邪馬台国と卑弥呼のことを考える (1)
寒いから、炬燵に入って読書でも、ということで何回かに亘って
古代日本のこと、邪馬台国、卑弥呼、古事記、日本書紀のことなど
思うところをつらつら書いていきたいと思います。よかったら
ご意見・コメントなど期待しています。 ヒロ
邪馬台国と卑弥呼のことを考える (1)
◆奈良の桜井茶臼山古墳から、卑弥呼時代の銅鏡の破片が国産品
も含め、多数見つかった。昨年、纏向遺跡から「東西南北を意識した
大規模な宮殿跡」が見つかったことを考え合わせると、ますます
邪馬台国畿内説が有利な展開になってきた。しかしまだ決定的な証拠
は見つからず、九州説もまだ排除することはできていない。
いずれにしても邪馬台国の所在については今後の専門家のさらなる
研究・検証を待ちたいところだ。
◆そもそも卑弥呼が統治していた年代は弥生時代後期の西暦約184年
から248年の約64年間と想定されている。その間、魏の景初3年(239)
に使いを送り、正始元年(240)に魏の皇帝から銅鏡100枚が贈られ、
あわせて「親魏倭王」の称号賜っている。この間の記録がわずかに
「魏志倭人伝」にだけ残っているのが混迷の因となっている。
◆返す返すも残念なのは我が国が独自の「文字」を持たなかったことだ。
その当時から1000年も2000年も前に世界の4大文明では文字を発明し、
様々なことが記録として残っている。広大な世界史からみれば、辺境の
小さな島国では、所詮文明が発達するまでの時間が足りなかったと
いうことだろうか。
◆本格的に文字(漢字)が伝わったのは538年、古墳時代から飛鳥時代
に代わる頃、百済から仏像や経典が伝わったときだと考えられている。
飛鳥時代になると国家としての維持、統治、を進めていく上でどうしても
文字が必要となり、それしかなかった漢字が利用されていくのは自然の
流れだった。ただし、外国語としての漢文とは別に大和言葉を漢字の
訓読みで表記するということも採り入れていった。
日本人は昔から異国文化を採り入れて、自国の特性に合わせて吸収・
消化し、発展させていくことに長けていたのだ。(続く)
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