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2012年2月 7日 (火)

長崎旅行記(2) 出島と唐人屋敷

「出島」と「唐人屋敷」 
◆長崎市の歴史は意外と新しい。元亀元年(1570)というから、戦国時代の真っ
直中。キリシタン大名大村純忠がわずか100戸足らずの寒村を開港したのが始
まりとされる。その後、豊臣秀吉が九州を平定した時、長崎を直轄領として奉行
を置き、1605年には江戸幕府が長崎を天領とした。


◆1636年、江戸幕府はキリスト教を禁止するため、ポルトガル人を一カ所に収容
しようと、15,000㎡の人工の島(出島)を完成させた。それから3年後の1639年、
鎖国令によってポルトガル人は国外に追放され、1641年にそれまで平戸にあった
オランダ商館を出島に移転した。以来218年もの間、西洋に開かれた唯一の窓口
として貿易に、文化交流に大きな役割を果たした・・と、ここまでは教科書で学んだ
ところである。


◆見落とされがちなのが、唐人屋敷跡である。現在さびれたこの一角が1689年
(元禄2)築造された中国人居留地跡で、出島の完成より約50年後、それまで市中
に散在していた中国人を一ヵ所に集め管理しようとしたもの。広さは出島の2倍以
上。年間、3,000人から5,000人の収容力があったという。この唐人屋敷跡を皮切り
にボランティアガイドの友人(以下Uさんと云う)が懇切丁寧な説明で案内してくれ
た。20年近く長崎に住んでいて、初めて訪れた地域だった。


◆この唐人屋敷跡からダラダラ坂を下ったところに新地中華街がある。横浜・
神戸と並ぶ日本三大中華街のひとつで、規模は小さいが約40店舗が軒を連ね、
観光客で賑わっている。ではなぜ「新地」なのか?実はこの地はもともと海だっ
た処で、中国との貿易品の倉庫群(蔵所)として出島の近くに築造した人工の島
(新地)だったと云うのだ。明治維新後、唐人屋敷や新地蔵所が廃止されたため、
在留中国人はこの蔵所跡に移住し、中華街を形成した。なるほど地形をみると、
坂を登って行った先に古い居住地があって、海に近い新地は埋め立て地にでき
たものだと云う事が分かる。

Dscf3612

江戸時代後期の長崎港。出島の下にある四角い人工島が現在の中華街となり、その先に
繋がった部分が唐人屋敷跡。現在はすべて埋め立てられている。

Dscf3613
旧唐人屋敷跡は深さ幅・6尺の堀と7尺の塀で外部と隔離され、出入りは厳重に管理された。

◆因みに現在の中華街には東西南北四つの中華門があり、それぞれの守り
神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が裏側に彫られているそうだ。(続く)

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