« 中東地域の紛争はどうすれば収まるか。 | トップページ | 小田原文学館の話し »

2014年9月18日 (木)

最後の文士・尾崎一雄のこと

昨日近くを歩いていたら、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。考えてみたら今年始めてのような気がする。心なしか元気がない。暦では9月17日。モノの本によれば9月下旬頃まで聞かれることがあるらしいが、秋の訪れが早い今年はどうだろうか。

虫の声といえば、先日の読売新聞日曜版の「明言巡礼」に尾崎一雄の「虫のいろいろ」(1948年)の中の次の一節が取上げられていた。
   「彼は唯(ただ)、凝(じ)っと、機会の来るのをまった


尾崎一雄が小田原出身で唯一の文化勲章受章者であることは、小田原に越してきてから始めて知った。小田原シルバー大学の歴史観光コースの実習で「曽我の里」を巡ったことがある。3万5千本程の曽我梅林、曽我兄弟の墓が祀られている城前寺、その外いくつかの由緒ある寺院等を訪れたが、その中に曽我神社があった。神社の手前50mほどのところに尾崎一雄の自宅があったが、現在は解体され、近くに尾崎一雄の文学碑が建っている。その碑に刻まれた一節が強く印象に残った。それは冒頭の「虫のいろいろ」の一節だが、新聞とは異なる部分で、この地から見える富士を描写したものだった。

「富士は天候と時刻とによって 身じまひをいろいろにする 
 晴れた昼中のその姿は平凡だ 真夜中 冴え渡る月光の下に 
 鈍く音なく白く光る富士 未だ星の光が残る空に 頂き近くはバラ色
 胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士」


2009_12210015

曽我梅林方向から見た富士山と手前は矢倉岳。季節は冬。曽我神社から見ると、標高がやや高いため、富士がより高く、矢倉岳がより低く見える。

尾崎一雄は祖父の代まで宗我神社の神主を勤めた家で、1899年に三重県に生まれたが、9歳の時に父の実家であるこの地に移り住み、現在の小田原高校を卒業後、早稲田大学に進んだ。志賀直哉に傾注し1937年に「暢気眼鏡」で芥川賞を受賞。1944年、44歳の時胃潰瘍で喀血し、療養のためこの地に戻って、病床で原稿を書き続けた。この頃の作品が「虫のいろいろ」で、今まで見向きもしなかった虫や草など、自然に目を向けた作品を多く書いた。毎日伏して過ごしながら、持ち前の観察眼で身の回りの虫の様子を「私」との関わりにおいて、いきいきと描いた。

冒頭の一節の解説を読売新聞の記事から引用する。《空き瓶の中に長く幽閉されていたであろう蜘蛛の胸中を想像し、「あらゆる努力が、彼に脱走の不可能を知らしめた。やがて彼は、じたばたするのを止めた。彼は唯、凝っと、機会の来るのを待った」と書き、その上で「蜘蛛のような冷静な、不屈なやり方はできない」と自身を分析している。
しかし、尾崎は「冷静」かつ「不屈」だった。》 実際に尾崎は時代に迎合せず、飄々と己の生き方や表現を貫き、昭和58年(1983)、84歳で生涯を閉じた。「最後の文士」と呼ばれるにふさわしい人物だと思えるし、古希を過ぎた今、その生き方に共感を覚えるところである。


2011_0213022

毎年2月に開催される「曽我の里 梅まつり」の中の 「流鏑馬」の光景






« 中東地域の紛争はどうすれば収まるか。 | トップページ | 小田原文学館の話し »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1299847/57417100

この記事へのトラックバック一覧です: 最後の文士・尾崎一雄のこと:

« 中東地域の紛争はどうすれば収まるか。 | トップページ | 小田原文学館の話し »

2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ