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2018年3月20日 (火)

ガリバーと三浦按針の話 (上)

ガリバー旅行記の主人公「ガリバー」は実は三浦按針だったという話は、三浦半島の横須賀、浦賀、観音崎あたりに伝承として残っている。これは全く根拠のない話ではなく、歴史を辿れば面白い事実が浮かび上がってくる。

◆『ガリバー旅行記』はアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトによって、1713年に執筆開始され、1726年59歳の時に完成した風刺小説である。原題は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリバーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』という長いもの。子供向け絵本でも有名な「小人国」は第一篇に、「巨人国」は第二篇に登場し、第三篇で四つの島国を旅した後、日本に上陸する。因みに第四篇で「馬の国」が登場する。登場するすべての国が架空の島国であるのに対し、日本のみ実在の国であるところが面白い。

◆「旅行記」では第三篇の最後の部分5ページほどに日本旅行記が登場する。物語では、日本渡航の前1709年5月、ラグナダ国王の親書を携えて出航。日本の東端の港ザモスキに着いた後、江戸で皇帝(徳川将軍)に謁見した。その後Nangasac(長崎?)まで護送され、同年6月オランダ船で出国し、イギリスに帰国したと記述されている。このザモスキと言う地が、横須賀市の観音崎ではないかと言うのである。

◆三浦按針はもともとウィリアム・アダムスという英国人。オランダ船リーフデ号の航海士だったが、関ケ原の戦いの半年前、1600年3月、豊後の国(大分県)臼杵に漂着した。この時オランダ人航海士ヤン・ヨーステンも同時に漂着し、後に二人とも家康の家臣に召し抱えられた。ヤン・ヨーステンは現在の八重洲の地名に由来にもなったことで有名だが、御朱印貿易に従事した。W・アダムスは、家康の外交顧問として重用され、また西洋式帆船を完成させた功績等により、250石取の旗本に取り立てられ、名字帯刀を許されて、相模国三浦郡(現横須賀市逸見)に所領と邸を拝した

◆家康はこの頃、観音崎に隣接する浦賀湊を貿易港に指定し、南蛮貿易としてスペイン商船のみ入港を認めた。マニラ・メキシコなどとの貿易が目的だったからである。按針の尽力により1604年にスペイン商船が初めて入港し、その都度、西国から承認が浦賀に急行し、浦賀は国際貿易港として賑わったという。また按針は1609年、平戸の商館開設に関わり、オランダとの貿易が開始された。家康死後(1616)は秀忠、家光と次第に貿易から手を引き、鎖国政策へと舵を切った。按針は次第に居場所も窮屈になり、晩年は平戸で暮らして、故国へ帰ることを望んだが叶わず、1620年、波乱の生涯を閉じた。(続く)

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