2018年11月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« ガリバーと三浦按針の話 (上) | トップページ | 佐川氏証人喚問に思うこと »

2018年3月21日 (水)

ガリバーと三浦按針の話 (下)

◆では、何故三浦按針がガリバーとされた伝承が残るのか。17~18世紀のヨーロッパでは、風刺的架空旅行文学が一種の流行を生んでいた。実在の三浦按針は多くの書簡を祖国に送り、その書簡集が1625年に刊行されている。また1690年に日本に渡航し、2年間滞在したドイツ出身でオランダ船船医となったケンペの「廻国奇観」(1712年刊)や「日本誌」、その他にもいくつかの日本情報は英国にも伝わっていた。特にケンペルの「廻国奇観」は、鎖国政策が安定した高い文化と国造りに望ましい効果をもたらしている事例として、「ポジティブな日本像」として伝播したようだ。

◆スウィフトが「巨人の国」や「馬の国」など他国との交流の無い島国を理想郷に近いイメージで描いているのも、こうした影響があったのではないかと言う説もある。三浦按針やケンペルらの日本紀行を題材とした情報は、「ガリバー旅行記」に直接、間接に反映されている。按針が横須賀、浦賀、平戸等にに痕跡を残していること、またケンペルが船医であったことなどはその一例だが、彼らの日本での行動をもとに、スウィフトが類い稀なる想像力を駆使して、虚・実を絡ませ、日本におけるガリバー像を構成したことは間違いないだろ。

◆ガリバーは日本紀行の中で、「踏み絵」を迫られるが、英国人であるガリバーは、その儀式を免除して欲しいと申し出る。「踏み絵を躊躇するオランダ人など初めて見た」と怪訝な顔をされたとあるが、何とかうまく自分をオランダ人として偽り通して、長崎からアムステルダム行の船に乗り込むことができ、イギリスに帰国したとある。こうした記述は、日本の事情によほど精通していないと書けるものではなく、按針やケンペルの日本情報がおおいに役立ったものと思われる。

◆なお、徳川幕府は1639年、西欧との結びつきを断ち、長崎の出島に築いたオランダ商館を除いて鎖国時代に入った。この間のわずか20年ほどの短い期間でW・アダムスは徳川家康の庇護を受け、三浦按針という日本人として活躍した。その後100年近く経って、母国でガリバーという架空の人物の一分身として復活したとも言えるのではなかろうか。ついでながら原作者のスウィフトは故国アイルランド、及びイングランドの外に出ていた形跡は見られない。しかし、創作する上での想像力や、時の英国の政治、社会、文明に対する鋭い風刺は稀有なものである。スウィフトは晩年精神病を患い、1745年77歳でこの世を去った。(本稿終)

« ガリバーと三浦按針の話 (上) | トップページ | 佐川氏証人喚問に思うこと »

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1299847/73146759

この記事へのトラックバック一覧です: ガリバーと三浦按針の話 (下):

« ガリバーと三浦按針の話 (上) | トップページ | 佐川氏証人喚問に思うこと »