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2016年11月

2016年11月30日 (水)

2020東京オリンピック会場問題

小池都知事が提唱した、2020東京オリンピックの四者協議が公開の場で行われ、会場見直しが議論された。小池氏のブレーン上山氏が組織委員会は「社長と経理部長がいない会社のようなものだ」と評した。それもそのはず、「誰が全責任を持つトップなのか、この一大プロジェクトにどれくらいお金がかかるのか、収入をどう計るのか、まるっきり全体像が見えてこない」と指摘した。確かに全体像が描けぬまま「組織委員会」を立ち上げ、一人歩きを始めたからに他ならない。全体枠が示されないまま計画を進めれば、携わるものはカネのことは二の次に、「より立派な大会にしよう」、施設についても競技団体の意を汲み、「より立派な箱モノを造ろう」とするのは当然の成り行きだ。

こうした巨大なカネが動く大プロジェクトには、ひと儲けを企む良からぬ輩が群がり、ブラックボックスが生まれてくるのは自然の成り行き。すでに国立競技場やエンブレムのやり直しで大きなミソをつけている。もともと招致の段階では、途上国でも立候補できるよう、コンパクトでカネをかけない五輪を、そして復興オリンピックを世界にアピールしたはずだった。
ところが招致が決まったとたん、オールジャパンの一体感はどこへやら。組織委員会は勝手に規模を膨らまし、あるいは膨らまされ、国は形だけの関与、選手育成に関してはJOCや競技団体に丸投げ、その予算も気持ちだけ、「運営費用がオーバーした分は、招致した東京都に請求」、では小池さんならずとも「待った!」をかけて当然だ。
だからこそ原点に返り、2020東京五輪は何を目指すのか、何を残すのか、その理念のもとに全体像を設計し、戦略・戦術を練って、「東京都・国・IOC・JOC・各競技団体・パラリンピック団体・関連協力業者等」を動かし、調整するリーダーが必要になってくる。それは小池さんか?都知事という仕事を抱えては無理だろう。オリンピック大臣か?森会長か?いずれもリーダーとして適任ではなさそうだ。


組織委員会会長はお飾りで良い。立場からすれば組織委員会事務総長に適任を得て、権限を与え、指揮をとらせることだ。過去にはロス・オリンピックのピーターユベロス、大阪万博の堺屋太一のような人材がいた。発足時に慣習にとらわれず民間から抜擢する方法もあったが、今の日本では無理だろう。今となっては、関係者が互いの立場を理解して、初心の理念に立ち返り、一丸となって進むしかない。
小池さんも情報公開と予算の圧縮、そのマインドを高めたという功績は遺した。但し、言い出した手前、有明アリーナの建設を中止して、横浜アリーナに移す案にこだわるとするならば、それは問題だろう。進行中のスケジュールを遅らせたという負の実績を残しただけということになりかねない。発想を変えて有明アリーナは終了後、民間利用、あるいは売却なども視野にいれてもよいのでは。

Photo



2016年11月28日 (月)

「博さんのブログ」を再開!

11月6日のブログで、弊ブログをいったん終了する旨、ご挨拶しました。
利用しているHPが新システムに移行するとのことでしたので、7年続けたブログも
そろそろ止める潮時かと思ったからです。
しかしそれは当方の早トチリで「ブログ」は含まないと判明。
確かにNET上から消えることなく、生き延びておりました。
それから3週間ほど経ち、この間に重なったプライベートな諸々の雑事もほぼ片付き、
一段落しました。3週間の間に世間も目まぐるしく変動しているようです。
またぞろ、野次馬的批評心が頭をもたげてきました。
老化防止には少しは役立つものと思い、再開する気になりました。
お忙しい中、お付き合い頂ければ幸甚です。お気軽にコメントください。


【最近の心境です】
徒然なるままに、日暮らしパソコンに向かいて心に移り行くよしなし事を
そこはかとなく打ち続ければ、眼はしょぼくれ、腰は痛み、訳の分らぬほどおかしくなるもの。体力の衰えがそうさせるのか、改めて筋トレ、有酸素運動など試してみるも、
即効薬とはならず、持続力に欠けること、いつもの通り。
こうなれば「改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり」と開き直り、
「己が信じる道を歩くのみ」と気を張れば、余計に疲れ、体に悪しと悟るのみ。

やはり自然体が一番と言う訳で、思ったときに思ったことをありのままに表現しようと思います。最近一部のお年寄りの運転が、大変な事故を引き起こす事態が頻発しています。以って他山の石とすべく、己を戒めるところです。今、全地球儀的に俯瞰すれば、暗雲たれ込め、魑魅魍魎が蔓延る世相が見られます。そうした世の中にあっても、常に「泰然自若、春風駘蕩」のようでありたいものです。脳内老化を避けるためにも、時にこのブログに書きとどめて置きたいと思う今日この頃です。

2016年11月 6日 (日)

「博さんのブログ」終了のご挨拶

◆2009年11月23日、「博さんのブログ」を始めてから、まもなく7年が経ちます。この間、時事問題、野次馬世評、映画・TV評、旅行記、歴史考察、地域情報、音楽評その他種々雑多な事柄を好き勝手に書き綴って参りました。記事数もいつの間にか1400本を超え、我ながらよく続いたものだと自画自賛しております。これも偏に陰に陽に、拙い弊ブログにお付き合い頂いた皆様のお陰だと深く感謝しております

◆さて弊ブログがお世話になっているNIFTYの’ココログ’というブログが11月10日15時をもって終了し、新しいサービスに移行することになりました。継続する場合、移管手続きが必要となりますが少々面倒なので、この際弊ブログも一旦終了することに致しました。記事内容もマンネリ化したこともあって、しばらく休養し、また新たに気が向いたら別のブログで「徒然老人小田原日記」でも始めようかと思っています。

◆話は変わりますが、今の小田原のマンションに住み始めてから、ちょうど10年が経ちます。海辺ということもあり、住居にもいろいろな傷みが現れます。エアコン、集中給湯システム、バスタブ、24時間換気扇、ガステーブル、浄水器などの老朽化、錆び、故障など一気に噴き出して修理・取り換えなど、思わぬ出費が重なります。不思議なことに、住まいの痛みに合わせるように、我が身にもあちこちガタがきて、急速に体力の衰えを感じるようになりました。加齢に伴う運動不足も一因なのか、病院に通う回数も増えてきました。やはり「健康年齢の維持が一番」と自覚して、適切な運動の継続に務めようと思う昨今です。

◆世相を観ると、内外ともに先行き不透明で、困難な時代になりそうです。目まぐるしく変化する世の中の動きから眼が離せませんね。こうした動きに背を向けるのではなく、虚心坦懐に向き合っていきたいと思います。
最後になりますが、弊ブログに長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。また的確なコメントをお寄せ頂いた方には重ねて厚く御礼申し上げます。またいつか再開したら、ネット上で再会すること楽しみに、この辺でキー操作を終わらせて頂きます。(了)

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(11月6日午前6:30 相模湾の朝日)

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(11月6日6:30、朝日を浴びる富士山。冠雪はまだ一部だけ)

2016年11月 5日 (土)

横須賀軍港巡りと猿島見学記(下)

◆横須賀三笠公園の1.7kmほど沖にある猿島。東西約200m、南北約450m、周囲約1.6km、標高約40mの東京湾で最大の自然島だ。緑豊かな無人島でもある。この島の特徴と言えば、縄文・弥生の遺跡はともかく、幕末ペリー艦隊が来航した折、東京湾の測量を行って海図を作成。その海図には「猿島」を勝手に”PERRY ISLAND”(ペリー島)と命名している。江戸防備の必要性を痛感した幕府は品川などの沿岸に砲台を築いた。猿島もその一環で台場が据えられたように、幕末から明治、昭和にかけて軍の要塞だったということにある。

◆明治新政府は明治13年、観音崎砲台の建設から始まり、明治17年にかけて東京湾要塞を建設、防備を強化した。しかし、幕末から明治にかけて、これらの砲台が外国船を砲撃したことは一度もなかった。要塞としてその役目を果たしたのは、太平洋戦争時に猿島の砲台が陸軍から海軍に移管され、横須賀軍港を守る防空砲台として再生されたことによる。太平洋戦争末期には、本土空襲のため来襲したB-29に対して、高角砲で対抗するも、殆ど届かない。それでも記録によれば2機撃墜し、米軍に恐れらたという。

◆三笠公園横の三笠桟橋から猿島行に乗船、約10分で猿島桟橋に着く。年配の親切な専門ガイドが2時間ほど島内をくまなく案内してくれた。2015年3月に猿島砲台跡が国史跡に指定されたとのことだが、確かに、複数のレンガ積みの兵舎、弾薬庫、砲台跡、12.7cm高角砲砲座跡、それらを結ぶ切り通しや、トンネルなど見応え十分だ。レンガ積には明治10年頃主流となった「フランス積」、明治20年頃主流となった「イギリス積」の両方が美しい景観を見せている。しかし、薄暗い中、一人でこの要塞を巡るとすれば、兵士たちの怨霊が聞こえてきそうで怖いだろうなという気がする。

Dscf1838 最も有名な個所の一つ

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兵舎跡、意外に湿気はない。ここは落書きが消されていた。

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愛のトンネル全長90m、幅4m、高さ4.3mのアーチ状トンネル。ここで、コスプレ撮影をやっていた。

Dscf1842 至る所こういう個所が点在。

Dscf1843

こうした施設を作るため、人手をかけ掘削して、構築したことに唯々恐れ入る。

◆戦後、この要塞跡は放置され、管理外に置かれたため人が出入りし、荒れ果てていたという。その証拠に複数の兵舎跡や弾薬庫跡の漆喰壁には無数の落書きが残されており、無残だ。近年この島の価値が再認識され、整備も進み、2015年3月に国史跡に指定された。その後は急速に入園者が増加、15年度は156千余の人が訪れたという。夏場には海水浴、BBQ、釣りなどのレジャー客で大変な賑わいを見せるそうだ。また島のレンガ造りの雰囲気が有名なアニメのシーンに似ているということで、コスプレの聖地にもなっているという。この日も何組かのグループの姿が見られた。歴史とレジャーが同居した無人島、大切にしたい島である。(終わり)

Dscf1844 猿島の一部

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猿島桟橋と三笠桟橋を結ぶ運行船

2016年11月 4日 (金)

横須賀軍港巡りと猿島見学記(上)

先日、船上から横須賀軍港を見学する機会を持った。横須賀港は何度か訪れているが、海上から見学するのは初めての体験。見学クルーズはほぼ毎日出港しているようで、猿島見学と合わせて、近年特に人気のあるコースとなっている。

◆横須賀港は今から163年前、米国ペリー艦隊が浦賀に来航して以来、幕府の高官小栗上野介の国防に関する進取な英断で、フランスの技術者ベルニーを招致。横須賀に製鉄所、造船所、ドック、海軍工廠などを建造した。明治新政府に代わってもさらに手を加え、軍港として発展を遂げた。なぜ横須賀だったのか。ひとつは江戸に近かったこと、またリアス式の穏やかな入り江が軍港に適していたことなどによる。

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 ベルニー公園に並ぶ 上)小栗上野介と 下)ベルニー銅像

◆戦前の日本の主な海軍基地は横須賀佐世保舞鶴だった。現在の海上自衛隊はこれら4基地を引き継ぐとともに、大きく分けて護衛艦隊航空群潜水艦隊その他部門が全国に点在し、これらの現場部門を統括する海上自衛隊司令部は横須賀に置かれている。また潜水艦隊は横須賀、呉の2基地だけである。横須賀港は横須賀本港と長浦湾に分れ、長浦湾の船越地区に海上自衛隊司令部が置かれている。

◆横須賀本港の汐入ターミナルから軍港巡りのクルーズが出港。分りやすいユーモアある解説者の案内で、本港から長浦港を巡ってターミナルへ戻る。出港してすぐ右側に明治時代に造られた係留ドックが2基あるが、これは海上よりも陸地から見た方が分りやすそうだ。今も現役で活躍中とのことで驚き。その先に「おやしお」型潜水艦と「そうりゅう」型潜水艦が係留されていた。さらに進むとアメリカ海軍横須賀基地となり、イージス艦が見られたが、空母「ドナルド・レーガン」は残念ながら、作戦中なのか留守だった。

Dscf1810 おやしお型潜水艦

◆船は大きく左折して長浦湾に入る。ここではいくつかの種類の護衛艦が見られるが、海上自衛隊全体で23種類あるそうだ。もっとも大型のヘリ空母「ひゅうが」や「いずも」、輸送艦「おおすみ」などは見られなかったが、ペルシャ湾の掃海作戦で活躍し、今は静かに退役を待つ木造の掃海艦2隻が見られたことは幸いだった。金属製の艦艇は掃海作業には適さないので、新造船はプラスチックになるとのこと。

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廃船を待つ木造の掃海艦

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対空、ミサイル、魚雷、など多様な装備の護衛艦

◆長浦港から横須賀本港に戻る帰路はショートカットするように狭い水路を通った。どうやら人工的な水路では?と思ったら、まさにこの水路は明治の頃、手作業で掘削した「新井掘削水路」と呼ばれ、半島を分断して両港を結んだもの。本港の海岸側にも数隻の各種艦艇が見られたが、45分のクルージングでイージス艦数隻をはじめ、20数艦を外観のみ見学したが、広い港のあちこちに点在しているので、散乱している感がある。

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人力で建造した新井掘削水路

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◆日本の領海を警備する任務は海上保安庁の役目であり、自衛隊は何をやっているのかと思う人も多いだろうが、確かに領海警備のため海保の予算、人員を増やす必要はある。しかし自衛隊は海外においてトータルで後方支援や、復興支援PKO(国連平和維持活動)、難民救済甚大災害時の緊急援助在外邦人輸送海賊対処など幅広い活躍をしている。(自衛隊HPより)。また米、韓、豪、インドなどとの共同訓練で抑止力をPRして不法な侵略を牽制する役目を果たしている。国民は海外での貢献などは断片的にしか知らされていない。逆に駆けつけ警護など新たな任務を付与するたびに、野党やメディアは騒ぎ立てる。本当は海外における活動への現地の人達の評価などを、もっと積極的に報道すべきではないだろうか。

2016年11月 3日 (木)

中国兌換元の話

◆中国が世界第二のGDPを誇る経済成長を成し遂げた今、この先アジアを中心に通貨・人元元の経済圏を作ろうと布石を打っている。中国の人民元が10月1日、米ドルユーロ日本円英ポンドと並んで、IMFの特別引き出し権SDR)を構成する通貨に名を連ねた。かつて自国通貨防衛のため、外国人専用の兌換券を発行していた中国が本来の通貨である人民元を国際通貨として認めさせたことになる。

中国の兌換元は中国政府が外貨を管理するために1979年に導入(前年1978年に日中平和友好条約に調印)、翌年4月1日から流通し、1995年1月1日に廃止された紙幣(外貨兌換券)のことだ。外国為替専門銀行であった中国銀行が発行し、外国人が観光や商用で中国を訪れ、外貨を両替する際に渡された専用紙幣であり、約15年間流通した。

Photo◆当時の中国では一般人民が使用する人民弊レンミンビンRMB)とは別に、この外貨兌換券FFC)が流通していた。外貨兌換券と人民幣の額面価値は等価であったが、外貨に両替可能なことや、人民幣では買えない外国製品が買えることなどから外貨兌換券に中国人の人気が集まり、人民幣との闇両替が横行した。闇両替のレートは、FFC1元=RMB1.5元~1.8元ほどだったという

◆券種は1角、5角、1元、5元、10元、50元、100元(表記は圓)の7種類があり、表には万里の長城などの中国国内の観光地が描かれ、裏面には中国語と英語で使用上の注意が書かれている。そのため表のデザインは外国人受けするような様式になっていた。個人的には毛沢東の肖像がデザインされた現行の人民幣より、少し洗練された兌換券の方に好感が持てる

◆兌換券廃止から22年、中国政府の目論み通り中国経済は大成長を果たし、強大国になった。更なる経済覇権を狙う中国にとって、SDR入りは一つのステップに過ぎない。「究極の夢」は米ドルに代わって基軸通貨の地位を得ることにあると言われている。通貨が広く流通するには金融市場の自由化が欠かせないが、中国では逆に規制が強化される傾向にある。資金の流れや人民元相場を管理下に置きたい強い意識と金融市場の自由化というジレンマの中で、中国経済は減速してきた。共産党一党独裁下での通貨戦略の舵取りは困難さを増し、国際社会に負の影響を及ぼしかねない局面を迎えようとしている。

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