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2021年3月 9日 (火)

少年時代の心象風景(3)

第三話 ねずみ島遊泳教室の話
◆長崎港(大波止)を出港し、長崎の新ランドマークとなった「ながさき女神大橋」をくぐって、約4km、港口の西側に、かつて「ねずみ島」という市民に親しまれた小島があった。今は島の跡かたもない資材置き場と埠頭に変わっている。ただ島の中央部分にこんもりと茂った部分だけは残り、小さな公園になっているようだ。昔の姿を知っている人に対するエクスキューズみたいなものか。

◆「ネズミ島」・・変なネーミングの島だ。その謂れは、天領長崎深堀陣の真北(の方)にあたるからネズミ島だとか、そもそも鼠が多かったとか、対岸の小瀬戸に不審船を見張る番小屋があって、不寝番(寝ずの番)をして張ったからだとか諸説あるが、もっと簡単だと思う。誰が見ても島の形が鼠そっくりなのだ。細い砂州のようなものは尻尾そのものだ。

◆このねずみ島を水泳訓練・指導の場として設立されたのが、なんと明治35年(1902)。これが今に続く「長崎遊泳協会」だった。古式泳法を通して心身を鍛える水泳の道場ようなものだった。時代を降るに従い、新時代の競泳泳法や遠泳なども取り入れ、また長崎初の海水浴場としても広く市民に親しまれていった。戦時中と戦後の一時期に中断されたが、昭和22年(1947)、早くも再開された。

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長崎市制施行100周年史より(この船に乗ってネズミ島に渡った) 

◆小学校の3年か4年生の頃(昭和27,28年)、この遊泳会の初心者クラスに入れてもらった。籐のバスケットにお握りとおやつ、水筒を入れ、木札(許可証のようなもの)を持って友だちと一緒にダンベ船に乗り、島へ渡った。泳ぎの事はよく覚えていないが、何日かして中耳炎に罹り中断した。短い水泳教室だったが、その後、年1,2回は家族でねずみ島に海水浴に出かけた。忘れられない光景だ。

◆経済環境の変化はネズミ島周辺をも大きく揺るがすことになった。平地が少ない長崎は島を削り、周辺を埋めたて、陸地を増やしていくことが宿命のようなもの。昭和47年(1972)ネズミ島での水泳道場は70年の歴史を閉ざし、閉鎖された。翌1973年、長崎遊泳協会は市民総合プールに移行して、生徒数6000名を数える全国有数の水泳教室となった。

◆長崎遊泳協会は2004年、特定非営利法人(NPO)「長崎遊泳協会」となった。その組織の立ち上げに尽力したのが、1994年に理事長に就任した田中直英氏である。曾祖父の代から営々と水泳の普及、青少年の心身の鍛錬、会の維持・発展に活躍され、まさにボランテイアの先駆けだった。田中氏は我が西高同期生で、長崎人らしい面倒見のよい人物である。同窓会の世話役以外にも、長崎の教育界、経済界、商店街の発展などに大きく寄与してきた人物。地域社会からおおいに頼りにされている。長崎遊泳協会は来年創立120周年を迎えるということで、現在記念行事の準備に忙殺されているとのこと。
(参考資料:「長崎遊泳協会H.P」) ☆検索キーワード:「長崎遊泳協会」

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