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2017年4月17日 (月)

「小田原~熱海」人車鉄道と軽便鉄道の話(2)

小田原熱海間に、軽便鉄道の敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった」で始まる芥川龍之介の短編小説『トロッコ』。モノの本によれば、神奈川県湯河原出身の力石平三が26歳の時に上京して、ある雑誌社に務め、芥川の弟子となって小説のもとになる材料を提供した。小田原~熱海間にそれまでの人車鉄道に代わって軽便鉄道が開業したのは明治40年12月のこと。主人公と思える力石少年が、切り替えのための土木工事を興味深く見物して体験したことを回想手記にまとめ、芥川がそれをもとに大正11年、30歳の時に短編小説に仕上げたものだと言われている。

300pxatami_railway_in_taisho_era(写真は熱海軽便鉄道、ウィキペディアより)

◆自分も長崎の少年時代にトロッコを利用した道路工事現場で似たような経験をしたので、良平少年の気持ちが手にとるように分かる。以前は芥川の実体験から書かれたものとばかり思っていたが、東京生まれで都会しか知らない芥川が、材料だけをもとに見たこともない農村生活や少年の経験、心理を生き生きと描写しているのはやはり天才としか言いようがない。小説では具体的に工事現場はどの辺で、どこまで行ったのかは記せられていないが、風景描写や諸状況から独断すると、湯河原町の東のはずれ辺りから小田原方面へ向かって真鶴町を越え、ひょっとしたら今の小田原市の西端、江之浦や根府川近くまで行って、夕闇迫るトロッコ道を一人涙を堪えながら、走って引き返したものと思われる。


軽便鉄道といえば、夏目漱石の「坊ちゃん」を思い出す。漱石が四国・松山に赴任し、軽便鉄道に乗って温泉に通ったのが、明治28年(1895)。 小田原と熱海間の軽便鉄道の開通が明治40年(1907)だから、12年前のことだった。松山軽便鉄道は距離も短く、平坦な場所だったため建設も比較的に楽だったのだろう。その点小田原~熱海間軽便鉄道は距離も長く、地形的にも難工事だったことは想像に難くない

◆まず、線路幅を61cmから76.2cmへ拡幅。勾配個所は極力減らし、カーブを緩めるための土木工事が必要だった。その時排出された大量の土砂を運ぶのが、少年が見た「トロッコ」だった。全線の距離は小田原・早川口~熱海間で25.3km、駅数14、所要時間2時間15分だったというから人車鉄道に比べ、早くなったとは言え、半分程度の短縮に過ぎなかった。その後会社の所有者や形態の変遷を経て、大正13年(1924)に廃止。1922年には国に移管され熱海線となって本格的なSLが運転された。(軌間は標準の106.7cm) 1934年に丹奈トンネルが開通すると同時に熱海線は東海道線に改められた。

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(写真は1907年、軽便鉄道に切り替えの際に導入された7号蒸気機関車。熱海駅前に展示されている。)

【軽便鉄道余話】

・営業当初は蒸気機関車煙臭さや夏の時期の暑さが不評を買った。またSL特有の煤煙に辟易した沿線住民が列車を襲撃する襲撃する時間も発生したという。
・漱石の弟子内田百閒が、湯河原町滞在していた夏目漱石を訪ねた際、軽便鉄道に乗車した。客車は小さくて中腰でないと立っていられず、のろくて勾配区間では逆行しそうになり、線路上の落ち葉でも機関車が滑るため、機関士がいちいち降りてどけていたと書き残している。

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写真左は根府川駅近くの新白糸橋の上を走るJR東海道線。鉄橋の下を国道135号線が走っている。それと並行して手前に新幹線が走っている(写真右側)。
撮影場所は県道740号線、100mほどの間に四つのルートが走る。(終わり)

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