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2016年7月

2016年7月27日 (水)

熱海でブラタモリ(?)

◆ここ数年、毎年夏に熱海・伊豆方面へ泊りがけで家族旅行することが恒例行事となっている。今回、熱海には1泊、翌日伊豆高原のリゾートホテルに1泊した。24日朝方、「日本丸」が熱海港に入港してきた。よくあんな狭い場所に入港できるものだと感心する。夜の花火大会が目的らしいが、我々はパスして午後には伊豆高原に移動。

Dscf1746 日本丸の熱海港入港

◆熱海はいつも通り過ぎるだけで、じっくり街中を見て歩くことなど殆どない。先日放送された「ブラタモリ」に触発されて、今回少しでも歴史に触れてみようと散策してみた。熱海の歴史は徳川家康が湯治に訪れ、代々将軍が「お汲み湯」として江戸城に運搬させたことくらいしか知らない。運搬は陸路から海路に変更され、吉宗の時代にピークとなって、約3600樽の温泉が江戸城に献上されたという。明治維新後は華族、名だたる政界の重鎮、財界の大物、著名な文人墨客が別荘を構え、多くの名士が来遊した。明治28年には小田原~熱海間に「人車鉄道」が開通するなど、大正・昭和にかけて「保養地」としての地位を確立した。
Dscf1736 往時を偲ばせる旅館

◆熱海には1970年以降、何度も訪れているが、こうした歴史を知ったのは最近のことで、以前は単なる歓楽温泉地としての認識しかなく、日本経済に左右された盛衰を見てきただけだった。今回、偶々入った行列のできるラーメン屋は、昭和の薫りを漂わせた相当古い店で、壁に貼ってある1枚のセピア色の写真が目に入った。それは熱海の海岸沿いに立つ低い堤防の写真だった。まさに小津安二郎監督「東京物語」で笠智衆、東山千栄子の老夫婦がこの上に座って「ボチボチ帰ろうか」とつぶやくシーンのロケ現場だった。少なくとも昭和28年(1953)以前の写真だろう。その頃から熱海は急に俗化していったのだ。

◆熱海温泉の歴史で重要な位置を占めてきたのが『熱海七湯』と呼ばれる自噴の温泉で、熱海の名湯として知られ、大正年代にはまだ残っていたとのこと。熱海七湯と言っても当時の温泉施設を復元したモニュメントで、わずかに噴気や熱気、少量の温泉が染み出ているものもあるが、入浴施設ではない。その中でも大湯間欠泉は見ものだ。大正時代初期までは、一定のリズムで規則正しく、多量の熱湯を噴き上げる自噴泉だったが、関東大震災後、噴出が衰え、昭和37年に人工的に噴出する間欠泉として整備され、市の文化財として保存されている。たまたまシャッターを向けた瞬間、1日4度しか噴出しないという温泉と蒸気が噴出したのは出来過ぎだった

Dscf1728 大湯(おおゆ)間欠泉

◆その他の熱海七湯
Dscf1724 野中の湯

Dscf1727 小沢の湯
Dscf1735 風呂の湯・水の湯
Photo 清左衛門の湯
Photo_2 河原の湯
Photo_3 目の湯
以上「熱海七湯」でした。

2016年7月22日 (金)

気になる都知事選の行方(下)

【増田氏の場合】
◆唯一、増田寛也氏は官僚を経験している。建設省時代に千葉県、茨城県などに派遣され、地方自治の現場を体験した。茨城県企画部鉄道交通課長の時はつくばエクスプレスの建設に携わり、当時の鈴木都知事の説得などに当たった。建設省を中途退官し、小沢氏らの支援を受け、岩手県知事に当選した。ところが2期目になると、意見の相違から小沢氏と決別し、トータル3期12年間務めあげた。一見優しそうな風貌だが、小沢王国の中で反骨を通したことは、括目に値する。


◆知事時代は、宮城県浅野氏、三重県北川氏、高知県橋本氏、鳥取県片山氏らと改革派知事として名を広めた。第一次安倍内閣と福田内閣で知事出身の民間閣僚として総務大臣に就任。地方再生、地方への権限移譲、道州制の導入にも積極姿勢を示した。「日本創成会議」座長の時、日本の将来人口を予測したデータを発表、少子高齢化、東京一極集中に警鐘を鳴らした。要すれば中央官僚、地方自治、中央政府の要職を経て、「虫の眼、鳥の眼」を兼ね備えた経験は大きい。人の使い方、組織の動かし方、相反する利害の調整など政治のリーダーとしての資質は十分だと思われる。余談だが、東京の都立高校を卒業後、2浪して東大法学部に入学、司法試験も難関であったため、1年留学して国家公務員試験を受験。やっと建設省に入省したというキャリアを有する。特別に優秀と言う訳でもない所に親しみを覚える。

選挙戦の蛇足】
選挙戦報道のメディアの姿勢について、3人の有力候補の動きは大きく取り上げる。そして必ず「この他にもご覧の方々が立候補しています」と取って付けたように名前と顔写真一覧を流す。公職選挙法上、平等を期すためだろうが、扱い自体平等とは言えない。かと言って目障りでしょうがない。中には供託金300万円を没収されても「宣伝費と思えば安いもんだ」と思っている者もいよう。ゾンビのような人も出てきた。民主主義のコストだからしょうがないと言われればそれまでだが、例えばエントリーする前に基準を設け「ふるい」にかけるとか、さらに上位2名による決選投票にするとか、米大統領選みたいに副知事とセットで選挙にかけ、何か事があればその副知事が任期まで知事を務める等、日本も大胆な選挙制度の改革をしてもよいのではなかろうか。

【独断的見通し】
候補者の選挙費用の調達の問題がある。都知事の場合、普通に選挙活動をやれば、一人最低5000万円はかかると言う。組織の推薦を得ない小池氏がどうやって集めるか。オール自費なら問題ないが、猪瀬氏の二の舞にならぬよう気をつけねばならない。3人とも早い段階で収支を明確にして発表すべきだ。増田氏は自民公明の推薦を受けたが、都民は政党の後ろ盾があることを毛嫌いする傾向がある。それをどう乗り越えるかだが、結局都民は実務型より、有名人、それも判官びいきで組織の推薦を得ない小池氏を選ぶのではなかろうか。その結果、今度は政治手腕、手法の問題でまた挫折を繰り返すことになりかねない。どうもそんな気がしてならない(終わり)

気になる都知事選の行方(上)

お隣東京都のトップを決める選挙だから、選挙権のない筆者には「よそ事」のはずだが、無関心であるはずはない。メディアは過剰なまでに連日報道し続ける。見たくもない政見放送まで流れてきた。その結果、いやでも目に入り、気になるところとなる。
東京都知事は近年、国会議員経験者が多いが、その前身は作家、タレント、評論家として名を売った有名人であり、いわゆる人気投票になりがちだ。ところが前任二人が任期の途中で、「政治とカネ」の問題で辞任せざるを得なくなった。その結果都民は、人気に頼らない「地道な実務型の知事」を求めるかに見えた。ところが名乗りを上げた小池百合子氏は防衛大臣、環境大臣も務めた政治家だが、もともとはニュースキャスター。鳥越俊太郎氏は新聞記者からニュースキャスターになったジャーナリストで、政治の批判側であっても、政治経験はない。二人とも有名人という点では前任者たちと変わりはない。

【小池氏・鳥越氏の場合】
◆さて今回の選挙戦だが、現状では小池・鳥越両氏の人気投票の様相を呈している。今回の突然の選挙は舛添氏の「政治とカネ」の問題が切っ掛けだったにも拘わらず、蓋を開けてみれば相変わらず、派手なパフォーマンス型を好む傾向が強いようだ小池氏は初の女性知事としてそれなりの存在感は示すだろうが、「都民の声」という錦の御旗を背景に敢えて議会や職員と対立姿勢を示し、無用な混迷・停滞を招くだろう。そもそも国会から都知事へ転出を試みるケースは権力を得られる見通しが立たなくなった議員が、ひょっとして得られるかもしれないトップの座が都知事だからである。石原、舛添の例を見るまでもなく。まずは謙虚にお互いの理解を深める話し合いから始めるべきだろう。

◆問題は鳥越氏の出馬動機が、国会前の反政府デモへの参加がきっかけになっていることだ。恐らく限界を感じ、野党共闘の盛り上がりに乗って、政治に討って出ようと思っても不思議ではない。だとすれば憲法論議をするのは国会の場が本筋だ。だが国会に出れば野党の1兵卒となり、活躍の場も制約がある。亡くなった大橋巨泉がかつて民主党からでて当選したが、意見の違いにより半年で辞任した。そうした経緯を見ているから、むしろ都知事になった方が発信効果が大きいと見たのだろう。石原氏が尖閣購入を宣言したように。従って都政で「何をやりたいか」という肝心なところは、とってつけたように漠然としている。政策はムード的でビジョンが見られない。どちらも具体的な政策はあるようだが、実現の見通し、期間、財源の裏付けなどはないから、都知事になってからの話で空手形になることもあり得る。今は知名度キャラクターしかないという自惚れが感じ取れる。

◆二人が仮に都知事に当選しても、石原慎太郎がトップダウンで進めた時代とは大きく変わって来ていることだ。新しいことをやろうとすれば必ず反対の動きが出てくる。利害対立をいかにうまく調整するか。議会や都職員の言いなりにならず、しかも協調して自分の政策を進めることは至難の業だ。小池氏では混迷と停滞が予想され、鳥越氏はいかにモチベーションを持ち続けられるか、健康面に不安を抱えているだけに、途中で投げ出さないか心配だ。そうしたことをいくら考えても詮無い事、決めるのは都民だから。(続く)

2016年7月20日 (水)

「ネアンデルタール人」VS「人・犬連合」

◆本ブログ゙の7/8日付けで、「縄文火炎土器の芸術性」、7/18日付けで「日本人のルーツを探る壮大な実験」と題する記事をUPした。もちろん考古学を勉強した訳でもなく、ただ単に野次馬的関心を持ったからである。今度は、我々人類(ホモ・サピエンス)が4万5000前に出現した直後、それ以前にヨーロッパを中心に約20万年住んでいたネアンデルタール人が絶滅した理由を書いた記事に興味を持った。読売紙のベテラン記者が執筆した科学エッセー「ヒトとイヌ 最高の相棒」という記事だ。

ネアンデルタール人(旧人)は、我々現代人類に最も近い絶滅した親戚だ。ある研究者によると現生人ネアンデルタール人の遺伝子を平均2%持っているという。現生人類が欧州に到達したのは4万5千年前で、ネアンデルタール人が絶滅するのは約4万年前だから、約5000年間に亘って両者は共存・交流しており、混血もしていた。彼らは我々と同じ大きさの脳とはるかに強靭な肉体を持っていた。白っぽい皮膚、金髪や赤毛、青い目など、いくつかのコーカソイド的な特徴はネアンデルタール人から受け継いだ可能性が高いとしている。

ネアンデルタール人は何故死滅したのか、諸説あって、定まっていない。例えばクロマニョン人(新人)との暴力的衝突により絶滅したとする説、獲物が競合したことにより段階的に絶滅に追いやられたとする説、ホモ・サピエンスと混血し、急速に吸収されてしまったとする説など諸説ある。現在のイタリアに当たる地域で起きた複数の大噴火がヨーロッパにいたネアンデルタール人の食料不足を招き、壊滅的な打撃を与えたという説もある。しかし、現生人類の多くは主にアフリカやアジアにも住んでいたため、絶滅するほどの影響は免れたのだと言う。

◆(以下は読売記事から抜粋) ネアンデルタール人を追い詰めたのは寒冷化と現生人類の登場だったと言われる。これに加えて『人と犬がネアンデルタール人を絶滅させた』との著書を出した米ペンシルバニア州立大学名誉教授のP・シップマン博士はイヌの家畜化が絶滅と関係しているのではないかと主張する。ヒトはオオカミから従順な性質のものを選抜し、とした。人と犬は最高の相棒だった。人は体力で劣ったが、他者と協調する精神に富んでいた。犬は獲物を見つける優れた嗅覚、追い詰める走力を持っていた。また犬は運搬にも、早期警戒センサーにも、いざとなれば食用にもなってくれた。まさに犬は人にとって理想の「道具」になってくれた。

◆「人間・犬連合」に比べ、ネアンデルタール人の生き方は硬直的だった。大型動物に接近戦を仕掛ける狩猟スタイルに固執した。それは狩る側にもリスクの大きい成功率の低い狩猟法だった。彼らは愚か者ではなく、火を使い、ある程度の文化・芸術も持っていたが自由な発想、豊かな想像力、柔軟な行動などの点で、人間の敵ではなかったのである・・と結論付けている。つまりこのことは「硬直的な考えやスタイルの戒め」、「柔軟な発想、行動力の遂行」がいかに大切かを教えているようだ。現代でもいろんな局面で当てはまりそうだ。

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2016年7月18日 (月)

日本人のルーツを探る壮大な実験

日本人の起源について、国立科学博物館のプロジェクトチームが壮大な実験を通して、検証する試みが動き始めた。7/10日の読売新聞に大きく報じられていたが、日本人の祖先は3万8千年前から2万5千年前に遡って、3つのルートで移住してきたと推測されるという。最も早かったのが、3万8千年前に、朝鮮半島から対馬を経由して九州に入ってきた対馬ルート」だった。続いて3万年前に大陸と陸続きだった台湾から海を越えて琉球列島に入る「沖縄ルート」で、その後島伝いに北上、九州に辿りついたとされる。最後は2万5千年前北方からサハリンを経緯して南下してきた北海道ルート」だったという。

◆3万8千年前から2万年前の間に、3方向から来たそれぞれの民族は旧石器時代、新石器時代、先土器時代を経て次第に混血し、1万6千年前から始まった縄文時代になって日本人の原型になったという。旧石器時代の遺跡は日本全国で1万個所以上見つかっているというから、全土に広がっていたようだ。BC300年頃から、大陸から稲作金属器を伴って断続的に渡来人がやってきて弥生文化が始まった。近年のミトコンドリアDNAやY染色体の研究で日本人と中国人、韓国人は若干違っており先住の縄文人とは完全に対立していたわけではなく、次第に融和、混血していったものと考えられている。弥生時代はBC300年頃からAD300~350年だから、長い縄文時代に比べればほんの僅かな期間でしかない。それだけ中国・韓国の先祖達は、素朴で平和な日本の風土に、急激に争いの文化をもたらしたのではないかと勝手に思っている。

◆さて、日本人の起源となった3つのルートの話だが、プロジェクトチームは第2の「沖縄ルート」について、「簡素な石器しか使えない時代に、世界で最も困難な航海だったのでは」と推測。当時の航海を再現しようと学者、研究者、沖縄の若者らが加わり、想定される当時の製法で作った草舟を使って、まず日本最西端の与那国島から西表島までの約75kmの航海に挑戦した。昨夜7:00のNHKニュースが2隻の草舟で漕ぎ出したチームの様子をクリアな映像で伝えた。長さ約6.4m、幅約1.3m、7人乗りの草舟は時速2km~3km。草舟の性能を確かめるのが目的だった。ところが早くも初日の午後には、潮流の影響を受けて大きく北に流され、伴走船によって予定のコースに引き戻されたという。実に倍以上の距離のロスを生んだ。伴走船が無かったら、全員遭難したところだった。

Dscf1501 西表島の風景2016・5月

◆前途多難を思わせるが、3万年前はもっと大変だったに違いない。特に初めて渡った人は方向さえ不明、海流、風、天候などに阻まれ、何度も失敗し、時に命を落としながら、次第に経験を重ねて、成功させたに違いない。それは現代人が宇宙に挑戦し、月面に人を送り込んだ冒険に匹敵するか、それ以上のことだったかもしれない。今回の成功をみて来年はいよいよこのルートの第一歩、台湾から与那国島まで100kmに挑戦するという。成功を期待したい。
Dscf1496 西表島マングローブの森

Dscf1495
こんなカヌーでのんびり渡るような時代ではなかったことは確かだ。西表島で。

2016年7月16日 (土)

「少年時代」と「夏の思い出」

Photo梅雨明けを思わせる猛暑がやってきた。今週初めの月曜日には(7/11)早くも蝉の鳴き声、それもクマゼミの声が聞こえた。記憶では最も早い蝉の声のように思う。「少年時代」と「夏の思い出」・・どこかで聞いたような歌のタイトル(?)、いかにも文学的な夏と、ロマンティックな夏を連想しそうだが、1950年代前半(昭和25年から30年頃)の地方の夏の風物詩を自分の記憶が残るうちに、書き残しておきたいと思った。戦後の混乱が一応落ち着きをみせ、日本の良き伝統はまだ十分に残っていた時代だった。


Photo_2大抵の家は軒端に朝顔を植えていた。毎朝、青や赤の花が開く。朝顔を見ながら町内の子供達が集まり、近所の大人達の掛け声でラジオ体操が始まる。終了後に出席のハンコを押してもらう。
今で言う緑のカーテンがヘチマだった。母親が蔓を切って、そこから滴り出る液体を瓶に集め、化粧水に使っていた。秋には乾燥させ皮をむき、タワシの代用に使った。今では殆ど見ることがない。遊びに行こうとすると「朝の涼しいうちに宿題を済ませなさい」と母親の声がバリアとなった。

真っ青な空に、真っ白な入道雲。蝉の鳴き声が喧しい。大人の背丈をはるかに上回るヒマワリを植えたこともあった。種が食用になった。エアコンなど無い時代、様々な工夫でをとる。家の窓、部屋の仕切りを開け放ち、が唯一の外との境となる。。風が「そよ」と吹けば風鈴が心地よく響く。遠くから金魚売りの声がけだるく聞こえる。とにかく暑かった。扇風機が入って、やっと気持ちよく昼寝が出来た。

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クラクラする陽射しの中、アイスキャンディーを買いに行く。(あの頃のものは大腸菌が多かったらしいと後で知る。素麺冷や麦トウキビが食卓に出ると喜んだ。たまに、トコロテンや、かき氷かんざらし(砂糖水に氷と米粉で作った小さな団子を入れた素朴なオヤツ)など祖母や母親の手作りのオヤツが出ると、兄弟で小躍りして喜んだ。電気冷蔵庫がなかった時代だったから、氷屋さんがリヤカーに乗せて売りに来る氷が貴重だった。

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昼に、たらいいっぱいに入れた水が、夕方にはちょうどよいお湯となり、子供達の行水タイムとなる。残った水で打ち水。少しばかり涼風が起こる。雷鳴が聞こえ、夕立ちとなれば一挙に涼しくなる。通常、父親の帰宅後夕食。ビール枝豆が並ぶが、我らが口にするのは10数年後。夕食後、縁台に座り、団扇片手に夕涼み。子供たちは傍らで線香花火蚊取り線香の独特な匂いが鼻に衝く。たまに出るスイカはあまり冷えていないが、最高のデザートだ。夏は祭りのシーズン。七夕に始まり、浴衣に着替えて縁日に。金魚すくい盆踊り、そして圧巻は花火大会だった。

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我が家は幸いにして、二人の祖母がそれぞれ米どころ筑後平野と、長崎の港外の漁村に住んでいた。夏休みには、独特な田畑の匂いと、海の匂いに浸ることができた。海水浴、川遊び魚釣りカブト虫クワガタ採集に夢中になった。朝起きると、蚊帳にカブト虫がくっついていたりした。そうした体験が宿題の絵日記の格好の材料となった。
考えてみれば、こうした夏の光景は明治の頃から、大きな変化はなかったのではなかろうか。日本全国このような光景はどこでも見られたに違いない。昭和のある不幸な時代を除いて。少年時代の夏に、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を通して、身体全体に沁み込んだ夏の思い出だった。今はもう、返ってこない。


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2016年7月13日 (水)

地方行政にイデオロギーを持ち込むな

◆混迷が続いていた都知事選の出馬騒ぎだったが、どうやら究極の後出しジャンケンでジャーナリストの鳥越俊太郎氏が名乗り出て、4人出揃った。最初に出馬を表明した小池さん、慎重な姿勢を通していた増田さん、野党系は日本のサンダースと言われだした宇都宮さん。但し、同氏は鳥越氏との調整で最終的に決めるそうだが、孤立無援で熱烈な市民運動支持者が担ぐ宇都宮氏が3度目の正直となるか、「この際ガンバレ」とエールを送りたい。

◆四氏の共同記者会見を見た。鳥越氏は長年のジャーナリスト経験で知名度抜群、さらに持って生まれた明るいキャラクターで人を惹きつける魅力がある。76歳の年齢を感じさせない若さとガンを克服した強靭な精神力で「澄んだ心境」になっているのだろう。「これはもう、鳥越さんで決まりだ」と思わせるものがある。しかし、今まで権力を批判すればよかったが、今度は逆の立場で権力を使う側に回る。気になるのは激務による健康面だ。4年も経たないうちにまた選挙という事態にならなければよいがと思う。

◆今回の知事選は最初、前任二人の失敗を教訓に、人気に頼らない実務型の堅実な知事が求められた。それに最も近いイメージの候補者が増田さんだろう。しかし、いざ蓋を開けてみれば、鳥越さんも予想したように、鳥越さんと小池さんの人気投票対決になるのではないか。しかし、最も気になるのは鳥越氏の出馬の動機が、今回の参院選で改憲勢力が3分の2になったことで危機感を持ったことだと言う。「オイオイそれは違うんじゃないの」と違和感を持った。しかも都政に対する政策は現在のところ何もないと言う。さらに問題なのは野党4党の共同推薦が確実になったことで、そうなれば資金面、マンパワーで心配はいらない。純粋のようで案外したたかさを持ち合わせている。また、共産、社民が今まで支持し応援した宇都宮氏から、手の平を返すように勝ち馬に鞍替えした姿勢がなんともいやらしい。

◆いわゆる学者、ジャーナリストなど日本のオピニオンリーダーと言われる人達は国会の議席が3分の2を超えたことが、そんなに怖いのか。すぐ憲法改正、戦争に結び付けたがるが、そんなに日本の国民が信用できないのか。戦争を憎み、平和を求める考えはすべての日本人が持っている共通の認識だと思う。戦後70年経った今だからこそ、国民がこの国の在り方を考え、将来に亘ってどうあるべきかを考えるために、憲法を見直す機会を持ってもよいではないか。世界も日本も70年前とは大きく変わってきている。最終的には国民が判断するのだ。憲法改正の機会を持つことすら否定されるのであれば、第96条の「改正の手続き、その公布」の条項は削除すればよいではないか

◆都知事選は特別な地方行政の首長を選ぶ選挙だ。従って都民でなくとも多くの国民が国政選挙並みの関心を持つ。しかし地方自治に与野党対決の図式を持ち込むことはよくない。元東京都副知事の青山氏が述べていた。「もう失敗できない都知事の間違えない選び方」と題して「ひとことで言えば、その時代の『東京の問題は何か』ということをきちんと主張する知事を選ぶことが大切である。選挙では、東京が最も解決しなければならない課題を見極め、それを解決する道筋を指示しなければならない」と。どの自治体にも当てはまる言葉ではなかろうか。

2016年7月11日 (月)

参院選から見えてきたもの

◆地方に住んでいるせいか、うるさい選挙カーの騒音を一度も聞くことなく、参院選は終わった。自公は改選前の135から146へと11議席伸ばし、野党その他は106から96へと10議席減らした。与党が善戦したというよりも、野党の中心となるべき民進党がイマイチ精彩を欠いたといったところだろうか。

◆どのメディアも改憲勢力が3分の2を超え、憲法改正の発議ができる議席を与えたとばかり誇張する。まるで与党を勝たせた有権者のせいだと言わんばかり。どうして日本のメディアは皮相的な見方しかできないのか。仮に与党が今すぐ改憲に動き出しても、改憲に批判的なメディアが、騒いでストップをかければよい話。それが分っているから与党は闇雲には進めることはできない。「何故改憲が必要なのか、どこをどう改めるのか、その結果はどうなるのか」を国会で真摯に議論し、国民の理解を十分に得ながら進めないと、憲法改正という大事業は為しえない。

民進党は政権転落から、少しは立ち直ったように見えたが、根本的には何も変わっていないようだ。自ら実力をつけたのではなく、単に野党共闘による数合わせにご執心で、他力本願によるものだからだ。その結果、党内はいつもバラバラ、大事なことがなかなか決められない。票のためとはいえ、共産党と組んだことが後々影響を受け、足を取られることにならないか。いずれにしろ、長期的なビジョンがなく、明確な政策が無いから、政権党の批判ばかりに終始する。その結果、最も大切な信頼が得られない

◆「社民」と「生活」は今回消えてなくなるかと思いきや、かろうじて1議席を確保して、非改選と合わせてそれぞれ2議席、首の皮1枚で繋がったが、まさに風前の灯。「生活」の小沢党首は「野党が大同団結しなければだめだ」と嘯くが、野党をこんなバラバラ状態にしたのは「どこのどなただったのか」、全く分っていない。かつての師匠だった田中角栄が泣いて居よう。

◆今日の日経平均株価は先週末の株価から大幅に反発、終値で前日比601.84円と大幅に上昇した。米経済指標の影響もあるが、参院選で自民党が大勝し、アベノミクスの経済対策の期待から、市場が好感を持った結果だろう。最近の株安にストップをかけた形となった。一喜一憂は禁物だが、これがもし与党の大敗だったら、株安に歯止めがかからなくなっていたかもしれない。

2016年7月 8日 (金)

縄文火炎土器の芸術性

◆「太陽の塔」など数多くの名作で不滅の芸術家となった岡本太郎は昭和26年40歳の時、東京国立博物館に展示されていた縄文式の火炎土器に出くわし、大きな衝撃を受けた。翌年美術雑誌「みずゑ」に「四次元との対話ー縄文土器論」を発表。それまでは縄文土器や土偶は美術品ではなく、単に考古学上の工芸品だったという位置づけだった。

◆京都造形芸術大学の石井匠氏はコラム「縄文と岡本太郎」の中で「彼は考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈を試みたのである。それが結果的に各方面に大きな衝撃を与え、建築やデザイン界を中心に縄文ブームが沸き起こった。そして弥生土器や埴輪を始まりとする『正当な』日本の伝統を覆し、以後原始美術として縄文土器は美術書の巻頭を飾るようになり、日本美術史が書き換えられた。今に続く縄文ブームの火付け役は岡本太郎だった」と書いている。
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江戸東京博物館「発掘された日本列島2016」展の縄文火炎土器

◆確かに、岡本太郎作品の数々の力強い曲線の美の原点は燃え盛るような火炎を表現した縄文土器にあるのではないかという思いがする。教科書にも掲載された東京国立博物館の縄文火炎土器は過去何度か見ていたが、全国各地で発掘された多くの弥生式土器に比べて、実用性はともかく、一度見たら強烈な印象が残る土器である。

◆先日江戸東京博物館で開催されている「発掘された日本列島2016」展を観てきた。多くの展示品の中では、どうしても縄文土器の火炎土器に目が行ってしまう。縄文式土器と弥生式土器を比べてみればその差は歴然だ。縄文文化は1万数千年前から2千数百年前まで繁栄を誇った日本先住民の文化で、狩猟・採集中心の生活スタイルだが、栗の実を採取するため栽培するなど、定住した痕跡も多数みられる。生活にゆとりがあったのか、縄文土器には表面に撚り糸文や縄目文のアクセサリーをつけ、BC3000年頃には芸術的な火炎土器まで創作するようになった。

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弥生式土器・甕棺、江戸東京博物館で

◆これに対して紀元前約500年から紀元後300年ほどの弥生時代には、大陸から稲作と金属の文明が伝播し、それとともに実用的でシンプルな弥生式土器が広まった。中には甕棺に使用した大きな土器まであった。狩猟中心のおおらかで平等な縄文社会に対し、部族間の争いと階級が芽生えた弥生時代。その代表例を青森県の三内丸山遺跡と、佐賀県の吉野ケ里遺跡にみてとれる。

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復元された三内丸山遺跡で(2009年8月)

◆三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間に亘って定住生活が営まれていた。建物、構造物等の大きさ、規模は約2000年後の吉野ケ里遺跡のそれと比べて遜色ないどころか、上回ってさえいる。違いと言えば吉野ケ里遺跡は敵の襲撃に備えて、環濠で張り巡らせているところだろうか。時代が新しくなっていくとともに、平和な社会が次第に争いの世界に変わっていく。今の世界を暗示しているようである。縄文土器と弥生土器、その差は人々の暮らしぶりの差に遭ったのだ。

2016年7月 7日 (木)

おかしな憲法改正論議(後)

憲法の平和精神とは?】
◆わが国の憲法の前文の中に「我らは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」とある。また「どんな国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主張を維持し他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信じる。」とその精神を謳っている。

◆これは即ち、一国平和主義を戒め、国際社会において平和を乱す勢力は地上から永遠に除去しようと、国際的に協力して平和の維持に努めなければならないと読めるのだが、憲法順守を唱える一部の勢力は日本が戦争に巻き込まれなければそれでよいと考えているように見える。そうであるならば逆に憲法を改正して「我が国は国際社会において、名誉ある地位よりも、我が国の平和を優先して希求する」とでも改めれば、武力による貢献を求められても「この憲法があるから」と一切拒否することが出来るだろう。但し、国際的に孤立するだろうし、領土・領海が格好の標的にされることも覚悟しなければならない。

【野党は本当に憲法を読んでいるのか?】
野党は「国民の生命と財産を守るのが政治の役目だ」と真に思っているのだろうか。もしそうだとするならば、今一度憲法を読み直し、あらゆる事態を想定して国の対応を策定しなければならない。例えば某国が民間人を隠れ蓑にして、その軍隊が我が国の離島に上陸し、占領した場合、それを奪い返すのは正当な権利だろう。あるいは戦闘を仕掛けられた場合、応戦するのは正当防衛だ。これを武力による紛争解決の手段とするならば、これすら憲法違反ということになる。こうしたあらゆる事態を想定して、我が国だけで対応できるのか、そのためには憲法はどうあらねばならないのか、与野党の垣根を乗り越え、真剣に考えて欲しい。反対のための反対であっては野党に未来はない。


ポピュリズムがその国をダメにする】
英国でEU離脱派が残留派に僅差で勝って、離脱に投票した国民が予想外だと戸惑っている。離脱派を代表してEUと離脱に移行する事務交渉をする保守党の後継首相候補が次々と辞退して、混乱が生じている。大衆は後先をよく考えず、単純で分かりやすい方に扇動されがちだ。今回の参院選から18歳以上に選挙権が付与されることになった。「憲法守れ!」「戦争法反対!」、こうした単純明快な主張は若い人、大衆に分りやすく、受け入れられやすい。これをポピュリズムという。ポピュリズムでダメになった例は古今東西枚挙に暇がない。今回の野党四党による統一候補の担ぎ出しは、票欲しさと言え、自党の立場や主張は取りあえず脇に置き、大衆迎合に訴えるもので、選挙後の主導権争い、離合集散などが目に見えている。結局、国民を政治不信に陥らせるだけだろう。(終り)

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2016年7月 6日 (水)

おかしな憲法改正論議(中)

【憲法解釈変更の前歴と今】
◆わが国の憲法は、「国が発動する戦争(つまり外国に討って出る戦争)は国際平和を誠実に求める観点から、永久に放棄する」と明記し、「その目的のため陸海空軍の戦力は持たないし、戦争する権利も認めない」とはっきり謳っている。つまり外国に侵略するための戦力は持たないが、防衛のための戦力は持つとも、持たないとも明記していない


◆そもそもわが国の憲法は、戦後GHQの監修のもと、1947年5月3日吉田総理の時に施行された。ところがマッカーサーは1950年1月1日、「日本国憲法は自衛権を否定せず」と声明を発表。それまで吉田は自衛のための戦争であっても、戦争自体してはならないものであるとしてきた。ところが同年7月、GHQの方針に沿って自衛隊の前身である警察予備隊が設置された。このときに憲法を改定していれば、その後の不毛の憲法論争もなかったはずだが、当時は言い出しっぺのGHQも、政治家も、不戦を支持する世論も、苦しい憲法解釈の変更でしか、乗り切ることは困難だったのだろう。

【正当防衛は戦争に当たるか?】
◆しかし、国が侵略されれば「国家は国民の生命と財産を守る責務がある」から、それは正当防衛に当たる。戦力を行使すればそれは戦争だろう。従って自衛のための戦力保持は憲法上許されると解釈を変更して長年運用してきたのだ。つまり「自衛のために戦力を持つことは憲法違反には当たらない」と憲法の文言を変えずに、解釈の変更で180°変えてしまったのが戦後の我が国の憲法だった。


◆この解釈変更は遠い過去の事として不問に付し、「集団的自衛権は憲法違反だ」と騒ぎ立てる民進党、共産党など野党、左翼系学者、一部メディア、それらに踊らされる市民団体などがいる。「戦力を持たないという国是から、戦力を保持するという方針」に大転換したことと、「個別的自衛権の行使から、集団的自衛権の行使容認」へ転換したことは、どちらも憲法の解釈を変更したという点で同じである。どちらがより責任が重いか。現状は一国だけで自分の国を守れるほど国際情勢は甘くない。後述するが、現行憲法も国際協調のもと、平和を維持しなければならないと明記している。本来なら「自衛のための戦力の保持」も「集団的自衛権の保有」も我が国憲法の曖昧さゆえの混乱であるから、明確にして「憲法改正」を国民に図るべきものではないだろうか。(続く)
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2016年7月 5日 (火)

おかしな憲法改正論議(前)

【防衛予算は人殺し予算?】
野党民進党、共産党などは今回の参院選の街宣活動で「安倍総理が憲法改悪し、戦争できる国にしようとしている」、だから「9条改悪を断固阻止しなければならない」と声を張り上げ、批判する。挙句の果ては「防衛予算は人殺し予算」と豪語して、役職停止になった共産党議員も出てきた。この理論で行くと日本の自衛隊は「殺し屋集団」ということになる。これが同じ日本人かと耳を疑いたくなる。


【腰が引ける憲法論議】
安倍総理も今回の参院選では念願の「憲法改正」を表に出さず、封印しているようである。そもそも、野党側の「憲法改悪阻止!」と極めてシンプルな攻撃スローガンに対して、「なぜ憲法改正が必要なのか、なぜ今なのか」という国民の疑問に対して、理解を得るには十分な説明の時間を必要とする。「簡単なスローガン」で対抗できるほど現実は単純ではない。衆参両院で3分の2の議席を獲得したとしても、直ちに改正の発議ができるとは限らない。むしろ国民の半数以上の理解を得た上でないと、国民投票にかけることは不可能であろう。


中国の脅威と呑気な政治家】
日本国内で、「憲法改悪阻止だ」、「戦争法案反対だ」という極めて分かりやすい、大衆受けしやすいレッテルがある一方、「憲法改正は必要だ」という説明は困難を伴う。こうした不毛の論争をしている間に、現実の世界は刻一刻と変化している。それも日本にとって極めて深刻な事態が起こっている。即ち中国軍は今年に入って尖閣諸島周辺の海・空で挑発行為を大幅に増やしている。フィリピンが国際仲裁裁判所に提訴している南シナ海の領有権問題の判決が出る前に力づくで既成事実化を図り、合わせて尖閣諸島でも影響力を高めようとしているのだ。今年上半期の自衛隊機のスクランブル発信回数は昨年後半の約1.5倍に増加したという事実が、如実に物語っている。

【憲法の枠組みと自衛隊の活動】
こういう場合、まかり間違えば「不測の事態が起こり得る可能性が十分ある」し、中国はそれを奇貨として、紛争状態に持って行こうとの算段だろう。この事態を「日本国憲法は国際紛争を解決する手段として、武力による威嚇または武力の行使は永久に放棄する」と9条に謳っているのだから、応戦すれば憲法違反になるというのだろうか。武力によらず外交で解決するのだとすれば、「竹島」や「北方四島」の教訓を生かしていないことになる。憲法上疑義があっても体を張って阻止しているのが自衛隊だ。挑発行為に乗ってはいけないが、自国の領海、領空を我が物顔に侵犯されて、されるがままの軍隊がどこにあるだろうか。それを認める政府があるとすれば、自衛隊は必要なくなる。(続く)

2016年7月 4日 (月)

投票率を上げる選挙制度

◆参院選の投開票が次の日曜日(10日)に行われる。それに先立ってTVが例によって例の如く政見放送を流している。画面がそれに変わった途端、チャンネルを切り替えることにしている。何故なら見たくもない番組を見せられるほど、苦痛を覚えるものは無いからである。これは筆者一人ではあるまい。多くの人がそうではなかろうか。どうして日本の選挙は「十年一日」の如く、いつもこうなのか。

◆まず、貴重な公共放送の電波をこんなに無駄に(敢えて無駄という)使っていいのか、甚だ疑問だ。今までに政見放送の視聴率がどれほどだったか発表されたことがあっただろうか。放送する側も「公職選挙法で決められているから、仕方なく放送しているのだ」という義務感だけで放送しているのではなかろうか。次に民主主義という美名のもとに、泡沫候補や売名行為の候補者であっても平等に扱わなければならないところが、TV政見放送が敬遠される大きな理由の一つだと思われる。

◆また、候補者が言いたいことだけ一方的にしゃべって、片側通行に終わっていることも有権者を無関心にさせる理由でもある。つまり候補者は表面を飾って自分を良く見せようとするだけで、有権者と意見を交換するような双方通行になることは一切ない。もし、有権者に政治参加意識を持たせて、投票率を上げたいのであれば、策はある。要はやる気があるかどうかの問題である。

◆例えば、その選挙区の立候補者に対して、同じ選挙区の有権者の代表(有識者、会社員、自営業、主婦、学生等各層からなる面接者10名ほど)が面接し、質問するのである。イメージとしては入社試験の面接のようなもので、雇い主は我々市民(給料である税金を支払うから)。議員はその市民に雇われた期限付きの雇用者である。任期終了ごとにその成果を面接により評価することになる。テレビはその面接試験の模様を収録して放送する。面接官たちは面接した結果を、評価してレポートを作成、新聞等で公表する。有権者は放送とレポートを参考にして、選挙で1票を投じる。かくして日本の選挙制度は劇的に変化して、投票率は上がり、議員も選挙民もレベルアップする。メデタシ、メデタシ。

Photo ノウゼンカズラ

2016年7月 2日 (土)

コイの話

◆恋の話ではない。の話である。動物の中でも何故だか魚類が好きである。ただ「おさかな君」みたいに好きが嵩じて、大学客員教授になるほど、とことん研究するほどの熱意はない。淡水魚の中では釣って楽しいのは岩魚、山女魚。鑑賞していいのが鯉である。日本では昔から池や湖沼で鯉が飼われ、食用や観賞用に親しまれてきた。

◆小田原ではお城の堀に、御多分に洩れず大きな鯉が飼われている。市内には昔から用水路が張り巡らされ、護岸のコンクリートのため風情は殆どない。しかし、放された鯉が自然に増えたのか、中には錦鯉も見られる。生息場所は流れが緩やかなところ、または殆どない所に限られ、流れが急な個所では見ることができない。人がパンなどのエサを投げ与えているため、散歩の途中立ち止まると、必ず集まってくる場所がある。しばしその姿を楽しむ。

Dscf1645 (小田原の用水路で)

◆ところが河口までは近いので、一度大雨が降って、褐色の激流に流されると、海まで一気に持って行かれるのではないかと心配する。鯉は海水が混じるところでも結構しぶとく生きるようで、生命力は強い。激流が収まり、静かになるといつのまにか元に戻っている。図鑑等によると魚にしては長寿の部類で、平均20年以上、体長は平均60㎝、稀に1mを超すおおものもいるそうだ。

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(長崎市、中島川・眼鏡橋の近く。海まで数100mの近さである)

◆10年以上前、流れの綺麗な秦野市の川で、パンを餌に50cm以上はある真鯉を釣ったことがる。早速、「鯉の洗いと鯉濃く」にしようと捌いた。骨と鱗は硬く、身はそれほど美味しくない。ちょっと箸をつけただけで、「残酷なことをした」と後悔した。それ以来、鯉は釣らないことにしている。

◆「鯉の滝登り」という言葉がある。あれは間違いだ。鯉は普通ジャンプが下手だ。第一、流れの早い所には棲まないのだからあり得ない。では中国の故事で使われた「登竜門」とはどういうことか。昔、黄河の上流に「竜門」という激流があり、その下に多くの鯉が集まった。殆どの鯉は登れなかったが、もし登ったら竜になると伝えられ、転じて立身出世のための関門を意味するようになった。あり得ないことをあり得るように言うところが如何にも中国らしい。

◆中国原産の鯉の仲間で、ハクレン、コクレン、ソウギョ、アオウオは「中国四大家魚」と言われ、中国では重要な食用魚として養殖している。因みにこの四大家魚はすべて1mを超える巨大魚で、全種そろって江戸川を含む利根川水系にも生息しており、実際に1m超のハクレンを見たことがある。これらが厄介なことに世界中で繁殖しており、北米でも、日本でも生態系に悪影響を与えているという。人間だけでなく、魚までもが我が物顔に振る舞うのが中国という国らしい。

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(小田原用水路にて。人懐っこい鯉)

2016年7月 1日 (金)

両国の川開き

◆今日から7月。毎年7月の最終土曜日に隅田川花火大会が開かれる。今年は30日が開催日だが、翌31日(日)に都知事選の投開票が実施されるので、悪天候の場合は順延せずに中止すると発表した。しかし花火大会は何も隅田川だけではない。8月には東京湾大華火祭や江戸川区花火大会も行われる。

◆江戸時代の旧暦5月28日(今年の新暦では7月2日に当たる)は両国の川開きが行われる日だった。享保17年(1732)、江戸の町は大飢饉とコロリの流行によって、多くの死者が出た。徳川吉宗は大川端(隅田川河畔)で死者の霊を弔う法会「川施餓鬼」を催した。そして翌1733年7月9日(享保18年5月28日)、幕府は両国の川開きの日に合わせて「川施餓鬼」と「水神祭」を実施。その際に花火を打ち上げたのが現在の花火大会のルーツとされる。

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(両国橋の舟遊び。江戸東京博物館のジオラマ)

◆川開きの期間は毎年5月28日から8月28日までとされ、期間中に花火大会は3回あったという。花火そのものは1659年、隅田川に初めて両国橋が架けられると、同年開業した「鍵屋」が花火を担当した。後に7代目の鍵屋の番頭「玉屋清吉」が暖簾分けして、1808年に「玉屋」を創業。二大業者体制が続いた。落語の「たがや」は両国橋の上で起きた噺とされる。江戸の町人が武士を揶揄する話で、たがやは桶の修理をする職人。ちょっとした諍いで逆に武士の首を刎ねてしまった。高く舞い上がった武士の首を見上げながら見物客が叫ぶ。「あがった、あがった、あがった~イ、タガヤ~!」(お馴染みの落語だ)

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(橋の袂には見世物小屋、飲食店など様々の店が並び、賑わった。 写真同上)

◆江戸の町人は縁台涼みの他にも、川や池などの水辺の涼を求め、両国橋辺り、不忍池辺り、浅草寺辺り、向島堤などに出かけた。両国の川開きが始まると、隅田川は提灯を掲げた船宿が並び、納涼船で舟遊び、沿岸では茶屋、料理店、見世物小屋、寄席などで賑わったという。一方不忍池では7月7日の七夕の夜、江戸詰め諸藩の武士による花火大会が行われた。「将軍の霊を慰めるため」は名目で、実際には諸藩の花火作りの成果を町人たちに負けじと競う行事だったようである。ところが内実は両国橋に行って、タガヤに首を刎ねられたら武士の面目が立たないってんで、上野にしたという話があるんですが、これはどうやらガセネタのようです。
◆しかし、贅沢を戒める風潮が高まり、川開きの花火大会も次第に衰退して、天保の改革(1841年)以降は、納涼船などの花火も取り締まられ、慶応元年(1865)には時節柄、花火の催しは無かったとされる。 平和が一番ですね。
(参考:江戸用語の基礎知識、ウィキペディア)

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