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旅行・地域

2017年6月28日 (水)

箱根大涌谷久々の空中散歩

先週末、箱根のアジサイ鑑賞と、再開された大涌谷ロープウェイに乗って空中散歩を楽しんできた。アジサイの方は少々時間が早かったせいか、花も小さく色合いもイマイチだったが、ちょうど今頃見ごろだろう。

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箱根登山鉄道塔ノ沢駅
Dscf4735 箱根阿弥陀寺(2015年)

◆空から見る雄大な大涌谷の景観と噴煙は轟音をバックに箱根観光の目玉であることは疑いないところ。整備された大涌谷では黒たまごを食さない訳にはいかない。1個食べれが寿命が7年延びるという触れ込みだから、計算ではすでに70年以上延びている訳だが・・。残念ながら黒たまごを茹でている熱湯の温泉場まではまだ立ち入り禁止だ。早く解除してもらいたいものだ。

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◆そもそも2011年の東日本大震災の影響ではないかと見られる火山性群発地震が大涌谷周辺で増加したのが2013年2月だった。その回数が徐々に増えて、2015年5月には噴火警戒レベルが1からレベル2まで引き上げられた。(6月にはレベル3まで引き上げ)それに合わせて、周辺道路の通行止め、箱根ロープウェイの運休など、観光は風評被害もあって大打撃を受けた。その後、昨年に入って地震活動の安定が見られ、7月には火山ガス濃度の低下も見られたため、7月26日ようやく大涌谷~早雲山駅間で運行が再開され、約1年3か月ぶりに全線運転再開となった。その約1年後に久しぶりに訪れたという次第。

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数年前の黒たまごを茹でる現場

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「冠岳」の斜面に噴火の後を残し、箱根の最大のスポットとなっている。(続く)

2017年5月21日 (日)

陶芸の郷「長崎県波佐見町」を訪ねて

◆もともと陶磁器に関してそれほど興味がある方ではなく、旅行等で訪れた所がたまたま産地であれば、立ち寄ったりして眺める程度だ。陶器の代名詞である瀬戸物、その産地である愛知県瀬戸市が2011年12月に実施したアンケートがある。「陶磁器ブランドの認知度」調査というもので、関東地方に在住する30代~40代の女性412人を対象にしたもの。(複数回答) それによると、
1位:有田焼(佐賀県)81.6%  2位:九谷焼(石川県)60.4%
3位:益子焼(栃木県)55.6%  4位:信楽焼(滋賀県)42.2%
5位:美濃焼(岐阜県)  6位:備前焼(岡山県)  7位:萩焼(山口県)
8位:清水・京焼(京都府) 9位:瀬戸焼(愛知県) 10位:唐津焼(佐賀県)
以下10%未満 11位:笠間焼(茨城県) 12位:常滑焼(愛知県) -以下略-


有田焼のトップは納得として、瀬戸焼の9位は意外な感じがする。時代の変化によるものだろうか。ランキングにはいろんな基準があるだろうが、製造事業者数でみると、美濃焼の岐阜県が最も多く232、伊万里・有田焼の佐賀県が121、第3位の愛知県が97、そして4番手に長崎県の69と続いている。また人口10万人当たりの登録件数1位は佐賀県で38.68件、2位岐阜県の27.44件、3位が長崎県の15.22件となるそうだ。
近年長崎県の「波佐見焼」が脚光を浴び、全国ブランドになりつつある。その秘密を探るべく、陶芸の里「波佐見町」を訪ねてきた。というのは少々オーバーで、たまたま母校長崎西高の卒業55周年同窓会が波佐見で行われたので、訪問・見学する機会を得たからに他ならない。

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◆有田・伊万里焼き、美濃焼・織部などはともかく、波佐見焼が何故今ブームなのか。子供の頃、波佐見焼の名はかすかに覚えていたが、波佐見高校が甲子園に出場するまでは記憶の遥か彼方にあった。波佐見焼は江戸時代から庶民の日常食器として、実用本位であり、有田焼の下請けをするなどブランド力はなかった。庶民の器として誕生し、時代に合わせて変化を繰り返しながら、現在も身近で親しみやすい食器を作り続けてきた。近年、実用性の他に独創性、芸術性も加味して製造力を高め、同時に全国展開の販売力を高めた仕掛け人がいた。

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波佐見町の窯元群を見下ろす高台から、正面に長さ160mもある登り窯跡が見える。

◆その人こそ、O.H君といって、波佐見焼元卸業を経営し、全国に販売網を開拓。有名デパート、スーパーなど幅広く販路を拡大した人物だった。もともと波佐見焼に関わる地元の名家の生まれで、長崎西高の同窓生であり、彼のプロモートで今回の同窓会開催の運びとなったもの。同窓会の翌日、バスを貸し切り波佐見の町を案内してくれた。長崎県人でありながら、初めて波佐見という陶芸の町を見学し、かつ前日はゆっくり名湯に浸り、55年前の青春時代が蘇ったひと時ではあった。とにかくみんな若い!次は喜寿、そしてその次は米寿、一応この辺が着地点の目安となりそうだ。

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母校に寄贈するために特別に制作された透明感のある磁器製の鉢。O君が地元の名工(日展会員)に制作依頼したもの。


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やきもの公園の小高い丘にある野外博物館「世界の窯広場」がある。
この公園の一角に、陶芸の館「観光交流センター」(くらわん館)があり、二階は陶芸博物館。1階は40数件の窯元が制作した多くの陶器、磁器が数部屋に亘って、処狭しと並んでいる。昔ながらのデザイン、欧風のもの、高級料亭レストラン向けのもの、独創的なものなど千差万別あり、眼を楽しませてくれる。もちろん展示・販売されており、金に糸目をつけなければ欲しいものはいくらでもある。

2017年5月14日 (日)

相模の国の名刹「日向薬師」を訪ねて

◆大山詣で有名な関東の名峰「大山」(標高1252m)。古来からの修験者の山で、その麓には山岳信仰の名残か、多くの寺社が点在する。東側の麓にひっそりと佇む古刹がある。「日向薬師」の愛称で古くから地元で慕われてきた名刹だ。この日向薬師は716年、奈良時代の高僧行基によって開山されたと伝わっている。修験者の拠点だったこの古刹は、正式には「高野山真言宗 日向山霊山寺 宝城坊」(通称;日向薬師)と呼ばれている。

◆関東で古刹・名刹と言えば「坂東三十三観音」が有名だが、このうち神奈川県に八カ寺ある。うち四カ寺の開祖・開山が行基とされ、いずれも721年~730年代頃の創建とされる。日向薬師はこれらより5年以上早く、最も古い部類に入るだろう。寺格からいっても遜色ないどころか、頼朝・政子との関わり、時の権力者達との関わりなど史実として残っている。そうした日向薬師だが、坂東三十三寺札所に数えられていないのは「観音信仰」ではないからだろうか。

◆この日向薬師に、ここ数年間で2度程訪れたが、改修中のため本堂に入ることはできなかった。宝城坊本堂平成22年11月から6年の歳月をかけて、昨年11月に「平成の大修理」が完了、落慶法要が行われた。たまたま先日機会を得て、ようやく見学することができた。この本堂は室町期の1380年と江戸期の1660年及び1745年に大改修の履歴を持つ。もともと檀家を持たない勅願寺のため、時の権力者の庇護のもとで繁栄してきた。ところが明治新政府の神仏分離政策のため、12あった坊の殆どが廃止され宝城坊だけが残った。また廃仏毀釈運動に遭って多くの仏像等が風前の灯となったが、信仰の篤い地元の村人達がひっそりと秘匿して守ったことが現在に繋がっていると白髪の上品な説明員が語ってくれた。
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境内の「幡かけ杉」(二本杉とも)県の天然記念物で樹齢約800年。


◆明治以降、権力者の庇護がなくなり、加えて檀家・墓地を有しないため、経済的に困窮に陥り、寺の荒廃ぶりは酷かったという。平成18年の調査で大修理が必要と判明。問題は財源だったが、それを救ったのは明治の村人達だった。彼らが守った仏像たちが国の重文に指定されていたため、改修費用の8億7千万円の75%が国の補助金で、残りを県と伊勢原市、そして寺が集めた浄財でなんとか賄えることができたという。

Dscf2097 平成の大修理を終えた宝城坊本堂
 
◆境内に立って目立つのが本堂を覆う茅葺屋根。約1000㎡の広さに厚さ75㎝、重さ50トン。この茅は御殿場で刈り取ったもので、茅代だけで1億円にもなったという。京都から専門の職人を招き、多くのボランティアも参加して葺き替え工事を行ったが、葺き方には地方色が残っているため、地元の古老の意見も反映させたという。全体に荘厳で趣がある建造物だ。本堂の高さは18m、幅23m、奥行き17mで茅葺寺院では関東最大級の規模を誇る。

◆宝仏殿には大きな厨子があり、その中に本尊の薬師如来本尊と脇侍の日光・月光両菩薩(いずれも平安時代)があり、厨子の外側四隅に四天王、また左右に6体ずつの十二神将(鎌倉期)が安置されている。さらに本堂の左右に大振りの薬師如来・日光・月光菩薩脇侍、阿弥陀如来坐像四体(いずれも鎌倉期)が鎮座し、そのすべてが国の重要文化財に指定されている。その他にも鐘楼に架かる梵鐘、厨子、本堂自体も重文に指定されている。いずれにしろ神奈川県の山深い片田舎に平安時代以降の仏教遺産が残っていることが日本の歴史の奥深さを物語っていると言えよう。

Dscf2098 重要文化財の銅鐘

2016年11月 5日 (土)

横須賀軍港巡りと猿島見学記(下)

◆横須賀三笠公園の1.7kmほど沖にある猿島。東西約200m、南北約450m、周囲約1.6km、標高約40mの東京湾で最大の自然島だ。緑豊かな無人島でもある。この島の特徴と言えば、縄文・弥生の遺跡はともかく、幕末ペリー艦隊が来航した折、東京湾の測量を行って海図を作成。その海図には「猿島」を勝手に”PERRY ISLAND”(ペリー島)と命名している。江戸防備の必要性を痛感した幕府は品川などの沿岸に砲台を築いた。猿島もその一環で台場が据えられたように、幕末から明治、昭和にかけて軍の要塞だったということにある。

◆明治新政府は明治13年、観音崎砲台の建設から始まり、明治17年にかけて東京湾要塞を建設、防備を強化した。しかし、幕末から明治にかけて、これらの砲台が外国船を砲撃したことは一度もなかった。要塞としてその役目を果たしたのは、太平洋戦争時に猿島の砲台が陸軍から海軍に移管され、横須賀軍港を守る防空砲台として再生されたことによる。太平洋戦争末期には、本土空襲のため来襲したB-29に対して、高角砲で対抗するも、殆ど届かない。それでも記録によれば2機撃墜し、米軍に恐れらたという。

◆三笠公園横の三笠桟橋から猿島行に乗船、約10分で猿島桟橋に着く。年配の親切な専門ガイドが2時間ほど島内をくまなく案内してくれた。2015年3月に猿島砲台跡が国史跡に指定されたとのことだが、確かに、複数のレンガ積みの兵舎、弾薬庫、砲台跡、12.7cm高角砲砲座跡、それらを結ぶ切り通しや、トンネルなど見応え十分だ。レンガ積には明治10年頃主流となった「フランス積」、明治20年頃主流となった「イギリス積」の両方が美しい景観を見せている。しかし、薄暗い中、一人でこの要塞を巡るとすれば、兵士たちの怨霊が聞こえてきそうで怖いだろうなという気がする。

Dscf1838 最も有名な個所の一つ

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兵舎跡、意外に湿気はない。ここは落書きが消されていた。

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愛のトンネル全長90m、幅4m、高さ4.3mのアーチ状トンネル。ここで、コスプレ撮影をやっていた。

Dscf1842 至る所こういう個所が点在。

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こうした施設を作るため、人手をかけ掘削して、構築したことに唯々恐れ入る。

◆戦後、この要塞跡は放置され、管理外に置かれたため人が出入りし、荒れ果てていたという。その証拠に複数の兵舎跡や弾薬庫跡の漆喰壁には無数の落書きが残されており、無残だ。近年この島の価値が再認識され、整備も進み、2015年3月に国史跡に指定された。その後は急速に入園者が増加、15年度は156千余の人が訪れたという。夏場には海水浴、BBQ、釣りなどのレジャー客で大変な賑わいを見せるそうだ。また島のレンガ造りの雰囲気が有名なアニメのシーンに似ているということで、コスプレの聖地にもなっているという。この日も何組かのグループの姿が見られた。歴史とレジャーが同居した無人島、大切にしたい島である。(終わり)

Dscf1844 猿島の一部

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猿島桟橋と三笠桟橋を結ぶ運行船

2016年11月 4日 (金)

横須賀軍港巡りと猿島見学記(上)

先日、船上から横須賀軍港を見学する機会を持った。横須賀港は何度か訪れているが、海上から見学するのは初めての体験。見学クルーズはほぼ毎日出港しているようで、猿島見学と合わせて、近年特に人気のあるコースとなっている。

◆横須賀港は今から163年前、米国ペリー艦隊が浦賀に来航して以来、幕府の高官小栗上野介の国防に関する進取な英断で、フランスの技術者ベルニーを招致。横須賀に製鉄所、造船所、ドック、海軍工廠などを建造した。明治新政府に代わってもさらに手を加え、軍港として発展を遂げた。なぜ横須賀だったのか。ひとつは江戸に近かったこと、またリアス式の穏やかな入り江が軍港に適していたことなどによる。

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 ベルニー公園に並ぶ 上)小栗上野介と 下)ベルニー銅像

◆戦前の日本の主な海軍基地は横須賀佐世保舞鶴だった。現在の海上自衛隊はこれら4基地を引き継ぐとともに、大きく分けて護衛艦隊航空群潜水艦隊その他部門が全国に点在し、これらの現場部門を統括する海上自衛隊司令部は横須賀に置かれている。また潜水艦隊は横須賀、呉の2基地だけである。横須賀港は横須賀本港と長浦湾に分れ、長浦湾の船越地区に海上自衛隊司令部が置かれている。

◆横須賀本港の汐入ターミナルから軍港巡りのクルーズが出港。分りやすいユーモアある解説者の案内で、本港から長浦港を巡ってターミナルへ戻る。出港してすぐ右側に明治時代に造られた係留ドックが2基あるが、これは海上よりも陸地から見た方が分りやすそうだ。今も現役で活躍中とのことで驚き。その先に「おやしお」型潜水艦と「そうりゅう」型潜水艦が係留されていた。さらに進むとアメリカ海軍横須賀基地となり、イージス艦が見られたが、空母「ドナルド・レーガン」は残念ながら、作戦中なのか留守だった。

Dscf1810 おやしお型潜水艦

◆船は大きく左折して長浦湾に入る。ここではいくつかの種類の護衛艦が見られるが、海上自衛隊全体で23種類あるそうだ。もっとも大型のヘリ空母「ひゅうが」や「いずも」、輸送艦「おおすみ」などは見られなかったが、ペルシャ湾の掃海作戦で活躍し、今は静かに退役を待つ木造の掃海艦2隻が見られたことは幸いだった。金属製の艦艇は掃海作業には適さないので、新造船はプラスチックになるとのこと。

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廃船を待つ木造の掃海艦

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対空、ミサイル、魚雷、など多様な装備の護衛艦

◆長浦港から横須賀本港に戻る帰路はショートカットするように狭い水路を通った。どうやら人工的な水路では?と思ったら、まさにこの水路は明治の頃、手作業で掘削した「新井掘削水路」と呼ばれ、半島を分断して両港を結んだもの。本港の海岸側にも数隻の各種艦艇が見られたが、45分のクルージングでイージス艦数隻をはじめ、20数艦を外観のみ見学したが、広い港のあちこちに点在しているので、散乱している感がある。

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人力で建造した新井掘削水路

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◆日本の領海を警備する任務は海上保安庁の役目であり、自衛隊は何をやっているのかと思う人も多いだろうが、確かに領海警備のため海保の予算、人員を増やす必要はある。しかし自衛隊は海外においてトータルで後方支援や、復興支援PKO(国連平和維持活動)、難民救済甚大災害時の緊急援助在外邦人輸送海賊対処など幅広い活躍をしている。(自衛隊HPより)。また米、韓、豪、インドなどとの共同訓練で抑止力をPRして不法な侵略を牽制する役目を果たしている。国民は海外での貢献などは断片的にしか知らされていない。逆に駆けつけ警護など新たな任務を付与するたびに、野党やメディアは騒ぎ立てる。本当は海外における活動への現地の人達の評価などを、もっと積極的に報道すべきではないだろうか。

2016年8月 2日 (火)

サマータイム イン NAGASAKI

7月30日から8月1日まで、2泊3日で故郷長崎を訪れた。第一の目的は7/30日に開かれた小学校の同窓会出席で、1956年に卒業して今年で60年経過した。オリンピックの年開催が決まりで、今回は8回目となる。5人いた先生は一人だけとなり、卒寿を迎えられた女性の先生が今回も元気なお姿を見せてくれた。
前々回52名、前回39名、今回37名と回数を重ねるにつれ参加者も少なくなるが、少なくとも次回の東京オリンピックの年までは続くだろうと確信する。


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会場の稲佐山展望レストラン(左側)

さて、会場は2012年に「世界新三大夜景」(長崎・香港・モナコ)に認定された長崎の夜景を見下ろす「稲佐山・山頂展望台レストラン」。因みに我母校はこの山の麓にあり、稲佐小学校と称した。また7月30、31日は「長崎みなとまつり」でもあり、美しい夜景をバックに数千発の花火が打ち上げられたが、やはり花火は下から夜空をバックに見上げるもの。バックが宝石を散りばめたような夜景なれば、相殺しあってあまりよろしくない。ガラス越しだから音の迫力も殆ど届かず、むしろ話の花がアチコチで咲き続ける。

Dscf1775 ゴーストがガラスに映る。

【ペーロンを体験】
◆今回の長崎行のもう一つの目的は、「長崎みなとまつり」の一環、長崎ペーロン選手権大会の中で行われる「体験ペーロン」への参加だった。幼稚園まで長崎港外の漁村で過ごした体験からペーロンは心の故郷でもあった。当時のペーロンはそうした漁村の青年団・大人達の集落の威信を懸けた競漕の場だった。長崎の中心部から見ると、郊外の海辺に面したローカルで素朴な行事だったが、経済成長とともに広がりを見せ、昭和52年から長崎港内でも始まるようになった。そして一般男子だけでなく、職域対抗レース、中学校対抗、女性対抗など多くの市民が参加する長崎を代表する夏の伝統行事となっていった。

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(今年の一般の部は各地区予選を勝ち残った21チームが出艇。)

◆長崎のペーロンは350年余の歴史があるそうだが、単に長崎にとどまらず、近年は兵庫県相生市、熊本県などにも広がり、数年前から長崎の選手権大会にも参加するようになった。相生市の「磯風漕友会」などは2年続けて優勝をさらっている。またペーロンのルーツだった香港、シンガポール、沖縄などとも国際大会で交流するようになった。

Dscf1780 レース前のウォーミングアップ

◆小学校にあがって長崎市内に住むようになり、さらに高卒後上京して、進学・就職などでペーロンに接する機会が殆ど無くなったが、今回やっと「ペーロン」に乗り、漕ぐことができた。関東から同窓会に参加した我々男女老人3人の他に、相生から観戦ツアーに参加した人たち、地元の小学生を含む家族連れ等、老若男女28名が、「体験ペーロン」に乗り込んだ。ライフジャケットは着けるものの、参加費なし、準備運動なし、事前レクチャーなし、揺れる舟に後ろから順に乗り込む。日に焼けた初老のオジサンの太鼓のズムに合わせて漕ぎ出す。なかなか旨く揃わないが、慣れてくると次第にスピードが出て、時速20~30kmは軽く出る。櫂の滴が顔や体に当たるが、これがまた気持ち良い。一旦終わりかけた頃、関西の元気のよいオバサンの「アンコール!」の声で、再度、半分ほどの距離を回漕する。本当に気持ちの良い体験だった。(終わり)
Dscf1784 予選レース折り返し中の写真

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長崎駅前にあるペーロンの勇姿像

2016年7月27日 (水)

熱海でブラタモリ(?)

◆ここ数年、毎年夏に熱海・伊豆方面へ泊りがけで家族旅行することが恒例行事となっている。今回、熱海には1泊、翌日伊豆高原のリゾートホテルに1泊した。24日朝方、「日本丸」が熱海港に入港してきた。よくあんな狭い場所に入港できるものだと感心する。夜の花火大会が目的らしいが、我々はパスして午後には伊豆高原に移動。

Dscf1746 日本丸の熱海港入港

◆熱海はいつも通り過ぎるだけで、じっくり街中を見て歩くことなど殆どない。先日放送された「ブラタモリ」に触発されて、今回少しでも歴史に触れてみようと散策してみた。熱海の歴史は徳川家康が湯治に訪れ、代々将軍が「お汲み湯」として江戸城に運搬させたことくらいしか知らない。運搬は陸路から海路に変更され、吉宗の時代にピークとなって、約3600樽の温泉が江戸城に献上されたという。明治維新後は華族、名だたる政界の重鎮、財界の大物、著名な文人墨客が別荘を構え、多くの名士が来遊した。明治28年には小田原~熱海間に「人車鉄道」が開通するなど、大正・昭和にかけて「保養地」としての地位を確立した。
Dscf1736 往時を偲ばせる旅館

◆熱海には1970年以降、何度も訪れているが、こうした歴史を知ったのは最近のことで、以前は単なる歓楽温泉地としての認識しかなく、日本経済に左右された盛衰を見てきただけだった。今回、偶々入った行列のできるラーメン屋は、昭和の薫りを漂わせた相当古い店で、壁に貼ってある1枚のセピア色の写真が目に入った。それは熱海の海岸沿いに立つ低い堤防の写真だった。まさに小津安二郎監督「東京物語」で笠智衆、東山千栄子の老夫婦がこの上に座って「ボチボチ帰ろうか」とつぶやくシーンのロケ現場だった。少なくとも昭和28年(1953)以前の写真だろう。その頃から熱海は急に俗化していったのだ。

◆熱海温泉の歴史で重要な位置を占めてきたのが『熱海七湯』と呼ばれる自噴の温泉で、熱海の名湯として知られ、大正年代にはまだ残っていたとのこと。熱海七湯と言っても当時の温泉施設を復元したモニュメントで、わずかに噴気や熱気、少量の温泉が染み出ているものもあるが、入浴施設ではない。その中でも大湯間欠泉は見ものだ。大正時代初期までは、一定のリズムで規則正しく、多量の熱湯を噴き上げる自噴泉だったが、関東大震災後、噴出が衰え、昭和37年に人工的に噴出する間欠泉として整備され、市の文化財として保存されている。たまたまシャッターを向けた瞬間、1日4度しか噴出しないという温泉と蒸気が噴出したのは出来過ぎだった

Dscf1728 大湯(おおゆ)間欠泉

◆その他の熱海七湯
Dscf1724 野中の湯

Dscf1727 小沢の湯
Dscf1735 風呂の湯・水の湯
Photo 清左衛門の湯
Photo_2 河原の湯
Photo_3 目の湯
以上「熱海七湯」でした。

2016年6月28日 (火)

南房総・小さな旅(後)

(3)鋸山・恐怖の地獄のぞき
◆鋸山と言えば、内房線の浜金谷駅と保田駅の間を塞ぐように広がる山で、標高は330mと意外に低い。浦賀水道を挟んで三浦半島の三浦海岸と面する。山の形がギザギザの鋸のようだから、付いた名前だと言われるまでもなく、誰もが思う。かつて江戸湾に入る船の格好の目印となった。正式には乾坤山日本寺と号し、1300年の歴史を有する関東最古の古刹で、山の南斜面10万坪ほどが境内となっている。様々の宗派を変遷し、江戸時代初期に曹洞宗の寺院になってから、現在に至っている。

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◆もう一つの特徴は山全体が凝灰岩からなり、江戸時代から建築資材の産地として利用されてきた。幕末から戦前・戦後を通して良質な石材が切り出され、昭和57年まで採石は続いたという。確かに垂直に切り立った崖は人の手によるもの以外、何物でもないだろう。しかしよくこんな高さまで切り出したものだと感心する他ない。地獄のぞきという展望台は、石切り場跡の絶壁の上に突き出た岩盤の上にあり、100m下を見下ろすことができるが、高所恐怖症のこの身にとっては、手すりがあっても足は竦み、目眩がするほど。結局鋸の歯は人が切り出した岩の形だったのだ。

Dscf1698 地獄のぞき展望台

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展望台から切り出した岩場跡を覗く、下から見上げる人が蟻のように小さく見える。

◆実はこの鋸山には、今から51年前、学生時代に来たことがあった。しかし、地獄のぞきの展望台以外殆ど覚えていない。多くの磨崖仏、羅漢像などがあったのだが、当時は歴史にも仏像にも殆ど関心がなかったからだろう。今回百尺観音は拝観したが、座像としては日本一大きい大仏(石像)は時間の都合で見ることはできなかった。

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百尺観音像、昭和41年完成というから仏像としては新しい。写真は筆者。

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樹々の間から漏れ出す光が神々しかった。

(4)江川海岸
◆近年、南米ボリビアのウユニ塩湖の不思議な光景天空の鏡として有名になった。千葉県木更津の江川海岸がそのウユニ塩湖に似ているとして、スポットを浴びだしたとのこと。遠浅の海は無風状態のとき、空の青と白い雲が海面に映り、一体化した光景になると言う。しかし、さざ波が立っただけでもその光景は消えてしまうとのことで、滅多に巡り合うことはないらしい。

◆もう一つ沖に向かって電柱が続く不思議な光景がある。まるで「千と千尋の神隠し」に出てきた電車が海に向かって走る際の架線のようだと言うのである。その映画は珍しく見たが、言われてみれば「そうかな」という程度。正体はアサリの密漁を取り締まる監視小屋に電気を送る電線だという。しかし、その光景も含め、東京湾に沈む夕陽が最高のスポットということで、この小さな旅の最後に、大きな夕陽を写真に収めた。

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江川海岸にて夕陽を観る。水平線近くに電柱が続く。


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今まさに沈まんとする東京湾の夕陽。 (本稿終り)

2016年6月27日 (月)

南房総・小さな旅(前)

今話題の南房総新旧スポットを巡る「日帰りバスツアー」に参加してきた。朝から本格的梅雨に見舞われ、雨男の面目躍如といったところだが、横浜駅前を9:30スタート、海ほたる経由、有名になった木更津の「ホテル三日月」を右に見て、上総山田駅で1輌だけの小湊鉄道に乗る。この間1時間半ほど。随分近くなったものだ。

1)濃溝(のうみぞ)の滝
今回参加を決めたのは旅行会社のこの写真が決め手だった。ジブリの世界に迷いこんだような幻想的な景観が謳い文句だった。


Photo  阪急トラピックスPRより

ところが案の定、この雨では水は赤く濁り、音をたて濁流となって流れていく。この景観は季節により、天候により、時間によって姿を大きく変えるというが、さもありなん。場所は千葉県君津市笹、養老渓谷からさらに奥まったところにある清水渓流公園内にあり、滝までの遊歩道が緑のトンネルの中を歩くようで素晴らしい。

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(6/23日、濁流の濃溝の滝、上の写真のように水際まで降りられない)

この短い洞窟の中の段々になった小さな滝は、かつて大きく迂回していた川を洞窟の中を通すため、人工的に作られたとのこと。ある若い人がネットに投稿したのが切っ掛けとなり、有名になったそうだ。今頃は蛍が見られ、秋には紅葉が素晴しそう。もう一度条件の良い時に訪れてみたいスポットではある。

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(同じ場所であることが信じられない。ウィキペディアより)

(2)仁右衛門島
◆太平洋に面した千葉県鴨川市太海。ここは過去何度も前を通っていたので、「仁右衛門島」があることは知っていたが、一度も渡ったことはなかった。この島は代々「平野仁右衛門」という人が所有しており、現在推定38代目の仁右衛門さんが居住しているという。日本家屋の立派な屋敷があり、庭とともに観光客に公開されている。周囲約4kmで千葉県で最も大きな島だという。温暖な気候で1年中四季の花々で途絶えることはない。千葉県指定名勝で、新日本百景にも選ばれている。

Dscf1682 (最短で岸から50m?)

◆治承4年、源頼朝が小田原の石橋山で挙兵後、安房の国に敗走したことは有名だが、その時この島に渡り、平野氏に匿われたという伝承がある。その岩屋が残っているというが、これが史実かどうか裏付ける史料は残されていない。確かなところでは江戸時代の宝永元年(1704年)に現在の家屋が建て直されたという。

Dscf1684 玄関から奥座敷を望む

Dscf1686 庭園のソテツの木

Dscf1692 頼朝が隠れた岩屋とされる

◆と、そんな話は面白くも何ともない。島に渡るには15人程乗れる二丁艪の和船を、歳はとっても60はおろか、80歳に近いお爺さんたちが、元気に漕いで渡してくれる。岸を離れて10mほど漕ぎ出したら、岸壁から「オーイ」という掛け声がかかった。皆、何事かと振り返る。そこで、すかさず「船方さんよ~」と応えたら、どっと笑いが起きた。また隣に座るカミさんに「艪漕ぎの船に乗ったのは、矢切の渡し以来だね」と声をかけると、聞いていたおばさんが「あれに乗ったんですか」と。そこで、「ええ、この人が連れて逃げてよ~と言ったもんですから」。(爆笑) -続く-

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左に見えるのが仁右衛島。奥の船着き場まで200mほど、所要5分、ピストン運航している。

2016年5月26日 (木)

南西諸島宮古島にて

◆真っ青な空に白い雲、エメラルド色の遠浅の海、優美な曲線を描いてその海の上をどこまでも伸びる長い橋。何のCMだったか覚えていないが、その風景が実際に目の前にあった。昨年完成した宮古本島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋は通行料無料の橋としては日本最長で、3540mあるそうだ。

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(写真は宮古島と池間島を結ぶ池間大橋、全長1425m、1992年開通。)

◆自分は古今の名画・芸術作品の鑑賞もいいが、どちらかと言えば自然が創り出す造形美の方に惹かれることが多い。「下地島の通り池」という場所に案内された。下地島は伊良部島の南西に細い水路を挟んで並ぶ面積10㎢足らずの小さな島。「通り池」という名前を聞いて、大した期待もせずに、小さな亜熱帯植物の林の中を歩いた。数分歩くと突然ポッカリ視界が開けて、大小二つの円形の池が並んで見えた。いわゆる池というイメージではない。中を覗いて驚いた。眼下30mはあろうかと思われる崖下に、群青色の深いブルーの水が満ち、底は全く見えない。岩肌はゴツゴツして徳利型になっているので、一度落ちたら登って来れないだろう。

Dscf1602 ミニ・ジャングルの中を歩く。

◆海岸近くにある海側の池が直系75m、水深50m。陸側の池が直径55m、水深40mだそうで、2つの池は海底で繋がり、海側の池は海底洞穴で外洋とも通じているという。「通り池」という名は、このような池の構造に由来するとのこと。この地形は海岸にあった鍾乳洞が波によって浸食されて大きくなり、天井が部分的に崩落して形成されたものらしい。このような地形はブルーホールとも呼ばれる。池の周辺には石灰岩が点在するカルスト地形が発達している。
Dscf1603 陸側の池

◆2つの池は潮の干満につれて水面が上下し、水温の変化に伴って色が変化して見える。また、深度によって塩分濃度や水温に差があるため、多種多様な魚介類が分布しており、神秘的な景観とも相俟って、絶好のダイビングスポットになっているそうだ。このような地形は希少であり、周囲に学術上貴重な植物が分布していることから、通り池は、2006年7月、国の名勝及び天然記念物に指定された

Dscf1607_2 海側の池

◆奄美諸島から琉球列島を経て、与那国島まで弓状に連なる南西諸島は古来から幾度となく地震と津波に襲われている。なかでも1771年(明和8年)4月に起こった八重山地震(M7.6)では最大高さ30mと推定される津波が、宮古列島、石垣島周辺を襲い、全体で12000人の犠牲者がでたという。津波によって打ち上げらた珊瑚礁隗は津波石と呼ばれ、こうした津波石が綺麗な浅瀬にゴロゴロ立ち並ぶ不思議な景観呈している海岸があった。佐和田の浜という海岸でこれらの岩石も明和の八重山地震の津波が運んできたものとされている。遠浅の浜に多数の巨岩が点在する独特の風景は自然の猛威を示すとともに、一種の造形美を創り出している。改めて津波の凄さに驚かされた。

Dscf1595 津波石が点在する佐和田の浜

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