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2012年2月10日 (金)

長崎旅行記(5) 坂本龍馬と長崎

坂本龍馬と長崎
◆長崎港は周囲を小高い山々に囲まれている。中央部にある風頭(かざがしら)
山は標高152mで、昔から庶民にとってなじみの深い場所。繁華街を抜けて、大
音寺の横の急勾配の階段を登って行くと墓地になっており、上の方に両親の墓
がある。墓参を済ませた後、山頂にある風頭公園を抜けて、竜馬関連の史跡を
歩く。坂本龍馬像→亀山焼窯跡→龍馬ゆかりの「若宮稲荷神社」→龍馬のブー
ツ像→亀山社中記念館と巡る。起伏があって曲がりくねった迷路のような細道
をUさんに案内してもらう。このルートは、やはり人気コースで観光客が絶えない。
一昨年のNHK大河ドラマ「竜馬伝」の影響は大きいようだ。


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風頭公園の龍馬像。足が台座よりはみ出している。型にはまらないという表現らしい。

◆さて驚いたことに、亀山社中から市街に下りた所、諏訪神社付近から、市
内随一の繁華街「浜の町」、さらに新地中華街を経て、南山手のグラバー園
に至る約3kmの一本道が「長崎龍馬の道」と命名され、道標等が整備され
ていたことだ。確かに亀山社中からグラバー邸に行くには間違いなく、通った
であろう道であり、自分もかつて歩いた道でもある。そしてこの龍馬道の中程
の浜の町に「長崎まちなか龍馬館」という、資料館ができて、映像やゆかり
の品々、関連のパネル等が展示してあり、結構見ごたえがある。


Dscf3650
若宮稲荷にある龍馬像、等身大より小さいが龍馬像の原型になったといわれている。

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龍馬通りの途中にある珍しい四角い柱の鳥居。長崎奉行が奉納したもの。

◆坂本龍馬が初めて長崎に来たのは、元治元年(1864)2月。勝海舟の長崎
出張に同行したもので、福済寺に40日間滞在している。このときの目的は前
年5月、長州が下関で外国船を砲撃したため、四国艦隊が報復準備をしてい
るとの情報があり、攻撃を控えてくれるよう交渉にきたもの。(実際には、8月
に下関は攻撃された) 福済寺の境内で大柄の龍馬と小柄の海舟が裸で相
撲をとっている様子は「鶴に鳶が留っているようだ」と近所の人の噂にのぼっ
たそうです。(Uさんの寄稿文より)


◆翌慶応元年(1865)7月、龍馬は脱藩浪士を集め、海運業や商社を目的と
した亀山社中を結成。慶応3年11月、京都で暗殺されるまでの2年5カ月、長
崎を主な拠点として、八面六臂の大活躍をして、回天の偉業を成し遂げた。
さて、龍馬や晋作、弥太郎など維新の志士達が通ったのが、遊郭丸山。


☆長崎の遊郭、丸山の遊女の話①☆ Uさんの寄稿文より引用
日本の三大遊郭といえば、京都の島原、江戸の吉原、長崎の丸山でした。
その特徴をひと言で、器量の島原、気風の吉原、衣装の丸山と謂い分けた
そうです。ただし世界に知られていたのは長崎の丸山だけ。外国からの珍
しい輸入品を外国人はもとより、日本の金持ちも遊女に贈ったのでしょう。
・丸山に 珊瑚玉生む おんなあり・・禁制品の珊瑚の持ち出しに成功!
・丸山の 遊女珊瑚を 海に蹴り・・出島から出る時、持ち物検査で見つかり
そうになり、窮余の一策、彼、甘ちゃんだからまたもらえばいいさ。
丸山遊女には上・中・下の分別があったそうです。上は日本人相手、中は
中国人相手、下は西洋人相手。それは遊女の気持ちの問題で、相手の容
姿に違和感がある西洋人は敬遠されたということでしょう。だから西洋人は
料金が一番高かった。(今からみれば高い料金が上のはずだが・・)
しかし通う内に、馴染みとなり、愛も生まれ、子も生まれ・・自然の成り行き
でした。(続く)



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