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2012年2月11日 (土)

長崎旅行記(6) 続・坂本龍馬と長崎

いろは丸事件と聖福寺のこと
◆海援隊の「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」が起こした、日本初の海難衝突
事件は賠償交渉を巡って、舞台を瀬戸内海の鞆ノ浦から長崎の聖福寺に移し
て談判が行われた。慶応3年4月19日、龍馬達は「今日をはじめと 乗り出す船
は 稽古はじめの いろは丸」と機嫌良く出港したという。


Dscf3682  聖福寺本殿

◆交渉の舞台となった聖福寺は紀州藩勘定奉行茂田一次郎の宿舎だったから
だ。龍馬は「万国公法」を持ちだしたり、世論操作の戯れ歌を流行らせたりして、
全身全霊交渉に取り組んだ。「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」


◆それでも埒が開かず、ついに土佐藩重役、後藤象二郎が乗り出し土佐藩対
紀州藩の事件に発展する。事件の経緯から不利を悟った紀州藩は薩摩の五代
友厚に仲介を頼み、ついに決着した。事件から36日が経過していた。龍馬の
したたかな交渉能力、広範囲な人脈、傑出した戦略がうかがえる事件だった。


◆(以下、Uさんの寄稿文を参照) 賠償金総額は83,526両(船=35,630、積荷
47,896、岩崎弥太郎が武器弾薬などの項目も加えたそうだが、引上げ品の中に
は無かったという。いかにも岩崎らしいと勘繰りたくなる。)最終的には70,000両
に減額され支払われが、丸山で戯れ歌を流行らせるは、賠償金は相手のいい
なりに取られるはで、55万石の御三家の面目は丸つぶれ。7カ月後の龍馬暗殺
事件の黒幕のひとつに挙げられる根拠にもなっている。賠償金はどうなったか?
隊士への分配金=15,345両、いろは丸所有者の大洲藩へ渡ったかどうか不明。
弥太郎が横領して土佐藩への借金返済に充てた?三菱の創設資金になった?
等諸説飛び交っている。


◆さて、交渉の舞台となった聖福寺だが、黄檗宗の三福寺(福済寺、興福寺、
崇福寺)が唐人達のお堂から発展したものとは異なり、最初から寺院として唐
人や長崎奉行の協力によって開創された。三福寺がキリシタンに関わっていな
いかを監視する役目もあったという。開祖の鉄心は隠元の孫弟子で、父は唐
人。母は日本人商人西村家の娘で、その実家の財力が寄与したものと云われ
ている。

Dscf3678

聖福寺山門、隠元禅師の書による額が架かっているが、劣化のため判読しづらい。

◆黄檗宗の総本山は京都の万福寺だが、この聖福寺は様式が最も万福寺に
近く、彩色は極力抑え、禅寺として日本人には親近感が持てる寺だ。山門の
額は隠元81歳の書とのこと。それらも含め、寺全体が劣化、剥落しているの
が惜しい。この寺に龍馬達が来て、談判していたかと思うと、なんとか保持、
補修できないものかと思うばかり。
Dscf3680
 聖福寺天王殿。正面に布袋
(弥勒菩薩の化身)、その背面に韋駄天像が安置されている。1705年の作


Dscf3684
 瓦を埋め込んだ築地塀

Dscf3687  
劣化した土塀

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