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2017年4月15日 (土)

「小田原~熱海」人車鉄道と軽便鉄道の話(1)

◆小田原~湯河原~熱海間は今でこそ新幹線、JR東海道線、国道135号線と付随する有料道路、県道740号線(旧道)など複数の交通手段があるが、江戸時代から明治初期にかけては交通の難所だった。今でも急峻な海岸線を見れば一目瞭然だ。明治21年(1888)に小田原馬車鉄道が国府津~箱根湯本間に開業したが、熱海方面に行くためには小田原で駕籠か人力車に乗り換えて、悪路を走るしかなく大変不便だった。因みに明治22年にはこの難所を避ける形で(御殿場回り)、東京~神戸間を走る東海道鉄道が開通している。

◆熱海の人達は箱根に対抗して、客の呼び込みを図るため、鉄道の早期開通を希求した。しかし、資金難と難工事のため取りあえず生まれたのが、世にも奇妙な豆相人車鉄道だった。この鉄道は、明治29年(1896)3月、熱海~小田原間で全線開通した。それまでは海岸線や狭い崖渕の道を駕籠か馬か人力車で通るしかなかった。この鉄道はトロッコ方式の車両を車夫が人力で押して走らせるもので、明治40年に軽便鉄道が開業するまで約10年余りの間、交通の主役として活躍した。正確なルートは定かではないが、大半は山よりの旧道(現県道740号線)と海よりの国道135号線を重なりながら南下していった。地形的にも曲がりくねった勾配の厳しい道で、下り坂では足踏み式のブレーキで速度を調整しながら、線路幅61cmの狭い軌道を走るため、スリル満点の乗り心地だったという。

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 ウィキペデアより                            根府川のモニュメント

◆この人車鉄道は1両が最大6人乗り、2~3人の車夫が押し、全長25.6kmを約4時間かけて走った。最大6車両が一組となって、1日6往復のダイヤが組まれ、上等・中等・下等の車両ランクがあって、運賃もかなり高額だった。従って地元住民が気軽に利用できるような交通機関ではなく、乗客は湯河原・熱海への湯治客や観光客が殆どだった。また乗客は登り勾配区間では下車させられたり、客車の後押しを手伝わされたりしたというから滑稽な乗り物として紹介されることも多かったという。

◆この人車鉄道の車両を自費で復元した人がいる。小田原市根府川の山の中腹にある「離れのやど 星ケ山」の代表内田昭光さんで、内田さんは残された写真を元に、設計図を描き起こし、2009年に車両を復元させた。内田さんの話によると、重さは150kg、平地なら大人一人でも簡単に押すことができるそうだ。もともと地元のミカン栽培を生業にしており、祖父の代にはその畑の中を人車鉄道が走っていたという話を聞いたことが、復元の切っ掛けだったという。
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「離れのやど星ケ山」敷地内にある復元された人力車両。片側真ん中に乗降口があり、4人、2人の対面乗車方式。これは上等タイプで、幌屋根式やガラス窓無しタイプなどいくつかのパターンがあった。

◆国木田独歩もこの人車鉄道に乗ったことがあり、その時の体験談をもとに短編「湯河原より」を書いている。また、知人に「実に乙なものであり、変なものである」という感想を記した書簡を送っている。今や小田原~熱海間はJR東海道線で約25分、新幹線では約9分。およそ120年ほど前に、西欧技術の粋であるSLが全国的に普及し始めた頃、独自の工夫で編み出した日本的な人車鉄道。牧歌的な中にも、将来への技術の発展を予想させる「芽」が見て取れる。(続く)

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