金権主義と恋愛の関係(上) -小説「金色夜叉」に学ぶ-
◆熱海の海岸を散歩すると、いやでも貫一・お宮像とお宮の松が目に入る。言うまでもなく、尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の有名な一場面をモチーフにしたもの。余談だが、ある学生が「きんいろよるまた」と読んだという笑い話も残っている。
自分はこの像を見るたびに気恥ずかしい思いに捕われる。外国人が見てどう思うだろうか?多くの外国人は「男性が女性を足蹴にしている、何故?」、「なぜこんな銅像が建っているの?」、当然だろう。日本在住54年のC・W・ニコルさん(1995年日本国籍を取得)さえ、「男性が女性を蹴ることは許せない。例え、文学作品の一部だとしても許せない。撤去した方がいい」という意見を伝えている。確かにその通りで、いくら外国人に説明しても理解を得るのは困難だろう。日本人の自分さえ理解できないのだから。◆では何故、一見野蛮なこのシーンが日本人には受け入れられいるのだろうか。それには原作と時代背景を知る必要がある。この作品は1897年(明治30)1月に読売新聞に連載され、1年で一旦終了するが、読者の強い人気と要望もあって、「続編」、「続々編」等が断続的に連載され、1902年5月まで連載された。しかし紅葉の病気もあり、未完のまま終わっている。因みに紅葉は翌1903年に満35歳で没している。
◆時代は明治中期を過ぎ、日清戦争に勝利した日本は資本主義が発達し、鉄鋼・造船・鉱業・銀行などの産業資本が確立、労働組合の結成など近代化に邁進していた。社会的には貴族、上流社会、庶民、書生など様々な階層が混然一体となって前向きに進んでいた時代だった。
一方文学界でも、樋口一葉、泉鏡花、与謝野鉄幹・晶子、国木田独歩など古い日本文化の上に立った新しい風が吹き始めていた。そうした中で尾崎紅葉は「金権主義と恋愛の関係について」をテーマに「金色夜叉」を発表し、大衆の心を捉えた。
〇15歳の時に両親を亡くした間寛一は、彼の父親に恩を感じていた鴫沢隆三夫妻に引き取られ、息子同然の世話を受ける。鴫沢家には一人娘「宮」がいた。当初夫妻は宮との結婚は考えていなかったが、貫一の素行の正しさ、学問に励む姿勢に惹かれ、次第に宮との結婚を考えるようになった。貫一も宮を愛し、宮もゆくゆくは彼の妻になるものと納得していた。ところがある日、着飾った女性が集まるカルタ会の会場で、英国帰りで銀行家の御曹司富山唯継に見染められ、その後人を介して結婚を申し込まれる。宮は着飾らなくても際立った美貌の持ち主だった。
〇宮は貫一に好意は持っていたものの、一方で高貴な暮らしに憧れ、玉の輿に乗ることを夢見る普通の娘だった。そうした期待を持っていたこともあり、貫一を愛する気持ちを整理できないまま、富山との結婚を決意する。貫一に直接言えない宮は、父の隆三に伝言を頼み、母と二人で熱海に向かう。隆三にとっても資産家と姻戚を結ぶことは名誉なことであり、貫一に対する後ろめたさもあって、「海外留学も援助するから宮のことは諦めてくれ」と頼む。貫一は大恩人である隆三の頼みには黙って頷くしかなかった。(続く)
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