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2018年7月28日 (土)

天正遣欧少年使節団のこと

先月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録された。今年は日本にキリスト教が伝来されてから、約470年が経つ。1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してから、九州方面を中心に布教活動は広がり、有力キリシタン大名も出現した。天正10年(1582)には、大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、4名の少年使節団がローマ法王の元へ派遣されるまでに至った。ザビエル来日から33年後のことである。
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選ばれた少年使節団は伊東マンショ(主席正使)15歳・・豊後大友宗麟の名代。千々石ミゲル(正使)14歳・・大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。中浦ジュリアン(副使)15歳・・大村藩、原マルチノ(副使)13歳・・大村藩の4名。少年たちは、有馬晴信(今の島原方面を治める大名)が建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。1582年2月、イエズス会のヴァリニャーノに引率されて長崎港を出港した。
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一行は2年半かけて1584年8月、ポルトガルのリスボンに到着。以後マドリッド、イタリアのトスカーナ、ピサ、フィレンツェを経て、1585年3月、ローマに入り、ローマ教皇グレゴリオス13世に謁見した。法王は礼儀正しい4人の少年に涙し、異例の抱擁接吻をしたという。ローマ市も市を挙げて大歓待した。その後ヴェネツィア、ベローナ、ミラノなどを訪問して、1586年4月リスボンを出発、帰路に着いた。全行程、実に8年5か月余、一行4人は苦労の長旅を終え、1590年(天正18年)7月、長崎に帰港した。しかし4人の悲劇はすでに始まっていた。
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一行が苦労の長旅をしている間に、長崎で大村純忠が死去、豊後では大友宗麟が死去、最悪なのは1587年、豊臣秀吉によってバテレン追放令が発布されたことだった。この時点では異国人宣教師が追放されただけで、まだ禁教にはなっていなかった。1591年3月、聚楽第に招かれた使節団は巨大なアラビア馬を関白秀吉に献上。さらに秀吉の前で、西洋音楽を演奏した。歴史にif は禁物だが、秀吉に信長や光秀のような教養や素養があれば、西洋音楽にも理解を示したであろうが、そうはならず事態は悪化していった。1596年には長崎西坂の地で26聖人の殉教事件が起きた。
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4人のその後だが、伊藤マンショは司祭に叙階されるも、江戸幕府がキリスト教禁令を発布した1612年に長崎で死去した。千々石ミゲルは棄教。中浦ジュリアンは司祭に叙階されるが、1633年長崎で穴づりの極刑を受けて殉教、2007年に福者に列せられる。原マルチノは持ち帰った印刷機でキリシタン関連の出版をし、司祭になったが1629年、追放先のマカオで死去した。こうした苦難の歴史が秘かに引き継がれた先に、今回の世界遺産登録があることを我々は忘れてはならない。

Photo

「天正遣欧少年使節顕彰の像」:1982年、使節の出発400年を記念して、長崎空港(長崎県大村市)近くに建立されたもの。

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