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2017年6月 2日 (金)

復元された大磯「旧吉田茂邸」を訪問

◆戦後日本の復興の礎を築き、その後の保守・親米路線を決定づけた政治家吉田茂。「ワンマン宰相」、「バカヤロー開散」、「大磯詣で」、「吉田学校」など数々の逸話を残し、昭和42年(1967)に没し、戦後初の「国葬」で葬儀が行われた唯一の政治家である。(因みにその後国葬は廃止され、1975年6月に佐藤栄作の葬儀が国民葬で行われた)。

吉田茂は昭和20年から、生涯を閉じた昭和42年まで、養父の後を継いで大磯の別荘を本邸として過ごした。約9000坪の敷地に900㎡の邸宅は「吉田御殿」とも呼ばれ、政界引退後も多くの政治家が「大磯詣で」を行い、内外の賓客はもとより、当時の皇太子と美智子妃殿下も招かれた。没後、邸宅は西武鉄道(大磯プリンスホテル)に買い取られたが、地元住民の保存運動が起き、近代政治史の歴史文化遺産として保全・活用が検討された。2012年から神奈川県の管理下に置かれ、隣接する「県立大磯城山公園」の拡大地域として一般公開されることが決定。ところがその矢先、2009年3月、漏電が原因と見られる火災が発生、総ヒノキ造りの本邸が全焼してしまった。

◆余談ながら筆者は2006年夏、小田原に越して以来、国道1号線に面した吉田邸前を何度も往来していたが、焼失する前に一度だけ邸内を見学したことがある。但し、建物の中には入れず、広大な庭と銅像を見学しただけだった。旧吉田邸は大磯町が町有施設として再建することになり、本年4月ようやく復元工事が完了した。公開から2ヶ月足らずで入館者が年間目標の3万人を突破したという。その直後、先週金曜日に小雨の中を訪問・見学してきたという次第。

◆近代数寄屋建築風の総ヒノキ造りの新館は、新築独特の木と畳の香りが優しく鼻腔に届く。全体にシンプルですっきりした造作は自然の明るさをふんだんに取り入れ、日本建築の粋をいかんなく発揮し、広大な庭園とよく調和している。落ち着いた応接間、広い食堂、愛用した書斎があって、さらに金の間(居間)、銀の間(寝室)からの眺望もすばらしい。船の形をした檜造りの風呂桶は西洋風バスタブをイメージしたものか。

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2階書斎からサンルームを見る。                広い食堂

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  2階書斎                    2階浴室 檜造りのバスタブ

◆庭園の一角に「七賢堂」がある。元々、明治36年に伊藤博文が、維新の元勲のうち岩倉具視大久保利通三条実美木戸孝允の4人を祀った「四賢堂」を自身の大磯の邸宅「滄浪閣」に建てたものだった。伊藤博文の死後、婦人が伊藤を加えて、「五賢堂」とした。昭和35年に吉田茂邸に移設され、37年に吉田茂が西園寺公望を合祀した。吉田の死後、昭和43年に佐藤栄作が吉田茂を合祀して、「七賢堂」と改めた。正面の扁額「七賢堂」の文字は佐藤栄作が揮毫したもの。
兜門やサンルームとともに焼失を免れ、旧吉田邸の歴史を感じさせる貴重な建築物となっている。美しい日本庭園は、海外赴任生活が長かった吉田茂の嗜好の多様性の現れであり、バラ園、洋風樹木など様式に捉われない構成で、特徴が色濃く反映されている。

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七賢堂

Dscf2172 吉田茂銅像:昭和58年建立。日米講和条約の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けていると言われている。銅像付近からの眺望はよく、富士山、伊豆半島、箱根、相模湾、房総半島、三浦半島などが一望できる。

(この点だけは我が家と同じか)

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