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2012年10月11日 (木)

小田原ゆかりの政財界・軍人達の別荘の話(3)

【4】三井財閥の大番頭--益田孝の「掃雲台」
◆益田孝は嘉永元年(1848)新潟県佐渡市に生まれた。草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた実業家である。文久3年(1863)に欧州を訪れ、帰国後幕府の陸軍に入って、明治維新後は貿易商社を創業、井上馨の薦めで大蔵省等に勤務した。明治9年(1876)日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊し、また世界初の総合商社三井物産の設立に関わり、同社の総括(事実上の社長)に就任する。明治後期には日本の貿易総額の2割ほどを占める大商社に育て上げた。

◆益田孝の三井物産の海外支店網は貴重な情報源となり、ロシア艦隊が上海に寄港できないように工作、対馬沖を通過するように工作したと云われる。明治39年に小田原に別邸「掃雲台」を構え、大正2年に全てを辞任して、小田原に移住する。茶人として「鈍翁」(どんのう)と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。邸内には各地から移築した約10か所の茶席があった。「掃雲台」では2万5千坪の敷地に、茶室、庭園、農場等が散在していた。

◆彼は地元産業育成にも尽力し、毛織物工場、みかん缶詰工場も作って輸出に貢献した。さらに早川の石垣山に約18万坪の農場を開拓した。(現在は地元個人の蜜柑畑等になっている) 男爵、昭和13年死去。享年90歳。同じ越後出身の大倉が「元祖成金・プレイボーイ」なら、益田は真の実業家と云えるのではないだろうか。

【5】電力王--松永安左エ門の「老欅荘」
◆松永安左エ門は明治8年、長崎県壱岐で酒造、呉服業を営む生家の長男に生まれる。慶応義塾卒業後、父の死によって故郷に帰り家業を引き継いで、3代目を襲名する。紆余曲折を経て、明治34年に神戸で福沢桃介と事業を開始。以後明治42年、32歳で九州の電力業界に参入して以来、全国的に電力業界の発展に尽くして、「電力王」、「戦力の鬼」と云われるまでになった。

◆当時は同じ地域に複数の電力会社が存在し、激しい競争をする事があったが、この頃「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張したこともあった。「戦争に訴えなくても日本が生きていける」と、国家による管理に反対した松永は、大の官僚嫌いで軍閥に睨まれた。戦争の激化に伴い電気事業を国家管理化に置く政策が取られ、「一発電、九配電体制」となった。これに伴い松永は引退し、所沢の柳瀬荘で茶道三味の日を過ごした。

◆松永は妻の病気療養のため昭和21年温暖な小田原に「老欅荘」(ろうきょそう)を建て、移り住んだ。彼は「耳庵」と号する茶人でもあり、益田鈍翁、横浜の三渓園で有名な原三渓と並んで近代三茶人と称される。また美術品コレクターでもあり、昭和34年、自宅敷地内に(財)松永記念館を設立、収集した古美術品を一般に公開した。しかしその後、大部分は福岡市美術館に、その他一部が京都、愛知、東京国立博物館等に寄贈されている。小田原にある松永記念館にはいくつかの茶室、老欅荘建物、庭園等が残っているだけで広く開放されている。子孫に美田を残さずという思想だったのだろう。昭和46年6月、95歳で没する。気骨のある明治の実業家の典型で、死後を含めて全ての栄典を辞退すると公言していた。
Dscf4176_2 池越しに松永記念館の望む

Dscf4175 庭園内の茶室

Dscf4174  松永耳庵の晩年の写真


(続く)

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