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2015年6月10日 (水)

世界遺産「富岡製糸場」を見学して(1)

◆「富岡製糸場と絹産業遺産群」が昨年6月25日、世界産業遺産に登録されてから、ほぼ1年。遅ればせながら、ようやく日帰りバスツアーで見学する機会を得た。小田原から群馬県富岡に行くには、圏央道のさがみ縦貫道路が今年3月8日全線開通したことによって、大変便利になった。従来のように東京を経由しなくて済むため、厚木ICから八王子JCT、関越道の鶴ヶ島JCTを経て、藤岡JCTから上信越自動車の富岡ICまで、ほぼ直線で北上する形となり、大幅に短縮された。

◆富岡製糸場に着いて、広い工場内の各施設をベテランガイドの案内で回ってみて、「なるほど世界遺産に登録されるだけの価値はあるな」と納得。まず何が凄いかと云えば、明治維新が成って、政治の形態もまだ定かでない時に、殖産興業の要に置いたのが生糸の輸出だった。そこまでは誰もが発想する処だが、明治3年(1870)2月、「官営製糸場設立」を決するやいなや、6月にフランス人ブリュナと仮契約。彼はその年のうちに工場の候補地を見て回り、10月には建設地を富岡に決した。工場設計・施工の技術者、器械による製糸技術の指導者など10人ほどのフランス人を雇い入れ、翌年3月に着工、約1年半かけて明治5年7月に工場が完成した。この明治の官僚たちの実効力とスピーディさにまず驚かされる。

Dscf1049_2富岡製糸場正面入り口

◆建設はまずレンガの製造から始まるが、日本には瓦を焼く職人がいたから、彼らを指導してレンガ作りから始まった。当初の頃のものは焼きあげ温度が低く、質も上質とは言えないが、そのレンガが140年余を経てまだ建物に残っている。明治5年10月に操業開始。東繭倉庫の入り口のアーチの中央に「明治五年」の文字が見てとれる。

Dscf1052_2ガイドの山口さんと富岡製糸場のシンボルである「明治五年」の文字が入った石碑

◆当時の工場の全景の錦絵(絹製)が残されているが、ほぼ現在の姿のままだ。そこには多くの人物が描かれているが、大半はまだ丁髷姿。そして驚くべきことにこの工場は当時世界最大規模の製糸工場だったということだ。明治政府は鉄鋼、造船、石炭などの重厚長大産業を目論むが、まだよちよち歩きで世界に打ってでるには程遠い。そこで日本のお家芸とも云える家内手工業のきめ細かさを活かした絹の大規模製造・輸出を国策にしたのは必然的であったといえよう。(続く)

Dscf1070_2 創業当時の工場の全体図

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コメント

 1857年、長崎では造船所(長崎溶鉄所)建設が始まりました。
オランダからハルデスという海軍機関士がやってきて、用地の選択、造成、地盤固めから煉瓦の焼き方まで指導しました。
そのころ焼かれたレンガが、グラバー邸の敷地内に残っています。
初期には富岡と同じく焼成温度が低く、今の煉瓦の半分の厚みにしか焼けなかったようです。ですから、平らに敷いたのでは強度的に問題があり、台所の床面には側面を上にして敷き詰めてあります。富岡製糸場の煉瓦の使い方は、現在と同じですか?

コメントありがとうございました。富岡製糸場に使用された煉瓦は現在でも殆どの建物の側面に使われているようです。但し初期の頃焼かれたもので、南面に使用されたものは風雨で劣化が激しく、色も褪せておりますが、まだそのまま残っております。焼いているうちに技術も向上したのか、後期にできたもので、陽が当たらない北面に使用されたものは、今でも鮮やかなレンガ色をして立派な壁面を形作っております。
長崎のものは幕末に製作されたものですから、さらに古い訳で、焼きあげる技術が大変だったのでしょうね。

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