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2018年8月31日 (金)

少年時代の夏の日の怖い思い出

昭和20年8月9日、長崎に原爆が投下され、両親、祖父母と一家5人は長崎港外の漁村に移り住んだ。当時まだ2歳頃で全く記憶がない。記憶にあるのは幼稚園に上がったころで、毎日祖父の肩車に担がれ、教会に敷設された幼稚園に通い始めた頃である。昭和25年4月、市街地の小学校入学と父の通勤のため、長崎の元の実家の近くに転居した。祖父母はそのまま残り、一家4人で(疎開先で弟が生まれていた)引っ越した。10数軒あった貸家は全て焼け出され、何も残っていなかったという。
     ◇         ◇          ◇
長崎の家から港外の祖父母の家まで直線で6kmほど、数10年前に周囲が埋め立てられ陸続きとなり、バスで往還可能となった。しかし当時は長崎港から40分ほどの定期便船を利用するしかなかった。学校が休みに入ると、よく祖父母の家に出かけた。磯や砂浜のある海岸まで歩いて5、6分。地元の子供達や島の自然との触れ合いが大きな楽しみだった。そんなある日、島の真ん中の小高い山の中を子供達2,3人で探検した。灌木が鬱蒼と生い茂り、両側が背丈より高い叢の中に紛れ込んだ。人一人通れるほどの道があり、突き当たったところに、蔦や葉っぱに覆われた横穴を塞ぐ、レンガの壁が見えた。小さな明り取りがあって、わずかに中が見えるが、真っ暗で何も見えない。すると、何かの気配を感じたのか、ぞーッと悪寒が走った。皆我先にその場から走って逃げた。昭和26年~27年頃、神の島という長崎港外の島で、小学校低学年頃の話である。
     ◇         ◇          ◇
それから時が経ち、1990年代後半から長崎に行く機会が増えた。長崎訪問の際は、祖父母の墓があるこの地も何度か訪れた。そうした中、2012年2月、長崎ガイド協会に所属する小学校の友人の案内で、実に60年振りに、少年時代に怖い思いをした赤レンガの壁のある建造物を訪れることができた。なんと草深い怖いイメージは一掃され、今は「神の島公園」となって市民の憩いの場となっていた。怖かったレンガ造りの横穴の周囲は綺麗に整備され、ここがかつて砲台であったことを示す看板が架かっていた。60年前の怖い思い出は、戦後まだ6、7年しか経っていなかった頃の話で、ひょっとして兵士たちの怨霊があちこちに残っていたせいだったかもしれない。
     ◇         ◇          ◇
公園の最高地点に立つと、細長い長崎港が外に向かって広がっている様子が手に取るようによく見える。この少年時代の体験のわずか10年前、昭和17年5月20日夕刻、港内にある三菱重工長崎造船所で建造された戦艦「武蔵」が、最終艤装工事のため、呉工廠造船ドックに向かって出航した。長崎港では厳戒態勢が敷かれ、市民は港内を覗くことさえできなかったという。しかし神の島のこの砲台では、守備兵たちがその巨体に度肝を抜かれながら見ていたはずだ。因みにこの数年前工業高校を卒業した父親は、設計技師の端くれとして三菱重工に就職し、「武蔵」の電気系統設計にも従事したと聞いた。そんなことに思いを馳せつつ、2005年に完成した女神大橋や昔ながらの高鉾島、四郎ケ島、伊王島などを眺めていた。
Photo
神の島公園より、女神大橋を覗く。「武蔵」はこの狭い港を外に向かって出航していった。

Photo_2 戦艦「武蔵」




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