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2012年2月12日 (日)

長崎旅行記(7) 隠元禅師と興福寺

長崎の黄檗宗三福寺のうち、崇福寺は朱塗りの竜宮城のような山門が特色で、
「大雄宝殿」と「第一峰門」が国宝に指定されている。中国様式の寺院としては
日本最古とされる。今回は時間の都合でパスした。


◆今回訪問した興福寺のことに触れてみたい。元和6年(1620)在住華僑たちの
要請もあって、中国僧真円がこの地に小庵を造ったことが始まりとされる。当時
の日本は衰退した禅宗の再興を望んで、「明」で名声を博した福建省黄檗山万
福寺の隠元禅師を日本に招聘しようと、長崎「三唐寺」と壇家衆が中心となって
三顧の礼を持って迎えた。承応3年(1654)63歳の隠元禅師は弟子20余名を引
き連れ渡来。興福寺に入山し第4代禅師となった。興福寺中興の祖と言われた。


Dscf3652 重要文化財興福寺大雄宝殿

◆長崎滞在1年後、京都妙心寺派竜渓禅師らに懇請され上京。皇室、将軍家、
武家、寺院などの尊崇を得て永住を決意。寛文元年(1661)京都の宇治に故郷
と同じ名の黄檗宗大本山万福寺を開山。慕われながら81歳で永眠した。


☆隠元さんについてのよもやま話☆ Uさんの寄稿文より引用
隠元さんが日本に伝えたちゃぶ台は、私達の年代には(昭和30年代頃まで?)
馴染みの深いものでした。脚を開いたり、畳んだり、用意するのは子ども達の
役目でした。伝わった江戸時代には画期的なことで、それまでは各自のお膳で
身分や年長者順に、決められた位置で食事をしていました。丸いテーブルは
身分の上下の隔てなく、皆で楽しく食事ができる利点があり、庶民に普及しまし
た。隠元さんは普茶料理も持ち込みました。普茶とは葬儀や法事の後、参加
者、近所の手伝い人などに普く(あまねく)、お茶を給したことから始まったそう
ですが、もとより身分を問わなかったのでそれには円形が適していたのですね。


◆この席で供された普茶料理が黄檗宗の精進料理で、ゴマ和え、胡麻豆腐、
けんちん汁などが一般に広がっていった。また食材ではインゲン豆の他、もやし
西瓜、蓮根、落花生、茄子、孟宗竹(筍)など多種に及ぶ。しかし本旨は禅師が
もたらした明朝文化であって、日本の建築、彫刻、書画、茶道などに与えた影
響は計り知れない。 茶道といえば現住職さんと知り合いのUさんの勧めで、お
座敷に上がり、庭を眺め、抹茶と甘いものを頂きながら、短時間だが住職さん
とお話しする機会を持てた。至福のひとときだった。


Dscf3660  興福寺の魚板

使い込まれてお腹の部分がすり減った魚板。寺内の僧に食事を知らせるため
のもの。禅寺ではよく見られるが、ここは雌雄一対があり珍しいとのこと。

Dscf3655_2  珍しい仏手柑

インド原産、ミカン科の果物。仏の合掌した形に似ていることからその名が
付いた。中国では古来より不老長寿の薬として珍重された。日本でも漢方薬
として利用される。香りはいいが、生食には適さないという。


Dscf3664  
豚返しの敷居

放し飼いの豚が門内に入らないように敷居が高くなっている。2段式に
なっており、人が通る際は可動式の上段を動かす。いかにも中国らしい。(本稿終わり)

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