邪馬台国と卑弥呼のことを考える (6)
◆三番目に卑弥呼の候補の一人として、倭姫(やまとひめ)
があげられる。倭姫は第12代景行天皇の姉で日本武尊の
叔母にあたる。やまとひめは日本武尊が景行天皇の命に
より九州の熊襲、隼人の征伐に向かう際にお守りを渡した。
また東征の際には草那芸の剣を渡して、影からタケルを
援助する。やまとひめの父、11代垂仁天皇は倭姫に祖先
「天照大神」の祭祀を託した。
伊勢に着いた倭姫命は「天照大神」の啓示を感じ、この地
に祠をたてた。これが天皇家始祖神を祀る伊勢神宮内宮の
始まりとされる。この説は弟が天皇であり政治を司る立場
にあること、また、やまとひめ自体、神の使いとしての
巫女的な要素もあったことなどがあるが、歴史的には5世紀
頃、伊勢に天皇家の神を移したのが始まりとされているので
、240年頃の卑弥呼の時代とはかなりギャップがあり、
やはり無理がある。ついでながら、やまと政権から見て、
西の海側にある出雲地方は古くから隠然たる勢力を持って
いた。西は日が没するところ。出雲と対称に東の海側に
伊勢がある。東は日が昇るところ、そのあたりを意識して
天皇家の神を伊勢に移したとの見方もある。
◆最後に卑弥呼は神功皇后のモデルではないかという説。
神功皇后はオキナガタラシヒメといって第14代仲哀天皇の
皇后だった。神の神託に従って新羅に遠征し、高麗、百済
すべてを服属させる。仲哀天皇の死後、自らの子15代応神
天皇が即位するまで摂政として政務を司る。西暦でいえば
201年即位、269年崩御ということになっているが、
これらはすべて7世紀頃の創作で、架空の人物ではないかと
いう説が有力。しかし、「播磨国風土記」や「摂津国風土記」
には神功皇后に関する伝説的なエピソードの記述がある。
また、日本書紀の神宮皇后を記述した部分に、魏志倭人伝の
記事が引用されており、即位中の年代と卑弥呼の記事の年代が
合致するところから、神功皇后は卑弥呼だとする説があるが、
やはり伝説の世界と現実の世界が混然として、はっきりしない。
(次回最終回)
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