誰も見ていない、誰も聞いていない大相撲放送の話
大相撲夏場所が13日から始まった。日本人横綱稀勢の里が7場所連続休場したのは残念だが、元大横綱大鵬の孫、悪役横綱朝青龍の甥など話題の取的たちも初土俵に立ち、当分相撲ブームは続きそうだ。
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昭和20年6月というから、太平洋戦争の終局に向かって、日本全土がB-29の爆撃の恐怖に晒されていた頃の話である。すべてのスポーツが「決戦非常措置」のため、禁止されていたが、大相撲だけは国技ということで軍部の庇護もあり、年2回、春場所(1月)、夏場所(5月)の興行が許されていた。ところが昭和20年3月10日の大空襲で下町は焼け野原になり、両国国技館も巨大な鉄骨の塊になってしまった。そこで急遽5月の夏場所は神宮外苑の相撲場に変更して挙行することになった。
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ところがまたしても初日の払暁、B29は山の手一帯を狙って大空襲・・・。止むを得ず神宮外苑も延期となって、被災の跡片付けが済んだ国技館で、6月7日から7日間、非公式で行われることになった。何故、非公開にしてまでも相撲興行を強行したのだろうか?
ひとつには、まだ空襲の危険もあったが、国技の伝統と番付け残したかった相撲協会の執念もあった。ところが実際は軍部の影響が強かったからだと言うのだ。
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当時のNHKは通常の国内放送の他に、海外向け(対敵謀略放送)と東亜放送(日本軍の占領地域向け・・・いずれも短波放送)を流していた。つまりこの放送は海外(敵)に向かって、「日本本土では決戦下でも余裕綽々、相撲を楽しんでいるよ」 と誇示するためだったらしい。観客は一人もいない、国内では誰も聞いていないでは、いかにも不自然ではないか?ところが、観客の歓声・拍手、館内のざわめきなどは録音しているものがあるから、いかようにも合成できたと言うのだ。
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この時相撲放送を担当したのが、後年「話の泉」などを司会したかのNHK藤倉修一アナウンサーだった。後年「国内では誰一人聞いていない相撲放送を、観客が一人もいない空っぽの、しかも廃墟のようなところで、口角泡を飛ばして喋っていた私は、悲しいピエロみたいなもので、今考えれば滑稽な話だった」と、昭和55年に刊行された「話題が豊かになる本」に寄稿されている。因みにこの場所は東横綱、照国、安芸の海、西横綱、羽黒山、双葉山の四横綱がそろって出場した。
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