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文化・芸術

2017年7月30日 (日)

「すみだ北斎美術館」を県f学して

◆一昨日、猛暑の中を両国まで出かけ、昨年秋にオープンした『すみだ北斎美術館』を見学してきた。場所は総武線両国駅から「江戸東京博物館」を左に見ながら、錦糸町方向に向かって徒歩9分ほどの所。まだ新しいので地元の人に聞いても、「?」という感じ。
日本だけでなく西洋美術にも大きな影響を与え、世界的な芸術家として評価の高い葛飾北斎(1760~1849年)。90年の生涯の殆どを過ごした墨田の地に「北斎」の名を冠した美術館が誕生した。生みの親は墨田区で、北斎の優れた業績を永く顕彰するとともに、地域の産業や観光にも寄与する活性化の拠点として、昨年11月に開設した。


◆美術館自体は公園の一角を半分ほど利用したようで、地上四階建て、敷地面積380坪と小振りだが、一見教会風の洒落たデザインは伝統的な日本文化をテーマにしたコンセプトとさして違和感は感じられない。「すみだ北斎美術館」の建築地には、江戸時代に弘前藩津軽家の大名屋敷があったという。藩主からの依頼により、北斎は屏風に馬の絵を描いて帰ったというエピソードが残されていることなどから、この場所は北斎と縁の深い土地だったらしい。
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北斎美術館全体像        北斎美術館エントラス付近

◆「冨嶽三十六景」と「富嶽百景」の揃い踏みと題して企画展を開催していた。北斎の版画絵はいろいろな形でお馴染みになっているが、実際の版画は画用紙大の大きさで、描写も細かいため、かなり近くに寄らないとよく分からないところがある。展示資料の中に歌川広重が「写実的表現において自分も負けてはいないと思うが、全体の構図における独創性では敵わない」という趣旨の言葉を残していた。確かに北斎の「冨嶽三十六景」」と広重の「東海道五十三次」を比べるまでもなく、そのことは言えている。

◆浮世絵版画の彫りと擦りの制作過程を高精密モニターの動画でじっくりと見られるコーナーがあった。浮世絵版画の最終形態である錦絵の制作過程を映像を交えながら紹介するコーナーだ。この日は歌麿の美人画を題材に、輪郭線の彫りから完成までの各プロセスを現代の名工たちによる再現で観賞することができた。浮世絵版画のグラデーションのやり方や細かい過程がわかる貴重な機会だった。

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老齢の北斎が狭い貸し間で絵を描いているシーン。蝋人形の像は立体的でリアルだ

◆葛飾北斎は1999年に、米雑誌「ライフ」で、「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」として、日本人でただ一人選ばれたことは何かで知っていた。確かに西欧の美術・工芸等の芸術に多大な影響を与えたことは確かだろう。しかし日本人が選ぶとすれば、他にもいそうだ。「武士道」を広く伝えた新渡戸稲造、「禅の研究」の西田幾多郎、「柔道」を世界的にした加納治五郎、映画監督の黒澤明等々・・しかし世界的業績となれば「ウーン」と考え込んでしまう。日本は長く閉ざされていたから不利な側面があることは否めない

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展示室の前に大きな錦絵が飾られている。推定復元された「須佐之男命厄神退治之図」関東大震災で焼失した北斎晩年の傑作を白黒画像をもとに復元したものだという。北斎は風景画だけでなく、妖怪などの怪奇絵なども多数残している

2017年6月29日 (木)

小涌園の岡田美術館を見学して

◆大涌谷からの帰り道、小涌園に寄り道して2013年10月にオープンした岡田美術館を見学してきた。新しいだけに箱ものとしてはかなり立派だ。入館料も2800円とかなり高め。岡田の名が冠となっているところから、箱根美術館や熱海のMOA美術館を手掛けた岡田茂吉氏(世界救世教教祖)と関連があるのかと思いきや、この美術館はまるで別物で、日本のパチンコ王の異名をとった岡田和生氏が開館した美術館とのこと。
パンフレットには岡田氏の詳しい経歴など触れていないが、NETで調べてみると同氏はパチンコ機やパチスロ機、ゲームソフトなどの大手メーカーのユニバーサルエンターティメントの創業者で現会長、そして美術品の収集家でもあった。1999年の高額納税者番付で全国総合1位に上り詰めた大富豪で、近年は海外で高級カジノを展開しており、「カジノ王」としても知られるそうだ。

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(エントランスから展示室に入る廊下の壁面に見上げるような「風神・雷神図」が聳えている。全体を観るには建物の外に立って観ることになるが、一枚の写真では納まらない。)

◆この美術館は敷地面積6278㎡、延べ床面積7714㎡、5階建ての最新設備を備えており、規模では箱根地区で最大級の「ポーラ美術館」に匹敵し、東京の根津美術館の2倍ほどになるそうで、民間美術館としては日本最大級とのこと。
美術館の価値は言うまでもなく、収蔵する美術品の価値によるものだが、展示品の大半は陶磁器で、中国の景徳鎮や韓国の高麗・李朝のものをはじめ、日本の古九谷・鍋島、野々村仁清、尾形乾山の京焼など質量・豊富で、2フロワー分は優に占めている。


◆また絵画は桃山・江戸時代から現代までの日本画を中心に、鎌倉時代の仏画、室町時代の水墨画など多岐に亘っている。名だたる作家の作品は枚挙に遑がないが、特筆すべきは喜多川歌麿「雪月花」三部作(「深川の雪」、「品川の月」、「吉原の花」)のうち「深川の雪」だろう。テレビで一度見て初めて知ったが、肉筆の実物を見て、改めてその大きさと精緻さに驚かされた。浮世絵としては最大級の大きさだろう。

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なお、「吉原の花」は現在アメリカ・コネチカット州の美術館にあり、このほど138年ぶりに日本に帰省し、7月28日から10月29日まで、岡田美術館で同時展示会が開催されるとのこと。残された「品川の月」は米・ワシントンD.C.の美術館が収蔵しているそうで、今回は原寸大の高い精細複製図を制作し、三部作を並べて公開するとのことで、この夏から秋にかけて話題を集めそうだ。

◆岡田美術館には屏風絵、障壁画の他に、蒔絵、漆工、仏像、彫刻なども散見されるが、これらはメインではなく、たまたまコレクションの中にあったという感じ。浮世絵の「春画」コーナーもあるが、ちょっと見落としそう。創業者の岡田和生氏は名誉館長で、実際の館長は日本美術史家の小林忠氏(1941年4月生)。日本の美術史学者、国際浮世絵学会会長、江戸時代絵画史の研究家でとくに浮世絵に詳しいとのことで、なるほどと納得。

2016年7月 8日 (金)

縄文火炎土器の芸術性

◆「太陽の塔」など数多くの名作で不滅の芸術家となった岡本太郎は昭和26年40歳の時、東京国立博物館に展示されていた縄文式の火炎土器に出くわし、大きな衝撃を受けた。翌年美術雑誌「みずゑ」に「四次元との対話ー縄文土器論」を発表。それまでは縄文土器や土偶は美術品ではなく、単に考古学上の工芸品だったという位置づけだった。

◆京都造形芸術大学の石井匠氏はコラム「縄文と岡本太郎」の中で「彼は考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈を試みたのである。それが結果的に各方面に大きな衝撃を与え、建築やデザイン界を中心に縄文ブームが沸き起こった。そして弥生土器や埴輪を始まりとする『正当な』日本の伝統を覆し、以後原始美術として縄文土器は美術書の巻頭を飾るようになり、日本美術史が書き換えられた。今に続く縄文ブームの火付け役は岡本太郎だった」と書いている。
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江戸東京博物館「発掘された日本列島2016」展の縄文火炎土器

◆確かに、岡本太郎作品の数々の力強い曲線の美の原点は燃え盛るような火炎を表現した縄文土器にあるのではないかという思いがする。教科書にも掲載された東京国立博物館の縄文火炎土器は過去何度か見ていたが、全国各地で発掘された多くの弥生式土器に比べて、実用性はともかく、一度見たら強烈な印象が残る土器である。

◆先日江戸東京博物館で開催されている「発掘された日本列島2016」展を観てきた。多くの展示品の中では、どうしても縄文土器の火炎土器に目が行ってしまう。縄文式土器と弥生式土器を比べてみればその差は歴然だ。縄文文化は1万数千年前から2千数百年前まで繁栄を誇った日本先住民の文化で、狩猟・採集中心の生活スタイルだが、栗の実を採取するため栽培するなど、定住した痕跡も多数みられる。生活にゆとりがあったのか、縄文土器には表面に撚り糸文や縄目文のアクセサリーをつけ、BC3000年頃には芸術的な火炎土器まで創作するようになった。

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弥生式土器・甕棺、江戸東京博物館で

◆これに対して紀元前約500年から紀元後300年ほどの弥生時代には、大陸から稲作と金属の文明が伝播し、それとともに実用的でシンプルな弥生式土器が広まった。中には甕棺に使用した大きな土器まであった。狩猟中心のおおらかで平等な縄文社会に対し、部族間の争いと階級が芽生えた弥生時代。その代表例を青森県の三内丸山遺跡と、佐賀県の吉野ケ里遺跡にみてとれる。

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復元された三内丸山遺跡で(2009年8月)

◆三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間に亘って定住生活が営まれていた。建物、構造物等の大きさ、規模は約2000年後の吉野ケ里遺跡のそれと比べて遜色ないどころか、上回ってさえいる。違いと言えば吉野ケ里遺跡は敵の襲撃に備えて、環濠で張り巡らせているところだろうか。時代が新しくなっていくとともに、平和な社会が次第に争いの世界に変わっていく。今の世界を暗示しているようである。縄文土器と弥生土器、その差は人々の暮らしぶりの差に遭ったのだ。

2016年2月13日 (土)

「始皇帝と兵馬俑」展を観て

◆「東京国立博物館」で開催されている「始皇帝と大兵馬俑」展を観てきた。
1974年、中国の西安北東30kmにある秦の始皇帝陵墓とされる近くの農地で、住民が井戸を掘ろうとした際に偶然発見された兵馬俑は、その後の本格的な調査で、20世紀最大の考古学の発見という大ニュースとなって世界中を駆け巡った。その時の写真を見た第一印象はあまりのリアルさに、像の中に人間が入っているのかと思ったりしたが、いつか実物を見たいものと思っていた。しかし40年以上経ってこの展覧会を観て、初めてニュースで知った時の新鮮な驚きは消えていた。既にTV映像等で何度も接していたからだろう。


始皇帝陵と兵馬俑の存在は史記や漢書など、古代中国の数々の歴史書に記されていたが、この発掘調査により現実のものとなり、1987年世界文化遺産に登録された。展示には将軍や騎兵、射手、歩兵、軍馬等、計10体の本物と四頭立ての始皇帝愛用の馬車が2体(複製で、この馬車だけはどういう訳か実際の2分の1の大きさ)、その他多くのレプリカや武器調度品等が展示されている。紀元前200年頃にかくも精巧な像を作り得たという技術には感心させられる。「兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない」、「秦の軍隊が様々な民族の混成部隊であった」ということ以外に、近年の調査ではこの遺跡は、始皇帝の身を守る軍隊だけではなく、宮殿のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されており、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持っていこうとしたものではないかと考えられているようだ。

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兵馬俑レプリカ 

漢の兵馬俑・・秦の始皇帝の陵墓から、そう遠くない場所にも大規模な地下軍団が存在していることはあまり知られていない。これは高祖劉邦(紀元前256~同196年、秦を滅ぼしの初代皇帝になった)の陵墓である。1965年、中国の考古学者達は、この地の長陵の陪葬墓の中から、前漢の兵馬俑を発見した。2000年以上地下に眠っていたにもかかわらず、大部分は保存状態がよく、特に陶俑の身体に残る彩色の上絵は、はっきりと見分けることができたという。これら漢の俑は「三千人馬」といわれ、その中には騎兵俑、歩兵俑、舞楽雑役俑、盾が含まれていた。歩兵俑は高さ50㎝、甲騎は比較的大きく、平均の高さは60㎝、騎兵の多くは甲冑をまとい、手に槍や矛を持っている。

秦の始皇帝の兵馬俑が秦朝の軍隊の勇壮で精悍な様を表わしているとするなら、漢の高祖の兵馬俑は、漢朝の軍隊の悠然とした中にも威風堂々とした味わいを感じさせる。どちらの兵馬俑も、ともに焼きものだが、その風格は全く異なる。秦は「写実的」で、実際の大きさも容貌も実物そのもの漢の俑は精神的表現に重きを置くものとされ、平均身長は秦の俑の3分の1にも満たない。人物の表情や態度を表現するのに重きを置き、芸術的に誇張されたものまであり、鑑賞用の工芸品のようであるという。「秦」の後を継いだ「漢」の兵馬俑の方が規模が小さいと言えるが、これは力の差というより、始皇帝と劉邦の性格の違いによるものではなかろうか。

2014年9月19日 (金)

小田原文学館の話し

前回の続きになるが、小田原市内の国道1号線の海側を並行するように、500mほどの閑静な佇まいの通りがある。広い敷地と瀟洒な住宅が並ぶ、小田原市南町の「西海子小路」(さいかちこうじ)だ。春には桜のトンネルが、通り全体を覆い、散歩する人の目を楽しませてくれる。

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(西海子小路の桜・・時期が少し早い)

ここは江戸時代には武家屋敷が立ち並び、明治から昭和初期にかけて数々の著名人が住んだ場所だ。文学関係では齋藤緑雨、谷崎潤一郎、北原白秋、三好達治、坂口安吾等、数多くの文学者が一時期を過ごした場所でもある。

この通りの中ほどに白いスペイン風の洋館が建っている。現在「小田原文学館」となっているが、昭和12年、伯爵田中光顕の別邸として建てられたもの。田仲光顕は土佐藩の下級武士で、坂本龍馬が京都近江屋で暗殺された際、いち早く現場に駆け付けた人物として知られる。司馬遼太郎氏に言わせると志士としては二流だが、強運の持ち主で、戊辰戦争では陸援隊副隊長として活躍、維新後岩倉使節団に同行、西南の役の戦乱を経て、警視総監、宮内大臣、学習院院長などを歴任。明治30年には伯爵に列せられる。政界引退後、幕末・維新に烈士した多くの志士達の遺品・手紙などを熱心に収集し、日本各地に埋もれた志士達の顕彰に尽力した。昭和14年に95歳で没したと云うから、まさに歴史の生き字引のような人物だったといえるだろう。

2011_0413001左:小田原文学館本館から庭を見る)

この「小田原文学館」の敷地内に、前回のブログで書いた尾崎一雄の下曽我の自宅にあった書斎が移築され、何時でも拝観できる。また別館は純和風建物で、北原白秋童謡館となっており、白秋に関わる資料が展示されている。北原白秋は大正7年から15年までの8年間を小田原で過ごした。白秋はこの地で全童謡の半数近くを創作している。よほど気に入ったのだろう。

小田原出身の文学者には尾崎一雄の他に近代文学の先駆者となった北村透谷がおり、明治27年、満25歳と云う若さで東京芝の自宅で縊死をとげた。その記念碑が此の敷地内に移築されている。碑文の筆者は親交のあった島崎藤村である。他に、牧野信一、川崎長太郎、福田正夫、井上康文らがおり、先に挙げた小田原ゆかりの文学者とともに、本館内に資料が展示されている。興味のある方はおついでの折、お立ち寄り下され度。

Dscf0575 (北村透谷の記念碑)




2014年9月18日 (木)

最後の文士・尾崎一雄のこと

昨日近くを歩いていたら、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。考えてみたら今年始めてのような気がする。心なしか元気がない。暦では9月17日。モノの本によれば9月下旬頃まで聞かれることがあるらしいが、秋の訪れが早い今年はどうだろうか。

虫の声といえば、先日の読売新聞日曜版の「明言巡礼」に尾崎一雄の「虫のいろいろ」(1948年)の中の次の一節が取上げられていた。
   「彼は唯(ただ)、凝(じ)っと、機会の来るのをまった


尾崎一雄が小田原出身で唯一の文化勲章受章者であることは、小田原に越してきてから始めて知った。小田原シルバー大学の歴史観光コースの実習で「曽我の里」を巡ったことがある。3万5千本程の曽我梅林、曽我兄弟の墓が祀られている城前寺、その外いくつかの由緒ある寺院等を訪れたが、その中に曽我神社があった。神社の手前50mほどのところに尾崎一雄の自宅があったが、現在は解体され、近くに尾崎一雄の文学碑が建っている。その碑に刻まれた一節が強く印象に残った。それは冒頭の「虫のいろいろ」の一節だが、新聞とは異なる部分で、この地から見える富士を描写したものだった。

「富士は天候と時刻とによって 身じまひをいろいろにする 
 晴れた昼中のその姿は平凡だ 真夜中 冴え渡る月光の下に 
 鈍く音なく白く光る富士 未だ星の光が残る空に 頂き近くはバラ色
 胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士」


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曽我梅林方向から見た富士山と手前は矢倉岳。季節は冬。曽我神社から見ると、標高がやや高いため、富士がより高く、矢倉岳がより低く見える。

尾崎一雄は祖父の代まで宗我神社の神主を勤めた家で、1899年に三重県に生まれたが、9歳の時に父の実家であるこの地に移り住み、現在の小田原高校を卒業後、早稲田大学に進んだ。志賀直哉に傾注し1937年に「暢気眼鏡」で芥川賞を受賞。1944年、44歳の時胃潰瘍で喀血し、療養のためこの地に戻って、病床で原稿を書き続けた。この頃の作品が「虫のいろいろ」で、今まで見向きもしなかった虫や草など、自然に目を向けた作品を多く書いた。毎日伏して過ごしながら、持ち前の観察眼で身の回りの虫の様子を「私」との関わりにおいて、いきいきと描いた。

冒頭の一節の解説を読売新聞の記事から引用する。《空き瓶の中に長く幽閉されていたであろう蜘蛛の胸中を想像し、「あらゆる努力が、彼に脱走の不可能を知らしめた。やがて彼は、じたばたするのを止めた。彼は唯、凝っと、機会の来るのを待った」と書き、その上で「蜘蛛のような冷静な、不屈なやり方はできない」と自身を分析している。
しかし、尾崎は「冷静」かつ「不屈」だった。》 実際に尾崎は時代に迎合せず、飄々と己の生き方や表現を貫き、昭和58年(1983)、84歳で生涯を閉じた。「最後の文士」と呼ばれるにふさわしい人物だと思えるし、古希を過ぎた今、その生き方に共感を覚えるところである。


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毎年2月に開催される「曽我の里 梅まつり」の中の 「流鏑馬」の光景






2014年1月11日 (土)

京都洛中洛外図屏風のこと

◆NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」がスタートした。主演の「黒田官兵衛」役の岡田准一は映画「永遠の0」で主役を演じ、その演技に好感を持った。今回のドラマの時代背景は戦国時代となり、ガラリ環境が変わるが、今後の展開と活躍が期待できそうだ。
官兵衛は天正3年(1575)美濃岐阜城で織田信長に謁見した際、信長から「名刀圧切
(へしきり)長谷部」(山城の国、刀工長谷部国重の作で現在国宝に指定)を授かった。

◆信長が武将に贈ったもので現在国宝として残っているものに、上杉謙信に贈った有名な「洛中洛外図屏風」がある。洛中洛外図屏風は室町時代末期から安土桃山時代、江戸時代初期にかけて数多く製作されたが、現在重要文化財に指定されている6点の屏風も合わせて、7点を一同に集めた「黄金の洛中洛外図屏風展」が昨年秋、東京国立博物館で開かれた。信長が謙信に贈呈した屏風は永禄8年(1565)9月、狩野永徳によって描かれ、天正2年(1574)3月に贈られたもので、現在山形県米沢市上杉博物館に所属しており、上杉本と呼ばれている。

◆この他に展示された6点の洛中洛外図屏風(全て重文)は、・歴博甲本、・歴博乙本(ともに室町時代、16世紀作、千葉国立歴史博物館所属所属)、・舟木本(岩佐又兵衛作、江戸時代17世紀、東京国立博物館所属)、・福岡市博本(江戸時代、17世紀、福岡市博物館所属)、・勝興寺本(江戸時代、17世紀、富山勝興寺所属)、・池田本(江戸時代、17世紀、岡山林原美術館所属)の6点であるが、これらを鑑賞するには、それなりの日本絵画の約束事を理解した上で鑑賞すれば、400年を超えた時空を旅することができるというが、悲しいかな、その教養も素養も無い我が身とあっては、ただ単に表面的に見るだけだが、一見、皆似ているようで、よく見ればそれぞれ特徴があることは分かる。

◆都の賑わい、庶民の表情、まつりの模様など実に細かく描かれ、また名所、四季折々の景観や、京都御所、宮廷、貴族社会の様子、武家社会を描いた二条城の様子、竜安寺などの寺社、秀吉が建てた方向寺大仏殿、既に喪失した二条城天守などを描いた屏風もある。
共通して云えることは、斜め上から俯瞰した図であり、ヘリコプターで低空飛行でもしない限り、実際には見えない景観であることは確かなのだが、それを感じさせない不思議さがある。


◆そして何より以前から不思議に思っていたことだが、日本の錦絵や浮世絵の特徴として金色の雲が隙間を埋めるように描かれていることだ。京都市街と郊外の広範囲な場所が一つの画面に収まるように描かれているのは、場所と場所の空間を金雲によって縮めているからだという。雲は神が乗る道具であり、霊的な力を持っているので、時空を歪めることができるという発想からきているという。まさに西洋画には無い日本独自の手法といえるだろう。
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洛中洛外図屏風・上杉本 六曲一双(上段:右隻、下段:左隻)


2013年11月25日 (月)

文化の香りに浸る

雲ひとつない小春日和の日曜日、秋にふさわしく文化の香りに浸るのも一興かと、上野の東京国立博物館平成館で開かれている特別展「京都洛中洛外図と障壁画の美」展を観賞してきた
◆大きく分けて、第一部:室町時代後期から江戸時代初期にかけての都の姿を俯瞰図で描いた「黄金の洛中洛外図屏風」展。国宝1点、重文6点の計7点。 浅学菲才の見なれば、これほど多くのものが現存していることすら知らなかった。
次に第二部:「障壁画の美」がテーマで京都御所、龍安寺、二条城にあった大小およそ150点に上る作品が展示されていた。中には、この日のためにアメリカ・メトロ美術館やシアトル美術館から里帰りした作品もあった。しかしこれらの作品の感想は後日に譲るとして、最も感動した企画展に述べたいと思う。


◆実は「黄金の洛中洛外図屏風」展示室から「龍安寺の障壁画」展示室に移動する途中に設けられた巨大な横長のスクリーンに目を惹かれた。いわばこの特別展の付録のようなもの。全景に龍安寺の有名な石庭とそれを囲む築地、その築地の向こうには桜、楓などの数種類の樹木。枯山水の向こうに四季を彩る樹木が配されている構図が映し出されている。

◆ところが見ていると、枝垂れ桜が次第にピンクに色づき、さらに木々が次第に若草色に芽吹いてくる。背景に小鳥のさえずりが聞こえ、木の葉が緑色を増していくと、雨が軒を伝って音を立て、滴り落ちる。雨があがると、ジリジリした太陽が葉を照らし、蝉の声がにぎやかだ。そうこうするうちに木々が色づき始め、黄色、深紅、橙、緑が錦を織りなす。また次第に色褪せ、木枯らしの音とともに落葉樹はすっかり枯れ木に変わる。そして白いものがフワフワ舞いだした。もともと白い小石で覆われた庭が、背景と一体となって雪景色に変わる。そしてまた春の芽吹きのシーンに戻ってくる。

◆なんと、龍安寺の1年間を書院の一点に座って、じっと見つめている形になるのだ。それもわずか10数分で季節の移ろいを肌で感じることができる。こうして凝縮したものを見ると、何て日本の四季って素晴らしいのだろうと改めて感じ入る。この素晴らしいソフトの裏を調べてみると、フルハイビジョンの4倍の解像度を誇る4K方式のカメラ4台で1年間に亘って撮影。
柱などはCGでカットするなどの画像処理をして、放映は3台の映写機で同時に行う。当然継ぎ目などのアナログみたいなものは無い。なんと凄い技術なんだろう。ソフト面にも増して、ハード面にも素晴らしい日本の技術に嬉しくなった次第。

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上野の森の公孫樹

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東京国立博物館


2013年10月25日 (金)

秋刀魚の歌

秋の味覚と言えば、その代表格は秋刀魚。今年は海水温上昇の影響で、収穫時期が遅れたようだが、ようやく例年並みに店頭に並んでいる。
先日、読売の日曜版に佐藤春夫「秋刀魚の歌」1921が掲載されていた。長い詩で、終盤の「さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか。」のフレーズだけは覚えていたが、実はそのあとに続く、「そが上に熱き涙ををしたたらせて さんまを食うはいづこの里のならひぞや。」が新聞のテーマになっており、この行間に重要な二つの意味があることを知った。


◆佐藤春夫は明治25年(1892)4月和歌山県新宮市の生まれ。慶応中退で文学活動に入り、近代日本の詩人・作家として活躍。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱な小説を軸に、文芸評論、随筆・和歌などその活動は多岐に及んだ。明治末期から昭和まで旺盛に活動し、昭和39年72歳で没した。
大正8年に谷崎潤一郎と出会い兄弟同様の交際を続けた。そのころ夫潤一郎に疎まれていた妻千代に同情していた春夫の気持ちはいつしか愛情に変わり、やがて千代を巡って、春夫と潤一郎の間に確執が生じ、遂に両者は絶交してしまった。


◆派手好みの谷崎には愛人が複数おり、いったんは二人を許した谷崎だが、その後気が変わり、返事を翻してしまう。断られた佐藤は失意の余り、故郷和歌山に帰って、発表したのが「秋刀魚の歌」だった。それは千代に向けた思慕の歌であり、背徳的な愛の歌でもあり、焼けるサンマの黒煙の中に春夫の自嘲的な姿が浮かび上がってくる。 まず冒頭で、

  あわれ 秋風よ 情けあらば 伝えてよ
   ━ 男ありて  今日の夕餉に
  ひとり さんまを食いて 思いにふける  と。


まず、現在の自分の侘しい立場を表現する。春夫は絶交期間中、同棲していた女優に逃げられ、横恋慕した千代とその娘鮎子の三人で食卓を囲む。その団欒の場面を回想した部分が詩の中ほどに出てくる。

あわれ、人にすてられんとする人妻と   →谷崎の妻千代
 妻にそむかれたる男と食卓にむかえば 
 →佐藤春夫
 愛うすき父を持ちし女の児は        
→谷崎と千代の子鮎子
 小さき箸をあやつりなやみつつ

 父ならぬ男にさんまの腸をくれんと言うにあらずや。
  
さんまの腸は苦いからあげる。

Dscf0173 脂の乗った秋刀魚

◆7年後、両者は和解し、潤一郎の了解を得て春夫は千代を譲り受け、1930年に結婚する。谷崎と千代の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などにも報道され、反響を呼んだという。
この詩の中の重要な二つの意味とは、秋刀魚を食べるのに涙をしたたらせた深い背景ともうひとつは、秋刀魚には縁がなさそうな和歌山県新宮市、この新宮には正月などには欠かせないサンマのなれずしという食文化があるそうだ。サンマが熊野灘を南下する頃には脂が適度に抜け、発酵食品なれずしになるとのこと。30年漬け込んだものは「カツオの酒盗とアユのウルカとフナずしを足し、ほんのりブルーチーズの香りを加えた味」と読売の記者は書いていた。一度は食してみたいものだ。

 

2011年7月 1日 (金)

「美の壺」 湘南の邸宅

◆今日から7月。梅雨明けを前に真夏日が続いている。海辺に面した我がマンション
では、窓を開けておけば28℃くらいで、内陸部よりはいくらか涼しい。と云ってもこの
時期湿度が高く寝苦しいので、ついエアコンに頼ることになる。


◆昨夜NHKのBSプレミアム「美の壺」で湘南の邸宅を取上げていた。小田原から
葉山、横須賀あたりまで相模湾を取り囲むように面した地域が湘南と呼ばれ、明治
以降、政財界の大物や華族、文化人達が温暖な気候、海に面したリゾート的な気
分を愛し、こぞって邸宅や別邸を構えた。


◆番組では現在も残っている数少ないそれらの中から7つの邸宅を取上げ、どの点
が「美の壺」であるかを紹介していた。小田原からは大倉喜八郎の「共壽亭」、黒田
長成侯爵の「清閑亭」、田中光顕伯爵の「洋館別邸」(現小田原文学館本館)の3つ
が紹介された。


◆「共壽亭」(現在旅館山月)は明治・大正期の実業家大倉喜八郎(男爵)が大正
9年に建てた別荘。政商として一代で財をなした大倉はここを政財界の客をもてな
す接待の場としても活用。箱根・小田原に残る木工芸(寄木細工、透かし彫、木象
嵌などの木工技術)を天井、板戸、床、調度品などにふんだんに取り入れた。
番組ではこれに「美の壺」としてスポットを当てた。


◆「清閑亭」は福岡藩主直系の黒田長成侯爵の別邸。国の有形文化財に登録
されている数寄屋風の建物で、高度な技術を要するあじろ組みの天井、当時は
使われていなかった屋久杉の天井板等が紹介されていた。ついでながら現在
「清閑亭」は市の管理で、散策のついでに喫茶のために立ち寄ることができる。


◆田中光顕の「小田原別邸」(現小田原文学館本館)は以前何度かこのブログで
取上げたが、彼が96歳で亡くなる2年前の昭和12年に、以前から持っていた和風
の別荘敷地内に建てたもの。当時としては珍しい鉄筋3階建のスペイン風建築で
ブルーの瓦は全てスペインから取り寄せたという。1階と2階の南面に張り出した
サンルームや談話室は昭和初期のモダニズム建築の特徴を表わし、3階ベラン
ダにはある工夫を凝らしていたことを番組を見て初めて知った。