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2018年4月

2018年4月23日 (月)

明治150年の歴史から何を学ぶか(最終回)

自分がまだ小学生だった頃、明治生まれの祖母からよく聞かされた。「東郷さん(元帥)は偉かった。みんなを元気にさせた。昭和の戦争は酷かった。原爆でなにもかも焼けてしまった」と。明治・大正・昭和を生きた平凡な一庶民の慨嘆だが、案外本質を突いているかもしれない。
              ◇          ◇           ◇
明治という時代は、江戸時代という長い時間をかけて生育された果実が収穫される時期だった。江戸時代の様々な遺産が明治という時代に「理想」として実った時期だったというのが司馬さんの明治観である。しかし、明治の人が目指したのは「坂の上の雲」だったから、いくら坂を上ってもそれは掴めないものであり、上りつめた坂はやがて下りになる。白い雲を掴めないまま坂を下っていくと、その下には昭和という恐ろしい泥沼があったと磯田氏は解説する。
           ◇          ◇           ◇
その泥沼の中から頭を出した鬼胎が昭和戦争を惹き起こし、日本を破滅に引きずり込んだ。日本人は戦争で「神州不滅」とか「七生報告」とかいったおよそ合理的でない思想をさんざん吹き込まれ酷い目に遭った。技術の向上より、不都合な事実を注視せず、深く考えないで不合理が罷り通る。極端に言えば明治の頃の装備のまま、第二次大戦の敗戦まで行ってしまった。戦後、その反作用か、目に見える即物的なものを強く信じる合理的な世代が生じて、高度経済成長期に、一気に物質文明至上主義に向かった。
           ◇          ◇           ◇
高度経済成長は確かに日本人の生活を豊かにした。だが、物欲は満たされたものの、何か大切なものを失ってしまった。国民全員が「坂の上の白い雲」を目指すような大きな目標は無くなった。公共心が希薄になり、自己中心的な生き方が主流となった今、この国は何を目指し、どこへ行こうとしているのか。司馬さんが言い残しかったこと、それは「公共心が非常に高い人間が、自分の私利私欲ではなく、合理主義とリアリズムを発揮した時に、凄まじいことを成し遂げる」、逆に「公共心だけの人間がリアリズムを失った時、行く着く先はテロリズムや自殺にしかならない」ということではなかったのかと磯田氏は言う。
           ◇          ◇           ◇
【おわりに】 2001年11月、司馬さんの居宅があった東大阪市に「司馬遼太郎記念館」が開館された。半年後の翌年5月、ここを訪れた。司馬さんは1996年2月72歳で没したが、1989年、66歳の時、「21世紀に生きる君たちへ」、「洪庵のたいまつ」を書き残し、小学校の国語の教科書に掲載された。司馬さんが膨大な執筆活動の最後に、推敲に推敲を重ねて執筆したという。まさに我々に残された遺書とも言うべき作品であり、早速1冊買い求めた。
未来を思う司馬さんの真摯な姿勢が随所に滲み出ている。何の脈絡もないが、蜀の丞相孔明が主君劉備の後主劉禅に残した「出師の表」が思い起こされた。磯田さんは「司馬遼太郎で学ぶ日本史」の「おわりに」の部分で、次のように書いている。「20世紀までの日本の歴史と日本人を書いた司馬遼太郎さんが言い残したことを21世紀に生きる我々が鏡として、未来に備えていくことが大切だ」と。まさにその通りだと痛感させられたことが、このシリーズを締めくくるあたっての感想である。(終)

2018年4月17日 (火)

明治150年の歴史から何を学ぶか(6)

【統帥権とは】
前回の最後の部分で統帥権のことに触れたが、統帥とは、軍隊を統べ率いることである。大日本帝国憲法第11条には、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とある。これを根拠に軍部は統帥事項を内閣や議会の管轄から独立させ、昭和に入ってからは、陸海軍当局が天皇直結であると拡大解釈して、暴走したことがことの本質だった。元来は、政争の道具として軍隊に利用されないように、元勲が企図したものだった。明治の頃にはまだ元老たちが健在で、軍が勝手な行動をとらないよう睨みを利かせていたから、鬼っ子が暴れ出すまでには至らなかった。


統帥権は慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、シビリアン・コントロールの概念に欠けていた。統帥権に基づいて軍令機関は帷幕上奏権(天皇に直接上奏する権利)を有すると解し、軍部の政治力の源泉となった。それ故、帝国陸軍及び海軍は立法府や行政府に対し、一切責任を負わないものとされたから、およそ民主主義の概念からかけ離れたものであった。昭和に入ってからは、軍部がこれをおおいに利用し、「陸海軍は大元帥である天皇から直接統帥を受けるものであって、政府の指示に従う必要はない」とした。これに口を挟もうならば「統帥干犯」として、恫喝された。満州事変から始まる一連の軍部の大暴走は政府の決定など全く無視した行動で、神国思想を糧に次第に鬼っ子が肥大化していき、結局日本を崩壊させてしまった異胎の時代となった。

◆明治憲法は今の憲法と同様に、立法・行政・司法の三権分立を謳った憲法だったが、昭和に入って変質した。統帥権が次第に独立し始め、ついには三権の上に立ってしまった。司馬さんは日本を「鬼胎」にした正体ーそれはドイツから輸入して大きく育ってしまったもの、即ち「統帥権」だったと喝破する。軍の統帥権の実際の運用にあたっては、当然ながら政府と議会がチェックする必要があった。しかし、そのチェック機能も統帥権を盾にした軍部の前には効かなくなっていった。軍部は統帥に関する決定権はすべて天皇にあると主張、ところが実際は天皇自身が決められる訳ではなく、軍の中枢を成す部課長が決定。軍はその結果を天皇に上奏するだけで、天皇の意思をしばしば無視して押し切っていった。

◆軍部はついには「統帥権は無限・無謬・神聖」と唱え始め、三権を超越した存在であると考え始めた。こうなると、日本国の胎内に別の国家ー統帥権国家ーができたともいえる」と司馬さんは述べている。また参謀本部所属の将校しか、閲覧を許されなかった秘密文書の復刻本「統帥参考」を入手した司馬さんが、その中の一節を次のように紹介している。
統帥権本質ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ 云々」と。まさに昭和の日本が破滅に向かって一直線に進んでいった本質を炙りだしている。「間違った思想・考え方が一国を滅ぼす」という教えを現代に生きる我々は身を挺して学ばなければならない。(続く)

2018年4月 9日 (月)

防衛省の日報問題の本質を探る(下)

◆憲法は前文の中で、「日本は恒久平和を求め、世界の平和を維持するため、同じ価値観を持つ国際社会の一員として、名誉ある地位を目指す」という趣旨を謳っている。PKOは国連決議に基づく、国際的な平和や安全を維持するための活動であり、専守防衛を標榜する日本が自衛隊を海外に派遣する根拠ともなっている。派遣する際は国会の承認を得ることになっているが、憲法9条の「戦争放棄、戦力及び交戦権の否認」との整合性を盾に、必ずしも国論が一致しないという問題点を孕んでいることがこの背景にある。

◆自衛隊法の規定には、「首相が『内閣を代表して、最高の指揮監督権』を持つ。内閣の一員である防衛相が常時自衛隊を統括する」とある。これ即ちシビリアンコントロールであり、実力組織である軍隊の上に文民が立って統制することを明確化している。防衛省の主な任務は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛すること」と規定されている。戦闘能力を持つ武器を合法的に使用できる国内最大の実力組織だ。問題はこれだけの組織と実力を持ちながら、あい矛盾する憲法9条との整合性において、70年経っても未だその地位が明確になっていないことにある。

◆自衛隊は「自衛のための必要最小限度の実力を持つもの」と定義されているが、この「必要最小限度」とは実に曖昧なもの、どう捉えるかは人により異なるもので、周辺諸国の状況の変化や技術の変革等で変動するものだ。防衛費は2018年度予算案では6年連続で増額し、5兆1911億円。4年連続で過去最高を更新した。世界の軍事費では日本は上位8位にランクされている。これを多すぎると見るか、いや足りないと見るか、これらの説明が足りないから、多くの国民は防衛問題、安全保障問題に戸惑いを覚え、コンセンサスを得にくい状況となっている。

◆安倍総理は自衛隊を憲法に明記するよう提案した。しかし、その必死さが伝わってこない。まずは防衛問題に限らず、すべての問題に対して追及から逃げるのではなく、真摯に向き合うことだ。野党を説得できずして、国民がついてくるだろうか
内閣の命運をかけてでも、「何故PKOが必要なのか」、「自衛隊はどうあるべきなのか」、「日本の安全保障をどうすべきなのか」、「何故憲法9条の改正が必要なのか」、こうした基本的な問題について、反対勢力を説得し、国民の理解を得る努力をすべきだ。最終的には安全保障に関する国民のコンセンサスを築かなければ、いつまで経ってもこの国の防衛問題は解決できない。自衛隊の身分が憲法上明確になっていないからこそ、廻り回って末端の自衛隊員の日報問題にまで行きつくことになる。国防に関する明確な指針がなく、法的な整備も不十分なまま、国民と政府と自衛隊の信頼関係を築くことができるのか。これなくして自衛隊が本当に機能するのか、いかにも心許ない。(本稿終り)

2018年4月 8日 (日)

防衛省の日報問題の本質を探る(中)

◆自衛隊制服組と防衛省背広組の身分・待遇格差については先に触れたが、今回の日報問題の発覚過程を見ると、制服組の背広組に対する反乱ではないかと思える節がある。「南スーダンPKOで起きた銃撃戦」の日報に書かれた「戦闘」という表現がキーワードになっていたと言う。現場では攻撃を受けたら止むを得ず自衛のために応戦することはあるだろうが、それを「戦闘」と表現した。これが建前上不味いとされ、報告書を隠蔽しようとした一因となった。何故ならPKOにおいては自衛隊は戦闘しないという建前になっており、国会等で野党から追及されるからだ。しかし、この隠蔽が発覚し、結局「資料を出せ、無い」の騒ぎとなり、「犯人扱い」された自衛隊制服組は防衛省の不正をマスコミに流す事で反撃に出た。最終的に当時の稲田防衛大臣、事務次官、陸上幕僚長が退任や辞任に追い込まれた。

◆結果的に陸自が事務次官のクビを取ったが、騒動はこれで収まらず、官僚による報復や制服組のさらなる暴露合戦が続いている。問題は「戦闘」を「衝突」などと言い繕って、その場しのぎで胡麻化したことだ。野党も露見した隠ぺい問題を取り上げ、文民統制が機能していないなどと追及する。すべて正直にありのままに国民に説明し、理解を求めていればこれほど大きな問題になっていなかっただろう。但し、防衛機密上公開できないこともあり得る。それらは一定の時間が経ったら公表する。そのルールを明確にすることが大切だ。しかし、これらは問題の本質ではない。

◆そもそも何故、PKO(国連平和維持活動)に参加するのか。もともと日本は憲法上の制約があり、自衛隊の海外派遣は憲法違反の疑義ありとして、消極的だった。1990年代初頭において、湾岸戦争が勃発すると、日本の国際貢献が問われる事態となった。日本は軍隊を出せない代わりに巨額の資金を供出した。これが結局「日本は金は出すが、汗をかかない」と不興を買った。その結果、1991年に自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に派遣され、一応の面目を保った。こうしたチグハグな態度の根本要因は、最終的に憲法問題に帰するところが大きい。

◆1990年代以降の海外情勢の変化に伴い、日本では1992年にPKO協力法を成立させた。派遣にあたっては、紛争当事者間の停戦合意、紛争当事者の受け入れ同意、武器使用は必要最小限とする、などの「参加五原則」を設けた。しかし、実際の現場では、「原則が歪められたから、ハイ、サヨナラ」とはいかないこともあるだろう。現場では参加各国との協調姿勢も大切だ。PKOは、情勢により危険を伴う任務もあり、日本が今後どのように関与していくかについて、実際に経験した制服組の意見も呈して、議論されなければならない。要は現地指揮官と統幕、防衛省、官邸との信頼関係こそ大切だ。(続く)

2018年4月 7日 (土)

防衛省の日報問題の本質を探る(上)

◆「隠蔽されていた陸上自営隊の日報が見つかった」、「シビリアンコントロールが機能していない」、「大問題だ!」などと政界もメディアも大騒ぎだ。確かに組織内の文書管理の在り方、情報公開のルール等はより明確化され、遵守されなければならない。しかし、ことの本質はこれだけの話ではない。本質はどこにあるのか、探ってみたい。
そもそも自衛隊に問題があった場合、現場の最高責任者である陸・海・空・
幕僚監部や統合幕僚長を国会に招致して喚問すればよい。ところが、どういう訳だか自衛官は委員会等に参加できないと言う不文律があると言う。どうもこの辺に問題の本質に迫る糸口がありそうだ。

◆防衛省に関連する問題の国会答弁や、予算割り振り、人事権などの重要事項の決定権は防衛者の背広組、即ち官僚が行っており、彼らは現場に立つ自衛官制服組)よりも偉いと勘違いしているようだ。それでいて、いざというときには命を張って、最前列に立たされるのは制服組であり、防衛省と自衛隊は明確に区別されている。何故なら自衛隊は旧日本軍の残滓と位置づけされ、未だその名残を引きずっていると見られているという。

◆信じられない話だが、自衛隊がクーデターなどを起こさないように監視しているのが防衛省であり、文官(キャリア官僚)や背広組と呼ばれている連中だと言う。これが文民統制、いわゆるシビリアンコントロールの実態であり、防衛官僚は自衛隊を見下し、自衛隊は防衛官僚を憎悪している図式が生じる。なお、国家安全保障会議には防衛省の官僚(背広組)は参加しているが、幕僚等の自衛官は参加していないという。これが安全保障会議の実態だとすれば、国の防衛は本当に大丈夫なのかと疑わざるを得ない。

◆こうした歪んだ軍隊を作ってしまったのが、戦後の日本政府と国会、引いては「日本国憲法」に行きつく。だから国会喚問で、自衛隊制服組を招致しないのは、与党にも野党にも何か不味いことがあるのかと勘繰りたくなる。国防という国の基本政策に、軍の経験もない事務屋さんが防衛省のトップになるのは、「日本軍を復活させないため」という大義名分があるという理屈らしい。背広組と制服組の身分・待遇格差は、2015年に紛糾した安保関連法で変更された。背広組と制服組を対等に位置付けた改正防衛省設置法で、制服組は安全保障政策の意思決定に関与できるようになった。とは言っても、防衛省のトップである事務次官にはまだ防衛官僚しかなれないという。(続く)

2018年4月 1日 (日)

明治150年の歴史から何を学ぶか(5)

【明治の時代に孕んだ鬼っ子】
司馬さんは明治と言う時代を一つの理想として書いたが、昭和については「この国のかたち」の中で、「昭和ひとケタから20年の敗戦までの10数年は、長い日本史の中でもとくに非連続の時代だった」と書いている。また別の箇所では、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る40年間は、日本史の連続性から切断された異胎の時代」だった、また「明治憲法下の法体制が、不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じ」とも表現している。

◆磯田氏は社会の病とは、潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう。その病根は、明治という時代に生じていたのではないか、明治という時代はまだそれが発症していない「幸せな潜伏期間」だったのではないかと述べている。明治の日本は合理的な法に基づく近代的な国家を目指していたが、一方で、「日本の軍には天の助けがある、天皇の率いる軍は天祐を保有しているから、神風も吹き、負けたことがない」と考えていた。国をあげて超自然的な力を信じ教えていたところに病根の潜伏期間」があり、司馬さんが言う「鬼っ子」を孕んでいたとの表現と同義語ではなかろうか。

【鬼胎の時代が生まれた背景】
その背景には「ナショナリズムの暴走」があった。「日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない」と司馬さんは言う。日露戦争で、辛うじて勝利した日本はギリギリの条件で講和せざるを得なかった。国際情勢を知らない大衆やメディアは、「平和の値段が安すぎる、講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ」と叫んだ。ついには3万人が結集して、日比谷焼き打ち事件が起こった。司馬さんはこれを「魔の季節への出発点」という。日清戦争の勝利で中国に強い優越感を持ち、今度は白人の国に勝ったことで、「世界の一等国の仲間入りした」と、日本人は次第に傲慢になり、謙虚さを失っていった

【ドイツスタイルの導入と統帥権】
昭和の戦争が日本を破滅に導いた最大の要因は、明治憲法制定時に国家制度も、軍の方式もドイツのスタイルを導入したことであり、憲法に「統帥権」を掲げたことである。明治国家は草創期には陸軍はフランス式、海軍はイギリスに学ぶという多様性があった。ところが国家モデルの目標を設定するに当たり、大隈重信らが推す英国方式(国会中心の政府)と伊藤博文が推すプロイセン・ドイツ方式が対立した。結局、欧州では後進国ながら、皇帝を中心に強固な軍事力で急速に国力を高めて、近代化を遂げたドイツを日本がモデルにすべきだとした伊藤が大隈らを追放したことによって日本の方向が定まった。明治14年の政変だが、もし大久保利通があと4年生きていたら、どういう判断をしただろうか。

◆ドイツは軍隊が国家を持っていると言われる程の軍国主義国家であり、参謀本部制度という独特の制度で、軍が国家を動かすと言われる程だった。日本が軍事的に強い国家の法制度を取り入れたのだから、軍が国家を左右して破綻に至ったドイツと同じ運命を辿ったのは自明の理と言えよう。明治22年憲法発布時にはまったくドイツ式に変貌し、その作戦思想が日露戦争の陸軍でも有効だったということで、ますますドイツへの傾斜が進んでいった。(続く)

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