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2014年6月 4日 (水)

天安門事件とは何だったのか。

◆6月4日は天安門事件から25年。多くのデモ隊を鎮圧するため中国人民解放軍の戦車が駆り出され、その前で一人の若者が立ちはだかり、走行を阻止しようとする映像が印象深い。1989年の所謂天安門事件は当時の学生たちが、民主化要求で立ち上がり、それを中国軍が武力弾圧した事件だった。当時改革開放を指導した鄧小平が黒幕だったが、事件の詳細はいまだ明らかにされていない。むしろ習近平政権は事件そのものを風化させようと、触れられること自体を恐れ、隠蔽に躍起になっている。

◆事件の背景には、1986年当時の胡耀邦総書記が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、国民からは「開放的指導者」として指示を集めた。ところがこれに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「この言論自由化の推進は中国共産党独裁体制を揺るがすものであり、ひいては自分達の地位や利権を損なうもの」として反発した。この路線の違いが権力闘争となり、多くの若者が犠牲になった事件だった。

◆犠牲になった死者の数がいまだ明確になっていない。中国共産党は「死者319人」と発表しているが、誰も信じていないだろう。報道規制により客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶとの諸説がある。1990年の米外交公電では「無差別発砲の命令を受けて、1000人以上の学生を死亡させた」とあり、ソ連の公文書では「3000人の抗議者が殺された」と報告されている。またニューヨーク・タイムズは「正確な死亡者数は不明。数千の人間が証拠を残すことなく殺されたかもしれない。しかし、現在分かっている分は、400人から800人の民間人と一緒に、およそ50人の兵士と警官も殺されたことは確かやようだ」という。

◆当時、4月頃から天安門広場に集まり出した学生、一般人は最大50万人いたと見られているが、6月に入り地方から続々と人民解放軍が天安門広場に集まり出した。6月3日夜から4日未明にかけて無差別に発砲され、完全にデモ隊が放逐されたあとに人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報があるように、事件後に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。また約300名の活動家がパリに亡命したとも云われている。

◆最近習近平政権は言論統制を強めている。外国メディアに対しても締め付けが厳しくなっているという。独裁体制を強化する動きだろうが、古今東西の例を見るまでもなく独裁体制は長続きしないことは歴史が証明している。旧ソ連は1922年のレーニン・スターリンによる共産党独裁体制が成立してから、1991年のゴルバチョフによるソ連崩壊まで69年だった。ナチスドイツのヒトラー独裁は敗戦・自殺までわずか12年。さて中国共産党は成立から93年、中華人民共和国を建国して、共産党独裁政権になってから65年。いびつな経済成長を遂げたものの、貧富の格差は拡がり、不正汚職は蔓延、環境問題を抱え、外交面では軍備の増強による強権姿勢が、周辺諸国から反発を受けている。そしてついに崩壊の兆しが表れ始めた。「鬼城」と呼ばれるゴーストタウンだ。その数や規模は半端ではない。バブル崩壊前夜のようだ。中国はあと10年持つだろうか。

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