旅行・地域

2016年11月 5日 (土)

横須賀軍港巡りと猿島見学記(下)

◆横須賀三笠公園の1.7kmほど沖にある猿島。東西約200m、南北約450m、周囲約1.6km、標高約40mの東京湾で最大の自然島だ。緑豊かな無人島でもある。この島の特徴と言えば、縄文・弥生の遺跡はともかく、幕末ペリー艦隊が来航した折、東京湾の測量を行って海図を作成。その海図には「猿島」を勝手に”PERRY ISLAND”(ペリー島)と命名している。江戸防備の必要性を痛感した幕府は品川などの沿岸に砲台を築いた。猿島もその一環で台場が据えられたように、幕末から明治、昭和にかけて軍の要塞だったということにある。

◆明治新政府は明治13年、観音崎砲台の建設から始まり、明治17年にかけて東京湾要塞を建設、防備を強化した。しかし、幕末から明治にかけて、これらの砲台が外国船を砲撃したことは一度もなかった。要塞としてその役目を果たしたのは、太平洋戦争時に猿島の砲台が陸軍から海軍に移管され、横須賀軍港を守る防空砲台として再生されたことによる。太平洋戦争末期には、本土空襲のため来襲したB-29に対して、高角砲で対抗するも、殆ど届かない。それでも記録によれば2機撃墜し、米軍に恐れらたという。

◆三笠公園横の三笠桟橋から猿島行に乗船、約10分で猿島桟橋に着く。年配の親切な専門ガイドが2時間ほど島内をくまなく案内してくれた。2015年3月に猿島砲台跡が国史跡に指定されたとのことだが、確かに、複数のレンガ積みの兵舎、弾薬庫、砲台跡、12.7cm高角砲砲座跡、それらを結ぶ切り通しや、トンネルなど見応え十分だ。レンガ積には明治10年頃主流となった「フランス積」、明治20年頃主流となった「イギリス積」の両方が美しい景観を見せている。しかし、薄暗い中、一人でこの要塞を巡るとすれば、兵士たちの怨霊が聞こえてきそうで怖いだろうなという気がする。

Dscf1838 最も有名な個所の一つ

Dscf1836 
兵舎跡、意外に湿気はない。ここは落書きが消されていた。

Dscf1840
愛のトンネル全長90m、幅4m、高さ4.3mのアーチ状トンネル。ここで、コスプレ撮影をやっていた。

Dscf1842 至る所こういう個所が点在。

Dscf1843

こうした施設を作るため、人手をかけ掘削して、構築したことに唯々恐れ入る。

◆戦後、この要塞跡は放置され、管理外に置かれたため人が出入りし、荒れ果てていたという。その証拠に複数の兵舎跡や弾薬庫跡の漆喰壁には無数の落書きが残されており、無残だ。近年この島の価値が再認識され、整備も進み、2015年3月に国史跡に指定された。その後は急速に入園者が増加、15年度は156千余の人が訪れたという。夏場には海水浴、BBQ、釣りなどのレジャー客で大変な賑わいを見せるそうだ。また島のレンガ造りの雰囲気が有名なアニメのシーンに似ているということで、コスプレの聖地にもなっているという。この日も何組かのグループの姿が見られた。歴史とレジャーが同居した無人島、大切にしたい島である。(終わり)

Dscf1844 猿島の一部

Dscf1845 
猿島桟橋と三笠桟橋を結ぶ運行船

2016年11月 4日 (金)

横須賀軍港巡りと猿島見学記(上)

先日、船上から横須賀軍港を見学する機会を持った。横須賀港は何度か訪れているが、海上から見学するのは初めての体験。見学クルーズはほぼ毎日出港しているようで、猿島見学と合わせて、近年特に人気のあるコースとなっている。

◆横須賀港は今から163年前、米国ペリー艦隊が浦賀に来航して以来、幕府の高官小栗上野介の国防に関する進取な英断で、フランスの技術者ベルニーを招致。横須賀に製鉄所、造船所、ドック、海軍工廠などを建造した。明治新政府に代わってもさらに手を加え、軍港として発展を遂げた。なぜ横須賀だったのか。ひとつは江戸に近かったこと、またリアス式の穏やかな入り江が軍港に適していたことなどによる。

Dscf1807 Dscf1808
 ベルニー公園に並ぶ 上)小栗上野介と 下)ベルニー銅像

◆戦前の日本の主な海軍基地は横須賀佐世保舞鶴だった。現在の海上自衛隊はこれら4基地を引き継ぐとともに、大きく分けて護衛艦隊航空群潜水艦隊その他部門が全国に点在し、これらの現場部門を統括する海上自衛隊司令部は横須賀に置かれている。また潜水艦隊は横須賀、呉の2基地だけである。横須賀港は横須賀本港と長浦湾に分れ、長浦湾の船越地区に海上自衛隊司令部が置かれている。

◆横須賀本港の汐入ターミナルから軍港巡りのクルーズが出港。分りやすいユーモアある解説者の案内で、本港から長浦港を巡ってターミナルへ戻る。出港してすぐ右側に明治時代に造られた係留ドックが2基あるが、これは海上よりも陸地から見た方が分りやすそうだ。今も現役で活躍中とのことで驚き。その先に「おやしお」型潜水艦と「そうりゅう」型潜水艦が係留されていた。さらに進むとアメリカ海軍横須賀基地となり、イージス艦が見られたが、空母「ドナルド・レーガン」は残念ながら、作戦中なのか留守だった。

Dscf1810 おやしお型潜水艦

◆船は大きく左折して長浦湾に入る。ここではいくつかの種類の護衛艦が見られるが、海上自衛隊全体で23種類あるそうだ。もっとも大型のヘリ空母「ひゅうが」や「いずも」、輸送艦「おおすみ」などは見られなかったが、ペルシャ湾の掃海作戦で活躍し、今は静かに退役を待つ木造の掃海艦2隻が見られたことは幸いだった。金属製の艦艇は掃海作業には適さないので、新造船はプラスチックになるとのこと。

Dscf1823 
廃船を待つ木造の掃海艦

Dscf1814
対空、ミサイル、魚雷、など多様な装備の護衛艦

◆長浦港から横須賀本港に戻る帰路はショートカットするように狭い水路を通った。どうやら人工的な水路では?と思ったら、まさにこの水路は明治の頃、手作業で掘削した「新井掘削水路」と呼ばれ、半島を分断して両港を結んだもの。本港の海岸側にも数隻の各種艦艇が見られたが、45分のクルージングでイージス艦数隻をはじめ、20数艦を外観のみ見学したが、広い港のあちこちに点在しているので、散乱している感がある。

Dscf1826 
人力で建造した新井掘削水路

Dscf1829

◆日本の領海を警備する任務は海上保安庁の役目であり、自衛隊は何をやっているのかと思う人も多いだろうが、確かに領海警備のため海保の予算、人員を増やす必要はある。しかし自衛隊は海外においてトータルで後方支援や、復興支援PKO(国連平和維持活動)、難民救済甚大災害時の緊急援助在外邦人輸送海賊対処など幅広い活躍をしている。(自衛隊HPより)。また米、韓、豪、インドなどとの共同訓練で抑止力をPRして不法な侵略を牽制する役目を果たしている。国民は海外での貢献などは断片的にしか知らされていない。逆に駆けつけ警護など新たな任務を付与するたびに、野党やメディアは騒ぎ立てる。本当は海外における活動への現地の人達の評価などを、もっと積極的に報道すべきではないだろうか。

2016年8月 2日 (火)

サマータイム イン NAGASAKI

7月30日から8月1日まで、2泊3日で故郷長崎を訪れた。第一の目的は7/30日に開かれた小学校の同窓会出席で、1956年に卒業して今年で60年経過した。オリンピックの年開催が決まりで、今回は8回目となる。5人いた先生は一人だけとなり、卒寿を迎えられた女性の先生が今回も元気なお姿を見せてくれた。
前々回52名、前回39名、今回37名と回数を重ねるにつれ参加者も少なくなるが、少なくとも次回の東京オリンピックの年までは続くだろうと確信する。


Dscf1770 
会場の稲佐山展望レストラン(左側)

さて、会場は2012年に「世界新三大夜景」(長崎・香港・モナコ)に認定された長崎の夜景を見下ろす「稲佐山・山頂展望台レストラン」。因みに我母校はこの山の麓にあり、稲佐小学校と称した。また7月30、31日は「長崎みなとまつり」でもあり、美しい夜景をバックに数千発の花火が打ち上げられたが、やはり花火は下から夜空をバックに見上げるもの。バックが宝石を散りばめたような夜景なれば、相殺しあってあまりよろしくない。ガラス越しだから音の迫力も殆ど届かず、むしろ話の花がアチコチで咲き続ける。

Dscf1775 ゴーストがガラスに映る。

【ペーロンを体験】
◆今回の長崎行のもう一つの目的は、「長崎みなとまつり」の一環、長崎ペーロン選手権大会の中で行われる「体験ペーロン」への参加だった。幼稚園まで長崎港外の漁村で過ごした体験からペーロンは心の故郷でもあった。当時のペーロンはそうした漁村の青年団・大人達の集落の威信を懸けた競漕の場だった。長崎の中心部から見ると、郊外の海辺に面したローカルで素朴な行事だったが、経済成長とともに広がりを見せ、昭和52年から長崎港内でも始まるようになった。そして一般男子だけでなく、職域対抗レース、中学校対抗、女性対抗など多くの市民が参加する長崎を代表する夏の伝統行事となっていった。

Photo 
(今年の一般の部は各地区予選を勝ち残った21チームが出艇。)

◆長崎のペーロンは350年余の歴史があるそうだが、単に長崎にとどまらず、近年は兵庫県相生市、熊本県などにも広がり、数年前から長崎の選手権大会にも参加するようになった。相生市の「磯風漕友会」などは2年続けて優勝をさらっている。またペーロンのルーツだった香港、シンガポール、沖縄などとも国際大会で交流するようになった。

Dscf1780 レース前のウォーミングアップ

◆小学校にあがって長崎市内に住むようになり、さらに高卒後上京して、進学・就職などでペーロンに接する機会が殆ど無くなったが、今回やっと「ペーロン」に乗り、漕ぐことができた。関東から同窓会に参加した我々男女老人3人の他に、相生から観戦ツアーに参加した人たち、地元の小学生を含む家族連れ等、老若男女28名が、「体験ペーロン」に乗り込んだ。ライフジャケットは着けるものの、参加費なし、準備運動なし、事前レクチャーなし、揺れる舟に後ろから順に乗り込む。日に焼けた初老のオジサンの太鼓のズムに合わせて漕ぎ出す。なかなか旨く揃わないが、慣れてくると次第にスピードが出て、時速20~30kmは軽く出る。櫂の滴が顔や体に当たるが、これがまた気持ち良い。一旦終わりかけた頃、関西の元気のよいオバサンの「アンコール!」の声で、再度、半分ほどの距離を回漕する。本当に気持ちの良い体験だった。(終わり)
Dscf1784 予選レース折り返し中の写真

Dscf1791 
長崎駅前にあるペーロンの勇姿像

2016年7月27日 (水)

熱海でブラタモリ(?)

◆ここ数年、毎年夏に熱海・伊豆方面へ泊りがけで家族旅行することが恒例行事となっている。今回、熱海には1泊、翌日伊豆高原のリゾートホテルに1泊した。24日朝方、「日本丸」が熱海港に入港してきた。よくあんな狭い場所に入港できるものだと感心する。夜の花火大会が目的らしいが、我々はパスして午後には伊豆高原に移動。

Dscf1746 日本丸の熱海港入港

◆熱海はいつも通り過ぎるだけで、じっくり街中を見て歩くことなど殆どない。先日放送された「ブラタモリ」に触発されて、今回少しでも歴史に触れてみようと散策してみた。熱海の歴史は徳川家康が湯治に訪れ、代々将軍が「お汲み湯」として江戸城に運搬させたことくらいしか知らない。運搬は陸路から海路に変更され、吉宗の時代にピークとなって、約3600樽の温泉が江戸城に献上されたという。明治維新後は華族、名だたる政界の重鎮、財界の大物、著名な文人墨客が別荘を構え、多くの名士が来遊した。明治28年には小田原~熱海間に「人車鉄道」が開通するなど、大正・昭和にかけて「保養地」としての地位を確立した。
Dscf1736 往時を偲ばせる旅館

◆熱海には1970年以降、何度も訪れているが、こうした歴史を知ったのは最近のことで、以前は単なる歓楽温泉地としての認識しかなく、日本経済に左右された盛衰を見てきただけだった。今回、偶々入った行列のできるラーメン屋は、昭和の薫りを漂わせた相当古い店で、壁に貼ってある1枚のセピア色の写真が目に入った。それは熱海の海岸沿いに立つ低い堤防の写真だった。まさに小津安二郎監督「東京物語」で笠智衆、東山千栄子の老夫婦がこの上に座って「ボチボチ帰ろうか」とつぶやくシーンのロケ現場だった。少なくとも昭和28年(1953)以前の写真だろう。その頃から熱海は急に俗化していったのだ。

◆熱海温泉の歴史で重要な位置を占めてきたのが『熱海七湯』と呼ばれる自噴の温泉で、熱海の名湯として知られ、大正年代にはまだ残っていたとのこと。熱海七湯と言っても当時の温泉施設を復元したモニュメントで、わずかに噴気や熱気、少量の温泉が染み出ているものもあるが、入浴施設ではない。その中でも大湯間欠泉は見ものだ。大正時代初期までは、一定のリズムで規則正しく、多量の熱湯を噴き上げる自噴泉だったが、関東大震災後、噴出が衰え、昭和37年に人工的に噴出する間欠泉として整備され、市の文化財として保存されている。たまたまシャッターを向けた瞬間、1日4度しか噴出しないという温泉と蒸気が噴出したのは出来過ぎだった

Dscf1728 大湯(おおゆ)間欠泉

◆その他の熱海七湯
Dscf1724 野中の湯

Dscf1727 小沢の湯
Dscf1735 風呂の湯・水の湯
Photo 清左衛門の湯
Photo_2 河原の湯
Photo_3 目の湯
以上「熱海七湯」でした。

2016年6月28日 (火)

南房総・小さな旅(後)

(3)鋸山・恐怖の地獄のぞき
◆鋸山と言えば、内房線の浜金谷駅と保田駅の間を塞ぐように広がる山で、標高は330mと意外に低い。浦賀水道を挟んで三浦半島の三浦海岸と面する。山の形がギザギザの鋸のようだから、付いた名前だと言われるまでもなく、誰もが思う。かつて江戸湾に入る船の格好の目印となった。正式には乾坤山日本寺と号し、1300年の歴史を有する関東最古の古刹で、山の南斜面10万坪ほどが境内となっている。様々の宗派を変遷し、江戸時代初期に曹洞宗の寺院になってから、現在に至っている。

Dscf1701

◆もう一つの特徴は山全体が凝灰岩からなり、江戸時代から建築資材の産地として利用されてきた。幕末から戦前・戦後を通して良質な石材が切り出され、昭和57年まで採石は続いたという。確かに垂直に切り立った崖は人の手によるもの以外、何物でもないだろう。しかしよくこんな高さまで切り出したものだと感心する他ない。地獄のぞきという展望台は、石切り場跡の絶壁の上に突き出た岩盤の上にあり、100m下を見下ろすことができるが、高所恐怖症のこの身にとっては、手すりがあっても足は竦み、目眩がするほど。結局鋸の歯は人が切り出した岩の形だったのだ。

Dscf1698 地獄のぞき展望台

Dscf1702

展望台から切り出した岩場跡を覗く、下から見上げる人が蟻のように小さく見える。

◆実はこの鋸山には、今から51年前、学生時代に来たことがあった。しかし、地獄のぞきの展望台以外殆ど覚えていない。多くの磨崖仏、羅漢像などがあったのだが、当時は歴史にも仏像にも殆ど関心がなかったからだろう。今回百尺観音は拝観したが、座像としては日本一大きい大仏(石像)は時間の都合で見ることはできなかった。

Dscf1708
百尺観音像、昭和41年完成というから仏像としては新しい。写真は筆者。

Dscf1711
樹々の間から漏れ出す光が神々しかった。

(4)江川海岸
◆近年、南米ボリビアのウユニ塩湖の不思議な光景天空の鏡として有名になった。千葉県木更津の江川海岸がそのウユニ塩湖に似ているとして、スポットを浴びだしたとのこと。遠浅の海は無風状態のとき、空の青と白い雲が海面に映り、一体化した光景になると言う。しかし、さざ波が立っただけでもその光景は消えてしまうとのことで、滅多に巡り合うことはないらしい。

◆もう一つ沖に向かって電柱が続く不思議な光景がある。まるで「千と千尋の神隠し」に出てきた電車が海に向かって走る際の架線のようだと言うのである。その映画は珍しく見たが、言われてみれば「そうかな」という程度。正体はアサリの密漁を取り締まる監視小屋に電気を送る電線だという。しかし、その光景も含め、東京湾に沈む夕陽が最高のスポットということで、この小さな旅の最後に、大きな夕陽を写真に収めた。

Dscf1718
江川海岸にて夕陽を観る。水平線近くに電柱が続く。


Dscf1721
今まさに沈まんとする東京湾の夕陽。 (本稿終り)

2016年6月27日 (月)

南房総・小さな旅(前)

今話題の南房総新旧スポットを巡る「日帰りバスツアー」に参加してきた。朝から本格的梅雨に見舞われ、雨男の面目躍如といったところだが、横浜駅前を9:30スタート、海ほたる経由、有名になった木更津の「ホテル三日月」を右に見て、上総山田駅で1輌だけの小湊鉄道に乗る。この間1時間半ほど。随分近くなったものだ。

1)濃溝(のうみぞ)の滝
今回参加を決めたのは旅行会社のこの写真が決め手だった。ジブリの世界に迷いこんだような幻想的な景観が謳い文句だった。


Photo  阪急トラピックスPRより

ところが案の定、この雨では水は赤く濁り、音をたて濁流となって流れていく。この景観は季節により、天候により、時間によって姿を大きく変えるというが、さもありなん。場所は千葉県君津市笹、養老渓谷からさらに奥まったところにある清水渓流公園内にあり、滝までの遊歩道が緑のトンネルの中を歩くようで素晴らしい。

Dscf1678
(6/23日、濁流の濃溝の滝、上の写真のように水際まで降りられない)

この短い洞窟の中の段々になった小さな滝は、かつて大きく迂回していた川を洞窟の中を通すため、人工的に作られたとのこと。ある若い人がネットに投稿したのが切っ掛けとなり、有名になったそうだ。今頃は蛍が見られ、秋には紅葉が素晴しそう。もう一度条件の良い時に訪れてみたいスポットではある。

2 
(同じ場所であることが信じられない。ウィキペディアより)

(2)仁右衛門島
◆太平洋に面した千葉県鴨川市太海。ここは過去何度も前を通っていたので、「仁右衛門島」があることは知っていたが、一度も渡ったことはなかった。この島は代々「平野仁右衛門」という人が所有しており、現在推定38代目の仁右衛門さんが居住しているという。日本家屋の立派な屋敷があり、庭とともに観光客に公開されている。周囲約4kmで千葉県で最も大きな島だという。温暖な気候で1年中四季の花々で途絶えることはない。千葉県指定名勝で、新日本百景にも選ばれている。

Dscf1682 (最短で岸から50m?)

◆治承4年、源頼朝が小田原の石橋山で挙兵後、安房の国に敗走したことは有名だが、その時この島に渡り、平野氏に匿われたという伝承がある。その岩屋が残っているというが、これが史実かどうか裏付ける史料は残されていない。確かなところでは江戸時代の宝永元年(1704年)に現在の家屋が建て直されたという。

Dscf1684 玄関から奥座敷を望む

Dscf1686 庭園のソテツの木

Dscf1692 頼朝が隠れた岩屋とされる

◆と、そんな話は面白くも何ともない。島に渡るには15人程乗れる二丁艪の和船を、歳はとっても60はおろか、80歳に近いお爺さんたちが、元気に漕いで渡してくれる。岸を離れて10mほど漕ぎ出したら、岸壁から「オーイ」という掛け声がかかった。皆、何事かと振り返る。そこで、すかさず「船方さんよ~」と応えたら、どっと笑いが起きた。また隣に座るカミさんに「艪漕ぎの船に乗ったのは、矢切の渡し以来だね」と声をかけると、聞いていたおばさんが「あれに乗ったんですか」と。そこで、「ええ、この人が連れて逃げてよ~と言ったもんですから」。(爆笑) -続く-

Dscf1680 
左に見えるのが仁右衛島。奥の船着き場まで200mほど、所要5分、ピストン運航している。

2016年5月26日 (木)

南西諸島宮古島にて

◆真っ青な空に白い雲、エメラルド色の遠浅の海、優美な曲線を描いてその海の上をどこまでも伸びる長い橋。何のCMだったか覚えていないが、その風景が実際に目の前にあった。昨年完成した宮古本島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋は通行料無料の橋としては日本最長で、3540mあるそうだ。

Dscf1577

(写真は宮古島と池間島を結ぶ池間大橋、全長1425m、1992年開通。)

◆自分は古今の名画・芸術作品の鑑賞もいいが、どちらかと言えば自然が創り出す造形美の方に惹かれることが多い。「下地島の通り池」という場所に案内された。下地島は伊良部島の南西に細い水路を挟んで並ぶ面積10㎢足らずの小さな島。「通り池」という名前を聞いて、大した期待もせずに、小さな亜熱帯植物の林の中を歩いた。数分歩くと突然ポッカリ視界が開けて、大小二つの円形の池が並んで見えた。いわゆる池というイメージではない。中を覗いて驚いた。眼下30mはあろうかと思われる崖下に、群青色の深いブルーの水が満ち、底は全く見えない。岩肌はゴツゴツして徳利型になっているので、一度落ちたら登って来れないだろう。

Dscf1602 ミニ・ジャングルの中を歩く。

◆海岸近くにある海側の池が直系75m、水深50m。陸側の池が直径55m、水深40mだそうで、2つの池は海底で繋がり、海側の池は海底洞穴で外洋とも通じているという。「通り池」という名は、このような池の構造に由来するとのこと。この地形は海岸にあった鍾乳洞が波によって浸食されて大きくなり、天井が部分的に崩落して形成されたものらしい。このような地形はブルーホールとも呼ばれる。池の周辺には石灰岩が点在するカルスト地形が発達している。
Dscf1603 陸側の池

◆2つの池は潮の干満につれて水面が上下し、水温の変化に伴って色が変化して見える。また、深度によって塩分濃度や水温に差があるため、多種多様な魚介類が分布しており、神秘的な景観とも相俟って、絶好のダイビングスポットになっているそうだ。このような地形は希少であり、周囲に学術上貴重な植物が分布していることから、通り池は、2006年7月、国の名勝及び天然記念物に指定された

Dscf1607_2 海側の池

◆奄美諸島から琉球列島を経て、与那国島まで弓状に連なる南西諸島は古来から幾度となく地震と津波に襲われている。なかでも1771年(明和8年)4月に起こった八重山地震(M7.6)では最大高さ30mと推定される津波が、宮古列島、石垣島周辺を襲い、全体で12000人の犠牲者がでたという。津波によって打ち上げらた珊瑚礁隗は津波石と呼ばれ、こうした津波石が綺麗な浅瀬にゴロゴロ立ち並ぶ不思議な景観呈している海岸があった。佐和田の浜という海岸でこれらの岩石も明和の八重山地震の津波が運んできたものとされている。遠浅の浜に多数の巨岩が点在する独特の風景は自然の猛威を示すとともに、一種の造形美を創り出している。改めて津波の凄さに驚かされた。

Dscf1595 津波石が点在する佐和田の浜

2016年5月24日 (火)

「敵艦見ゆ」のエピソード

◆先日、南西諸島9島巡りのツアーに参加した時の事、宮古島の島内観光で、綾小路きみまろの女性版といった感じのベテラン・バスガイドに遭遇した。「年の頃は40代では若すぎる、50前後か、いやもっといっているだろう、南国の強い日差しが深いしわを顔に刻んでいるところを見ると60代、ひょっとして70近い?」そんな話を休憩中、客同士で話していた。

◆実に当意即妙の話術を持つガイドさんが、突然古い軍歌調の歌を歌いだした。「これは何を歌ったものか」と乗客に問うた。聞いたこともない歌だった。歌詞を聞いているうちに「日露戦争の敵艦見ゆ」に関連したものだと思った。終わってからその顛末を講談調にテンポよく語って聞かせた。沖縄の漁師たちがバルチック艦隊を発見し、命がけで通報に向かった話は脳裏の片隅に残っていた。帰ってから司馬遼太郎の「坂の上の雲」の「宮古島」と「敵艦見ゆ」の章を読み返してみた。

◆明治38年1905年5月、日本海軍はロシア・バルチック艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡を通るか、一刻も早く正確な情報が欲しかった。対馬海峡説に基づいて作戦を立てて備えていたので、津軽海峡を通ってくるとなれば、根底から変更せざる得なくなり、日本にとって一大危機となる。東郷司令長官率いる連合艦隊は、日本近海に哨戒船を張り巡らせ、情報収集に努めるが予定を過ぎてもなかなか姿を現さない。焦りは募るばかりだった。そしてついに5月27日未明、哨戒船信濃丸(6388t、汽船)が五島列島西方でロシア艦隊を発見。早朝4時45分敵艦隊見ゆ」の一報を発した。次いで「敵針路、対馬東水道を指す」と打電し続けた。本格的な戦闘開始時間は同日11:00頃。そして夕刻4:00頃には日本海海戦は終了した。本稿ではそのこと自体が目的ではない。

◆実は信濃丸が「敵艦見ゆ」を打電した日の数日前、22日か23日に那覇から宮古島へ向かうヤンバル船(小帆船)で走行中、北上しているバルチック艦隊に遭遇した若者がいた。那覇在住の奥浜牛という29歳の青年で、雑貨の商いを生業としていた。沖縄から宮古島までは300km。遭遇した場所は宮古島の南南東150km地点と推定されている。彼は一刻も早く知らせるべく、宮古島へ急ぎ、25日10時頃、ようやく今の平良港に到着した。この目撃情報を巡る宮古島の伝承「宮古島久松五勇士」が本稿の目的である。

◆島庁は騒然となった。駐在していた警察官も固い人物で尋問、調書作成に無駄な時間を費やした。当時の宮古島には通信施設がなかったため、島の役人・長老たちの会議の結果、郵便局のある石垣島にこの情報を知らせる使いを出すことに決定。半日ほどかけて漁を終わったばかりの若者5名を選抜した。彼ら5名は、全長5mほどの丸木舟(サバニ)に乗って26日早朝出発。石垣島までの170kmを15時間かけて必死に漕いだ。石垣島の東海岸に着いてから、30kmの山道を5時間かけて歩き、27日午前4時頃、八重山郵便局に飛び込んだ。早速那覇の本局に打電し、沖縄県庁を経由、、東京の大本営は10時頃受信した。

◆日本本土への連絡は信濃丸からの方が数時間早かったため、この情報が直接役に立つことはなかった。その後5人の行為は忘れられていたが、昭和5年、この事実が発掘され、当時の沖縄県知事が5人に金一封を贈った。決死の航海をしてから25年の歳月が流れていた。昭和9年5月18日の「大阪毎日新聞」が「遅かりし、一時間」という見出しで大々的にこのことを取り上げた。時間的な差はこの頃まだ正確に検証されていなかったからだが、この話題が国威発揚のための美談として、教科書にも掲載され、歌にも歌われるようになった。

◆横須賀の三笠記念艦にはこの新聞記事のコピーが展示されているそうだが、覚えていない。25年経った老人4人の写真(一人は死亡)が名前入りで掲載されているとのこと。戦後は軍国主義否定の観点から再び忘れ去られたが、宮古島、石垣島では郷土の英雄として語り継がれてきた。余談だが、5人のうち3人は与那覇という姓だった。ガイドさんも同じ与那覇姓。ある時乗客にこの話をしたら、「ガイドさんはその人達と兄弟ですか」と聞かれたそうな。「明治生まれの人と同年代じゃ、わたしゃ妖怪か?」と怒ったふりをしていた。(笑い)

2016年4月14日 (木)

城址公園桜巡りツアーに参加して(番外編)

【北杜市・山高神代ザクラ】

◆今回の最終目的地は城跡ではなく、「日本三大桜」の1つと言われる、山梨県北杜市の山高神代桜の見学である。北杜市とは平成の大合併によって生まれた新しい市名で、旧北巨摩郡の長坂町、大泉町、白州町、小淵沢町など8町村が合併したもの。山高神代桜は甲斐駒ヶ岳の麓、旧武川村の実相寺の境内にあるエドヒガンザクラの古木で、樹齢1800年とも2000年とも言われ、現存する桜としてはおそらく日本最古ではないかと言われている。こちらも1922年に国の天然記念物に指定され、「新日本銘木100選」にも選ばれた。


Dscf1432 境内前の水仙畑と桜の並木

山高神代桜は昭和23年に「3年以内に枯れ死する」と言う宣言を受けたが、その後専門家達による土壌改良工事や病気の駆除など必死の回復手当が平成の時代まで続き、現在では幹囲10.6m、樹高13.6mと日本最大級の桜の姿を保っている。しかし主幹部は枯れ込みが激しく奇形を呈しており、その上部にいくつか不釣り合いなほど細い枝が伸びているので、根元の太さに比べるとアンバランスで痛々しい。それだけ千数百年に亘って、何度も台風等で枝や幹が折れ、そこから新芽がでてきたであろうことを想起させる。ピーク時には20m~30mもあったであろうか。

Dscf1444 山高神代桜

◆因みに日本三大桜の残り二つは福島県の「三春の滝桜」、岐阜県の「根尾谷の淡墨桜」と言われているようだが、幸か不幸かまだお目にかかっていない。ところがこの実相寺の境内にはそれらの苗木が植えられており、またその他にも由緒ある桜の苗木が植えられ、かなりの大きさに育っている。100年後、200年後にはかなりの巨木に育っているだろう。さて、今回は天気はイマイチなれど、桜の満開期に訪れることができ、日本人に生まれてよかったと改めて思った旅行ではあった。

Dscf1435 
滝桜の小桜 (福島県三春町)

Dscf1438 
淡墨桜の小桜(岐阜県本巣市)

Dscf1440 
臥龍桜の小桜(岐阜県高山市)

Dscf1439


久保桜の小桜(山形県長井市)、奥は身延山しだれ桜の小桜 (本稿終わり)

2016年4月13日 (水)

城址公園桜巡りツアーに参加して(3)

【伊那高遠城址公園編】
テルテル坊主の効力があったのか、前日の雨も止んで、時折薄日が射すほどまでに回復した。高遠城址公園は人出も多く、外国人の姿もかなり見かける。通行を邪魔するように桜の枝が垂れ下がっているが、日本人のマナーが浸透しているようで枝を折るような不届き物は一人も見かけない。上田の獅子舞とお囃子がお祭りムードを盛り上げている。


Dscf1417 城址公園の入り口へと続く

Dscf1409 上田の獅子舞一行


◆高遠城址公園の桜は「タカトウコヒガンザクラ」という種類で、明治8年頃から植えはじめ、樹齢130年を超える老木を含め、現在では1500本を超えるという。花はソメイヨシノよりやや小振りながら、色はやや濃い目で可憐である。さすが「天下第一の桜」と称されるだけのことはある。また、本丸跡から眺める中央アルプスの眺望が素晴しい。城址公園周辺にも多くの桜が満開で、南アルプスの仙丈ケ岳が望めるスポットもある。
 

Dscf1412 本丸跡より中央アルプスを望む

Dscf1429 南アルプスの仙丈ヶ岳を望む

◆ここで高遠城の歴史に触れないわけにはいかない。高遠城は二つの川に挟まれた河岸段丘の突端に位置する平山城である。高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあったが、この地が諏訪から伊那谷に抜ける交通の要衝であり、駿河や遠江に進出するための重要な地点であった。戦国時代に海側への進出を目指す武田信玄が、この地を押さえることに成功。この時、高遠城の改築に関わったのが山本勘助だったと伝えられている。

◆城内に残る深い空堀や土塁からは、地形を巧みに利用した戦闘的な城の姿が浮かび上がってくる。1582年高遠城は5万の織田軍に攻められ、3千人の仁科盛信軍は善戦虚しく落城、盛信は落命する。江戸時代になると、高遠城は高遠藩(3万3千石)の政庁として、保科氏、鳥居氏、内藤氏と約270年間に亘って、上伊那の政治の中心となった。現在の高遠城は江戸時代の曲輪配置をそのままに残しており、昭和48年に国の史跡に指定され、平成18年に日本を代表する「日本百名城のひとつ」に選ばれている。

【藩校進徳館】高遠城内に設けられた藩校。第8代藩主内藤頼直が城内三の丸の屋敷に学問所進徳館を開いた。幕末の1860年に設立され、明治6年に廃校となる。残存期間はわずか13年だったが、500名を超える人材を輩出したという。1973年に国の史跡に指定された。大藩の藩校と違って、アットホームな趣があり、親しみを覚える。
Dscf1418 進徳館玄関

Dscf1422 進徳館玄関から門を見る

Dscf1420 進徳館中庭と学び舎

【絵島囲い屋敷】江戸城大奥のスキャンダル事件としてあまりにも有名な「絵島生島事件」。絵島は六代将軍家宣の愛妾である月光院に仕え、大年寄まであがって絶大な力を得るが、人気役者生島新五郎との不義密通が明るみに。幕府の権力闘争にも巻き込まれ、死罪を免れるが高遠に遠流と決まった。生島は三宅島に島流しとなる。絵島が高遠で流刑生活を送った屋敷を当時の見取り図をもとに復元したのが絵島囲み屋敷で、実は5月にNHKの歴史秘話ヒストリーで取り上げるそうで、スタッフが、先日綿密な取材にきたそうだ。平屋建ての質素ながら小奇麗な屋敷は、高貴な女性が住んでいたというイメージにぴったりで、格子で厳重に囲まれて昼夜10人近くの武士・足軽・下女に見張られていたと言う。絵島はこの地で28年間過ごし、1741年、61歳で病没した。(続く)

Dscf1424
絵島囲い屋敷(屏で囲まれている)

Dscf1427 
絵島の間

Dscf1428 囲炉裏などが見える。

より以前の記事一覧

2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ