« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016年3月

2016年3月31日 (木)

民主党は過去の失敗から何を学んだか?

◆民主党と維新の党が合併して「民進党」という新党名に看板を変えた。一度は政権交代を果たした民主党だったが、「昔の名前では戦えません」ということなのか。もしも本当に政権復帰を望むのなら、過去の失敗から何を学び、それをどのように生かすのか、真剣な反省をしただろうか。それが無いのなら「単に家出した仲間が気まずさを隠すため、新しい仲間を連れてきて、家の名前を変えただけ」の話。同じ過ちを何度も繰り返すだろう。

◆旧民主党最大の問題は「まとまりの無さ」だった。寄せ集めの寄り合い世帯の性格は、ことが核心になればなるほど、「勝手連たち」の路線対立が露呈。まとまるどころか、四分五裂の騒ぎに発展した。「党内を治めることすらできない集団に国家を任せられない」と国民に「NO」を突きつけられた結果の退陣ではなかったのか。

◆新しい「民進党」の綱領をみれば、例えば「国家の安全」をどのように保証するかという基本理念さえ玉虫色で曖昧さを残したまま。民進党という政党は、ただひとつ「打倒自民、打倒安倍政権」という一点でのみ纏まっている。逆に言えばそれしか纏まりようがない。だからこそ、選挙に勝つためには共産党とも手を組むという節操の無さだ。国民もその点に惹かれて政権交代許すとするならば、確実に「あの悪夢」が再現することになるだろう。何故なら民主党は3年3か月、政権に就いた際の負の遺産を真剣に反省したとは全く感じられないからだ。

◆国民の耳に心地よい政策を並べ、財源のことは二の次、「政治主導」は言葉だけ、理想だけでは、地に足が付いた政治はできないと学んだはずだが、どうもそんな姿勢は見えてこない。そもそも政権交代を望むなら「内閣」に約40~50人、「国会」の運営に当たる委員長・理事などのポストに約50~60人、また「」の運営・政策立案・人材育成にやはり50~60人のそれぞれに優秀な人材が必要だ。さらにそれを確実にするためには衆・参で過半数の議席を得なければ安定的な政権運営はできない。そんな人材が一朝一夕にできる訳はないのだから、党が目指す国家像を示して、長期的な展望に立ち、一歩一歩確実に積み重ねていくしかない。その中で次世代の新しいリーダーが育ってきたら、1票を投じよう。

2016年3月27日 (日)

久し振りに映画で大笑いしました。

山田洋次監督が、小津安二郎監督の名作「東京物語」(1953年作、主演:笠智衆、原節子)のリ・メイク版「東京家族」を制作し、公開上映されたのは2013年1月でした。今回はその「東京家族」のキャストそのままに、東京近郊に暮らす三世代の家族にスポットを当て、「家族はつらいよ」のタイトルで、本格的喜劇に仕上げておりました。

橋爪功と吉行和子演じる老夫婦の熟年離婚騒動をテーマに、家族を巻き込んだ喜劇で「寅さんシリーズ」より数十倍も面白い映画でした。 それは中高年世代の誰もが大なり小なり経験するような、またわが身に置き換え、思い当たる節がありそうな出来事がテンポよく展開され、映画館内でこれほど観客の笑い声が響きあう映画を観たのは本当に久し振り。

また、エンディングも小津さんの「東京物語」がテレビで放映されている場面を主人公が見ていて、東京物語の「終」の文字がクローズアップされると、それがこの映画の「終り」とオーバーラップするという「洒落た終わり方」を演出しており、山田監督ならではの作品でした。

2016年3月25日 (金)

小田原北条氏の不思議(最終回)

【疑問その5】 小田原北条氏は最終的に籠城戦を選び、滅亡に至った。他に選択肢はなかったのだろうか?

[選択3の場合] 籠城体制をとるが、初戦で一撃を加え補給路を断つなどのゲリラ戦を展開、早い段階で有利な条件で和睦する。

◆1589年11月24日付で、業を煮やした秀吉は北条氏に対して宣戦布告状を発した。氏政は弟氏照に向かって「これ見られよ。秀吉という猿面男が分限も知らず、かかる過言の奇怪さま」とののしったというが、この時点で北条氏の滅亡は決定したと言ってよい。なぜなら「彼を知り、己を知れば百選危うからず」(敵についても味方についても情勢をしっかり把握していれば幾度戦っても敗れることはない)という孫子の兵法を知ってか、知らずか、いずれにしろ外交上の失敗が、秀吉の北条攻めのきっかけを与えてしまった

◆ポイントとなったのは小田原城の防御の堅固さと、過去の籠城戦への過信だった。1561年の長尾景虎(後の上杉謙信)の小田原攻め(9万6千余)と、1569年の武田信玄の小田原攻めに対して、籠城戦で撃退したという錯覚だろう。確かに謙信の場合1か月、信玄の場合は4日で撤退している。どちらの場合も補給困難と、長期戦になることの恐れ、国内事情の変化等もあって、撃退したというより撤退したという方が正確だった。それより留意しなければならないことは、それまで従属していた上野・武蔵の国衆が簡単に寝返って、謙信の側についたことだった。これは後々領国経営の在り方に影響を与えることになる。

天正18年(1590)3月3日、ついに小田原合戦が開始する。本体は秀吉を総大将とする16万余、うち「家康」を指揮官とする別動隊1万余と三成・長束佐竹が合流した「三成軍」約2万余だった。さらに北の方から南下した前田上杉真田の「北方軍」が3万5千余。これらの別働軍が手薄になった北条氏の支城を個別撃破していった。海上からは長曾我部加藤九鬼氏の「水軍」約5千余が下田などの海城を落とし、制海権を得て海路補給をしつつ、小田原の海岸に殺到した。総兵力は22万とされる

Dscf3749_2 (北条氏が築いた大外郭の跡)

◆秀吉は4月5日に箱根湯本の早雲寺に本陣を置くと、中旬には周囲9kmに及ぶ小田原城総構えをぐるりと包囲する長大な包囲陣を完成させた。これに対し小田原軍がとった作戦は大外郭の補強修築と関東の100を超える支城から守備隊を残し、残りは小田原本城に集結させ、本城5万6千、支城2万弱、計7万5千で迎え撃つという籠城戦だった。分散した支城軍は忍城(映画「のぼうの城」のテーマとなった)、韮山城(守将は政氏の弟で氏規、今川氏の人質時代から家康と誼を通じ、外交面で活躍)などの例外を除き、次々と落とされていった。秀吉は余裕で、側室や茶人を呼んで、6月26日にはあの石垣山一夜城を完成させている。そして、7月5日、北条軍無条件降伏。13日には秀吉は小田原城に入り、関八州を家康に与えた。

2009_1009jpg_72◆勝機を見つけるとするならば、秀吉は前年11月の宣戦布告後、駿河の清水あたりに倉庫を建てて、着々と兵糧を集結させていた。そこへ密かに夜襲をかけて火を放てば大きな痛手となる。また秀吉が沼津や三島に着陣する頃を見計らって、奇襲攻撃をかけるなどゲリラ戦を展開すれば、活路は見えたかもしれない。さらに箱根の三島側中腹にある北条氏の出城「山中城」は著名な城郭研究者である千田氏もこの城の堅固さを特筆すべきものと認めている。その山中城は緒戦の段階で半日で落とされたが、守兵の過少と裏切りが原因だった。この城に兵力を集中して、緒戦で相当な痛手を与えておいてから、和睦に持ち込むという展開であれば、結果として領土の一部は割譲され、責任者の断罪は免れないかもしれないが、北条氏の家は存続したかもしれない。(写真は山中城の障子堀跡)

◆8回に亘り、長々と「小田原北条氏の不思議」をテーマにして書き綴ってきましたが、これらの歴史を学ぶと、改めて大局観に立ったものの見方、情報収集・分析の大切さ、内向きに偏らない外交姿勢と対外戦略などの重要さが感じられます。皆さんが北条氏の立場だったらどの選択肢を選びますか? ご意見、コメント、感想など投稿していただければ幸甚です。(終わり)

2016年3月23日 (水)

小田原北条氏の不思議(7)

【疑問その5】小田原北条氏は最終的に籠城戦を選び、滅亡に至った。他に選択肢はなかったのだろうか?

[選択 2] 徳川・伊達との緩やかな同盟関係を強固なものに改め、豊臣対東国3国同盟の図式に持ち込んで、徹底抗戦する。

◆1583年、家康の次女督姫が北条5代氏直に輿入れし、家康とは義父と娘婿の関係になった。家康は1586年に秀吉に従属を表明するが、この間にその動きを察知し、それを阻止するような外交戦略を展開すべきであった。家康も当初は拒否していたが、秀吉の巧みな外交戦術によって、渋々臣下になる形をとった。

◆一方で東北の伊達氏は全国屈指の大名で、東北制覇を目指して南下政策を進めていた。常陸の佐竹氏は伊達に立ちはだかる強力な対抗勢力で、何度も奥州の諸大名と連合しては伊達政宗と戦うが、蘆名氏が滅んだ後は殆どの勢力が伊達氏に付いたため、佐竹義重は北から伊達政宗、南から北条氏政の二大勢力に挟まれ、存亡の危機に立たされた。伊達と北条は相互補完の関係になった。佐竹氏は秀吉と同盟を結び、北条攻めの際はいち早く小田原攻めに参陣する。

徳川家康北条氏伊達政宗も大大名であったし、秀吉の臣下に入ることは望んでいなかった。この三者が固い同盟を結び、集団的自衛権を発揮すれば、秀吉にとっては大変な脅威だ。もし手を出せば「西軍対東軍の対決」となり、謂わば10年早い「関ケ原の戦い」となる。その場合、上杉を味方につけないまでも中立の立場におけば、充分成算は見込める。

Dscf1336_2◆なお、東軍の盟主を家康とするか、北条とするかだが、年齢の上では氏政の方が家康より5歳上、しかし氏政は名目上引退して家督を氏直に譲っている。後々のことを考えたら家康に譲った方がベターだろう。氏政は大軍を率いるには疑問符が付くからだ。東軍が勝てば北条や伊達はそれぞれ関東と東北を盤石なものにすることができるし、家康は近畿から中部を治めるだろう。そうなれば、首府は江戸ではなく名古屋か大阪になっていたかもしれない。そしてあの忌まわしい朝鮮出兵などはなかったはずだ。(続く)

2016年3月22日 (火)

小田原北条氏の不思議(6)

【疑問その5】
小田原北条氏は最終的に籠城戦を選び、滅亡に至った。他に選択肢は無かったのだろうか? 
豊臣秀吉の小田原北条攻めの場面はドラマや歴史番組で何度も取り上げられ、お馴染みとなっているので、ここではその詳細は省き、他に選択肢はなかったのか、少し想定してみた。
選択1・秀吉の要請に従い上洛して恭順の意を表し、従属した上、関東の地を安堵してもらう。
選択2・徳川、伊達との緩やかな同盟関係を強固にして、豊臣(西国)対東国三国同盟との対戦に持ち込む。(徹底抗戦)
選択3・籠城体制をとるが、初戦で一撃を加え、補給路を断つなどのゲリラ戦を展開、早い段階で有利な条件で和睦する。


選択1の場合
信長亡き後、事実上の後継者となる秀吉はライバル達を蹴落とし、最大の難関徳川家康に対して、姻戚関係を結び(1586年)、硬軟両面で家康を攻略、演技とはいえ、諸大名の前で従属を誓わせた。1589年秀吉は残された大物北条氏を従属させれば、東北の伊達もなびいて、究極の目標である天下統一を果たすことができる。秀吉は武力に頼らず、徳川に対したように、氏政・氏直親子にも上洛を求め、戦わず従属させたかった。

Dscf1335_2◆北条氏とてこうした天下の動きを知らないはずはないのだが、1582年北条・徳川が和睦、翌年家康の次女督姫氏直に輿入れし。友好関係を築く。だが、家康は1586年秀吉への従属を表明した。北条は裏切られた感がしただろう。さらにその上、強い調子で北条氏の上洛を勧告したので、取りあえず氏政の弟氏規(後の韮山城主)を使わせ、上野沼田領を巡る北条対徳川(真田)の領土問題の裁定を依頼。1589年秀吉は沼田領の帰属問題を明快に決済した。その一項目に「氏政、氏直のどちらか速やかに上洛すること」という項目があった。

◆ところが1586年に秀吉が発した「関東・奥両国総無事令」を無視する形で1589年10月、真田領の名胡桃城奪取事件が勃発。秀吉にとっては顔に泥を塗られた形となって北条討伐の口実を与えてしまった。その結果、なるべくしてなるようになって、領土召し上げ、氏政氏照(八王子城主)の切腹、氏直の高野山追放となった。

◆1588年に秀吉が要請した聚楽第竣工の盛儀の際に、ぐずぐず引き延ばさず親子で伺候していれば、秀吉の権勢の実態、戦国大名の動向など中央の情勢を自分の眼で確かめられたはず北条氏も敵対して、戦になるよりも当面の面子を捨ててでも、秀吉に臣従した形をとっていれば、関東の地は安堵できたと思われる。北条氏は「自分は中央に対して敵対することはしない、ただ関東という独立国の保持が目的だった」と思われる。しかしそれは前時代の考えであって、時代の流れを読み取る先見の明がなかったということだろう。
(続く)

2016年3月19日 (土)

小田原北条氏の不思議(5)

疑問その4】 4代氏政・5代氏直の時に、関東一円をほぼ版図に加え、最大の領地を支配するようになる。本来なら中心部(現在の東京当たり)に本拠地を置いた方が、統治上も戦略上も有利なように思えるのだが、何故、関東の最南西部の小田原にこだわり続けたのだろうか?

2代北条氏綱は伊豆・相模を平定した早雲の後を継いで、武蔵半国、下総の一部、富士川以東の駿河まで領国を拡大させ「勝って兜の緒を締めよ」の遺言を残した。3代氏康はさらに武蔵全体(現東京・埼玉)、上野(群馬)・下野(栃木)の南部、下総・上総(千葉)の一部まで拡大し、甲斐の武田氏、駿河の今川氏と甲相駿三国同盟を締結して外交面でも尽力。続いて4代氏政5代氏直の時代に常陸(茨城)の南部の一部を加え、安房を除く下総・上総の全土、下野・上野まで拡大、支配地は関八州に及び、隣接する諸大名をも凌駕する戦国大名となった。

Dscf1337 

◆天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの時は、北条氏が支配する出城の数は150を超えていたという。北条氏は代々、関東制覇・東国支配という明確な目標を持って直系・長子による平穏な政権交代を実現、一族間の強い結束があった。また情勢に合わせて近隣大名との婚姻・養子縁組などの外交を駆使し、民政に於いては優れた統治を見せた。氏康の時代に一級支城(韮山城、玉縄城、八王子城、小机城、三崎城、河越城、鉢形城、松井田城、館林城など17の出城)を確立。城主の大半は一族で占められ氏康は小田原城主の行政権限を彼らに分与して支城経営を当たらせた。その結果、北条氏は結束は固いものの、信玄や家康のような忠誠心の厚い家臣団は少なく、広大な領地に散らばった支城を守護する兵力も服従した兵力も含めて、分散せざるを得なかった。

Dscf1334_2◆だが、本城は最も南西の端の小田原に置いたまま。守備の面では総構えを築き、鉄壁の守りを見せたが、一級支城との連絡・招集には関東の中心地に置いた方が時間的短縮、移動距離の短縮など利点もあったはず。後の小田原滅亡の際、秀吉は家康に関八州を与え、小田原城は家康の家臣の気心の通じる大久保忠世に与えるよう要請。家康は要請を吞み、自身は太田道灌が築城(1457年)して時を経て荒廃が進んでいた江戸城を選んで居城とした。江戸城は1524年から氏綱の支配下にあったが、低湿地や武蔵野台地が広がり、重要視されなかったようだ。余談だが、扇ガ谷上杉の家宰であった太田道灌は8代将軍足利義政の前で、「わが庵は 松原続き 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」と 江戸城のことを歌ったという。

Dscf0811(左:写真は皇居に残る道灌堀の名残)

◆戦国の動乱期と戦国時代が終局に向かう局面との違いがあるとはいえ、家康は譜代の臣との信頼関係が厚く、関東近辺の領国に彼等を配置、水運や海運を重視して、大江戸の街を開発発展させた。そこには地の利を重視して、長期展望の戦略を掲げ、それを支える参謀達の存在が大きかったのではなかろうか。翻って、北条氏は早雲というカリスマ性から抜け出すことができず、西の箱根という巨大な壁と、前面の海という巨大な堀と、周囲を囲む丘陵地という天然の要塞があったが故、敢えて360度平地に囲まれた関東の真ん中に本拠を置くという危険な発想を採ることができず、防御を第一とする消極姿勢を取ったのだろう。加えて、有能な家臣や将来的展望を描く優れた参謀型の人材がいなかったことも考えられる。(ある歴女の意見です)。確かに秀吉における黒田官兵衛、家康における本多正信、謙信における直江兼続などに匹敵するような参謀タイプは見当たらない。また小田原の温暖な気候が居心地よく、敢えて移動したくなかった?(これは冗談です) -続く- 

2016年3月16日 (水)

小田原北条氏の不思議(4)

【疑問その3】早雲は伊豆、相模二国を平定してから、新本拠地の小田原を二代氏綱に任せ、自分は狭い伊豆韮山の地に留まってこの地で没した。その訳を推理する。

◆今まで便宜上、北条早雲の名前で記述してきた。彼は存命中自ら「北条早雲」と名乗ったことは一度もない。伊勢新九郎盛時(長氏とも)であり、長じて臨済禅を学んだこともあって、伊勢宗瑞、号は早雲庵宗瑞(僧侶にはならず、庵も持っていない。後世のペン・ネームのようなもの)を名乗り、剃髪しているが法体ではなく、侍装束を着けた俗体だった。

◆それが何故「北条姓」になったのか?少々長くなるが、今川家に嫁いだ北川殿の夫義忠の急死によって、嫡男「竜王丸」が幼いこともあり、家督相続がお家騒動に発展。北川殿の要請もあって早雲は駿河に下向する(1476年)。一旦は決着するが1487、この問題が再燃したので、地元の国衆を味方につけて、反対派を討ち、今川氏親(竜王丸)を当主とした。その功により、自ら望んで駿河の東端(現沼津市)にある廃城に近い小さな「興国寺城」を手に入れる。このことが、その後の伊豆・相模へ進出するきっかけとなるが、これには関東の動乱を見据えた早雲の深い読みがあったものと思われる。この地で「四公六民」という画期的な善政を敷いたため、早雲の評判は伊豆にも広がった。

◆世はまさに戦国乱世の時代。中央では応仁・文明の乱(1467~1477)が起こり、関東ではいち早く1454年に享徳の乱が起っていた。1455年、第5代鎌倉公方足利成氏は敗走して古河(茨城県)に逃れ、古河公方となった。室町幕府は新たな鎌倉公方として足利政知を東下させたが、鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越を御所としたため、これを堀越公方と呼んだ。以後およそ30年間に亘って、意味のない戦乱の世が続いた。北関東を勢力範囲とした古河公方、南関東を主たる勢力範囲とした堀越公方、それに関東管領を標榜する山内上杉氏、また扇ガ谷上杉氏、さらに各地に散らばる伝統的豪族勢力が、東に西に、あるいは北に南に分かれて戦いに明け暮れた。国衆・御家人たちは長年、領地問題の公平な裁きを求めて、権威(足利幕府)に頼ろうとしたが、結局従来の関東公方の下では、権力闘争に終始するだけと悟る。こうした時代の流れの中で既存の権威や体制を否定する、下剋上の風潮が全国的に生まれていった

◆こうした戦乱の中にあって伊豆の民衆は、働き手を兵役にとられ、民は貧しく、堀越公方の悪政に苦しんでいた。1493年堀越公方の息子茶々丸が両親を殺害した事件に付け入り、早雲は今川氏親の兵を借りて、伊豆に攻め入り、伊豆一国を攻め取った。民衆は大いに喜んだという。この地は現在伊豆の国市で、近くに韮山城があり、早雲はここを伊豆の拠点とした。近くに源頼朝の流刑地となった「蛭ケ子島」があり(周囲は水田が広がっている)、また妻となった北条政子の父親で、後に鎌倉幕府の執権となる北条時政の所領地であるため「北条」の地と呼んでいたらしい。

◆早雲はここを拠点として1495年に小田原に攻め入り、相模の西半分を領していた大森藤頼を追放。1516年に長年の争いの末、相模の東半分を支配していた名門三浦道寸親子を滅ぼして、ついに相模一国を平定する。小田原城は嫡男氏綱が在番していたが、1518年早雲の隠居に伴い、31歳で家督を継ぎ、小田原城を本城とした。翌1519年、早雲が死去したため。名実ともに伊勢氏の当主となった。

Dscf1333_2◆氏綱がそれまでの伊勢氏から北条氏に改姓したのは、1523年か24年とされる。早雲死後4~5年後である。関東では鎌倉時代以降「北条」姓は通りがよく、「伊勢氏」では馴染みがない。父早雲は伊豆の北条の地に拠点を置いている。そこから「北条姓」に改名したのだろう。以来遡って北条早雲と呼ばれるようになった。早雲が伊豆の韮山に留まったのは、小田原にいては相模一国を奪い取った梟雄のように見られると思ったのだろうか。民衆に善政をするのが目的だから、表立った領主ではなく、敢えて治政は息子の世代に任せて、自分は原点となった愛着ある韮山で没する。それを選んだことに早雲の美学を見る思いがする。なお、韮山城は小振りながら堅固にできており、71年後、小田原北条攻めでも最後まで落城しなかった。(続く)

2016年3月14日 (月)

小田原北条氏の不思議(3)

【疑問その2】北条早雲の生誕年がいまだはっきりしないのは何故だろうか?

◆前回の稿で早雲の没年は1519年、享年88歳と書いた。これは明治の頃に言われた永享4年(1432年)生誕説であり、近年岡山県井原市の法泉寺の古文書を調査した藤井駿氏が1956年に「早雲を備中伊勢氏の出で、将軍足利義尚の側近であった伊勢新九郎盛時」とする論文を発表した。小和田哲男氏も史料調査の結果として同様の論文を発表したが、その後有効な反論も出すほぼ定説化した。

◆早雲は氏素性のない素浪人ではなく、将軍に仕える名門の出であったことになる。しかし、これは当時としては非常な長命で、長男氏綱が生まれた時点で数え年56歳、伊豆討ち入りの時点で62歳となる。江戸時代前期の史料で姉とされる北川殿が今川義忠と結婚した応仁元年(1467)で早雲は36歳になっており、姉だとすれば当時の女性としては晩婚に過ぎ、明治以降に享年88歳に合わせて歳の離れた妹とされていた。

◆現在分っている系譜では、父は備中高越城主伊勢盛定、母は伊勢貞国の娘とある。伊勢貞国は室町幕府政所執事で、どちらも五代遡れば同じ伊勢盛継にたどる。伊勢家主流は京都の貞国の嫡子貞親であり、早雲は傍流となる備中の盛定の末弟に近い男子として生まれたらしい。名前は伊勢新九郎(元服して盛時)、全くの無位無官であり、何かの事情で京に上り伊勢貞親に仕えるようになったようだ。(司馬氏の小説では貞親の敷地内の小屋で「鞍」を作る職人役を演じている。

◆早雲は小説家や評論家から「大器晩成」の典型としてよく取り上げられる。確かに早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのが60歳を過ぎてから。最晩年の80歳を過ぎても自ら兵を率いて戦っており、いかに健康・長命であっても少々異様であるとして、疑問を呈する研究者もいた。

Dscf1339

◆近年では康正2年(1456)生誕、享年64歳説が有力になりつつある。1995年黒田基樹氏は埼玉県朝霞市の宝蔵寺(4代氏政の弟氏照の家臣の菩提寺)の過去帳に早雲を伊勢盛定の子・新九郎盛時で享年64歳とする記述があることを確認。黒田氏は高野山の「北条市系図」と比較して信頼性が高いと判断している。これは長年、早雲と思われた伊勢貞藤の生年と混同された結果であるとし、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されていること、姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて24歳若い1456年生まれであろうとした。これだと姉の結婚時期には11歳頃、駿河下向時点で32歳、享年は64歳となり、当時の人間の活動としては妥当な年齢であることから、この説を支持する研究者も出るようになった。

◆しかし、この説についてはいまだ検討中の段階で、これを採らず享年88歳説を採る研究者も多く、必ずしも1456年生まれ説が一般に定着した訳ではない。確かに長寿の武将は尼子恒久(享年84)、武田信虎(享年81)もいるし、龍造寺家兼のように90台になってから挙兵、合戦をして家を再興している事例もある。早雲の四男の北条幻庵は北条五代を見つめてきた稀有な存在で、97歳と大変な長寿だった。

Dscf1332_21432年生誕説1456年生誕説、その差実に24年。子年生まれということは確からしいので、その両年とも子年である。この不思議を解くカギは北川殿の生誕年にあるが、現在のところ全く不詳であるため、混乱に拍車をかけているのだ。子年生まれであるならばこの両年の中間である1444年の生まれでもよさそうだが、それを裏付ける史料は見つかっていない。そこで大胆に推測するが、その記録が発見されることを期待して、北条早雲の生誕年は1444年と推測する。ただし、何の裏付けもない、全くの妄想であることを念のため申し添える(続く)

(写真は小田原市のパンフレットから)

2016年3月12日 (土)

小田原北条氏の不思議(2)

【疑問その1】 北条早雲北条五代を主人公にした大河ドラマが過去、一度も取り上げられなかったのはなぜだろうか?

以前、著名な戦国史研究家の小和田哲男さんから直接聞いたことがある。NHK大河ドラマは女性の視聴者も意識して、魅力的な女性を登場させる必要がある。その点北条氏には登場する女性が少ない。また家督相続などに於いても五代に亘って順調であり、お家騒動などのトラブルの場面が殆ど見られないことも理由の一つではないかと。

~~要はドラマとしてつまらないということなのか。その点『小説北条五代』を書いた火坂雅志さんは「架空の女性を登場させればいい。そんな例はいくつもある」と述べていた。確かに歴史上有名なのは、将軍足利義政の取次衆で教育係でもあった伊勢盛定の娘で、北条早雲の妹とも姉とも言われる北川殿(駿河の守護今川義忠の正室とされる)がいる。また時代は下って徳川家康と北条氏が領土問題で対立した際、両軍の和睦・同盟の成立の証として1583年に家康の娘・督姫が五代氏直に嫁いだケースがあるぐらいだろうか。

だが、調べてみれば北条氏ほど外交・政略に女性を活用した例は少なくない。二代氏綱の後室「北の藤」殿は関白近衛尚通の娘。また氏綱の娘で楊貴妃以上の美女と言われた女子は古河公方・足利晴氏に嫁ぎ芳春院となった。その妹の崎姫は対立する今川家の血筋を引く堀越貞基の室となって高源院と称した。さらに四代氏政は甲州・相模同盟において武田信玄の娘を正室に迎え黄梅院とした。また氏政の娘鶴姫は安房里美義頼の正妻となって龍寿院と称した。このように北条氏は五代百年に亘って外交・政略的な婚姻を続け、その数は15件以上に上るという。従って女性が少ないということは当たらない。

②北条早雲は大器晩成型で、早雲が歴史に登場する大きな出来事といえば、1493年に沼津から伊豆に攻め入り、悪評高い足利茶々丸を駆逐したことだろう。そのとき早雲61歳。それから小田原に攻め入り、23年かけて相模を平定。1519年に88歳で没した。早雲は若い時の足跡がはっきりせず、そこが歴史作家の想像を掻き立てるところだが、いずれにしろメイン舞台は中高年になってからであり、NHKは若者受けしないと思っていたのだろうか。しかし現在は中高年の時代。北条早雲の足跡を見るにつけ、彼を主人公にした一代ドラマは脚光を浴びることは間違いなかろう。

戦国時代に五代100年続いた家は稀で、関東の騒乱を治め、まとめ上げた統治能力は高く評価されてよいのだが、北条五代を全部描くとすれば『応仁の乱』から『小田原開城』まで、つまり戦国時代の始まりから、一応の終止符まで約120年の歴史を取り上げなければならない。全部を扱うには冗長過ぎるし、最後の4代、5代だけでは滅亡に向かうストーリーだから話にならない。

◆小田原市では平成25年5月3日に北条早雲ゆかりの地である岡山県・静岡県・神奈川県・東京都・埼玉県にまたがる8市2町と協力して「北条五代ふるさとサミット」を開催。戦国時代を開き関東に覇をとなえた北条早雲、四公六民など五代百年に亘り善政を敷いた北条氏の「民を豊かにし国を豊かにする領国経営は現代のまちづくりにも大いに通じるものがある」として、北条氏の魅力を広く発信して、「北条五代大河ドラマ化」実現を目指す運動を始めた。しかし先に述べた理由により初代北条早雲に的を絞った方が受け入れられやすいのではなかろうか。(続く)

Photo

2016年3月11日 (金)

小田原北条氏の不思議(1)

◆戦国時代は歴史小説・TVドラマ・映画等の格好のテーマとなる。その主人公のベスト・スリーは織田信長豊臣秀吉徳川家康の3人で決まりであろう。次いで登場回数の多いのが武田信玄上杉謙信、さらに毛利元就伊達政宗と続く。そして舞台の脇役や敵役を務める多くの武将が登場するが、戦国時代の幕を切ったと謂われる北条早雲やその後継の北条氏綱、氏康、氏政、氏直の五代100年に亘る後北条氏が主役になることは滅多にない。そればかりか敵役になることが殆どで、現在進行中の「真田丸」でも高嶋政伸演じる四代「氏政」、その息子の五代「氏直」役は悪役そのものである。何故だろうか?それは言うまでもなく主役側から見た一方的な見方であって、敵は悪役に描いた方がドラマとして面白いからだろう。

◆小田原に住むようになって北条氏を贔屓目に見るようになった訳ではないが、歴史を客観的に見ようという立場から、北条五代について不思議に思うことがいくつか出てきた。例を挙げるならば、
(1)北条早雲は徒手空拳から一代で1国を支配する大名のような立場になったにも拘わらず、一度も大河ドラマに取り上げられないのは何故だろうか。かつて、油売りから美濃1国を支配するまでになった斉藤道三は司馬遼太郎の「国盗り物語」を元に1973年の大河ドラマに登場した。それと同等以上なのが司馬氏が「箱根の坂」で書いた北条早雲だと思うのだが、これはまだ実現していない。
(2)北条早雲の生誕年がまだ明確になっていないのは何故だろうか。
(3)早雲は晩年になってから、伊豆韮山に本拠地を築き、相当の時間をかけて相模一国を支配下に置くようになるが、新しい本拠地の小田原を二代氏綱に任せ、自分は狭い韮山に留まったのは何故か。
(4)三代氏康、四代氏政の時、ほぼ関東一円を版図に加え、最大の領土を支配するようになるが、本来なら家康がそうしたように関東の中心部(現在の東京あたり)に本拠地を置いた方が、統治上も戦略上も有利なように思えるのだが、なぜ関東の最南西部の小田原にこだわって、結局、滅亡を迎えるようになったのか
(5)そして鉄壁の防御態勢を築きながら、わずか100日足らずで城を明け渡し、敗北したのは何故だろうか。


◆こうした疑問について自分なりに分析し、これから数回に分けてレポートしてみたいと思います。(続く)

1 
北条五代祭り(小田原城址公園にて)

2016年3月10日 (木)

「真田丸」に学ぶ情報収集能力

◆大河ドラマ「真田丸」で、主人公の真田昌幸(草刈正雄)が弟や息子に「力が欲しいの~」と慨嘆する場面があった。信濃の小県(ちいさがた)の国衆の一人である真田。同格の国衆達は一目置く存在ではあるが、大名に推挙して従おうとは思わない。武田信玄健在の頃には信濃を挙げて傘下に入っていたが、信玄亡き後、国衆は織田・上杉・北条・徳川ら周辺の大名の影響下にあって、付いたり離れたり再びバラバラの状態になった。

◆そうした中で真田昌幸は、情報収集力の強化に努め、諜報活動、時に調略を使って大名達を翻弄するが、所詮小さな国主に過ぎない立場、その悲哀を嘆じた言葉が冒頭の言葉だ。この場面で筆者は現在の日本の立場を連想した。周囲の大国とは米・中・露・英・仏のいわゆる国連常任理事国。日本は技術立国として世界が一目も二目も置く存在だが、彼らは日本が大国の仲間入りをすることは決して望んでいないし、逆に中・露は米の傘下から離脱させ、自国の影響下に置きたいと望んでいることは見え見えだ。

◆米国とて、将来に亘って日本を防衛する義務を負っているかどうか保証できないだろうし、核を持たない範囲で「日本の防衛は日本で」という立場に変わっていくだろう。東アジアで日本が防衛力を突出させることは緊張を高めることになり、得策とは言えない。ここで真田昌幸に学ぶことは、「信濃の国衆をまとめ、信濃の防衛は自分達で」と図ったことだ。大国(中国)の影響を排するために、東南アジアの国々と連携し、協調していくことが大切だろう。北朝鮮の核の脅威には、当面米国と協調して対応すればよいのだが、近年怖いのはイスラム国等のテロである。

◆日本では、2か月後の5月26、27日に伊勢志摩サミットが開かれる。また2020年7月には東京オリンピックが開かれる。これらのビッグイベントはイスラム聖戦テロの格好の標的となろう。万全の警備体制が求められるのは当然だが、日本は21年前、地下鉄サリン事件という無差別テロ事件を経験した。この事件から米欧諸国は情報収集と予防介入の権能を高めテロ対策強化が実施されたという。しかしそれが十分機能したかどうかは、2001・9・11の米同時多発テロ事件や昨年11月のパリ同時多発事件が物語っている。

◆日本では政府による情報収集の機能・手段は有していない。個人の人権やプライバシーの保護のもと、それにブレーキが掛かっている。しかし爆弾テロの自由を保障する国家はあり得ない。国際テロリストの脅威よりも国民が選んだ政府による「情報収集の強化」の方が脅威だという世論の風潮は正しいのだろうか。真田幸村は情報収集力を高め、防衛のための対策に役立てた。日本はテロ対策に当たって、情報取集などの機能は有せず、もっぱら他国に頼るだけだ。もし日本政府が、早い段階で欧米各国並みの情報収集と予防介入の権能を与えられていたなら、地下鉄サリン事件に連なる一連のオウム真理教事件は未然に防げたであろうとJR東海の名誉会長葛西敬之氏は読売紙に寄稿していた。万全の警備体制と同等以上に国際社会との情報共有が求められる。

2016年3月 6日 (日)

「一億総何々」という言葉

◆安倍総理が昨年10月、「新・三本の矢」を掲げ、「一億総活躍社会」というスローガンを打ち出しました。良い意味に捉えれば、「国民一人一人がそれぞれの立場で活躍できる社会を目指そう」ということなんでしょうが、この「一億総何々」という言葉には、どうも負のイメージが付いて回るようで、不評のようです。ある人のブログに「考え過ぎかもしれないが、戦前の日本は、国民を総動員して戦争の道を止めることなく転がり落ちた、そのイメージと重なる」という趣旨のことを書いておりましたが、敢えて悪いイメージを持たれるような表現は避けるべきだったのではと思います。

◆最初に使われだしたのは昭和19年、戦時下で国威発揚のため歌われた軍歌「一億総決起の歌」(突撃喇叭鳴り渡る)でしょうか。次いで同じ戦時歌謡「進め一億火の玉だ」という歌もありましたが、今聞いたら多くの人が卒倒しそうです。最終局面では「一億総玉砕」という言葉も生まれました。「ヤケのヤンパチ」ですね。当時の日本の指導者、軍部、メディアも気が狂っていたのでしょう。国民も正常な判断をすることができないような状態に置かれていたのです。しかし、最後になって天皇の英断で日本が降伏したことによって、首の皮一枚で生き延びることになりました。

◆敗戦後、東久邇宮首相が国会の施政方針演説で「一億総懺悔」という言葉を使いました。負けるような戦争をしたことに対して、誰が誰に懺悔するのか、様々な議論があったそうです。日本人は皆反省しなければならないという意味ならば、反発する人も多かったでしょう。敗戦国として天皇制を維持しつつ復興すること、それが当時の中心課題であって、懺悔という言葉が適当であったかどうかは別にして、いまだ真の意味での「反省」が曖昧になったままだという人がいるのもこの辺に起因するようです。

◆戦後11年も経った1956年、テレビが普及し始めると「一億総白痴化」という言葉が生まれました。社会評論家の大宅壮一が生み出して流行語にもなったもので、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味で使ったそうですが、一部のテレビ関係者にとっては今でも「耳の痛い言葉」ではないでしょうか。

◆1970年代に入ると、日本国民の大多数が自分を中流階級だという「意識」を持つようになり、「一億総中流社会」という言葉が生まれました。それに伴い、日米安保の傘の下で平和が続き、「一億総平和ボケ」という言葉も生まれました。たしか石原慎太郎が言い出したようですが、「実際にミサイルの数発が都市住民の上に降り注がないと目が覚めない」ほど、我々の「平和ボケ」は重症なのかもしれません。いずれにしろ、日本から戦争を仕掛けることはあり得ないのだから、間違ってどこかの国から飛んできたミサイルで、何百人かの日本人が殺されてから、やっと自衛のための戦争を考えるようになるのでしょうか。

◆それより怖いのは「一億総難民」という言葉が現実のものとなる事態を想定しなければならない時が来るかもしれません。1973年に刊行された小松左京の『日本沈没』。日本の難民が、受け入れ先を求めて世界中をさ迷うという最後で締めくくられておりました。正に来るべき、東南海大地震、原発爆発、富士山爆発、中国や北朝鮮からの核の攻撃・・・そんな事態がいつ現実のものになるのか、多くの難民が発生するのはSFの世界だけではなさそうです

2016年3月 1日 (火)

五代友厚と渋沢栄一(最終回)

◆渋沢は「日本資本主義の父」と言われるように、第一国立銀行の他にも東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電鉄、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど多種多様な企業の設立に関わって、その数は500以上と言われている。渋沢が三井岩崎安田住友古河大倉などといった他の明治の財閥創始者達と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを生涯に亘って貫き通した。

◆渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設したが、これは死後の財産争いを防止するために便宜的に持ち株会社化したもので、この会社の保有する株は各会社の株の2割以下、殆どの場合は数%にも満たないものだった。他の財閥当主が軒並み男爵止まりであるのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、こうした公共への奉仕が早くから評価されていたからだろう。

◆渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心だった。日本赤十字社の他にも、東京慈恵会、癩予防協会の設立、(財)聖路加国際病院初代理事長など多くの福祉事業にも関わった。実学教育では一橋大学の前身や東京経済大学の前身の設立に協力した他、二松学舎、国士館の設立、同志社大学への寄付金取りまとめにも尽力した。すでに女子教育の必要性を考えていた渋沢は伊藤博文、勝海舟らとともに女子教育奨励会を設立、浅子の「日本女子大学」の設立にも携わった。また理化学研究所の創設者でもある。こうした活動が認められ1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなった。

◆渋沢の経営哲学の本質は大正5年(1916)に著した『論語と算盤』に端的に表れている。彼は幼少期に学んだ『論語』を拠り所に「道徳経済同一説」という理念を打ち出し、倫理と利益の両立を掲げ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は社会に還元するものであって、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は真の商才ではないと述べている。

2五代友厚渋沢栄一、それぞれ立場は変わっても幕末期に国事に関わり、同じ頃別々ではあるが渡欧して、経済の仕組み、産業の実態、企業経営の手法などを学び、日本に持ち帰って実践した。そして近代資本主義国家の礎を築いたところは共通するところだろう。また、どちらも一旦は「官」に帰属するが、「官」を嫌い「」の立場で産業、起業、経営を指導したところも共通する。面白いところは風土が人を選ぶのか、人が風土にマッチするのか、大阪の五代は庶民的、バンカラ、兄貴肌であるのに対し、東京の渋沢は紳士的、実直、学旧肌でもある。「時代が人を生む」と言うが、日本が明治の揺籃期にあって、渋沢や五代、広岡浅子のような人物を登場させた意味を我々現代の人は、特に政界・経済界携わる人間は今一度、その精神を学ぶ必要があるのではなかろうか。(終り)
(画像は大手町常磐橋公園内の渋沢栄一像)

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ