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2015年6月16日 (火)

壱岐・対馬は長崎県より福岡県?

◆子供の頃、九州とは旧国名の西海道のうち筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の9ヵ国を総称したものだと教わった。しかし、壱岐対馬はそれぞれ壱岐国、対馬国と呼ばれていたが、九州には含まれていない。もともと日本書紀(720年完成)では「日本」を「大八洲国(おおやしまのくに)」と呼び、「八つの島」を登場順に現代の呼称表記で、淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州と表記しており、壱岐・対馬は九州「筑紫洲(つくしのしま)と同列に並べられていた。ところが、平安時代初期には壱岐・対馬を含む西海道は全体として九国二島とも呼ばれた。

◆現在の行政区分では壱岐対馬は長崎県に属している。地理的及び交通・経済の面においては長崎県より福岡県の方が近くて便利である。行政面においては壱岐・対馬の人は長崎県庁に行くのにフェリーまたは飛行機で福岡に行き、そこから特急で2時間半かけて長崎に行くことになる。筆者は長崎県出身であるが、両島の住民の利便性と地域経済の振興、及び近年の韓国との軋轢による警備の強化などを勘案すると、残念ながら長崎県より福岡県に属した方が日本全体にとってベターではないかと思っている。では何故、現状福岡県ではなく長崎県なのか?

◆明治政府は明治4年(1871)の廃藩置県当初、肥前の国+壱岐・対馬=長崎県という構想で動いていたが、明治維新で功績の大きかった肥前佐賀藩は自主独立を主張し、政府もこれを無視できず、佐賀藩を核とした県の設置に試行錯誤した。結果的に佐賀藩とその支藩+唐津藩をもって佐賀県とし、残りの肥前国+壱岐・対馬藩が長崎県となった。

Photo◆いずれにしろ、明治維新の「廃藩置県」以後、複雑な経緯を経て現在に至っている訳だが、歴史的にはともかく、地政学的には福岡県に属した方が妥当であろう。地方中核都市である福岡市を擁する福岡県ではなく、財政的には豊かでない長崎県に属したために、交通アクセスとともに経済面の発展は遅れている。
現在では壱岐はともかく、対馬は韓国が眼と鼻の先にあるため韓国人の観光客が多い。記憶に新しいところでは、由緒ある仏像が韓国人の手によって盗難に遭い、未だ返還されていない。また貴重な土地が韓国人らによって買い漁られ、隙あらば対馬を奪おうと虎視眈々と狙っている。


◆海上の警備は、海上保安庁第七管区が当たるとして、島内警備は長崎県警の管轄だろう。そうなると、警備は完全に手薄だ。人的交流や物流・経済面は福岡経済圏、一方政治、公的サービス面は長崎圏、この不合理さが、さまざまな非効率さの元凶となって、壱岐・対馬の足かせとなり、過疎化が進んでいる。壱岐・対馬の人達が長崎県のままでよいとする民意が多数であればともかく、福岡県に所属した方がよいとする意見が多数を占めるならば、過去の経緯に捉われず、再考されてよいのではなかろうか。

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コメント

>明治政府は明治4年(1871)の廃藩置県当初、
>肥前の国+壱岐・対馬=長崎県という構想で動いていたが、
>明治維新で功績の大きかった肥前佐賀藩は
>自主独立を主張し、政府もこれを無視できず、

この「珍説」の根拠とやらをぜひご教示下さい。
「廃藩置県当初」「肥前の国+壱岐・対馬=長崎県という構想」とは、
一体誰が唱えているのですか?

貴殿が怪しい書物を齧って脳内世界で
こねくりまわしたものなら返答不要です。

どんぐろころころ様
ご指摘頂きありがとうございました。本記事では、現在の壱岐・対馬の所属の在り方について私見を述べたもので、幕末から明治初期にかけての壱岐・対馬・佐賀・長崎の成り立ちについて、触れなくともよかったのですが、経緯を知りたくなって、ウィキペディアやその他府県の変遷をまとめたHP等を参考に中途半端に書いたがため、誤解を招いたようです。
明治2年の版籍奉還から廃藩置県後の数次に亘る府県統廃合の複雑な経緯については、それ自体が目的ではなかった為、かなり端折ったものです。ざっくり言って、明治4年(1871)11月の第一次府県統廃合で、肥前の国は伊万里県と長崎県に分れ、1872年伊万里県から分離して佐賀県が誕生。対馬は厳原県から一旦伊万里県になったあと、明治5年8月佐賀県から長崎県へ編入。壱岐の半分は長崎県、半分は伊万里県となり、郡再編後の1889年に長崎県へ。1876年4月第二次府県統合により伊万里県を併合した佐賀県は旧築後国の三潴(みずま)県に併合されるが、同年8月長崎県へ再編入。1883年5月郡区町村編制法により、旧佐賀県は長崎県から分立再置されたもの。この際政府に働きかけたのが、佐賀県出身の維新功労者達だったという話を何かで読んだのですが、出典については確かな記憶はありません。

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