文化・芸術

2016年7月 8日 (金)

縄文火炎土器の芸術性

◆「太陽の塔」など数多くの名作で不滅の芸術家となった岡本太郎は昭和26年40歳の時、東京国立博物館に展示されていた縄文式の火炎土器に出くわし、大きな衝撃を受けた。翌年美術雑誌「みずゑ」に「四次元との対話ー縄文土器論」を発表。それまでは縄文土器や土偶は美術品ではなく、単に考古学上の工芸品だったという位置づけだった。

◆京都造形芸術大学の石井匠氏はコラム「縄文と岡本太郎」の中で「彼は考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈を試みたのである。それが結果的に各方面に大きな衝撃を与え、建築やデザイン界を中心に縄文ブームが沸き起こった。そして弥生土器や埴輪を始まりとする『正当な』日本の伝統を覆し、以後原始美術として縄文土器は美術書の巻頭を飾るようになり、日本美術史が書き換えられた。今に続く縄文ブームの火付け役は岡本太郎だった」と書いている。
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江戸東京博物館「発掘された日本列島2016」展の縄文火炎土器

◆確かに、岡本太郎作品の数々の力強い曲線の美の原点は燃え盛るような火炎を表現した縄文土器にあるのではないかという思いがする。教科書にも掲載された東京国立博物館の縄文火炎土器は過去何度か見ていたが、全国各地で発掘された多くの弥生式土器に比べて、実用性はともかく、一度見たら強烈な印象が残る土器である。

◆先日江戸東京博物館で開催されている「発掘された日本列島2016」展を観てきた。多くの展示品の中では、どうしても縄文土器の火炎土器に目が行ってしまう。縄文式土器と弥生式土器を比べてみればその差は歴然だ。縄文文化は1万数千年前から2千数百年前まで繁栄を誇った日本先住民の文化で、狩猟・採集中心の生活スタイルだが、栗の実を採取するため栽培するなど、定住した痕跡も多数みられる。生活にゆとりがあったのか、縄文土器には表面に撚り糸文や縄目文のアクセサリーをつけ、BC3000年頃には芸術的な火炎土器まで創作するようになった。

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弥生式土器・甕棺、江戸東京博物館で

◆これに対して紀元前約500年から紀元後300年ほどの弥生時代には、大陸から稲作と金属の文明が伝播し、それとともに実用的でシンプルな弥生式土器が広まった。中には甕棺に使用した大きな土器まであった。狩猟中心のおおらかで平等な縄文社会に対し、部族間の争いと階級が芽生えた弥生時代。その代表例を青森県の三内丸山遺跡と、佐賀県の吉野ケ里遺跡にみてとれる。

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復元された三内丸山遺跡で(2009年8月)

◆三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間に亘って定住生活が営まれていた。建物、構造物等の大きさ、規模は約2000年後の吉野ケ里遺跡のそれと比べて遜色ないどころか、上回ってさえいる。違いと言えば吉野ケ里遺跡は敵の襲撃に備えて、環濠で張り巡らせているところだろうか。時代が新しくなっていくとともに、平和な社会が次第に争いの世界に変わっていく。今の世界を暗示しているようである。縄文土器と弥生土器、その差は人々の暮らしぶりの差に遭ったのだ。

2016年2月13日 (土)

「始皇帝と兵馬俑」展を観て

◆「東京国立博物館」で開催されている「始皇帝と大兵馬俑」展を観てきた。
1974年、中国の西安北東30kmにある秦の始皇帝陵墓とされる近くの農地で、住民が井戸を掘ろうとした際に偶然発見された兵馬俑は、その後の本格的な調査で、20世紀最大の考古学の発見という大ニュースとなって世界中を駆け巡った。その時の写真を見た第一印象はあまりのリアルさに、像の中に人間が入っているのかと思ったりしたが、いつか実物を見たいものと思っていた。しかし40年以上経ってこの展覧会を観て、初めてニュースで知った時の新鮮な驚きは消えていた。既にTV映像等で何度も接していたからだろう。


始皇帝陵と兵馬俑の存在は史記や漢書など、古代中国の数々の歴史書に記されていたが、この発掘調査により現実のものとなり、1987年世界文化遺産に登録された。展示には将軍や騎兵、射手、歩兵、軍馬等、計10体の本物と四頭立ての始皇帝愛用の馬車が2体(複製で、この馬車だけはどういう訳か実際の2分の1の大きさ)、その他多くのレプリカや武器調度品等が展示されている。紀元前200年頃にかくも精巧な像を作り得たという技術には感心させられる。「兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない」、「秦の軍隊が様々な民族の混成部隊であった」ということ以外に、近年の調査ではこの遺跡は、始皇帝の身を守る軍隊だけではなく、宮殿のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されており、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持っていこうとしたものではないかと考えられているようだ。

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兵馬俑レプリカ 

漢の兵馬俑・・秦の始皇帝の陵墓から、そう遠くない場所にも大規模な地下軍団が存在していることはあまり知られていない。これは高祖劉邦(紀元前256~同196年、秦を滅ぼしの初代皇帝になった)の陵墓である。1965年、中国の考古学者達は、この地の長陵の陪葬墓の中から、前漢の兵馬俑を発見した。2000年以上地下に眠っていたにもかかわらず、大部分は保存状態がよく、特に陶俑の身体に残る彩色の上絵は、はっきりと見分けることができたという。これら漢の俑は「三千人馬」といわれ、その中には騎兵俑、歩兵俑、舞楽雑役俑、盾が含まれていた。歩兵俑は高さ50㎝、甲騎は比較的大きく、平均の高さは60㎝、騎兵の多くは甲冑をまとい、手に槍や矛を持っている。

秦の始皇帝の兵馬俑が秦朝の軍隊の勇壮で精悍な様を表わしているとするなら、漢の高祖の兵馬俑は、漢朝の軍隊の悠然とした中にも威風堂々とした味わいを感じさせる。どちらの兵馬俑も、ともに焼きものだが、その風格は全く異なる。秦は「写実的」で、実際の大きさも容貌も実物そのもの漢の俑は精神的表現に重きを置くものとされ、平均身長は秦の俑の3分の1にも満たない。人物の表情や態度を表現するのに重きを置き、芸術的に誇張されたものまであり、鑑賞用の工芸品のようであるという。「秦」の後を継いだ「漢」の兵馬俑の方が規模が小さいと言えるが、これは力の差というより、始皇帝と劉邦の性格の違いによるものではなかろうか。

2014年9月19日 (金)

小田原文学館の話し

前回の続きになるが、小田原市内の国道1号線の海側を並行するように、500mほどの閑静な佇まいの通りがある。広い敷地と瀟洒な住宅が並ぶ、小田原市南町の「西海子小路」(さいかちこうじ)だ。春には桜のトンネルが、通り全体を覆い、散歩する人の目を楽しませてくれる。

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(西海子小路の桜・・時期が少し早い)

ここは江戸時代には武家屋敷が立ち並び、明治から昭和初期にかけて数々の著名人が住んだ場所だ。文学関係では齋藤緑雨、谷崎潤一郎、北原白秋、三好達治、坂口安吾等、数多くの文学者が一時期を過ごした場所でもある。

この通りの中ほどに白いスペイン風の洋館が建っている。現在「小田原文学館」となっているが、昭和12年、伯爵田中光顕の別邸として建てられたもの。田仲光顕は土佐藩の下級武士で、坂本龍馬が京都近江屋で暗殺された際、いち早く現場に駆け付けた人物として知られる。司馬遼太郎氏に言わせると志士としては二流だが、強運の持ち主で、戊辰戦争では陸援隊副隊長として活躍、維新後岩倉使節団に同行、西南の役の戦乱を経て、警視総監、宮内大臣、学習院院長などを歴任。明治30年には伯爵に列せられる。政界引退後、幕末・維新に烈士した多くの志士達の遺品・手紙などを熱心に収集し、日本各地に埋もれた志士達の顕彰に尽力した。昭和14年に95歳で没したと云うから、まさに歴史の生き字引のような人物だったといえるだろう。

2011_0413001左:小田原文学館本館から庭を見る)

この「小田原文学館」の敷地内に、前回のブログで書いた尾崎一雄の下曽我の自宅にあった書斎が移築され、何時でも拝観できる。また別館は純和風建物で、北原白秋童謡館となっており、白秋に関わる資料が展示されている。北原白秋は大正7年から15年までの8年間を小田原で過ごした。白秋はこの地で全童謡の半数近くを創作している。よほど気に入ったのだろう。

小田原出身の文学者には尾崎一雄の他に近代文学の先駆者となった北村透谷がおり、明治27年、満25歳と云う若さで東京芝の自宅で縊死をとげた。その記念碑が此の敷地内に移築されている。碑文の筆者は親交のあった島崎藤村である。他に、牧野信一、川崎長太郎、福田正夫、井上康文らがおり、先に挙げた小田原ゆかりの文学者とともに、本館内に資料が展示されている。興味のある方はおついでの折、お立ち寄り下され度。

Dscf0575 (北村透谷の記念碑)




2014年9月18日 (木)

最後の文士・尾崎一雄のこと

昨日近くを歩いていたら、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。考えてみたら今年始めてのような気がする。心なしか元気がない。暦では9月17日。モノの本によれば9月下旬頃まで聞かれることがあるらしいが、秋の訪れが早い今年はどうだろうか。

虫の声といえば、先日の読売新聞日曜版の「明言巡礼」に尾崎一雄の「虫のいろいろ」(1948年)の中の次の一節が取上げられていた。
   「彼は唯(ただ)、凝(じ)っと、機会の来るのをまった


尾崎一雄が小田原出身で唯一の文化勲章受章者であることは、小田原に越してきてから始めて知った。小田原シルバー大学の歴史観光コースの実習で「曽我の里」を巡ったことがある。3万5千本程の曽我梅林、曽我兄弟の墓が祀られている城前寺、その外いくつかの由緒ある寺院等を訪れたが、その中に曽我神社があった。神社の手前50mほどのところに尾崎一雄の自宅があったが、現在は解体され、近くに尾崎一雄の文学碑が建っている。その碑に刻まれた一節が強く印象に残った。それは冒頭の「虫のいろいろ」の一節だが、新聞とは異なる部分で、この地から見える富士を描写したものだった。

「富士は天候と時刻とによって 身じまひをいろいろにする 
 晴れた昼中のその姿は平凡だ 真夜中 冴え渡る月光の下に 
 鈍く音なく白く光る富士 未だ星の光が残る空に 頂き近くはバラ色
 胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士」


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曽我梅林方向から見た富士山と手前は矢倉岳。季節は冬。曽我神社から見ると、標高がやや高いため、富士がより高く、矢倉岳がより低く見える。

尾崎一雄は祖父の代まで宗我神社の神主を勤めた家で、1899年に三重県に生まれたが、9歳の時に父の実家であるこの地に移り住み、現在の小田原高校を卒業後、早稲田大学に進んだ。志賀直哉に傾注し1937年に「暢気眼鏡」で芥川賞を受賞。1944年、44歳の時胃潰瘍で喀血し、療養のためこの地に戻って、病床で原稿を書き続けた。この頃の作品が「虫のいろいろ」で、今まで見向きもしなかった虫や草など、自然に目を向けた作品を多く書いた。毎日伏して過ごしながら、持ち前の観察眼で身の回りの虫の様子を「私」との関わりにおいて、いきいきと描いた。

冒頭の一節の解説を読売新聞の記事から引用する。《空き瓶の中に長く幽閉されていたであろう蜘蛛の胸中を想像し、「あらゆる努力が、彼に脱走の不可能を知らしめた。やがて彼は、じたばたするのを止めた。彼は唯、凝っと、機会の来るのを待った」と書き、その上で「蜘蛛のような冷静な、不屈なやり方はできない」と自身を分析している。
しかし、尾崎は「冷静」かつ「不屈」だった。》 実際に尾崎は時代に迎合せず、飄々と己の生き方や表現を貫き、昭和58年(1983)、84歳で生涯を閉じた。「最後の文士」と呼ばれるにふさわしい人物だと思えるし、古希を過ぎた今、その生き方に共感を覚えるところである。


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毎年2月に開催される「曽我の里 梅まつり」の中の 「流鏑馬」の光景






2014年1月11日 (土)

京都洛中洛外図屏風のこと

◆NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」がスタートした。主演の「黒田官兵衛」役の岡田准一は映画「永遠の0」で主役を演じ、その演技に好感を持った。今回のドラマの時代背景は戦国時代となり、ガラリ環境が変わるが、今後の展開と活躍が期待できそうだ。
官兵衛は天正3年(1575)美濃岐阜城で織田信長に謁見した際、信長から「名刀圧切
(へしきり)長谷部」(山城の国、刀工長谷部国重の作で現在国宝に指定)を授かった。

◆信長が武将に贈ったもので現在国宝として残っているものに、上杉謙信に贈った有名な「洛中洛外図屏風」がある。洛中洛外図屏風は室町時代末期から安土桃山時代、江戸時代初期にかけて数多く製作されたが、現在重要文化財に指定されている6点の屏風も合わせて、7点を一同に集めた「黄金の洛中洛外図屏風展」が昨年秋、東京国立博物館で開かれた。信長が謙信に贈呈した屏風は永禄8年(1565)9月、狩野永徳によって描かれ、天正2年(1574)3月に贈られたもので、現在山形県米沢市上杉博物館に所属しており、上杉本と呼ばれている。

◆この他に展示された6点の洛中洛外図屏風(全て重文)は、・歴博甲本、・歴博乙本(ともに室町時代、16世紀作、千葉国立歴史博物館所属所属)、・舟木本(岩佐又兵衛作、江戸時代17世紀、東京国立博物館所属)、・福岡市博本(江戸時代、17世紀、福岡市博物館所属)、・勝興寺本(江戸時代、17世紀、富山勝興寺所属)、・池田本(江戸時代、17世紀、岡山林原美術館所属)の6点であるが、これらを鑑賞するには、それなりの日本絵画の約束事を理解した上で鑑賞すれば、400年を超えた時空を旅することができるというが、悲しいかな、その教養も素養も無い我が身とあっては、ただ単に表面的に見るだけだが、一見、皆似ているようで、よく見ればそれぞれ特徴があることは分かる。

◆都の賑わい、庶民の表情、まつりの模様など実に細かく描かれ、また名所、四季折々の景観や、京都御所、宮廷、貴族社会の様子、武家社会を描いた二条城の様子、竜安寺などの寺社、秀吉が建てた方向寺大仏殿、既に喪失した二条城天守などを描いた屏風もある。
共通して云えることは、斜め上から俯瞰した図であり、ヘリコプターで低空飛行でもしない限り、実際には見えない景観であることは確かなのだが、それを感じさせない不思議さがある。


◆そして何より以前から不思議に思っていたことだが、日本の錦絵や浮世絵の特徴として金色の雲が隙間を埋めるように描かれていることだ。京都市街と郊外の広範囲な場所が一つの画面に収まるように描かれているのは、場所と場所の空間を金雲によって縮めているからだという。雲は神が乗る道具であり、霊的な力を持っているので、時空を歪めることができるという発想からきているという。まさに西洋画には無い日本独自の手法といえるだろう。
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洛中洛外図屏風・上杉本 六曲一双(上段:右隻、下段:左隻)


2013年11月25日 (月)

文化の香りに浸る

雲ひとつない小春日和の日曜日、秋にふさわしく文化の香りに浸るのも一興かと、上野の東京国立博物館平成館で開かれている特別展「京都洛中洛外図と障壁画の美」展を観賞してきた
◆大きく分けて、第一部:室町時代後期から江戸時代初期にかけての都の姿を俯瞰図で描いた「黄金の洛中洛外図屏風」展。国宝1点、重文6点の計7点。 浅学菲才の見なれば、これほど多くのものが現存していることすら知らなかった。
次に第二部:「障壁画の美」がテーマで京都御所、龍安寺、二条城にあった大小およそ150点に上る作品が展示されていた。中には、この日のためにアメリカ・メトロ美術館やシアトル美術館から里帰りした作品もあった。しかしこれらの作品の感想は後日に譲るとして、最も感動した企画展に述べたいと思う。


◆実は「黄金の洛中洛外図屏風」展示室から「龍安寺の障壁画」展示室に移動する途中に設けられた巨大な横長のスクリーンに目を惹かれた。いわばこの特別展の付録のようなもの。全景に龍安寺の有名な石庭とそれを囲む築地、その築地の向こうには桜、楓などの数種類の樹木。枯山水の向こうに四季を彩る樹木が配されている構図が映し出されている。

◆ところが見ていると、枝垂れ桜が次第にピンクに色づき、さらに木々が次第に若草色に芽吹いてくる。背景に小鳥のさえずりが聞こえ、木の葉が緑色を増していくと、雨が軒を伝って音を立て、滴り落ちる。雨があがると、ジリジリした太陽が葉を照らし、蝉の声がにぎやかだ。そうこうするうちに木々が色づき始め、黄色、深紅、橙、緑が錦を織りなす。また次第に色褪せ、木枯らしの音とともに落葉樹はすっかり枯れ木に変わる。そして白いものがフワフワ舞いだした。もともと白い小石で覆われた庭が、背景と一体となって雪景色に変わる。そしてまた春の芽吹きのシーンに戻ってくる。

◆なんと、龍安寺の1年間を書院の一点に座って、じっと見つめている形になるのだ。それもわずか10数分で季節の移ろいを肌で感じることができる。こうして凝縮したものを見ると、何て日本の四季って素晴らしいのだろうと改めて感じ入る。この素晴らしいソフトの裏を調べてみると、フルハイビジョンの4倍の解像度を誇る4K方式のカメラ4台で1年間に亘って撮影。
柱などはCGでカットするなどの画像処理をして、放映は3台の映写機で同時に行う。当然継ぎ目などのアナログみたいなものは無い。なんと凄い技術なんだろう。ソフト面にも増して、ハード面にも素晴らしい日本の技術に嬉しくなった次第。

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上野の森の公孫樹

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東京国立博物館


2013年10月25日 (金)

秋刀魚の歌

秋の味覚と言えば、その代表格は秋刀魚。今年は海水温上昇の影響で、収穫時期が遅れたようだが、ようやく例年並みに店頭に並んでいる。
先日、読売の日曜版に佐藤春夫「秋刀魚の歌」1921が掲載されていた。長い詩で、終盤の「さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか。」のフレーズだけは覚えていたが、実はそのあとに続く、「そが上に熱き涙ををしたたらせて さんまを食うはいづこの里のならひぞや。」が新聞のテーマになっており、この行間に重要な二つの意味があることを知った。


◆佐藤春夫は明治25年(1892)4月和歌山県新宮市の生まれ。慶応中退で文学活動に入り、近代日本の詩人・作家として活躍。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱な小説を軸に、文芸評論、随筆・和歌などその活動は多岐に及んだ。明治末期から昭和まで旺盛に活動し、昭和39年72歳で没した。
大正8年に谷崎潤一郎と出会い兄弟同様の交際を続けた。そのころ夫潤一郎に疎まれていた妻千代に同情していた春夫の気持ちはいつしか愛情に変わり、やがて千代を巡って、春夫と潤一郎の間に確執が生じ、遂に両者は絶交してしまった。


◆派手好みの谷崎には愛人が複数おり、いったんは二人を許した谷崎だが、その後気が変わり、返事を翻してしまう。断られた佐藤は失意の余り、故郷和歌山に帰って、発表したのが「秋刀魚の歌」だった。それは千代に向けた思慕の歌であり、背徳的な愛の歌でもあり、焼けるサンマの黒煙の中に春夫の自嘲的な姿が浮かび上がってくる。 まず冒頭で、

  あわれ 秋風よ 情けあらば 伝えてよ
   ━ 男ありて  今日の夕餉に
  ひとり さんまを食いて 思いにふける  と。


まず、現在の自分の侘しい立場を表現する。春夫は絶交期間中、同棲していた女優に逃げられ、横恋慕した千代とその娘鮎子の三人で食卓を囲む。その団欒の場面を回想した部分が詩の中ほどに出てくる。

あわれ、人にすてられんとする人妻と   →谷崎の妻千代
 妻にそむかれたる男と食卓にむかえば 
 →佐藤春夫
 愛うすき父を持ちし女の児は        
→谷崎と千代の子鮎子
 小さき箸をあやつりなやみつつ

 父ならぬ男にさんまの腸をくれんと言うにあらずや。
  
さんまの腸は苦いからあげる。

Dscf0173 脂の乗った秋刀魚

◆7年後、両者は和解し、潤一郎の了解を得て春夫は千代を譲り受け、1930年に結婚する。谷崎と千代の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などにも報道され、反響を呼んだという。
この詩の中の重要な二つの意味とは、秋刀魚を食べるのに涙をしたたらせた深い背景ともうひとつは、秋刀魚には縁がなさそうな和歌山県新宮市、この新宮には正月などには欠かせないサンマのなれずしという食文化があるそうだ。サンマが熊野灘を南下する頃には脂が適度に抜け、発酵食品なれずしになるとのこと。30年漬け込んだものは「カツオの酒盗とアユのウルカとフナずしを足し、ほんのりブルーチーズの香りを加えた味」と読売の記者は書いていた。一度は食してみたいものだ。

 

2011年7月 1日 (金)

「美の壺」 湘南の邸宅

◆今日から7月。梅雨明けを前に真夏日が続いている。海辺に面した我がマンション
では、窓を開けておけば28℃くらいで、内陸部よりはいくらか涼しい。と云ってもこの
時期湿度が高く寝苦しいので、ついエアコンに頼ることになる。


◆昨夜NHKのBSプレミアム「美の壺」で湘南の邸宅を取上げていた。小田原から
葉山、横須賀あたりまで相模湾を取り囲むように面した地域が湘南と呼ばれ、明治
以降、政財界の大物や華族、文化人達が温暖な気候、海に面したリゾート的な気
分を愛し、こぞって邸宅や別邸を構えた。


◆番組では現在も残っている数少ないそれらの中から7つの邸宅を取上げ、どの点
が「美の壺」であるかを紹介していた。小田原からは大倉喜八郎の「共壽亭」、黒田
長成侯爵の「清閑亭」、田中光顕伯爵の「洋館別邸」(現小田原文学館本館)の3つ
が紹介された。


◆「共壽亭」(現在旅館山月)は明治・大正期の実業家大倉喜八郎(男爵)が大正
9年に建てた別荘。政商として一代で財をなした大倉はここを政財界の客をもてな
す接待の場としても活用。箱根・小田原に残る木工芸(寄木細工、透かし彫、木象
嵌などの木工技術)を天井、板戸、床、調度品などにふんだんに取り入れた。
番組ではこれに「美の壺」としてスポットを当てた。


◆「清閑亭」は福岡藩主直系の黒田長成侯爵の別邸。国の有形文化財に登録
されている数寄屋風の建物で、高度な技術を要するあじろ組みの天井、当時は
使われていなかった屋久杉の天井板等が紹介されていた。ついでながら現在
「清閑亭」は市の管理で、散策のついでに喫茶のために立ち寄ることができる。


◆田中光顕の「小田原別邸」(現小田原文学館本館)は以前何度かこのブログで
取上げたが、彼が96歳で亡くなる2年前の昭和12年に、以前から持っていた和風
の別荘敷地内に建てたもの。当時としては珍しい鉄筋3階建のスペイン風建築で
ブルーの瓦は全てスペインから取り寄せたという。1階と2階の南面に張り出した
サンルームや談話室は昭和初期のモダニズム建築の特徴を表わし、3階ベラン
ダにはある工夫を凝らしていたことを番組を見て初めて知った。


2010年7月 2日 (金)

「マネとモダン・パリ」展を観てきました。

◆日本橋に所要があって久し振りに東京に出かけた。ついでに丸の内に新しく
できた三菱一号館美術館で開催されている「マネとモダン・パリ」を覗いてきた。
もともと絵画鑑賞にも疎い小生ではあるが、マネの作品では「笛吹く少年」くらい
しか知らなかったものの(今回はその出典もなかったが)やはり人物画において
素晴らしいものがある。特に目玉の「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」、
「死せる闘牛士」は惹きつけられる。
◆しかし、展覧会そのものより、会場である新しく復元された「三菱1号館」その
ものに目を奪われた。この建物は今年の春に完成したもので、明治27年に建設
された我が国初めての洋風事務所であり、煉瓦造りの3階建の外観と内装を
創建当時の設計図のままそっくり、もとあった場所に復元したもの。
◆床や階段の一部に、残された当時の部材が使われ、調度品やマントルピース等
当時の英国建築の粋が見られる。館内にある資料館もわかりやすく、よくまとまって
いる。また中庭には緑の植え込みや樹木がうまく配置され、まさに都心のオアシス
そのものだ。これからもいろいろな企画展が予定されており、立ち寄ってみる価値
はある。
◆現役時代最後の勤務地が丸の内だったが、退職してから年に1、2度しか行って
いない。その間の丸の内の変貌ぶりには驚かされる。冷たい事務所街からおしゃれ
なヨーロッパ風街並みに変身し、その都度「おのぼりさん」になったみたいだ。
今、東京駅丸の内側駅舎(煉瓦造り)と中央郵便局が工事中であるが、それが完成
すれば、やはり日本一のオフィス街であることは間違いないだろう。
◆時間があったので、屋根がない2階建てのオープンバスで雨上がりの表参道、
青山、神宮、渋谷方面を貸切状態で乗車、混雑する夕方の東京の街並みを観光
してきた。たまにはいいものだ。

2010年3月18日 (木)

「円生」襲名争奪戦の行方

◆小さいときからの落語ファンである。長じては六代目「三遊亭円生」が
好きだった。 昭和天皇の御前で一席、噺した唯一人の落語家だった。
31年前に亡くなり、その一番弟子の五代目「円楽」は昨年10月に没した。
その弟子の「三遊亭楽太郎」(大学の後輩にあたる。←どうでもいいことだ)
はつい先日六代目「円楽」を襲名した。
◆ここまではなんら問題ないことだが、ここにきて大名跡「円生」の襲名
問題がこじれてきて、マスコミを賑わせている。もともと六代目円生夫人が
誰にも継がせないという「止め名」を希望して、5代目円楽他、5人の関係者
が署名した文書が存在するそうだ。また78年に起こった落語協会の分裂騒
ぎで、いったんは協会を出た円生一門は翌年円生没後、直弟子等の大半が
協会に復帰した。彼らは円楽とはソリが合わず、大きな溝があったようで
ある。 しかし一番弟子円楽とその弟子たちは一派を築き、協会とは袂を
別ったまま現在に至っている。 ◆問題は五代目円楽が生前、一番弟子
の「鳳楽」に七代目「円生」を、さらに「楽太郎」に六代目円楽を継がせると
いう発言をしていたことだった。死人に口なしだが、先代円楽が2枚舌を
使っていたことが大きな騒ぎの原因となった。
ここにきて納まらないのが6代目円生の他の弟子達。なかでも円丈は
「俺たちは円生の直弟子だ。孫弟子の鳳楽なんざに名跡を継がせる訳
にはいかない」ってんで、「円生争奪杯」落語会で決着をつけようと17日
浅草で開かれた。確かに洒落のようでもあるが、一面大マジらしい。
◆先代円楽は豪放磊落で無頓着なようだが、じつに博識で古今東西の
故事来歴・歌を諳んじ映画、音楽にも造詣が深かった。しかし落語の方は
イマイチ師匠に及ばなかったようである。「円丈」は新作落語が中心で古典
落語ファンには物足りないが、全国の狛犬コレクターとしてユニークな落語
家だ。鳳楽の方は落語はそこそこ巧いが、これといった大きな特徴はない
ように思う。
◆ここは六代目円生夫人の書き置きに従って跡目引継ぎなし、皆でヨッ!
シャン、シャン、シャン、と手を打ってま~るく納めては如何なものか。

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