車は教科書等で見る明治5年、新橋~横浜間を走ったあの機関車そっくりに見える。工場の中をSLが走る・・それだけで見ていて面白かった。
◆そもそも長崎はSL発祥の地だった。1865年、ト-マス・グラバーは西欧文明のデモンストレーションのためか、商売に直結させるためか、同年4月大浦海岸において、蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせた。当時の人は度肝を抜かれたことだろう。それからわずか7年後、東京~横浜間の鉄道を実用化したのだから、恐るべき能力の高さと言えよう。

【終わりに】今まで6回に亘り少年時代の取り留めもない話題を縷々綴ってきた。自分だけの脳裏に刻まれた風景を残して置きたいという思いで文章に記した。思えば、我々が少年時代「鉄腕アトム」などで見た夢物語だった未来の世界が、今悉く具現化されている。その間わずか60年~70年。文明の進化は留まるところを知らないようだ。その反面、あの頃の人と人との繋がりや絆は希薄になってきたようだ。これからの未来はどうなっていくのか、いくつかの憂いを抱えながら筆を折る。(本稿終り)

2021年3月11日 (木)

少年時代の心象風景(5)

第五話 シーボルトの軍服に接す

◆1955年、小学6年の時だった。担任の先生がI君と私を呼んで、長崎県立図書館が主宰する「市内の小学校の子供会」を作るということで、参加を勧められた。主に市内中心部の小学校の生徒17,8名が集まった。図書館の指導員数名のもとで、子供たちの自主性を尊重する形で、童話会、人形劇、コーラス、レクレーションなどを企画し、運営するコアのメンバーとして役割を持たされたが、ここではそのことが主題ではない。

◆当時の長崎県立図書館長は森永種夫さんといって、有名な郷土史家であり、高校、大学で教鞭に立ち、長崎奉行所に残された膨大な判決記録を解読して、その記録を「長崎犯科帳」として世に出した大変な学者だ。後にこの書をもとにTVドラマや映画ができたことは有名な話。
森永館長は大変温和な方で、我々子供達にも一人前の大人を扱うように接してくれた。図書館は大正時代にできた古びた洋館だったが、原爆によって本館西側が被災されたとのことだったが、この当時は緊急的に原状復帰されていた。

◆ある日、森永館長が普段は見られない蔵の中を特別に案内してくれた。薄暗い蔵の中、カビの臭いが鼻に衝く。そこには江戸時代の長崎奉行所から引き継がれてきた膨大な裁判の記録がうず高く積まれていた。目を引いたのがモールで飾られた軍服だった。シーボルトが着用していた軍服だという。その他にも彼が愛用していた日用品や文具などが多数あった。まさのこの時の体験が、数年前に読んだ吉村昭著の「ふぉん・しいほるとの娘」で臨場感が蘇ってきた貴重な体験だった。

◆5年後(1960年)、この古い建物は新しく立て替えられた。新装なった図書館には高校時代に何度か行ったが、特に記すべきことも無い。その後60年ほど経って県立図書館は大きく様変わりをすることをネットで知った。図書館部門は大村市に移転し、大村市図書館と合体して新しい県立図書館となり、2019年10月にオープン。史料関係部門はすでに近接する「長崎歴史文化博物館」に合体して、郷土資料センターとして、この5月にオープンするという。65年の時の流れはあっという間だ。しかし、確実に変化している。(続く)

2021年3月10日 (水)

少年時代の心象風景(4)

第四話 キリシタンの島の漁村風景
◆前回触れたネズミ島の対岸に小瀬戸という集落があった。(現在は小瀬戸町)ネズミ島との間は100mもなかった。桟橋からは海底の白砂が透き通って見えていた。子供の頃の話だが、小瀬戸の先に神ノ島という集落があった。この島に祖父母の家があって、幼稚園に通う間この家に住んでいた。戦前からこの島と小瀬戸の間を埋立て、陸続きにする工事が始まっていたが、戦争のため、中断されていた。

◆小学校の頃、神ノ島に行く手段は大波止から30~40分かけて、定期便に乗るしかなかった。勤め人も学生も皆利用していた。神ノ島~小瀬戸間は干潮時には大きな岩や石が姿を現し、満潮になればその一部が水面に頭を出すという状態だった。埋立て完了から何十年か経って、現在では広大な敷地に工業団地などが建っている。市の中央部から神ノ島町までのバスの便は格段に良くなっている。

◆話を子供の頃の神ノ島の体験に戻す。毎年夏休みには10日ほど弟と島で過ごした。近所の子供たちと裏の磯に行っては、泳いだり、潜ったり、巻貝などを獲ったりした。腹が減っては近所の子供が近くの畑からさつま芋を掘り出し、海水で洗っては「食え」と差し出す。生のまま齧った。収穫物は持ち帰り茹でてもらって、おやつになった。また大人たちの櫓漕ぎの小舟に乗せてもらって、釣りもやった。小魚が結構釣れた。赤銅色に焼けた青年が鉾を持って船から飛び降り、潜った。しばらくすると、鉾先にはクネクネと動く大きな蛸が突き刺っていた。今から思えば、貧しいながらも豊かな自然と共存した生活は、貴重な財産となった。

◆島の住民のほとんどはカソリック教徒。日曜日には島の中央にある教会に集まる。ミサが始まるが、これは苦手だった。通った幼稚園はこの教会の付属の幼稚園だったが、クリスマスのこと、学芸会の事、幼稚園の下の磯で遊んだことなど心象風景として残っている。
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磯浜で遊ぶ幼稚園生、女の子は着物姿が多い。マリア像は今も外港を見ている。

◆長崎港を囲む古くからの漁村や集落は、それぞれペーロン(ボート競走艇)を擁し、各漁村の名誉をかけて夏のペーロン大会に臨む。初夏から各艇は青年・壮年混合チームを作り、夕方から練習に余念がない。小学校1,2の頃、このペーロンに載せてもらったことがある。心地よい太鼓のリズムと船の揺れが子守歌になったのか、つウトウト眠ってしまった。文字通り波枕とはこのことだったのか。
余談だが、西高時代の同期のJ君は長崎大学時代、居住していた地域のチームに勧誘されてペーロンを漕いだという。定年後に聞いた話だが、羨ましい限りだった。ペーロンは現在では市内の企業、学校なども参加する一大行事となっている。(続く) 

2021年3月 9日 (火)

少年時代の心象風景(3)

第三話 ねずみ島遊泳教室の話
◆長崎港(大波止)を出港し、長崎の新ランドマークとなった「ながさき女神大橋」をくぐって、約4km、港口の西側に、かつて「ねずみ島」という市民に親しまれた小島があった。今は島の跡かたもない資材置き場と埠頭に変わっている。ただ島の中央部分にこんもりと茂った部分だけは残り、小さな公園になっているようだ。昔の姿を知っている人に対するエクスキューズみたいなものか。

◆「ネズミ島」・・変なネーミングの島だ。その謂れは、天領長崎深堀陣の真北(の方)にあたるからネズミ島だとか、そもそも鼠が多かったとか、対岸の小瀬戸に不審船を見張る番小屋があって、不寝番(寝ずの番)をして張ったからだとか諸説あるが、もっと簡単だと思う。誰が見ても島の形が鼠そっくりなのだ。細い砂州のようなものは尻尾そのものだ。

◆このねずみ島を水泳訓練・指導の場として設立されたのが、なんと明治35年(1902)。これが今に続く「長崎遊泳協会」だった。古式泳法を通して心身を鍛える水泳の道場ようなものだった。時代を降るに従い、新時代の競泳泳法や遠泳なども取り入れ、また長崎初の海水浴場としても広く市民に親しまれていった。戦時中と戦後の一時期に中断されたが、昭和22年(1947)、早くも再開された。

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長崎市制施行100周年史より(この船に乗ってネズミ島に渡った) 

◆小学校の3年か4年生の頃(昭和27,28年)、この遊泳会の初心者クラスに入れてもらった。籐のバスケットにお握りとおやつ、水筒を入れ、木札(許可証のようなもの)を持って友だちと一緒にダンベ船に乗り、島へ渡った。泳ぎの事はよく覚えていないが、何日かして中耳炎に罹り中断した。短い水泳教室だったが、その後、年1,2回は家族でねずみ島に海水浴に出かけた。忘れられない光景だ。

◆経済環境の変化はネズミ島周辺をも大きく揺るがすことになった。平地が少ない長崎は島を削り、周辺を埋めたて、陸地を増やしていくことが宿命のようなもの。昭和47年(1972)ネズミ島での水泳道場は70年の歴史を閉ざし、閉鎖された。翌1973年、長崎遊泳協会は市民総合プールに移行して、生徒数6000名を数える全国有数の水泳教室となった。

◆長崎遊泳協会は2004年、特定非営利法人(NPO)「長崎遊泳協会」となった。その組織の立ち上げに尽力したのが、1994年に理事長に就任した田中直英氏である。曾祖父の代から営々と水泳の普及、青少年の心身の鍛錬、会の維持・発展に活躍され、まさにボランテイアの先駆けだった。田中氏は我が西高同期生で、長崎人らしい面倒見のよい人物である。同窓会の世話役以外にも、長崎の教育界、経済界、商店街の発展などに大きく寄与してきた人物。地域社会からおおいに頼りにされている。長崎遊泳協会は来年創立120周年を迎えるということで、現在記念行事の準備に忙殺されているとのこと。
(参考資料:「長崎遊泳協会H.P」) ☆検索キーワード:「長崎遊泳協会」

2021年3月 8日 (月)

少年時代の心象風景(2)

第二話 道路工事のトロッコで遊ぶ

◆瓦礫の中の不思議な池の近くは、その後道路工事の現場となり、デコボコ状態が1kmほど続いていた。終戦後のことであり、まだ建設機械は少なく、人手に頼っていた。後年美輪明宏が長崎の宅地の基礎工事を歌った「ヨイトマケの唄」を出したが、この頃以降各地で見られた光景だった。道路工事では、牛馬や人がローラーで地面を均していた。泥を山盛りにした「トロッコ」を工夫が操縦しながら運んでいく。この光景が面白く、何時間も飽きもせず眺めていた。

◆ある日、工事が休みの時だった。悪ガキたちと一緒にトロッコに乗ってみようという事になり、見よう見まねで動かしてみた。ゴトッと音を出して動いた時は嬉しいという気持ちと同時に怖くなった。遊びはそこで中止し、一目散に逃げ帰った。高校時代に芥川龍之介の短編「トロッコ」を読んだ時、主人公の少年の心理とその時の自分の心象が重なり、彼の気持ちがよく理解できた。

◆因みに芥川の短編「トロッコ」は明治29年に建設された「豆相人車鉄道」を「軽便鉄道」にランクアップするためのレール拡幅工事を題材にしたものだった。明治41年に開通したSL「軽便鉄道」は熱海~小田原間を通るもので、現在の東海道線とは全く違う別物。今では車道となっているが、それも旧道となって、裏道的な存在となっている。

◆話を戻すと、この工事で完成した道路は現在では稲佐橋から三菱長崎造船所方面に延びる国道202号となり、メインのバス道路でもある。工事中の現場で遊んでいた西側に急勾配の数十段の階段がある。この階段の上から数10mのところに我が家があった。昭和26,7年頃の道路建設以前は崖そのものだった。道路工事の進展に伴い階段工事も進んだ。コンクリート舗装の前に土の坂に変わりつつあったが、いたずら小僧たちはこの急坂が格好の遊び場だった。板切れやダンボールをソリに見立て、坂を滑り降りては興じた。これも心象風景のひとつである。(本稿終り)

2021年3月 7日 (日)

少年時代の心象風景(1)

人には心に刻まれた心象風景というものがある。その風景を甦らそうとしても現実には不可能である。しかし脳裏から消え去ることは無い。むしろ年輪を重ねるにつれ、色濃く蘇るのである。生まれてから高校卒業まで長崎で過ごした。特に少年時代の思い出の中に、印象的ないくつかの場面がある。そうしたものを今のうちに記録に残して置きたい。(以下はこのシリーズの予定です)

第一話 瓦礫の中のオアシス
第二話 道路工事のトロッコで遊ぶ
第三話 ねずみ島の遊泳教室の話
第四話 キリシタンの島の漁村風景
第五話 シーボルトの軍服に接す
第六話 幻の荷馬車にぶら下がる
第七話 貯木場で木材乗り
第八話 工場の中のレトロな機関車 

第一話 瓦礫の中のオアシス
◆戦後の混乱がまだ多少残っていた昭和25年(1950)、長崎駅から徒歩15分ほど、稲佐山の麓の小学校に入学した。長崎港外の疎開先から、元住んでいた町に親子4人で越してきたが、以前の事は1~2歳のことであり、一切記憶にない。戦後5年経ったとはいえ、アチコチに戦争の爪痕は色濃く残っていた。人々の暮らし向きは楽ではなく、粗末な家に住み、食糧不足は続いていた。しかし幼い子供にとっては目に入るものすべてが現実であり、当たり前のように受け取る。そしていつの世もそうだが、子供は何処でも遊び場所を見つけ、遊び方を工夫し、元気に飛び回っていた。

◆我が家から10分もかからない浦上川河口沿いの焼け跡に、コンクリートの瓦礫が山のように積まれてあった。子供の眼からは10m以上あるように見えたが、実際には5~6mだったかもしれない。近所の悪ガキ数人で、「この上はどうなっているか探検しよう」ということになり、よじ登ってみた。難なく登れたが、頂上部の瓦礫の間から見えるその光景は全く想像を超えるものだった。

◆そこには想像もしなかった大きな池が広がっていた。しかも透明できれいな水だ。表面にさざ波が立っている。池の大きさは直径30mもあっただろうか。しかし、魚影はもちろんの事、水草の1本も見えない。不気味と言えば不気味。この水はどこから来たのか。雨水が溜まったものなか?不思議と言えば不思議な話だ。昭和25,6年頃の話だが、もう少し探求心があれば科学者になっていたかも(?)この瓦礫はしばらくして綺麗に片付けられ、その後バス会社の車庫やコンビニ等に様変わりしたようだ。(本稿終り)

2021年1月12日 (火)

令和3年も前途多難か?

◆年が改まって、はや12日。世の中の動きは牛歩のようにゆっくりとした動きにはならず、目まぐるしく動いている。昨年末から右肩上がりを見せていたコロナ感染者数は連日過去最大を更新したと報じられ、ついに1都3県に緊急事態宣言が発せられた。他にも関西・中部の数県が追随する動きを見せている。今回の第3波は昨年の緊急事態宣言とは異なり、医療体制の危機が危ぶまれ、崩壊の危機に直面していると言われている。

◆これ以上感染を防ぐには、国民の自粛活動はもとより、専門のプレハブ病院の新設、眠っている医療従事者の活用、ワクチンの1日も早い接種。海外で効用が認められている国産薬品の活用など、ありとあらゆる手段を尽くして対応していくべきだろう。もちろん政治が主導していくべきだが、頼りない政治に頼ってばかりでは始まらない。批判ばかりしていても始まらないのだ。幸い、政府はコロナ禍に対する予算をたっぷりとってある。これを大いに活用しない手はない。

◆話は変わるが、任期を20日ほど残したトランプ大統領が、先の大統領選は不正選挙だったとして、支持者らを煽った結果、大挙米議会に不法に乱入して、死者5人を出すという前代未聞の事件が発生した。このことは良識的な共和党支持者まで、反トランプに回すことになり、トランプの孤立化を深め、米国民の間に深い溝を作った。1月20日にバイデン新大統領が誕生することになるが、対中国、北朝鮮、韓国、日本、台湾に対する施政方針がどうなるのか気になるところだ。

◆年明け早々、韓国でとんでもない判決が出された。なんと日本国を被告人にした元慰安婦たち12人の損害賠償訴訟に対し、ソウル地方裁判所が原告1人当たり1億ウォン(約950万円)の支払いを命じる判決を出したというのだ。かの国に対しては「またか」という気持ちと、常識が通じる国ではないという反感反韓感情が湧き出てくる。いちいち反論するのも嫌になってしまうので、詳しくは別稿で論じたい。取り敢えず今回の問題は大きく二つに分けて指摘できる。
① 国際法上の『主権免除』の原則から、日本政府が韓国側の裁判権に服することは在り得ない。日本政府は訴訟そのものが却下されるべきと主張する。まさにその通りで、もっと強く世界に向かって主張すべきだ。(「主権免除」とは主権平等の原則のもと、ある主権国家が他の主権国家に裁かれることはないということで、この慣習法は2004年に「国家及び国家財産の裁判権免除に関する条約」に発展した。
② 日韓関係の問題については1965年の「日韓基本条約」及びそれに関連する「請求権協定など」が取り交わされ、「完全かつ最終的に解決済み」と明記され、慰安婦問題もこれに含まれるものと解釈されてきた。「日韓基本条約」は当時の佐藤栄作内閣と朴正熙大統領の間で締結した条約。この条約により正式に国交が樹立することになったもの。

◆今回の判決でどうしても日本政府に金を払えと言うのであれば、2015年12月に日韓外相会談で合意した「日韓間の慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決」いわゆる日韓合意に基づいて日本政府が拠出した10億円の基金を韓国側が復活させて払えば済むだけの話。韓国側が勝手に財団を解散して、約5億円が宙に浮いた状態にあるという。この金はどこに行ったのか、誰かが着服したのか?

2020年12月 6日 (日)

令和2年(2020年)年末雑感

◆今年も残り1か月を切ってしまった。11月末から12月初めにかけて喪中の挨拶が届く。今年は例年に比べ、数も多くサプライズも多かった。従兄を除けば初めて知る喪中の知らせで、主人を亡くしたケース3、長男を亡くしが1、母堂を亡くした1、計5件だったが、最も驚かされたのは友人本人が亡くなっていたケースだった。例年喪中挨拶はそのままスルーすることが多かったが、今回はお知らせの御礼とご冥福を祈る旨の返信を出した。亡くられた方を年代別に見ると最高齢102歳、再若年50歳、平均年齢77.6歳となっており、まさに自分がその年代に入ったという事だ。

◆今年喪中による年賀欠礼が増えたのはコロナの影響が有ったのか、無かったのか、何とも言えないが、2020年はコロナに明け、コロナに暮れた1年だった。「だった」というのは間違いで、コロナ禍は年を越し、さらに大きくなろうとしている。新型コロナウィルスが社会に与えた影響はあまりにも大きい。今まで殆ど気にもされなかった密閉、密集、密接(いわゆる三密=今年の流行語大賞にもなった)を避け、換気・社会的距離の保持・マスク・手洗い・消毒の励行等、日常行動に対する個人の意識を大きく変えることにも繋がった。

◆さらには、働き方改革にも呼応してテレワーク、リモート授業などが定着し、社会の在り方自体が大きく変わろうとしている。最も大きかったのが当の保健衛生、医療体制の脆弱性を露呈したことである。当初は日本人の生活習慣のせいもあり、欧米に比べて軽い被害で済んだという経緯もあったが、効率を重視した保健衛生・医療体制は検査体制の不備、想定外の事態の発生、マンパワーの不足などで医療の崩壊を招く寸前まで来ている。先進医療の日本はどこに行ってしまったのか。

◆欧米のワクチンの開発が想定以上のスピードで進み、早ければ年内にも一般人への接種が始まろうとしている。日本はどうか。ワクチンの受入れは手当て済みというが、国民も政府も進んで接種しようとはせず、欧米の様子を見て安全を確認した上で、6月頃から接種が始まるという報もあった。まるで毒饅頭かどうか、他人に試食させてから判断しようという姿勢がミエミエである。

◆日本は1940年に予定していた第12回東京オリンピックを世界大戦のため、開催を返上した。それから80年後の2020年、今度は100年に一度と言われる世界的パンデミックの影響で、第32回東京オリンピックを1年延期せざるを得なくなった。2度目の中止や延期は絶対避けたい処。そのためにも早めのワクチンの普及で選手、関係者、観客全員が接種して、安心安全なオリ・パラを実行し、コロナに打ち勝った姿を世界中の人達に見てもらいたいものだ。

◆一方コロナ対策や経済対策の財政は、世界各国とも過去最大級だ。日本は主要各国と足並みを揃え、事業規模では108・2兆円、GDPの2割に相当する。このうち財政出動は40兆円で主な財源は赤字国債であるが、日頃財政規律をうるさく唱えるメディアや野党は今回はおとなしい。問題は大震災や世界的パンデミックのような未曽有の危機に直面した時の管理能力だが、いざとなればアタフタし、有効的に機能しないところにある。普段からあらゆる危機を想定し、体制・組織・人の見直しが必要である。次の危機は目前に迫っている。尖閣諸島への侵略という危機が。

2020年10月 1日 (木)

今日から10月

月が変わって、今日から10月。先月の28日、富士山は初冠雪で6合目までベールを被ったような雪化粧に覆われた。これは何日も続かないだろうと思ったら、案の定3日も経ったら、すっかり元の黒い富士山に戻ってしまった。
しかし、時の経つのは本当に早いものだ。人生も終盤を迎えた今、つくづく感じる。翻って子供の頃、時の経つのが遅かった。夏休みの40日が長かった。時間だけではなく、空間(広がり)も大きかった。卒業後数10年経って、小学校の校庭に立った時、こんなに狭かったのかと驚いた。しかし、考えれば当然のことだった。目線の高さは1.5倍以上になっているし、時の経過も時間に追われる毎日となり、時の速さを恨んだりもした。

中国の古典名言に、時の速さを表現する言葉が数多くある。「光陰(歳月)は矢の如し」は最もポピュラーな言葉だろう。矢の如しは中国らしい大仰な感がするが、考えてみればそうでもない。現代人の祖先と言われるホモ・サピエンスの出現が今から20万年前、人の一生を80年としたら、まさに矢が飛ぶような速さだろう。同様な言葉に「光陰逝水の如し」、「光陰流水の如し」もある。
光陰人を待たず歳月人を待たず」は時は人を待ってくれないとの箴言だが、「少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず」は今となってはズシリと胸に響く名言だ。
「光陰流水の如し」で連想するのが、「行雲流水」だ。空行く雲や流れる水のように、自然のままに自由に生きる心境になりたいものだ。

 

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