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2012年8月 2日 (木)

古橋廣之進さんの想い出

◆7月10日の弊ブログで、タイトル「オリンピック雑感(前)」に、元JOC会長古橋
廣之進さんのことについて少し触れたが、今日が3回目の命日に当る。名もない
一庶民が偉大な人の事を書くこと自体、おこがましい事ではあるが、多少の縁
もあり、氏の人格に触れたことで想い出を綴ってみたい。


◆昭和63年(1988)、勤務先からある辞令を受けた。九州育ちの自分にはまる
で縁のない冬のスポーツ競技「札幌ユニバーシアード冬季大会組織委員会」に
派遣するというのだ。3年後の1991年3月の大会に向けて、準備と運営を担うプ
ロジェクトチームだ。組織委員会の主体は札幌市、それを補完しアシストする形
で北海道や国際大会競技を計画している各自治体からの応援派遣員、道警
や民間から我々金融機関や関連団体からの寄せ集めで、徐々に組織ができ
あがっていった。


◆こうした国際大会を実行する上で、常に指導を仰がねばならないのが、日本
オリンピック委員会(JOC)だ。当時JOC会長は西武の堤義明氏から古橋廣
之進さんが13代会長として後を引き継いだ。古橋さんは日本水泳連盟会長と
して、また母校日大の教授を兼務しながら、90年から99年まで努めた。
古橋さんは日大卒業後1951年、多くの誘いを断り、敢えて民間会社大同毛織
に入社、豪州現地駐在員として社業に励んだと云う。


◆昭和40~41年頃学生時代、東横線学芸大学駅付近に下宿していた。近くの
碑文谷に日大水泳部の古いプールがあった。散歩がてらに何度か練習を見に
行った。水は緑色に濁っていた。近所のおばさんが「古橋、橋爪選手達がここ
で猛練習していたのよ」と教えてくれた。後年、古橋さんの「私の履歴書」を読
むと緑の藻が茂ったプールを1日、1万m、2万m泳いだと書いてあった。


◆1966年大同毛織を退職し、母校日大の水泳部を見るようになり、教授となっ
て内外の水泳連盟役員を務め、ついにJOC会長にもなられた。JOC会長と
いえば初代嘉納治五朗氏を別格とすれば歴代、政治家、軍人、学者、経済人、
特に第8代竹田恒徳氏は明治天皇の孫にあたる竹田宮で(現15代竹田恒和
氏は彼のお子さん)皆何らかの形でスポーツに縁のある錚々たるメンバーで
あるが、一選手から叩き上げ、しかも世界に名を馳せ、周囲から押されて就
任したのは古橋選手だけではなかったろうか。


◆組織委員会のメンバー達と何度か食事をさせて頂く機会があった。また大
会中VIPとして接遇する機会もあった。古橋会長からは戦後間もない食糧難
の時代、学生としてカリフォルニアに遠征し、文化の違いに驚き、苦労された
話や、今どきの若い選手のハングリー精神の欠如に苦言を呈していた。また
アマチュア精神を大切にされた方で、時代が次第にプロ化していく風潮を苦々
しく思われていたのではと推察される。風貌が古武士然とされた方だった。


◆また、大変几帳面な方で、組織委員会の我々職員にも一人一人年賀状を
送るなど、返って恐縮する思いだった。2009年8月イタリアローマで世界水泳
選手権が開かれている時、ホテルの部屋で急性心不全のため、帰らぬ人と
なった。享年80歳。あれからちょうど3年になる。戦後のあの貧しい時代「フジ
ヤマのトビウオ」として、世界に名を馳せ、国民に勇気と希望を与えてくれた
歴史に残るスポーツマンだったといえるのではないだろうか。 合掌。



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