« 第二次安倍改造内閣発足 | トップページ | 小田原と「うゐろう売り」の話(1) »

2014年9月 4日 (木)

不可解な朝日新聞の態度

◆いわゆる従軍慰安婦問題の誤報に対して32年振りに取り消しを表明した朝日新聞。その後責任を認める報道をしない朝日新聞に対し批判が強まっている。まず、「週刊文春」と「週刊新潮」の広告掲載を拒否したことが問題視された。記事の大半が朝日批判記事の見出しで埋まっており、事前検閲した朝日新聞側が掲載を拒否したことが判明。政府の検閲には言論統制だとか言って猛反発するのに、こと自分の身に降りかかってくることには言論の自由を認めないという身勝手さ!

◆さらに池上彰氏が朝日に月1回連載しているコラム「新聞ななめ読み」欄で、この問題を取上げたところ、掲載できないと連絡された。これに対し池上氏が今後コラムの連載を中止すると表明したことが一般メディアで報道されると一転、本日9/4朝刊で、当初のコラムを掲載するとともに、池上氏と読者にお詫びするコメントを付けた。こうした朝日新聞の態度に対して社内の若手からは不満が広がっていると報じられている。このような朝日新聞の体質はどこからくるのか。弊ブログの8/9日の記事でも書いたが、もう少し深読みしよう。

◆話はガラッと変わって自分が学生の頃に遡る。昭和35年、安保改定反対「33万人国会デモ騒動」が起き、世の中は騒然としていた。それから4年ほど経って、学生になった頃には何事も無かったかのようにキャンパスは静かだった。当時朝日新聞発行の週刊誌「朝日ジャーナル」(1959年創刊)を片手に持って歩くのが一種のステイタスで、格好をつけるためのアクセサリーのようなもの、硬派のシンボルだった。対して昭和39年に創刊された「平凡パンチ」、当時流行のアイビールックのファッション、車などを話題とした元祖軟派のような週刊誌で、我がキャンパスはこちらの方が多かったようだ。

◆自分はどちらにも属さずいわばノンポリ。ただ当時ベトナム反戦運動が世界的に拡がり、反戦フォークソングが流行していた。昭和41年には早稲田の授業料値上げ阻止ストを契機に全学共闘会議が本部を占拠、その動きは多くの大学に伝播し、43年6月から44年1月まで東大安田講堂が占拠され、激しい攻防戦が警察との間で繰り拡げられた。45年には全学連過激派の赤軍派が「よど号」ハイジャック事件を起こし、47年にはついに連合赤軍事件が起こって、学生運動は完全に民意から遊離し、急激に下火となっていった。

◆この間、世の中は40年頃から「いざなぎ景気」が始まり、所謂「3C時代」が訪れ、大阪万博、沖縄返還、日中国交樹立など、時代の波が大きく動いていった。経済が飛躍的に拡大している時期に、いくら「反体制」などと叫んでも、民衆は学生運動に理解を示すより、逆に、より過激化する運動に嫌悪感を示すようになった。孤立化する運動は行き場を失ったが、この時代にいわゆる左翼的色彩に多少とも染まった学生達は時を経て、会社経営者側に回っていく。特に朝日新聞は戦後、反権力・反体制の旗印が所謂インテリ層に受け入れられ、彼らの活躍の場が広がっていった。

◆社会主義体制は世界的に見て、1990年に東西ドイツが統一され、翌1991年に旧ソ連をはじめ東欧諸国が次々に崩壊していった。それと機を同一にするかのように1992年に「朝日ジャーナル」が廃刊されていったのは興味深い。また日本社会党は1993年の衆院選、1995年の参院選で大敗北を喫し、今は社民党としてかすか息づいているが、当時の残存部隊は他党と合流し、民主党となった。しかし持って生まれたイデオロギーというDNAのためか、ゴタゴタが絶えない。そのイデオロギーとは朝日新聞を含めて左翼的思想が持つ誤謬性が体質に沁み込んでいるからだろう。

« 第二次安倍改造内閣発足 | トップページ | 小田原と「うゐろう売り」の話(1) »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1299847/57276300

この記事へのトラックバック一覧です: 不可解な朝日新聞の態度:

« 第二次安倍改造内閣発足 | トップページ | 小田原と「うゐろう売り」の話(1) »

2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ