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2014年10月13日 (月)

変身と化身(2)

2. 神仏などが姿を変えて、この世に現れるとする化身
◆戦が強い武将達は、例えば上杉謙信は「毘沙門天の化身」、織田信長は「天魔の化身」などと呼ばれた。元来、古くから戦勝や武運長久を祈願し、聞き届けてくれる戦の神、八幡神等を軍神と仰ぎ、武家達は尊崇した。軍神が乗り移って獅子奮迅の働きをするというような言い方をする。一方、日本の神道にはキリスト教、イスラム教のような一神教にはない極めて特異な現象がある。それは歴史上の偉人・権力者が神になるという現象だ。この場合化身という呼び方ではなく、人の霊魂が神へと昇華するという言い方が適切だろう。

菅原道真は怨霊を経て、学問の神様天満天神に、豊臣秀吉は「出世と開運を司る豊国大明神へ、戦国の世を制し江戸幕府の礎を築いた徳川家康は、東照大権現として祀られた。時代が下って、明治以降になると、将軍から一兵卒まで勇猛な戦士達に軍神の尊称を与えるようになった。東郷神社、乃木神社などと神様に祀り上げられ、戦意高揚のために人為的に利用されるようになる。本来、神道はキリスト教や仏教のように人を導くための経典を持っている訳でなく、神道が追い求めるものは穢れ無き心だ。澄んだ透明な水はいかようにも変化することができる。つまり利用する側の精神性の問題だ。怨念の塊でさえも長い年月を経れば浄化され、災いを退ける守神になれるという深い精神性こそ、神道本来の姿ではなかろうか

3. 仏教で謂う化身
◆不動明王が大日如来の化身であったり、死者を裁く閻魔大王が地蔵菩薩の化身であるなど、仏教には「化身」という考え方が多様に存在する。仏が衆生を救うために人の姿になったり、様々な形態で出現し、変化させた姿が化身だという。もともと仏教では輪廻の環から脱する唯一の方法が解脱であり、解脱するには悟りを開かなければならない。修行によって悟りを開いたものを如来と呼び、釈迦如来のみが実在の仏だが、毘盧遮那如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来等、後世の人によって様々な仏や菩薩が創出された。

◆阿弥陀如来は釈尊が過去の記憶をひも解いて、過去の如来の話に出てくる仏だとか、4000年後にこの世に現れ衆生を救う仏だとか、浄土真宗では阿弥陀仏の化身が親鸞聖人だとか、実にいろいろ言われている。つまり宗教は形而上の世界であって、形をもっていないもの、有形の世界の現象の奥に在る究極的なものであるため、理解することに困難が伴う。その困難を克服するために、形而下である形をそなえたもの即ち時間・空間の中に形をとって現れるものに置き換えて分かりやすく説明するために化身という考えが生まれたことになる。何々は何とかの化身であるという言い方は、人々に分かり易く説明するための方便ではなかっただろうか。(続く)

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