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2012年10月18日 (木)

小田原ゆかりの政財界・軍人達の話(終りに)

◆何故、小田原に多くの政財界・軍人・文人達が別荘や別邸を構えることになったのでしょうか。それには明治20年頃から海水浴や海岸保養のブームが起こり、リゾート旅館や別荘が立ち並ぶようになったことが切っ掛けとなりました。まず伊藤博文が明治22年に「滄浪閣」を建て、次いで皇族の御用邸が明治34年に設置されたこと。また最大の要因は財界の雄益田孝(鈍翁)が明治38年に、翌39年には軍人から政界の大御所となった山縣有朋が、それぞれ広大な別荘を建てたことが最大の要因だったと思われます。

◆益田に導かれて茶の道に入った松永安左エ門などの一級の茶人が小田原に住むようになったのは温暖、風光明美な土地柄等の他に、遠く戦国の世に秀吉が築いた石垣山一夜城に「千利休」が滞在し、茶の湯を巡る様々な逸話もあったことも一因だったと云われています。また多くの政財界人達が集まりだしたのも「類は友を呼ぶ」で、実力者・著名人が集まるところに、人は集まるということでしょうか。また山縣夫人は益田夫人の実の妹で、二人は義兄弟の関係(山縣が10歳年長)にあり、庭伝いに行き来できるようになっていました。

◆こうした政財界軍人達の広大な別荘に比べて、小田原には北原白秋、北村透谷、谷崎潤一郎等多くの文人達も棲んでいた時代もありましたが、それらは総じて粗末で、当然と云えば当然な時代でした。白秋はお寺の裏の狭い敷地に茅葺の草庵のようなもの建てて、自ら「みみずく庵」と命名し、8年ほど棲んで多くの詩を残しました。

◆こうしてみると江戸時代から急激に明治の世になり、西洋文明が大量に入ってくると、才のあるものは大いに己の頭角を現し、政界・財界に取り入って、際どいことをしながら大儲けが出来た時代でもあったのでしょう。西郷、大久保、坂本、木戸、高杉らが存命であれば、中流で終わったであろう連中が、薩長のコネを利かして私腹を肥やし、大手を振って歩いている状況をどのように見たでしょうか。財界人が富を蓄えるのは分かりますが、政界、官界人が私腹を肥やしている現状は、ちょうど今の開発途上国の原型をなしていたといえるでしょう。しかし、失敗してもやり直しがきく、ある意味自由で、やりたい放題のことができた時代だったのかもしれません。

◆小田原の明治・大正の別荘ブームも、明治35年(1902)の大海嘯(大型台風と高潮が重なり津波のような被害をもたらす現象)と、大正12年の(1923)の関東大震災で大きな被害を蒙り、さらに昭和の戦禍が決定的にブームを消し去りました。今は静かな一地方中都市ですが、古くからの街だけに、駅前周辺の商店街はお城の景観を活かして、それなりに整備されているものの、大規模再開発の余地は少なく、ご多分に洩れずシャッター通りになった部分もかなりあります。大型ショッピングセンター、アミューズメントセンターなど集客力のある大型施設は郊外にできて、我が家に近くなったのは便利になりましたが・・。
長らくお付き合いいただきありがとうございました。(本稿終わり)

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