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2014年2月21日 (金)

富士山砦を探索する

無風なれど底冷えする19日、いつものシルバー仲間と小田原の富士山砦を歩いてきた。これは「フジサントリデ」と読んではいけない。「フジヤマトリデ」と読むのが正解だそうだ。理由は後述する。小田原駅から箱根登山鉄道に乗って一駅目、「箱根板橋駅」というレトロな駅がある。
Dscf0319 箱根板橋駅の改札口

駅の前を国道1号線が走っている。ここに立って箱根方面を望むと、正面に小高い山が見える。標高は110m、山と呼ぶには些か憚れるが、中腹までは高級な住宅地が伸びている。いつも見慣れた山だが、登ったことは一度もなかった。駅から歩いて1キロほどの距離だが、上りがあるので20分ほどかかる。住宅地を過ぎると灌木が生い茂り、地面には落ち葉が重なって、いちおう山の様相を呈している。

Dscf0323 
山頂の砦跡、奥に浅間神社の小さい社がある。

ここが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、局地戦が行われた砦だ。当初は北条方の出城であったが、秀吉が石垣山一夜城(標高257m)を本陣として築くと、直線で3km先の小田原城との中間にあるこの砦が邪魔となった。そこで細川藤孝、忠興親子に命じて、当時「早川口の松山」と謂われたこの砦を攻略させた。松が多い山だったらしい。数日かけて激戦が繰り広げられ、ここを落した細川親子が北条氏に変わって陣を構えたと謂われている。
この砦は小田原城から見て真西に当たるが、秀吉軍は小田原城の大外郭を取り囲むように多くの武将を布陣させた。時計回りに細川忠興、織田信包、宇喜多秀家、羽柴秀次、蒲生氏郷らを配し、北の位置に織田信雄がいた。黒田孝高(官兵衛)も北西辺りに布陣していてらしいが、大河ドラマ「軍師官兵衛」では籠城する北条方に単身乗りこみ、降伏を説得する場面が初回放送で見られた。これについては別の機会で言及したい。

Dscf0329 

小田原城三の丸外郭新堀土塁よりから富士山砦を望む。その後ろが石垣山。

さて、富士山砦の名前の由来だが、江戸時代の宝永4年(1707)、富士山が大爆発を起こした。その時甲斐の国から被災者の一部が隣国相模へ避難し、この近辺に住みついたという。そしてこの円錐形の小さな山が富士山に似ていることから「富士山(ふじやま)」と呼び、浅間神社の対象となって、今でも頂上に浅間神社の小さな社が残っている。ただ、この砦跡にはいっさい説明文や、標識は立っていない。

Dscf0326 

はっきり見えないが、丹沢連邦がまるで北アルプスか中央アルプスのようだった。










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コメント

小田原史談会に入会3年目の荒河(南足柄市在住)と言います。最近、友人が板橋の冨士山に転居したので「冨士山」の来歴を知りたいと言っていて、たまたま貴兄のブログに出会いました。読むとどうやら、史談会の大先輩の由、ご教示いただければ有り難いと思います。
ブログ中に、宝永の大噴火の後、甲斐国から逃れてきた人達がここに住み、浅間神社を建てて、ここを「冨士山」と言ったとありますが、この来歴はかなり納得感がありますが、この話の出典を教えて頂ければとても有り難いのですが。
よろしくお願いします。

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