2022年4月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« 2021年2月 | トップページ | 2021年5月 »

2021年3月

2021年3月24日 (水)

桜を詠んだ古今の名歌(後)

2. 人の心・人生などを歌ったもの (続き)

花見にと 群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがには ありける   西行法師

明日ありと 思ふ心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは          親鸞聖人

敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜花             本居宣長
    (日本人の美意識、武士道精神を謳ったもの、最も好きな歌のひとつ)
いざ子ども 山べにゆかむ桜見に 明日ともいはば 散りもこそせめ     良寛

3. 恋愛など男女の心の綾を歌ったもの

あしひきの 山桜花日並びて かく咲きたらば いと恋ひめやも      山部赤人

春霞 たなびく山の 桜花 見れどもあかぬ 君にもあるかな       紀友則

山桜 霞の間より ほのかにも 見てし人こそ 恋しかりけれ        紀貫之

乙女子が 袖ふる山に千年へて ながめにあかじ 花の色香を      豊臣秀吉
   (女好きの秀吉らしい歌だが、家康は同景で上品な歌を残している)
咲く花を 散らさじと思ふ 御吉野は  心あるべき 春の山風      徳川家康

清水へ 祇園をよぎる桜月夜 今宵逢ふ人 みなうつくしき       与謝野晶子

4. 人の死と桜

願わくば 花の下にて春死なむ その如月の 望月の頃         西行法師

散る桜 残る桜も 散る桜                        良寛

風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残を いかにとやせむ     浅野内匠頭

 Dscf2089 本稿終り
 

  

桜を詠んだ古今の名歌(前)

今年は例年になく開花が早いようだ。小田原の見ごろは今週末頃か。しかし、今年も昨年同様、コロナの影響でお花見宴会はご法度。近くの桜の名所を逍遥し、古今の桜に纏わる和歌を想起して花を愛でようか
「日本人と桜は」いにしえより、深い縁で結ばれている。人はそれを和歌、短歌、童謡、歌謡など様々な形で表してきた。満開の桜を歌ったもの、情景の美しさや散り際の美しさ、人の心の中に分け入って、人生、恋愛、死、無常などの心理描写を歌ったものなど、数々の名歌がある。その中から自分の好みの20余首を選んでみた。

1. 桜の花の情景を歌ったもの

青丹よし 奈良の都は 咲く花の匂うがごとく 今盛なり         小野老

いにしえの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな      伊勢大輔

桜花 咲きにし日より 吉野山 空もひとつに かほる白雪       藤原定家

うすべにに 葉いちはやく 萌えいでて 咲かむとすなり 山桜花    若山牧水

さくら さくら 弥生の空は 見渡す限り
    霞か雲か 匂いぞ出ずる いざや いざや 見にゆかん      日本古謡

2. 人の心・人生などを歌ったもの

世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし      在原業平

花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 小野小町

高砂の 尾上の桜 咲きにけり とやまの霞 たたずもあらなむ     大江匡房

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ        紀友則

 (以下後編)

  


 

 

 

2021年3月12日 (金)

少年時代の心象風景(6)最終回

第六話 幻の荷馬車にぶら下がる。
◆中学校に上がって、通学距離がかなり伸びたが、30分とは掛からなかった。道路も次第に整備されて行った。アスファルト舗装される前の通学路。下校途中に屡々、大きな荷馬車に出くわした。馬方さんに曳かれ、尻尾を振り振り歩いていく。ある日、「今日は何も積んでいない。空だ。」友人たちと目配せして、一人が荷台の後ろにぶら下がる。また一人、更に一人。その雰囲気が馬方に伝わったのか、こちらを振り返ると、凄い形相で睨みつけ、大声で「コラッ!」と怒鳴られる。いったん、謝ってまた別の日に同じことを繰り返す。
何の変哲もない風景だが、田園風景ではない。古びたトラックやオート三輪も通る。周りは人家や工場、崖などが連なる。間もなく完全舗装され、バスが走るようになった。僅か1~2年の短い間の出来事だったが、なぜか忘れられない光景となっている。

第七話 貯木場で材木乗り
◆同じく、下校途中の道草の話。通学路の道路沿いに浦上川から水を引いた大きな貯木場があった。ラワン材などの角材が数本ごとに繋がれ、筏のようだった。大きな丸太もあった。これらの木材は輸入木材だったのだろう。この木材に乗り移ってユラユラ揺らす。木材の間から水面が見える。かなりのスリルだが、子供たちは無鉄砲だった。今では考えられない行為だが、当時は注意する人も殆どいなかった。これらの貯木場は現在は三菱重工の野球グラウンドやスポーツ施設、クラブハウスなどになっている。

第八話 工場の中のレトロな機関車
◆浦上川沿いの通学路の対岸は戦前から大きな製鋼所があり、戦禍で一旦破壊されたが、戦後すぐ復興した。我々が通学する頃は最盛期となり、1日中大きな音を立てて活況を呈していた。その工場の中を小さな機関車がコマ鼠のように動き回り、何か物は混んでいる。その機関車は教科書等で見る明治5年、新橋~横浜間を走ったあの機関車そっくりに見える。工場の中をSLが走る・・それだけで見ていて面白かった。
◆そもそも長崎はSL発祥の地だった。1865年、ト-マス・グラバーは西欧文明のデモンストレーションのためか、商売に直結させるためか、同年4月大浦海岸において、蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせた。当時の人は度肝を抜かれたことだろう。それからわずか7年後、東京~横浜間の鉄道を実用化したのだから、恐るべき能力の高さと言えよう。

【終わりに】今まで6回に亘り少年時代の取り留めもない話題を縷々綴ってきた。自分だけの脳裏に刻まれた風景を残して置きたいという思いで文章に記した。思えば、我々が少年時代「鉄腕アトム」などで見た夢物語だった未来の世界が、今悉く具現化されている。その間わずか60年~70年。文明の進化は留まるところを知らないようだ。その反面、あの頃の人と人との繋がりや絆は希薄になってきたようだ。これからの未来はどうなっていくのか、いくつかの憂いを抱えながら筆を折る。(本稿終り)

2021年3月11日 (木)

少年時代の心象風景(5)

第五話 シーボルトの軍服に接す

◆1955年、小学6年の時だった。担任の先生がI君と私を呼んで、長崎県立図書館が主宰する「市内の小学校の子供会」を作るということで、参加を勧められた。主に市内中心部の小学校の生徒17,8名が集まった。図書館の指導員数名のもとで、子供たちの自主性を尊重する形で、童話会、人形劇、コーラス、レクレーションなどを企画し、運営するコアのメンバーとして役割を持たされたが、ここではそのことが主題ではない。

◆当時の長崎県立図書館長は森永種夫さんといって、有名な郷土史家であり、高校、大学で教鞭に立ち、長崎奉行所に残された膨大な判決記録を解読して、その記録を「長崎犯科帳」として世に出した大変な学者だ。後にこの書をもとにTVドラマや映画ができたことは有名な話。
森永館長は大変温和な方で、我々子供達にも一人前の大人を扱うように接してくれた。図書館は大正時代にできた古びた洋館だったが、原爆によって本館西側が被災されたとのことだったが、この当時は緊急的に原状復帰されていた。

◆ある日、森永館長が普段は見られない蔵の中を特別に案内してくれた。薄暗い蔵の中、カビの臭いが鼻に衝く。そこには江戸時代の長崎奉行所から引き継がれてきた膨大な裁判の記録がうず高く積まれていた。目を引いたのがモールで飾られた軍服だった。シーボルトが着用していた軍服だという。その他にも彼が愛用していた日用品や文具などが多数あった。まさのこの時の体験が、数年前に読んだ吉村昭著の「ふぉん・しいほるとの娘」で臨場感が蘇ってきた貴重な体験だった。

◆5年後(1960年)、この古い建物は新しく立て替えられた。新装なった図書館には高校時代に何度か行ったが、特に記すべきことも無い。その後60年ほど経って県立図書館は大きく様変わりをすることをネットで知った。図書館部門は大村市に移転し、大村市図書館と合体して新しい県立図書館となり、2019年10月にオープン。史料関係部門はすでに近接する「長崎歴史文化博物館」に合体して、郷土資料センターとして、この5月にオープンするという。65年の時の流れはあっという間だ。しかし、確実に変化している。(続く)

2021年3月10日 (水)

少年時代の心象風景(4)

第四話 キリシタンの島の漁村風景
◆前回触れたネズミ島の対岸に小瀬戸という集落があった。(現在は小瀬戸町)ネズミ島との間は100mもなかった。桟橋からは海底の白砂が透き通って見えていた。子供の頃の話だが、小瀬戸の先に神ノ島という集落があった。この島に祖父母の家があって、幼稚園に通う間この家に住んでいた。戦前からこの島と小瀬戸の間を埋立て、陸続きにする工事が始まっていたが、戦争のため、中断されていた。

◆小学校の頃、神ノ島に行く手段は大波止から30~40分かけて、定期便に乗るしかなかった。勤め人も学生も皆利用していた。神ノ島~小瀬戸間は干潮時には大きな岩や石が姿を現し、満潮になればその一部が水面に頭を出すという状態だった。埋立て完了から何十年か経って、現在では広大な敷地に工業団地などが建っている。市の中央部から神ノ島町までのバスの便は格段に良くなっている。

◆話を子供の頃の神ノ島の体験に戻す。毎年夏休みには10日ほど弟と島で過ごした。近所の子供たちと裏の磯に行っては、泳いだり、潜ったり、巻貝などを獲ったりした。腹が減っては近所の子供が近くの畑からさつま芋を掘り出し、海水で洗っては「食え」と差し出す。生のまま齧った。収穫物は持ち帰り茹でてもらって、おやつになった。また大人たちの櫓漕ぎの小舟に乗せてもらって、釣りもやった。小魚が結構釣れた。赤銅色に焼けた青年が鉾を持って船から飛び降り、潜った。しばらくすると、鉾先にはクネクネと動く大きな蛸が突き刺っていた。今から思えば、貧しいながらも豊かな自然と共存した生活は、貴重な財産となった。

◆島の住民のほとんどはカソリック教徒。日曜日には島の中央にある教会に集まる。ミサが始まるが、これは苦手だった。通った幼稚園はこの教会の付属の幼稚園だったが、クリスマスのこと、学芸会の事、幼稚園の下の磯で遊んだことなど心象風景として残っている。
1 
磯浜で遊ぶ幼稚園生、女の子は着物姿が多い。マリア像は今も外港を見ている。

◆長崎港を囲む古くからの漁村や集落は、それぞれペーロン(ボート競走艇)を擁し、各漁村の名誉をかけて夏のペーロン大会に臨む。初夏から各艇は青年・壮年混合チームを作り、夕方から練習に余念がない。小学校1,2の頃、このペーロンに載せてもらったことがある。心地よい太鼓のリズムと船の揺れが子守歌になったのか、つウトウト眠ってしまった。文字通り波枕とはこのことだったのか。
余談だが、西高時代の同期のJ君は長崎大学時代、居住していた地域のチームに勧誘されてペーロンを漕いだという。定年後に聞いた話だが、羨ましい限りだった。ペーロンは現在では市内の企業、学校なども参加する一大行事となっている。(続く) 

2021年3月 9日 (火)

少年時代の心象風景(3)

第三話 ねずみ島遊泳教室の話
◆長崎港(大波止)を出港し、長崎の新ランドマークとなった「ながさき女神大橋」をくぐって、約4km、港口の西側に、かつて「ねずみ島」という市民に親しまれた小島があった。今は島の跡かたもない資材置き場と埠頭に変わっている。ただ島の中央部分にこんもりと茂った部分だけは残り、小さな公園になっているようだ。昔の姿を知っている人に対するエクスキューズみたいなものか。

◆「ネズミ島」・・変なネーミングの島だ。その謂れは、天領長崎深堀陣の真北(の方)にあたるからネズミ島だとか、そもそも鼠が多かったとか、対岸の小瀬戸に不審船を見張る番小屋があって、不寝番(寝ずの番)をして張ったからだとか諸説あるが、もっと簡単だと思う。誰が見ても島の形が鼠そっくりなのだ。細い砂州のようなものは尻尾そのものだ。

◆このねずみ島を水泳訓練・指導の場として設立されたのが、なんと明治35年(1902)。これが今に続く「長崎遊泳協会」だった。古式泳法を通して心身を鍛える水泳の道場ようなものだった。時代を降るに従い、新時代の競泳泳法や遠泳なども取り入れ、また長崎初の海水浴場としても広く市民に親しまれていった。戦時中と戦後の一時期に中断されたが、昭和22年(1947)、早くも再開された。

Photo_20210309104901 
長崎市制施行100周年史より(この船に乗ってネズミ島に渡った) 

◆小学校の3年か4年生の頃(昭和27,28年)、この遊泳会の初心者クラスに入れてもらった。籐のバスケットにお握りとおやつ、水筒を入れ、木札(許可証のようなもの)を持って友だちと一緒にダンベ船に乗り、島へ渡った。泳ぎの事はよく覚えていないが、何日かして中耳炎に罹り中断した。短い水泳教室だったが、その後、年1,2回は家族でねずみ島に海水浴に出かけた。忘れられない光景だ。

◆経済環境の変化はネズミ島周辺をも大きく揺るがすことになった。平地が少ない長崎は島を削り、周辺を埋めたて、陸地を増やしていくことが宿命のようなもの。昭和47年(1972)ネズミ島での水泳道場は70年の歴史を閉ざし、閉鎖された。翌1973年、長崎遊泳協会は市民総合プールに移行して、生徒数6000名を数える全国有数の水泳教室となった。

◆長崎遊泳協会は2004年、特定非営利法人(NPO)「長崎遊泳協会」となった。その組織の立ち上げに尽力したのが、1994年に理事長に就任した田中直英氏である。曾祖父の代から営々と水泳の普及、青少年の心身の鍛錬、会の維持・発展に活躍され、まさにボランテイアの先駆けだった。田中氏は我が西高同期生で、長崎人らしい面倒見のよい人物である。同窓会の世話役以外にも、長崎の教育界、経済界、商店街の発展などに大きく寄与してきた人物。地域社会からおおいに頼りにされている。長崎遊泳協会は来年創立120周年を迎えるということで、現在記念行事の準備に忙殺されているとのこと。
(参考資料:「長崎遊泳協会H.P」) ☆検索キーワード:「長崎遊泳協会」

2021年3月 8日 (月)

少年時代の心象風景(2)

第二話 道路工事のトロッコで遊ぶ

◆瓦礫の中の不思議な池の近くは、その後道路工事の現場となり、デコボコ状態が1kmほど続いていた。終戦後のことであり、まだ建設機械は少なく、人手に頼っていた。後年美輪明宏が長崎の宅地の基礎工事を歌った「ヨイトマケの唄」を出したが、この頃以降各地で見られた光景だった。道路工事では、牛馬や人がローラーで地面を均していた。泥を山盛りにした「トロッコ」を工夫が操縦しながら運んでいく。この光景が面白く、何時間も飽きもせず眺めていた。

◆ある日、工事が休みの時だった。悪ガキたちと一緒にトロッコに乗ってみようという事になり、見よう見まねで動かしてみた。ゴトッと音を出して動いた時は嬉しいという気持ちと同時に怖くなった。遊びはそこで中止し、一目散に逃げ帰った。高校時代に芥川龍之介の短編「トロッコ」を読んだ時、主人公の少年の心理とその時の自分の心象が重なり、彼の気持ちがよく理解できた。

◆因みに芥川の短編「トロッコ」は明治29年に建設された「豆相人車鉄道」を「軽便鉄道」にランクアップするためのレール拡幅工事を題材にしたものだった。明治41年に開通したSL「軽便鉄道」は熱海~小田原間を通るもので、現在の東海道線とは全く違う別物。今では車道となっているが、それも旧道となって、裏道的な存在となっている。

◆話を戻すと、この工事で完成した道路は現在では稲佐橋から三菱長崎造船所方面に延びる国道202号となり、メインのバス道路でもある。工事中の現場で遊んでいた西側に急勾配の数十段の階段がある。この階段の上から数10mのところに我が家があった。昭和26,7年頃の道路建設以前は崖そのものだった。道路工事の進展に伴い階段工事も進んだ。コンクリート舗装の前に土の坂に変わりつつあったが、いたずら小僧たちはこの急坂が格好の遊び場だった。板切れやダンボールをソリに見立て、坂を滑り降りては興じた。これも心象風景のひとつである。(本稿終り)

2021年3月 7日 (日)

少年時代の心象風景(1)

人には心に刻まれた心象風景というものがある。その風景を甦らそうとしても現実には不可能である。しかし脳裏から消え去ることは無い。むしろ年輪を重ねるにつれ、色濃く蘇るのである。生まれてから高校卒業まで長崎で過ごした。特に少年時代の思い出の中に、印象的ないくつかの場面がある。そうしたものを今のうちに記録に残して置きたい。(以下はこのシリーズの予定です)

第一話 瓦礫の中のオアシス
第二話 道路工事のトロッコで遊ぶ
第三話 ねずみ島の遊泳教室の話
第四話 キリシタンの島の漁村風景
第五話 シーボルトの軍服に接す
第六話 幻の荷馬車にぶら下がる
第七話 貯木場で木材乗り
第八話 工場の中のレトロな機関車 

第一話 瓦礫の中のオアシス
◆戦後の混乱がまだ多少残っていた昭和25年(1950)、長崎駅から徒歩15分ほど、稲佐山の麓の小学校に入学した。長崎港外の疎開先から、元住んでいた町に親子4人で越してきたが、以前の事は1~2歳のことであり、一切記憶にない。戦後5年経ったとはいえ、アチコチに戦争の爪痕は色濃く残っていた。人々の暮らし向きは楽ではなく、粗末な家に住み、食糧不足は続いていた。しかし幼い子供にとっては目に入るものすべてが現実であり、当たり前のように受け取る。そしていつの世もそうだが、子供は何処でも遊び場所を見つけ、遊び方を工夫し、元気に飛び回っていた。

◆我が家から10分もかからない浦上川河口沿いの焼け跡に、コンクリートの瓦礫が山のように積まれてあった。子供の眼からは10m以上あるように見えたが、実際には5~6mだったかもしれない。近所の悪ガキ数人で、「この上はどうなっているか探検しよう」ということになり、よじ登ってみた。難なく登れたが、頂上部の瓦礫の間から見えるその光景は全く想像を超えるものだった。

◆そこには想像もしなかった大きな池が広がっていた。しかも透明できれいな水だ。表面にさざ波が立っている。池の大きさは直径30mもあっただろうか。しかし、魚影はもちろんの事、水草の1本も見えない。不気味と言えば不気味。この水はどこから来たのか。雨水が溜まったものなか?不思議と言えば不思議な話だ。昭和25,6年頃の話だが、もう少し探求心があれば科学者になっていたかも(?)この瓦礫はしばらくして綺麗に片付けられ、その後バス会社の車庫やコンビニ等に様変わりしたようだ。(本稿終り)

« 2021年2月 | トップページ | 2021年5月 »