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2014年10月14日 (火)

変身と化身(最終回)

4. 歌舞伎などに登場する化身ごと
◆芝居に登場する妖怪変化や、それに扮するときの隈取りにも現れる化身。神仏がこの世に現れて、奇跡や神通力を示す演技・演出に化身ごとが登場する。「娘道成寺」では焼失した鐘の奉納供養のため、若い白拍子が舞いを舞う。所化たちは白拍子が実は清姫の化身だったことに気づくが、時遅く、清姫がとうとう鐘の中に飛び込むと、鐘の上に大蛇が現れる。「葛の葉」(くずのは)という歌舞伎の演目では「葛の葉」という女性の正体が、実は伝説上の信太の森の白狐だったというように、歌舞伎には「実は何々だった」という化身ものが多い。

◆江戸歌舞伎の17世紀後半、曾我兄弟を題材にした「曾我もの」が続々生まれた。宝永~享保年間には正月狂言として、新作曾我ものを上演する慣わしとなった。有名な「助六由縁江戸桜」では、助六は実は曾我五郎だったとか、「外郎売り」で売人に化け、敵工藤祐経に近づく主人公が実は曾我五郎だったというように化身ものが多い。現代人の我々から見れば荒唐無稽そのものだが、本稿の冒頭で触れたように「人々の変身願望」が根底にあるのではなかろうか。

5. 抽象的で無形の観念などが、形をとって現れたもの
「美の化身~」、「文化の美しい化身~」、「叡智と精神美と善良の化身」など抽象的で観念的なものを、具現化した形で表すもの。化身とは科学的、客観的なものではなく、多分に主観的なもので、想像の域を超えたと思われるようなものを「何々の化身」と総称するようになったものと思われる。


6. 終りに
◆実はこの稿を書くきっかけになったのは、9月14日に放映されたNHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるか」を見た時だった。当然ながら自分は「死」=「無」だと思っていた。「名前や存在したという事実」は残るだろうが、生命そのものは跡形も無くなくなるものと思っていた。ところがこの番組を見て、「必ずしもそうとばかりも言えないようだ」と思うようになった。この番組で立花隆氏が言う『私』という存在は死んだらどうなるのか、死ぬ時『私』は何を見るのだろうか--という根本的な問いかけとそれに迫る番組構成に刮目させられた。

◆ジャーナリストで評論家の立花隆さんが自己のガン体験を通して20年間、臨死体験の最新現場を見つめ、”死”について思索しようとしている。死の間際に一定の人が見る臨死体験が世界で注目され始めた1980年代以来、その解釈としては、脳内現象として科学で説明できるとする「脳内現象説」と、肉体が死んでも『(もしくは自我を感じる「意識」』が存在し続けるという「魂存在説」・・これら二つの説が互いに相容れない、激しい議論が続いてきたという。

◆そうした中、立花氏は新たな臨死体験の掘り起こしをすると同時に、そもそも「意識)」と呼ばれているものの正体とは何なのか、最新の脳科学・心理学・哲学にいたるまで、徹底した取材に基づいて正面から挑んでいた。科学的に見て、死後の世界があると言える余地はどれくらいあるのか。死後の世界がないとしたら、『私(自分)』という意識(魂)はどう生まれ、どう消えていくのか。私達が当り前と思っている『私』という存在はいったい何なのか。有史以来、人類が答えを追い求め続けてきた生と死にまつわる壮大な謎・・その謎に挑む立花さんの思索の旅を通して、大震災や紛争で多くの命が失われる今、『命』や『私』の存在する意味を考えようという番組だった。形而上的な問題を科学的に解明しようという取り組みに驚きを隠し得なかった。 (本稿終わり)

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