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2013年10月31日 (木)

川上哲治氏逝く

◆巨人vs楽天が日本シリーズで火花を散らして戦っている真っただ中、奇しくも元巨人軍で「打撃の神様」と言われ、その後監督として不滅の9連覇を成し遂げた川上哲治氏の訃報が伝わった。たまたま、今年5月6日の弊ブログで「長嶋・松井に国民栄誉賞」のニュースに関連して、川上哲治氏のことに大きなスペースを割いた。今思うと何か予感めいたものを感じたのだろうか。多くの部分が重複するが、再度その部分を引用したい。

◆昭和33年4月、六大学の花形スター長嶋茂雄が、巨人軍デビュー。当時の4番バッター川上哲治は8月からその座を長嶋に譲り、シーズン終了後現役を引退する。巨人軍第1期、第2期黄金時代に主軸打者として活躍した。小学校5、6年の頃野球に親しみを持ち、当時ヒーローだった川上選手のファンになった。ピークを少し過ぎた晩年の5年間、九州の片隅で、新聞・ラジオ・雑誌等でその姿を目に焼き付けた。

◆「赤バット」、「弾丸ライナー」、往年になって「テキサスの哲」など様々な形容詞がついたが、剣聖「宮本武蔵」を彷彿させるそのイメージは「肥後モッコス」からくるのだろうか、近寄りがたい雰囲気を備えていた。1938年から1958年まで、途中3年ほどの兵役を除き、不動の4番としてチームを引っ張った。2000本安打最短到達試合数1648試合は、日米で活躍のイチローを除き、まだその記録は破られていない。(因みに3位:長嶋1708試合、4位張本1733試合)当時は試合数が今ほど多くない時代、凄い記録と言えるだろう。

◆長嶋が入団した時、英才教育を施すため川上は自分の家の近くに下宿させ、後楽園球場の往き帰りに同乗させたと云う。天性明るく、自由な性格の長嶋と厳格な川上とは必ずしも波長が合っていなかったと聞くが、師匠として尊敬する想いに変わりはないようだ。昭和36年監督になった川上の元で長嶋は王と共に日本シリーズ9連覇の原動力となった。

◆因みにそれに続く記録と言えば3連覇が最高で、巨人、旧西鉄、旧阪急、西武(2回)で、1992年以降、シリーズで連覇した球団は無い。今は昔のように絶対的強さを誇る球団が無くなった代わりに、どこにもチャンスがあり、面白くなったといえるのだろう。川上監督は6連覇の頃から、勝ってどうしてこんなに悪く云われるのかと悩み、辞表も考えたと云う。

◆川上野球は「管理野球で面白くない」、「哲のカーテン」、「非情な采配」等陰口を叩かれたが、実にいろいろな手法を取り入れた近代野球の創始者だったと云える。大リーグの「ドジャースの戦法」を学び実践する。ベロビーチでの海外キャンプ、作戦参謀牧野ヘッドコーチの起用、1、2番の機動力野球(柴田、高田、土井等)、火消し役の登用(8時半の男の異名をとった宮田)等。監督として14年間で日本シリーズ優勝11回、背番号16は永久欠番、65年に野球殿堂入りとなった。多摩川練習球場のベンチで火鉢を股に挟み、貧乏ゆすりをしていた姿が印象に残る。享年93歳。野球界の巨星墜つ、ご冥福を祈る。

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