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2010年4月10日 (土)

高野山にて

◆今回の旅行で、高野山は8年前の秋以来二度目となる。今回は団体ツワー
のせいか、最初の時の手作りグループ旅行と比べて、なんら得るものはなかった。
その時に受けたピーンと引き締まった聖地として感覚は消えて、金儲け主義
ばかりが目立った。高野山の宿坊に宿泊しようと考えるなら、少人数のグループ
旅行にして、事前に施設や中身をよく調べ、直接予約することを薦める。
高野山町石道(ちょういしみち)
弘法大師が高野山を開創した際、麓の九度山慈尊院から山上の大門へ通じる
参道を開き、1町(109m)ごとに木製の卒塔婆を建てたということである。
その後鎌倉時代に石造りの五輪塔の町石に建て替えられた。以来この参道を
「町石道」と呼ぶようになった。幅1~2mの山道であるが、高野山の中心「根本
大塔」から麓の慈尊院まで180本(基?)が残っている。今でも巡礼姿の人や
ハイキングがてらに参詣する人も多く、いにしえから多くの歴史上の人物が
通った道を歩くことができるのは感慨深いものがあるだろう。
南海電鉄「九度山駅」を降りて、山上の根本大塔(標高850m程)まで6時間半、
21.5kmの行程ではあるが、時間さえ許せば、今後歩いてみたい道ではある。
今回この道の存在を知ったことは唯一の収穫だった。
◆高野山と豊臣秀吉
秀吉は当初、天正13年(1585)信長に倣って高野山を焼き討ちしようと考えた。
ところが木食上人に思い止まるよう説得され、中止して25の堂塔を再興した。
また文禄2年(1593)には、母の菩提を弔うため桧皮葺の荘厳な寺院を寄進
した。当時は清巖寺、興山寺と称したが、明治2年にもともとある金剛峯寺に
合併され、全国真言宗の総本山となった。
高野山の4月はまだ朝晩の冷え込みは厳しい。中腹にやっと桜がチラホラ、
山頂の大伽藍では花どころか、常に緑の「高野槇」と何百年も変わらぬ杉の
巨木が聳え立っていた。

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