話題の書「呆韓論」について(4)
古代の日韓交流と文化の対比
◆「仏は午後に(552)百済から」と中学生の頃だったか、覚えたものだった。その後538年に百済の聖明王が仏像・経典を伝えたと改められた。そして577年に造仏・造寺の技術者が渡来して、飛鳥文化の花が開いたと教科書で教わった。当時、中国・韓国は先進国で、師匠であり兄貴的立場だったと思い続けていた。しかし必ずしもそうとばかり言えない側面があったことを本書で知った。
即ち、「隋」(589~618)の正史「隋書」に「新羅・百済は倭国を大国とする。優れた品々が多いからで、倭国を敬仰して常に使いを往来させている」と刮目すべき一節が記されていたのだ。出典は隋の跡を継いだ「唐」の最高インテリが書いたものだという。つまり6世紀後半頃には朝鮮半島とは対等以上の付き合いをしていたことになる。
◆そういえば、最近、4世紀中葉に日本で発生したと見られる「前方後円墳」が韓国南部で11基も確認され話題となった。5世紀後半から6世紀半ばにかけて集中的に造営されており、日本固有の円筒埴輪も出土している。これは何を物語るか?百済に渡った(または派遣された)有力和人が造成したものなどの説があるが、いずれにしろ当時の日本が韓国と同等以上の交流をしていたことを、先の「隋書」の記述は裏付けているのではなかろうか。
◆日本人の技術の優秀さは世界が認めるところであるが、そのルーツはこの時代からすでに見られる。例えば仏像を例にあげよう。最古の仏像と謂われる飛鳥寺の大仏や法隆寺の釈迦三尊像は渡来系の仏師鞍作鳥(止利仏師とも)の作と言われているが、作風は北魏風といわれる。聖徳太子を模したといわれる法隆寺の夢殿救世観音は作者不詳。また法隆寺の百済観音像は作風から見て、百済の仏像とはいえず(朝鮮半島では石像が多い)、用材は楠木を使用していることから日本で作られた像であることは間違いない。いずれにしろ、この頃までは渡来人の影響があったことは確かだが、彼らの技術を吸収した日本の仏師たちはさらに技術を磨き、日本独自の高度で繊細、かつ大胆・豪放な表現を創り出していった。その技術は鎌倉時代の運慶・快慶へと繋がり、仏教美術へ昇華していった。今に残る中国・韓国・東南アジアの仏像がよく云えば素朴、悪く云えば稚拙であることは一目瞭然だ。
◆さらに建築物にも同様な事が言える。当初は渡来人達が設計や技術を指導したであろうが、彼らは主に石や煉瓦の文化。日本には宮大工という匠の技がすでにあった。百済から577年に造寺工が渡来してわずか11年後、飛鳥寺が完成(588年)。607年には国産最古の木造寺院法隆寺を完成させた。その後続々と寺院を建立し、750年には最大の木造建築物東大寺を完成させた。
◆当時韓国はどうだったか?現在世界遺産に登録されている「石窟庵と仏国寺」は新羅の景徳王の751年に着工、774年に完成した。その名の通り石窟の寺院で、表は木造となっている。またそこからほど近い仏国寺は木造の大伽藍だったとされるが、石窟庵と併せて新羅美術の最高峰・集大成という呼び声もある。しかしその完成時期は法隆寺・興福寺・東大寺より遅く、規模内容ともに日本の仏教技術に較べ見劣りすることは確かだ。
さらに韓国の仏教は、李氏朝鮮時代に儒教優先のため仏教が弾圧された。この寺院も廃寺となったが、日本の朝鮮統治時代に日本によって発見され、復興が始まった。1973年の改修工事で、再建されたという。ついでながら2010年に日本の仏師の福井照明氏が製作した四天王像などの12体の仏像が寄贈され、仏国寺・聖宝博物館に常設展示されているという。これに対して、韓国は対馬の寺院から仏像を盗み出し、返さないなどと騒いでいある。このギャップ、もっと世界に向けてPRしてよいのではないか。(続く)
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