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2012年10月17日 (水)

小田原ゆかりの政財界・軍人達の別荘の話(6)

【その他特筆すべき人物やエピソード】
瓜生外吉・繁子夫妻・・・瓜生外吉は海軍軍人。日露戦争時、連合艦隊の第二艦隊、第四戦隊の司令官・中将として仁川沖海戦で勝利した。アメリカに6年間留学しアナポリス海軍兵学校を卒業。妻の繁子益田孝の実の妹で、明治4年第一回女子海外留学生として、岩倉欧米使節団に同行する形で、津田梅子、山川捨松ら5人でともに渡米する。留学中知りあった瓜生と繁子は帰国後結婚して、義兄益田孝の勧めで、大正2年小田原に別荘を構えた。坂の上にあった別荘に因んで、この坂は今も瓜生坂と呼ばれている。

郡司成忠・・・幕臣幸田家の次男から郡司家へ養子となり、明治21年に海軍大学校に入学。日清戦争に出征した。かねてより千島拓殖計画を抱いていた郡司は種々の困難を乗り越えて、カムチャッカ半島の手前、千島列島北東端の島、占守島(しゅむしゅとう)に辿りつく。明治8年(1875)樺太・千島交換条件で、占守島までは日本領とされていたが、厳しい自然のため、日本人の定住はなされていなかった。二次に亘ってこの島を訪れ、一度はカムチャッカ半島まで侵攻するが失敗する。明治36年頃には占守島の定住者はピーク時170人ほどになるが、その後下降し、次第に減っていく。役に立ったのは太平洋戦争の時の軍事基地になったときであろう。郡司は軍人であると同時に探検家でもあり、二度に渡る千島列島の探検はストーリー性に富んでおり、南極探検の白瀬中尉も絡んでくるので、ドラマか映画化すれば注目されることは間違いなかろう。大正13年小田原で死去。享年63歳。因みに小説家の幸田露伴は実の弟である。

◆その他にも最初の文部大臣森有礼の別荘、山縣有朋の側近から政界入りして、大臣や副議長等を務め最後は短命内閣だった清浦奎吾の皆春荘、戦後その一角を借りて終の棲家にしたのが長谷川如是閑だった。日経新聞や三越の社長を努め晩年、小田原の三茶人の一人と云われた野崎広太幻庵)の自怡荘、京急電鉄の創業者望月軍四郎静山荘、土佐の脱藩浪士から、龍馬の暗殺現場に駆け付け、明治政府では要職を重ね、最後は伯爵となって洋風別荘を建てた田中光顕の別邸(現在は小田原文学館として利用されている)等々枚挙にいとまがない。(続く)

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