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2012年10月 9日 (火)

小田原ゆかりの政財界・軍人達の別荘の話(2)

【2】政商から一大実業家へ--大倉喜八郎の共壽亭(山月)
◆明治・大正期の実業界の雄、大倉喜八郎は天保8年(1837)越後新発田で生まれ、慶応3年(1867)江戸で鉄砲店を開業。戊辰戦争、西南の役、台湾出兵、日清・日露の戦争特需によって大儲けしたことから死の商人、政商と呼ばれた。明治6年(1873)に貿易業「大倉組」、明治26年(1893)に大倉土木組(現大成建設)を立ち上げるなど、数多くの企業を起こし、渋沢栄一らとともに、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立した。なおホテルオークラは長男喜七郎が設立したもの。晩年は公共事業や教育事業にも惜しみなく私財を投じた。その風貌からあだ名は「鯰」、元祖「成り金」、元祖「プレイボーイ」。男爵となって、昭和3年90歳で死去する。

◆その大倉喜八郎が大正9年(1920)に、相模湾が一望できるこの地に別荘「共壽亭」を築いた。日本建築と西洋建築をミックスさせたこの別邸は政財界の大物を接待する場としても利用された。建物はNHK「美の壺」でも紹介されたように、彫金や桜と欅の寄木でできた床、渋沢から贈られた蒔絵の板戸など貴重な調度類が残されている。建物自体は人手に渡り最近まで「山月」として、食事、お茶など利用できたが、今年になって都合により閉鎖された。

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【3】軍人から政界の大御所へ--山縣有朋の古希庵
◆山縣は長州の下級武士から元帥、総理大臣までなった人物だが、普請道楽であり、庭造りにも造詣が深かった。彼は出身の長州をはじめ、東京目白台の本邸、小石川水道町、麹町、他京都に二か所、栃木県那須の山縣農場、大磯別邸、小田原の古希庵など多くの別邸、庭園を造園した。中でも①東京目白の椿山荘庭園(1万8千坪)、②京都の無鄰菴庭園(940坪)、③小田原の古希庵庭園(1万坪)が山縣三名園と云われている。

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茅葺屋根の門に揮毫された古希庵の文字

◆山縣は明治40年(1907)、古希を機に東京から小田原に拠点を移し、晩年を過ごした。それより以前、大磯にあった約5000坪の別邸を三井家に譲渡して、新たに小田原に古希庵を造営した。三名園とも本人自ら構想を練り、自然を活かした構成で、伝統的な日本庭園とは一線を画し、近代主義的、自然主義的日本庭園とも云えるものだった。
古希庵は和風木造の母屋、木造2階建ての洋館、レンガ造りの洋館で構成されていた。自然の勾配を活かした庭園には「山縣用水」と云われる専用水道を荻窪用水から引かせ、「サイフォン式」水道にして、水流や滝として利用した。広大な庭園は相模湾と箱根山を借景として造られ「小田原の大御所」の異名はここに由来する。


Dscf4180  庭園内の滝

◆なお、現在建物部分は某保険会社の研修所になっているが、庭園部分は当時のまま残されている。また木造2階建て洋館は大正12年に那須の山縣農場に移築され、現在は山縣記念館になっている。(続く)

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