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2015年6月11日 (木)

世界遺産「富岡製糸場」を見学して(2)

◆話は前後するが、富岡が工場建設地に選ばれた訳は「地域の養蚕が盛んな事、工場に適した広い土地、住民の同意と理解」は言うまでもないが、その他に「製糸に必要な十分な、蒸気エンジンの燃料である石炭の簡便な補給」という条件も満たしていたからであった。しかしそれ以外に重要な要件として後述するが、荒船風穴の存在があった。

◆操業開始時は女工の確保が最大の要件。当初は西欧人に生き血を取られるとのデマが広がり(ワインのこと)応募者が集まらなかった。しかし初代工場長が娘(14歳)を工女第一号として入場させてから次第に集まりだした。特に女工の待遇が注目されるが、西洋式雇用形態を取り入れ、1日の作業は平均7.5時間、週1日の休みと、夏休みと正月休みはそれぞれ10日ほどあった。給与が現在の金額換算で5万円ほどだが、寄宿舎・食事もついて、診療所もあった。さらに能力があがれば位も上がり、指導者になれる。旧来の江戸時代の雇用形態と比較すればまさに画期的だった。

Dscf1061_2 当時の女工の作業風景

◆現在工場内の施設の中で東繭倉庫西繭倉庫操糸場ブリュナ館検査人館女工館6つの建築物が重要文化財に指定されている。東繭倉庫の1階部分が博物館や資料館的役割を果たし、生きた蚕が繭を作っている現場を見ることができる。ブリュナ館は指導者ポール・ブリュナが家族と暮らしていた住居で建坪320坪の広大なものだった。明治8年にブリュナとの5年契約は満了、翌年2月に帰国した。ブリュナ館はその後、女工達の夜学校や寄宿舎として利用されたりした。

Dscf1056_2 
操糸場内 (ここで生糸が生産されていたが、器械は昭和になって日産の器械が導入された。柱は無く、明りは窓からの自然光のみだった。

Dscf1063_2
ブリュナ館の一部。木骨煉瓦造りで、高床式、回廊風ベランダをもつ洋館。外国人指導者には格別の待遇が与えれていたことが分かる。

◆官営の製糸場だった「富岡製糸場」はやがて民間に払い下げることになる。創業から21年経った1893年、三井財閥に払い下げ、1902年には絹の貿易で財をなした横浜の豪商原富太郎(号は三渓)に譲渡。さらに1938年には片倉製糸紡績に経営を委任し、1943年に片倉工業富岡製糸所と改称。爾来1987年の操業停止まで115年間、操業を続けた製糸場として歴史に名を残すこととなった。偉かったのは片倉工業の経営者で、よくぞ18年間も生産しない設備を相当な税と維持管理費を払い続け、良好な状態を保ったまま2005年に富岡市に寄贈したことだ。経営者は利潤追求が全てではないことを物語っている。(続く)


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