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2012年10月16日 (火)

小田原ゆかりの政財界・軍人達の別荘の話(5)

【8】明治天皇の王女ー常宮昌子・周宮房子姉妹の御用邸
◆明治天皇と皇后一条美子のと間には子は無く、側室5人との間に15名の子女ができた。柳原愛子との間にできた皇太子が後の大正天皇で、5番目の側室、園祥子との間にできた4名の内親王を除き、10名が死産もしくは夭逝した。実質長女となった常宮昌子内親王(明治21年生)とすぐ下の妹周宮(かねのみや)房子内親王(明治23年生)姉妹は大変仲が良く、明治26年に伊藤博文の別邸「滄浪閣」に逗留したあとも、度々小田原を訪問し、地元民との交流を深くしていた。

◆明治34年(1901)、小田原城「二の丸跡」に御用邸が完成してからは、毎年のように避寒逗留されることが多かった。因みに明治の頃全国に11か所の御用邸があったが、小田原もそのひとつで、昭和5年に廃止となっている。 常宮昌子内親王竹田宮恒久王妃となり、昭和15年に逝去される。また周宮房子内親王北白川宮成久王妃となったが、昭和22年10月皇室典範により皇籍を離脱し、北白川房子となる。昭和49年没、享年84歳だった。現在皇室女性王妃の在り方が論議されているが、北白川房子さんの生き方は大いに参考になるだろう。しかし、この時代までは極端に云えば男の子さえ生めば相手はだれでもよかった。今の世の中ではとても容認できるものではないが、皇室の存続問題も含めて、幅広く国民の意見が求められている。

【9】日露戦争で活躍ー閑院宮載仁親王別邸
◆閑院宮(かんいんのみや)を語る前に「世襲親王家四親王家)」に触れなければならない。四親王家とは伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の四家で、古くは北朝時代、次いで室町時代末期、江戸時代初期、中期の天皇を祖とするもので、世襲親王家は当今の天皇に直系の男子が不在の際に、四家の中から養子を出して継承させるもので、過去に三度の例があるそうだ。現代の天皇の家計は伏見宮家と云われている。また四親王家のいずれかに男子が無ければ、他の四親王家から養子を迎えて継続してきたが、明治維新後、昭和22年までに世襲親王家の制度は廃止された。

◆さて、閑院宮載仁ことひと)親王のことであるが、明治16年陸軍幼年学校を卒業すると18歳でフランスに留学。陸軍士官学校、騎兵学校、陸軍大学校等を卒業し、明治24年に帰国。一方「日本騎兵の父」と云われた秋山好古は閑院宮より6歳年長だが、地方士族の家柄ということもあり、明治12年に士官学校を卒業し、閑院宮に遅れること4年、明治20年28歳の時にフランスに留学し、騎兵戦術の習得に努め、同じく明治24年に帰国する。

◆どちらも日清戦争で戦功を積み、明治37年(1904)の日露戦争では、秋山は騎兵第一旅団長として最左翼を、閑院宮は最右翼の騎兵第二旅団長として指揮し、大いなる戦果を挙げた。閑院宮は晩年、元帥陸軍大将大勲位功一級を授かるが、多分にお飾り的であった。明治41年に小田原に別邸を構えたが、大正12年関東大震災で倒壊、下敷きとなるが、無事であった。昭和20年5月、この別邸で亡くなった。享年81歳。現在この地は小田原女子短期大学になっている。(続く)

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