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2015年8月16日 (日)

8月終戦記念日を迎えて(2)

日本が何故このような無謀な戦争を惹き起こし、焦土となるまで戦ったのか、その遠因を考える第二弾は明治以降の日本が、国際社会でどのような立ち位置にあったのか、そして自他をどのように認識していたのか、その辺りに焦点を当ててみたい。

(2)日本人の国際感覚と認識
◆幕末期、江戸幕府は国防の観点から長崎に海軍伝習所を造り、オランダからカッテンディーケを招いて、海軍の技術を学ばせた。彼は当時の日本人を不思議に思った。ある長崎の商人に訊ねた。「もし、長崎の街が異国に脅かされた時、この街は防衛できるだろうか」と。その商人は「何の、そんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやることだから」と答えた。カッテンディーケは「日本人は防衛という観点において義務の観念が薄いようである。」と述べている。そのDNAは21世紀の我々にも引き継がれているように思える。

◆明治以降、新政府は欧州各国の先進技術を取り入れるため、1868年~1900年の間に官民合せて1万人近くの外国人を招致した。その数は英国が断トツで、次いで仏、独、米の順であった。(弊ブログの7/10~7/19まで「幕末から明治にかけて活躍した外国人」というテーマで8回に亘り、主な人物を取上げた。) この当時は西欧文明を取り入れることに貪欲で、皆純粋であった。陸軍関係は当初旧幕府の体制(フランス式)を取り入れていたが、明治維新から4年目の1870年に普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)が起こり、新興プロイセンが強国フランスを討ち破った。それを目の当たりにした日本の駐在武官達はドイツに刮目した。プロイセンは連邦を取りまとめ、ドイツ帝国を作った。

◆日本の武官たちはドイツ参謀部の作戦能力の卓越性と部隊運動の的確さを見て、軍隊としてドイツ式の優位性を認識し、以後ドイツに傾注していくことになる。ドイツは当時欧州では急速に英仏等の先進国に追いつこうとする後発国であり、田舎くさい未成熟の国だったから、明治維新を成し遂げたばかりの日本にとって、最も親近感と安堵感を持てる国だった。憲法制定に当たっても最も参考にしたのがドイツであり、法学や哲学、音楽まで取り入れた。

◆まさに勤勉性や質実剛健など日本人の感覚にマッチした国だった。陸軍に於いては陸大を出てドイツに留学することがエリートコースとなり、参謀本部や陸軍省の要衝のポストは悉く彼らが占めるようになった。日清・日露戦争を勝ち取った日本はドイツ方式にますます自信を深めるようになる。昭和期に入ると神国思想と相俟って、次第に精神的要素が強くなっていった。日本は国際社会において成り上がりの新興国であったが、国際連盟の常任理事国になるなど、経済力を背景とした大国でもないのに、力を過信するようになった。

◆1912年頃から日本は大陸侵略を進めていたが、1931年には軍部の独走で満州事変を勃発させた。1933年軍閥支配が進展すると、陸軍は統帥権を根拠として、外務省や海軍のいわば世界的視野を見据えた立場からの反対を押し切って、ドイツ病に嵌った指導部がヒトラーと手を組むようになり日独伊三国同盟に突っ走るようにようになった。この時点で世界の趨勢を俯瞰する能力が欠如していたと云えるのではなかろうか。
司馬遼太郎氏は、陸軍がドイツに深入りしたことをドイツ文化の罪でもなく、拙速な文化導入の罪でもないという。言えることは、ただ一種類の文化を濃縮注射すれば当然薬物中毒に懸かる。そういう患者達に権力を握られるとどうなるかは、その後の日本の歴史が雄弁に物語っているという。(続く)

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