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2011年10月30日 (日)

日本橋~箱根間テクテクぶらり旅 (2) 前編

10月21日の日本橋~川崎に引き続き、29日、川崎宿から保土ヶ谷宿、さらに
調子がよければ戸塚宿迄足を延ばそうと思い、8:50分川崎宿をスタートした。

【川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿】 ①
◆川崎宿は江戸後期は、戸数770戸、人口3,100人余の宿で、農民はじめ様々
な商人、職人が住んでいた。西のはずれに「八丁畷」という地名があり、今も残
っている。一丁が約870m、「畷」とは田畑の間を通る道のことで、八丁ほど真っ
すぐ延びていたから、その名が付いたという。
元禄7年(1694)5月、芭蕉は故郷伊賀へ帰ろうと深川の庵から旅立った。門人
たちはここ八丁畷まで送ってきた。一軒の腰掛け茶屋で休憩し、門人たちが句
を詠み合った。周りは一面田畑のみで他に何にもない。麦の穂が風に揺れて
ちょうど波のように見える。芭蕉は門人たちに一句を残した。


  麦の穂を たよりにつかむ 別れかな
  

この句が関東での最後の別れの句となった。芭蕉はこの年10月大阪で没す。
辞世の句となったのが、次の句で、享年51歳だった。


  旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる 

Dscf3053  芭蕉「麦の穂~」の句碑

◆水がきれいになった鶴見川。鶴見橋から覗くと大きなボラの姿が見える。
道の両側に魚屋が並ぶ魚河岸通りに入る。長い通りで店の数も多く、魚好き
の眼を楽しませてくれる。更に進むと例の「生麦事件」の現場に差し掛かる。
意外な事に民家の塀にそのモニュメントが架けられていた。そこから数百m
先にある国道に面した記念碑は工事のため、今来た道の途中に仮移築され
ていた。云うまでもなく、文久2年(1862)島津久光の行列がここに差し掛かった
時、イギリス人一行が前を横切ったため、英国商人三人が殺傷された事件だ。
これがもとで翌年薩英戦争が勃発した。記念碑の横にはその時の詳しい記録
が記されたものが残されていた。


Dscf3063  生麦事件発生現場

Dscf3064  仮移築された生麦事件記念碑

◆広重が描いた神奈川宿を見ると海が眼の前に迫っており、高台に旅籠、
飯屋などが海に面して建ち並んでいる。JR東海道線と国道1号線の上を跨
ぐ青木橋を越えた辺りから高台が続く(現在では台町に当る)。とすればこの
下辺りまでが海だったはずで、当時とはガラリ景色が変わっていただろう。


Dscf3073
アメリカ公使館があった本覚寺から青木橋とJR線を見る

◆ここで「東海道中膝栗毛」の中から神奈川宿の模様(現代訳)を引用しよう。
― ここは波打ち際に茶店が軒を並べて、どの家も二階の座敷に欄干付きの
廊下や桟敷などがあり、見晴らしは大変よろしい。茶店の女、店先に立って、
「おやすみなさいやーせ。暖かい冷や飯もございやーす。煮立ての肴の冷た
のもございやーす。そばの太いのをあがりやーせ。うどんのデッカイのも
ござりやーす。寄ってらっしゃいやーせ。」 ―
弥次、喜多は美人の呼び込みで店に入っていくのだが、なんと呼び込みの
キャッチフレーズが逆説的で笑いを誘われる。本気なのか、シャレなのか
ちょっと気になり、入ってみたくなる。美人が云うから入ったのかも  (続く)





 

  

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