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2018年5月 2日 (水)

西郷隆盛余話

明治31年(1898)12月18日、上野公園で維新の英傑西郷隆盛像の除幕式が行われた。故郷鹿児島の城山で自決後(1877年)、賊軍の将の汚名を着せられから実に21年が経過していた。幕末から明治維新にかけて功があった志士たちの霊を祀るため建てられて靖国神社には、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作など維新殉教者として合祀されている。ところが明治維新の最高の功労者とされた西郷隆盛は没後140年が経っても祀られていない。(太平洋戦争のA級戦犯東條英機が祀られているのにどうしたことか?)
          ◇          ◇          ◇
明治新政府は、薩摩士族に担がれて反政府軍の総大将となった西郷隆盛軍が起こした西南戦争(明治10年)により、賊軍の将として靖国神社に合祀することを拒否してきた。ところが、もっとも西郷を理解していたとされる勝海舟が明治17年、西郷南洲七回忌の際遺族の為に名誉回復の運動を起した。特に西郷の人柄を愛した明治天皇は「逆臣」となった西郷を憐れみ、名誉回復に踏み切る。明治天皇にとっては西郷も木戸も大久保も「建国の父祖共同体」の第一人者に他ならない。だからこそ、成り行きによる政治的敗北から、西郷を救い出さねばならなかった(御厨貴氏)。こうして、黒田清隆らの努力もあって、明治22年(1889)2月11日、大日本的国憲法発布に伴い、大赦で赦されることになった。

Photo 上野公園:西郷隆盛像 

話を西郷像の除幕式に戻そう。当日は名士800余名が参集して盛大に式典が執り行われた。万座の中で銅像が姿を現したときに、糸子未亡人が「うちの人はこげん人じゃなか!」と叫んだ話が有名なエピソードとして残っている。このとき隣に列席していた実弟の西郷従道が糸子未亡人の足をギュッと踏みつけ、「似てようが、似ていまいが人様の善意を損ねるようなことを言ってはいけない」と諭したという。
           ◇          ◇          ◇
この糸さんの発言については、「主人は浴衣姿で散歩なんかしなかった」と言う意味と、(実際は故郷鹿児島での狩りの姿を表現したもの)単純に顔が違うと言う意味だったとする説がある。写真嫌いで通した西郷の顔写真は1枚も残っていないが、そのためか、西郷の死後、多くの肖像画が残されている。中でもイタリアのキヨッソーネが描いた肖像画は死後の翌年、西郷とゆかりの深い人からのアドバイスを参考に、比較的西郷に似ていたとされる西郷従道と従姉弟の大山巌の顔を合成して描いたと言われ、西郷の遺族や親族が「この肖像画こそ翁(隆盛)そのもの」と確認し、夫人の糸子に贈呈されたという。

Photo_2 
キヨッソーネ 画::西郷隆盛肖像画
           
銅像の制作は明治26年に、今の芸大に委託された。同校はできるだけ精巧な像を作るべく、要望風采の情報を集めた。特に実弟の従道氏の写真を参考にしたというが、銅像の現物を見ると、キヨッソーネが描いた肖像画よりも、元横綱武蔵丸に似ているように思える。糸子さんが「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったのはこの辺のことを指しているのか? 最後に勝海舟が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌を掲げる。

 「
濡れ衣を 干さんともせで 子供らの なすがままに 果てし君かな

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