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2021年10月25日 (月)

衆院選 やってはいけない選択肢

◆岸田内閣が誕生してわずか10日。任期満了直前だったとは言え、短兵急な解散総選挙となった。選挙戦も終盤に突入。野党のバラマキ合戦のオンパレード。確かな政権構想もないまま、票だけが目当てで、統一候補を立て、出来もしない公約をばらまく。そんなことは良識ある国民はとっくに分かっていることだが、新しく選挙権を得た若い人達は本当に判断に困るだろう。

◆12年前、長く続いた自民党政権に嫌気がしたのか、台頭してきた民主党に清新な政治を期待したのか、国民はこの際「自民にお灸を」の意味も込めて(自分もその一人であったが)、当選者302人という世紀の大逆転を演じた。それから3年3ヵ月、3代に亘る民主党政権が続いた。結果的には政権担当能力の無さを露呈し、多くの国民は失望した。特に外交・安全保障の問題では不安を抱えたまま、自公政権に立ち戻った。後に、「悪夢の民主党政権」と言われた。

◆今回の総選挙に当って、各党はコロナ禍における給付金のバラマキ合戦を演じている。その誘因となったものは、昨年の安倍政権の中、国民一人当たり10万円の特別定額給付金の実行だったと言える。財政難と言われているこの時期、大胆な予算の行使に「そんなこと有りか」と気付いたのかもしれない。自公政権は未曽有のコロナ危機に際して、2020年度総予算(含む補正)と21年度当初予算で総計91兆円のコロナ対策を国債発行によってその財源とした。

◆これを民主党政権時代に起きた東日本大震災の復興の為の財源対策と比較してみよう。この時、民主党政権が計上した関連予算は2020年度まで、10年間累計で約38兆円に上る。この巨額な財源は所得税と法人税に上乗せされた臨時増税だった。所得税の2.1%の上乗せはこれからも続く。これは国民全体で負担するという考えで、一見正しい様に見える。しかし、この間所得は伸びず、デフレ状態が続き、日本は世界に大きく後れを取った。当然ながらこの政策は政治主導ではなく、財務省主導だったと言えよう。

◆国債発行による財源の手当てについては詳しくは触れないが、野党も理解したらしい。財政規律を言わないばかりか、逆に大船に乗ったかのように大胆になってきた。この一点をとっても野党の野党の政策に信頼はおけない。野党共闘組む勢力は「政権交代!」を声高に叫ぶ。しかし、実際にそうなったら困るのは当人たちだ。12年前と全然変わっていないだけではなく、その準備も体制も実力も人材も育っていない。

◆仮に政権を獲ったとしたら、予想される内閣の顔ぶれは、枝野総理以下、福山、蓮舫、長妻、原口、辻本、安住、森ゆうこなど。菅、野田、岡田氏の復活も有りか?これはいつか見た顔ぶれ。新鮮味も何もあったものではない。特に今回もっとも警戒すべきは共産党が立憲民主に閣外協力するという。これを「換骨奪胎」、「軒先を貸して母屋を取られる」などという。これは日本が日本でなくなる始まりの第一歩となろう。

 

2021年10月15日 (金)

緊急事態宣言解除後の長崎旅行(後半)

◆「花月」は流石に長崎一歴史のある料亭だと感じ入ったが、宴会の方は熟練の芸妓さんや地方さんらによる「長崎ぶらぶら節」などの舞い踊りが宴に花を咲かす。また同窓生T君は粋な着物姿で舞台に上がり、上品なご隠居さんかお師匠さんを彷彿させる。その彼がプロ級の喉声で端唄「春雨」(江戸末期に花月で発祥したとか。地方さんとは前日音合わせをしたと後で知る)の披露に及ぶや「ヤンヤヤンヤ」の大歓声。自前の綺麗どころというか、元体操部3人組+1の踊り「長生き音頭」は御捻りが飛び交うほどの賑わいで、本職の方が羨んでいたとか。
最後は長崎県外から参加した出席者が舞台に上がり、校歌「眉秀でたる 若人よ」と「高校3年生」を全員で大合唱。大盛会裏に終了した。

◆翌日は有志参加の軍艦島ツアー。陸上からと映像では何度か観ていたが、上陸して廃墟の跡を間近に見るのは忍びなく、避けていた感があった。しかし、今回いざ上陸して現場に立ってみると、やはり違いを感じる。この端島(軍艦島)は日本の近代化を支えた単なる炭鉱跡ではなく、ピーク時5300人も暮らした日本一人口密度の高い高層住宅群に住み、テレビの普及が最も早かった文化的な生活の一面を併せ持つ。そうした暮らしの跡が垣間見られる遺跡として、2015年世界文化遺産に登録された。やはり一見の価値はある。

◆単独行動になって、改装中の長崎駅を見学。長崎新幹線の開通を控え、在来線の駅と一体化して数百メートル西に移動。県庁や県警本部を含め、周辺の大規模開発で10年前とは様相が一変している。昔の長崎を知る身にとっては驚きと共に一抹の寂しさを感じる。

◆ここ数年の間に、吉村昭の歴史小説「ふぉん・しいほるとの娘」を2度読んだ。そこには幕末長崎の街の姿、庶民の暮らしが仔細に描かれている。小説に惹かれ鳴滝のシーボルト邸跡を訪ねた。シーボルトはこの地に建てた鳴滝塾に、週に一度程出島から通って、全国から来た塾生らに西洋医学を教えた。歩いて通うには結構遠いなという印象。思いの外広い敷地に、当時使われていたと思える古い井戸が残り、閑静な環境だったことが分かる。隣接するシーボルト記念館を覗いて二日目を終えた。

◆最終日に、長崎くんちの氏神を祀る「諏訪神社」を何十年振りかに参拝。神社へ上る階段が急で長く感じたのはやはり齢のせいらしい。中止になったオクンチの痕跡は感じられなかったが、まずまずの人出だった。参拝後、近くにある「長崎歴史文化博物館」に立ち寄り、見学。吉村昭の小説に描かれたオランダ貿易や清国との貿易などの史料・資料・展示物よく分かるようにビジュアル化され展示されている。また長崎奉行所が実物大で復元されており、時代劇ファンにはたまらない場と言えよう。
今回、体力的には疲労を覚えたが、精神的には栄養補給したものと確信して、2泊3日の長崎旅行を有意義に終えた。(了)

 

 

 

 

 

 

緊急事態宣言解除後の長崎旅行(前半)

◆10月6日から8日まで、2泊3日の日程で長崎を訪れた。本来なら昨年5月、長崎西高の「喜寿記念同窓会」出席が目的であったが、その後コロナ禍にあって今年5月に延期されたもの。ところが、長引くコロナの蔓延で、更なる延期を余儀なくされ、見切り発車というか幹事団の英断で10月6日に再延長することに決定(半年前の事だった)。ちょうどタイミングよく、政府は9月30日「緊急事態も蔓延防止も」全国的に解除を決定した。まさに解除決定後の「恐る恐る状態」の中での開催と相成った。

◆またこの時期、長崎は江戸時代から続く「長崎くんち」(7日~9日)が開催される。この奉納踊りの桟敷席を予約するのが大変で、過去桟敷席から観たことは一度もない。そのプラチナ・チケットを長崎の顔役となっている同窓生S君が同窓会参加者で希望者全員分を手配してくれるというので、これは大きなインセンティブとなっていた。ところが開催実行の決断は準備や練習のため時間を要すとのことで、6月に中止と決定された。これで2年連続の中止となり、大変残念なことではあったが、同窓会の方は予定通り実行することに決まった。

◆さて同窓会の当日、10月6日夕方5時頃、場所は長崎一の料亭「花月」。幕末維新の歴史の舞台として数々登場し、映画やドラマ、旅番組でもお馴染みの古い歴史と風格を持つ料亭だ。近くは、なかにし礼の「長崎ぶらぶら節」でも有名になった。その「花月」に三々五々と人生の荒波を超えてきた老々男女が集まってくる。待ち合わせの広間ではアチコチで歓声が上がり、昔話に花が咲く。始まるまでの間、よく手入れされた日本庭園や室内調度品、歴史的文献などを見学。坂本龍馬が柱に付けたという刀傷跡なども見る。

◆会場大広間では一つの卓袱を5人が囲み、計10卓が配置され、密でも疎でもなくちょうどいい状態。仕切りのアクリル板など無粋なものはなく、はじまれば自然にマスクは外れていく。入場した時ワクチン接種済みのエビデンスを求められることもなく、興が増すにつれ酒量は進み、声は大きくなる。大丈夫かなという思いもよぎるが、客を信頼しているということなのか。上品な味の卓袱料理が続く。刺身は長崎ではブリ、カンパチ、ヒラマサ、タイなどが主だが、やはり他で食べるものとはかなり違う。旨い!料理を運ぶ仲居さん達の数の多さに驚く(続く)

2021年9月21日 (火)

菅総理の功績と菅後の日本の政治(最終回)

8.外交問題に関する功罪

◆菅さんは外交分野は不得手の方だろうが、基本的には安倍さんが築いた外交路線を引き継ぐことで、大きな失策をすることなくこなしてきたと言えるだろう。まず、日米豪印クワッドの推進、自由で開かれたインド太平洋地域の構築、所謂対中包囲網の推進で、日米首脳会談における中国脅威論の中で台湾を明示したことは画期的であった。対韓国との慰安婦問題、所謂徴用工問題では膠着状態が続いているが、妥協することなく毅然とした態度をとり続けてきたことは評価できる。ただ、北朝鮮との間の拉致問題は全く進展を見せず、忸怩たる思いであっただろうが、次期政権に委ねるしかない。

◆菅総理は2020年10月に、「2050カーボンニュートラル」を目指すと宣言。世界先進国の見えない圧力もあって、宣言せざるを得ない状況にあったとは言え、並大抵の努力では実現できない。太陽光、風力などの自然エネルギーでは不利な状況にある我が国土にあって、電力供給構造の転換は厳しい状況にあり、大胆な投資によるイノベーションの創出と言った取組みを、強力に加速することが必要で、今後の政権への大きな課題となって残る。

◆アフガニスタンからの邦人避難救助は先進各国と比較しても後塵を拝する形となった。「国民の命と財産を守り抜くのが国家の基本的役割」とするならば、平時の外交において、緊急時の対応策(自衛隊出動も含めて)を講じておくことは国家基本戦略上、必須条件である。安全保障・インテリジェンス部門で法体制の整備と外交・防衛一体となった不断の努力が求められる。

【おわりに】
★1年という短期間に終わった菅政権の実績とその功罪について縷々述べてきたが、国内問題ではその他にも多くの実績と課題を残した。まず就任早々公約した「携帯電話料金値下げ」があったが、2021年には大手通信キャリアの値下げ料金プランが出揃った。次いで「不妊治療の保険適用」を公約した。この課題も2021年1月から現行の助成制度を拡充し、2022年4月の保険適用開始を目指す。
★また「電波オークション制度の一部導入」について、電波・放送行政の透明性や公平性を確保しながら、電波の有効利用を強力に推進するとし、電波オークション制度の導入を含めて、新たな周波数割り当ての在り方を検討する方向を示した。このように短期間の中で目一杯仕事をしてきたはずだが、一般にはあまり評価されていない。しかし、皮肉なことに辞任を表明した後に、次期総裁選候補らの選挙運動の中で、菅総理の支持率が10%もあがった。
★安倍・菅路線の跡を引き継ぎ、明確に旗幟を鮮明にしているのが高市候補である。理念・政策を通して目指すところが見えてきた。ひょっとすると日本のサッチャーになる可能性を秘めている。しかし、日本のメディアは冷ややかだ。最も人気があり、総裁選のトップを走る河野氏だが、一般大衆に迎合したポピュリズム政権で、衆院選の顔としてはいいかもしれないが、所謂リベラル的左傾の小石河政権では対韓、対中政策で、現実とのギャップで大きくブレるだろう。参院選までもつかどうか・・(本稿終り)

 

2021年9月20日 (月)

菅総理の功績と菅後の日本の政治(7)

6. 重要土地規制法案の成立(スパイ防止法案)

◆今年6月、「重要土地利用規制法」が国会で成立した。この法案はかなり以前から懸案されていた問題で、自衛隊の基地、原発など日本の安全保障上、重要な地域での土地利用を規制する法律だ。これ以外にも自衛隊・民間が共用している空港、国境その他離島等約600か所が含まれている。施設の周囲約1km内や国境近くの離島を「注視区域」に定めて、区域内で電波を妨害したり、ライフラインを寸断したりといった日本の安保を脅かす土地利用者に対して、中止を勧告・命令できるというもの。いわゆる「スパイ防止法」的な性質を持つ。

◆司令部といった機密情報が集まる拠点の周辺などは「特別注視区域」とみなし、土地売買に事前の届け出を義務付ける。外国資本(中国・韓国を意識か)不適切な目的で日本の土地を取得し、利用するリスクを減らす狙いがある。これは高市早苗議員がいち早くこの問題の重要性を認識し、20年以上前から議員立法で働きかけていたもの。野党などの横やりもあって、やや不十分なところもあるが、とりあえず第一歩を踏み出したという点で、菅内閣の功績のひとつと言っていいのではないか。

7. 福島原発の処理水海洋放出への道筋

◆福島第一原発の構内に設置された汚染水除去後の処理水問題。現在約137万トンにも上り、さらに日々増え続けている。保管するタンクは約1000基にもなり、限界に近づいている。「これをどう処理するか」は復興を見据え、避けて通れない問題だ。この問題に対して菅内閣・東電は一定の方向を出した。第一原発から沖合約1kmの海底にトンネルを設置し、海水で薄めた後にこのトンネルを使って排水するというもの。いろいろ批判はあるが、誰かがこの難題に手を付けなければならない。菅さんが一定の方向を出したことは評価されていいだろう。

◆この問題進めていく上で絶対に欠かせないのが、IAEA(国際原子力機関)との連携だ。IAEAは事前調査のため、9月6日来日。12月をめどに調査団を日本に派遣する予定で、現地調査のほか、国や東京電力に聞き取りを行い、放出する処理水の分析や海に流す計画の妥当性、環境への影響などを検証し、報告書をまとめる方針。これを踏まえ、国は2年後に海に流す方針だ。
ここで問題なのは風評被害を懸念する地元の声をよく受け止め、地元の理解と協力を求める真摯な政府の姿勢だろう。国民も地元の立場よく理解し、「風評を起さない、許さない」という言動をとることが求められる。(続く)


 

2021年9月18日 (土)

菅総理の功績と菅後の日本の政治(6)

4.日本学術会議の任命拒否問題

◆菅総理は就任後まもなく(2020年9月)、日本学術会議が推薦した105人の会員候補のうち6人を任命拒否した。2004年以降、日本学術会議が推薦した候補を政府が任命しなかったのは初めての事だった。このことで野党やメディアが騒ぎ、「日本学術会議とは?その役割、在り方、予算」などについて、問題点を国民の前に曝け出してくれた。

◆彼らは「学術会議が推薦した会員を任命しないのは前例に反する。理由を説明せよ」と迫った。そもそも、拒否された6名は安全保障関連法や特定秘密保護法、普天間基地移設問題などで、政府の方針に異論を唱えてきた学者たちであったが、ある意味、任命拒否は勇気のいる言動だった。予想される反動を思えば、従前通り踏襲する方が波風はたたない。それをずーっと続けてきたのが自民党政権だったのだ。

◆菅総理は「任命拒否の理由」など、口が裂けても言えるはずがない。真の理由を言えば、「思想信条の自由に抵触する」と大炎上は必定、一発で終わりとなる。既得権益を享受して、変革を嫌う学術会議側はこれを逆手にとって攻め立てた。「学問の自由の侵害だ」を持ち出す学者もいたが、これは無理がある。任命の可否と学問の自由は無関係だ。こうした過程の中で、国民は「文系に偏った左翼的学者たちのエゴでもあることに気が付いた。

◆ある技術開発の研究が軍備の増強に繋がるなどととんでもない理屈をこねて、研究を中止させた例も明るみになった。「学術会議」は内閣府の特別機関に位置づけられ、国費が年間約10億円も投じられていることを国民は知った。であるならば、当然ながら国益に叶う活動が求められる。国から完全な独立を求めるならば、民間のアカデミックな団体に移行して、フリーな立場になればよい。

◆その形をシュミレーションしたようだが、まだ宙ブラリンとなっている。また、任命拒否された6人の立場も棚上げされたままだという。菅さんはこの問題の決着をつける前に辞任することになったが、任命拒否が問題ではなく、そのやり方に問題があったようだ。相手の顔を立てて、外堀を埋め、旨く根回しして「人事の在り方」を変えていくという方策がとれなかったか、菅後を引き継ぐトップに残された課題となった。

2021年9月17日 (金)

菅総理の功績と菅後の日本の政治(5)

3.デジタル庁新設の功績

◆昨年9月16日に発足した菅内閣は、国全体のデジタル化を看板政策に掲げた。その司令塔になるデジタル庁を1年も経たない今年9月1日に発足させた。こうした新組織は検討開始してから設置まで、通常1年以上かかるのが常識だ。問題は今後の改革の中身だが、日本は早くから機械化を取り入れたが、いまや中国、韓国にも後れをとり、周回遅れに成り下がっている。なぜだろうか。

◆アナログからデジタル化に移行するに当たり、全体像を見て将来のあるべき姿を描いて、統一的に推進すべきであった。ところが個人の権利、自由を盾に「権力側に悪用される恐れあり」などと消極的、反対意見が根強く、それらのマインドが大きく改革を遅らせてきた。企業は企業で独自に社員ナンバーを付与し、デジタル化を進めているが、この場合個人のプライバシーは所属する企業の規則と信頼関係において、個人情報を委ねているのだ。ところが「国」となると、途端に拒否反応が出てくる。そうした状況にあって、国、省庁、自治体、企業が横の関連なくバラバラに開発を進めてきた結果、今のような周回遅れの状態になっていると言えよう。

◆「マイナンバー制度」が良い例である。2015年10月に導入、国民の全てに番号を通知し、翌2016年1月から「マイナンバー制度」がスタート。同時に希望者に「マイナンバーカード」の交付が始まった。将来的にこの制度を有効に活用させるため、自分は2017年7月に申請して、カードを取得した。この時点では普及度は20%くらいだったか。

◆丁度良いチャンス到来した。コロナ危機で、昨年一人10万円の特別定額給付金が配布されることになった。このカードに本人の取引銀行がひも付きとなっていれば、何も面倒くさい紙ベースや、ネットの入力を要することもなく、瞬時に入金になっていたのだ。ここまで一気には無理としても、「カードを持っている人を優先します」とでもPRすれば少しは普及が進んだか。納税の時はマイナンバー記入が必須となっている。国は徴収するときはマイナンバーを積極的に活用するが、給付の時には活用に消極的だ。これらの事務処理はデジタル化で大きく効率化が図られ、国民も便利さを享受し、職員も楽になるはずだ。

◆ワクチン接種にも活用される余地があるはずだが、接種券とマイナンバーに関連性があるのかないのかよく分からない。とにかくマイナンバーの所管が総務省や内閣府からデジタル庁へ一元的に体制を移行し、来年末には全国民にマイナンバーカードが行き渡る見込みだという。しかしやることが今までのような中途半端なやり方だったら旨く行かないだろう。近々健康保険証や運転免許証に変わり得るものとして、マイナンバーカードを利用しようとする計画が進んでいるらしい。いずれにしろ菅内閣が、遅ればせながらデジタル庁を設置して、一歩進めたことは大きな功績となろう。(続く)

 

2021年9月14日 (火)

菅総理の功績と菅後の日本の政治(4)

2.コロナ禍での東京オリンピックとパラリンピック開催の決断(下)
(前稿の続き)
◆東京オリパラがいざ始まってしまうと、日本選手団の活躍やスポーツの面白さがTVを通してリアルに伝わり、コロナで鬱積した気分を吹き飛ばしてくれた。あれだけ批判的だったテレビが手の平を返したかのように、熱心に伝え始めた。(予想通りではあったが)
またパラリンピックの活躍も感動を与え、競技の面白さに惹きつけられた人も多かったのではないか。これらの内容にここで触れるのは趣旨ではないが、獲得したメダルの数がその内容を雄弁に物語っていると言えよう。
・オリンピック :金27、銀14,銅17 計58個 金の数では3位、 総計では15位
・パラリンピック:金13,銀15、銅23 計51個 金の数では11位、総計でも11位
想定以上の好成績だろう。選手たちの活躍に元気をもらったお礼を送りたい。

◆世界最大のスポーツイベントの成功はコロナと戦いつつ、 社会の営みを継続できることを証明し、コロナ克服への一里塚となった。この評価は国内よりも海外からのメッセージが多く寄せられた。AP通信は「コロナ禍の中の大会開催は注目すべき偉業」と伝え、ドイツの有力紙は「大会が中止されていれば多くの選手が五輪出場の機会を失い、災難となっていた」と評した。オーストラリアの有力紙は「選手らが国の垣根を超えてお互いを助け、声援を送り合っていた」と紹介し、「メダルの数を超えた成果だ」と論じた。ブラジルの有力紙も東京大会を「スポーツの力を祝福し、東京でなければ、日本人でなければ開催すらできなかった」評価した。ところが日本では終わってみたら、早くも批判的な動きが見え始めた。「何なんだこれは、どこまで自虐的なことが好きな国民なんだ」と思わざるを得ない。

◆今回の東京2020オリパラは、もともと復興オリンピックのはずだった。ところが世界的コロナの影響で、そのコンセプトが影を薄めた。そのためにも、開会式ではもっと「東日本大震災」の災害当時の映像(津波、原発事故、米海軍のトモダチ作戦や海外の救援活動の映像)とともに、10年経過した現在の復興状況の映像(都市や農漁村の暮らしの状況、住宅インフラ等の回復状況、福島県産生鮮食料品の生産・流通、消費に至る一連の安全性のPR)などを淡々と流し、その上で、援助してくれた世界各国の人達に向かって、被災地はじめ多くの国民の御礼の声を届けたならば、本来の目的により近づいた大会になったのではなかろうか。(続く)


 

 

 

 

 

2021年9月13日 (月)

菅総理の功績と菅後の日本の政治(3)

2.コロナ禍での東京オリンピックとパラリンピック開催の決断(上)

◆2020年、新型コロナウィルスの世界的パンデミックにより1年延長となった”東京2020オリンピックとパラリンピック”。しかし1年経っても収まるどころか、型を変え質を変え猛威を振るった。一方、次第にその正体が判明し、ワクチンも開発され、日本でも高齢者・医療従事者にワクチンの接種が始まっていた。

◆そのような状況にあって、オリパラの開催に消極的、批判的な動きが起こった。「国内すべて自粛ムードの中にあって、何故オリパラだけはOKなのか。海外からさらに持ち込まれて感染拡大したら誰が責任をとるのか」こうした声に本来積極的対応をするはずのメディアまで同調したかのような動きを示した。立憲民主党の枝野代表は「選手や関係者の来日は世界の変異株の展示会みたいになる」とまで、反対論帳を展開した。

◆その背景には、様々な不祥事、会長交代、競技場の設計変更、会場地の変更、聖火リレーの大幅予定変更、ボランティアの相次ぐ辞退などマイナス・イメージが働いたことも否めない。だが、こういう状況にあっても筆者は「始まってしまえば、日本は旨くやれる。メディアも豹変し、選手の活躍、躍動をを伝え、国民はテレビを通して感動を覚える。そうなるはずだ」と確信していた。

◆しかし、開催か再延長か、それとも中止して開催返上か、大きな決断を迫られた。IOC、組織委員会、東京都、そして国を代表する総理大臣、様々な重圧があったと思われる。そして決断の時が来て、最終的に無観客開催に決定した。少し失望したが、開催延期や中止するよりはましだった。この裏には菅総理の決断が大きく働いたと確信する。(続く)

2021年9月12日 (日)

菅総理の功績と菅後の日本の政治(2)

2. コロナ対策とワクチン接種
◆世界的パンデミックを惹き起こした武漢ウィルスへの対応問題。そもそも日本は医療大国で病院・病床数とも多く、国民皆保険制度、衛生観念の高い国民性として誇れるものを持っていた。日本は毎年冬になるとインフルエンザが蔓延したり、最近ではサーズ、マーズ、鳥インフルなどが世界的に流行しても、それなりにワクチンや治療薬などを開発して、大きなパンデミックになることもなかった。即ち、日本は感染症に対する過信みたいなものがあったのではないか。しかし、今回の新型コロナには通用しなかった。かつて、天然痘、コレラ、スペイン風邪など当時の医療では対応できないパンデミックが歴史上何度も起こったが、今回の新型コロナウイルスは当時とは比較にならぬ程発達した現代医療においてさえ、結果的に100年前のスペイン風邪をも上回る感染者数を出した。このウィルスは発達した現代科学をあざ笑うかの如く、姿を自在に変化させ、増強していった。

◆強固と思われた日本の医療体制が、実は検疫体制の不備、合理化に伴う保健所の機能の低下、利益優先の医師会と偏った医療政策、公的病院の数的脆弱さ、ワクチン・新薬開発に伴う公的資金の不足、中央と地方の役割と連携の在り方など、今回の新型コロナ禍がまざまざと日本の医療体制や医療行政の問題点を浮き彫りにして、国民の前に曝け出した。

◆その結果、これらの対策が後手後手になったという批判があるが、まず誰が指揮をとっても上手く行かなかったことは、多くの海外の例をみても明らかだろう。何故ならこうした危機を予め予測して、危機に備える体制、対応策をとっていた国など皆無だからだ。こうした中に在って、ワクチン接種に関しては、数の確保、接種の促進について菅内閣は先進諸国に比し出遅れ感はあったものの、外交努力と超法規的処置をとって、河野ワクチン担当大臣さえ首を傾げた1日100万人の接種を実現した。こうして9月10日には全国民の5割が2回目の接種を終え、月末には6割の人の終了が見込まれている。また65歳以上の8割が月末までに接種を終える見込みだという。この裏には打ち手不足を見越して、自衛隊や救急看護師、歯科医師まで超法規的に活用した菅さんのリーダーシップが見て取れる。

◆問題は、ワクチン接種の効果が顕れはじめ、収束に向かいつつあると見られる10月、11月、即ちポスト菅後の新政権の対応だ。誰が総裁に選ばれるとしても、医療体制の見直し、再構築、ワクチンや治療薬国産化に向けた体制と予算措置など、喫緊の課題だ。「鉄は熱いうちに打て」という。放っておけば「のど元過ぎれば熱さを忘れる」国民性だ。時期総理総裁はこの辺りを第一に考え、実行に移さなければ、すぐに支持を失うことになってしまうだろう。(続く)

 

2021年9月11日 (土)

菅総理の功績と菅後の日本の政治(1)

はじめに
◆菅総理の自民党総裁選への突然の不出馬宣言に伴って、政局の動きが一変、TVは連日のように候補者の一挙手一投足を報じ、誰が勝つかの報道に余念がない。菅さんの支持率は発足当時の70%から30%前後に大幅に下落した。しかし、謂われる程にダメな総理だったのか。メディアはだめな部分ばかり強調し、実績は殆ど報じない。

◆ちょうど1年前、安倍総理の体調不良による突然の辞任に始まり、当時官房長官だった菅さんは、9月2日総裁選出馬に名乗りを上げた。「この人は参謀型・実務型の政治家でいわゆるトップに向いているのか、生真面目だが口下手で、後々それがマイナスに働くのではないか」とその時には思った。ところが9月14日の総裁選で、安倍・麻生氏らの支持を受けた菅さんは「あれよ、あれよ」という間に、岸田・石破両氏を破り、新総裁に就任、9月16日に第99代内閣総理大臣に就任した。

◆もともとリリーフ登板を自認し、安倍元総理の路線を引き継いで、「国民のために働く内閣」、「仕事師内閣」を前面に打ち出した。その朴訥で飾り気のないスタイルは「好意的に受け取られ、スタートしてから暫くは70%の支持を得ていた。その菅内閣が1年経った今、30%前後の支持率まで下がった。総裁続投の意思はあったはずだが、多弁を弄することもなく、男は黙って勝負するかのように、突然出馬を取り止めることになった。「やれ、無責任だ、途中で放リ出した」などと非難を浴びた。果たして本当にそうなのか、本稿では菅内閣の功罪と実績を具に見てみようと思う。そして新総裁・総理に求められる課題は何なのか考えてみたい。(続く)

2021年5月12日 (水)

路面電車、長崎から小田原へ里帰り

◆「長崎市内を走っていた路面電車が小田原市に里帰りした」と話題になっています。長崎の市電はいろんな意味で全国的に有名です。私が小学~高校の頃(昭和25年~38年頃)、市内を走っていた電車の中には、全国で廃止された路面電車が再利用され、再び活躍の場を見つけたものがいくつもあったようです。そうした中で、昭和31年5月、小田原市内の路面電車の廃止に伴い、うち5両が長崎市に譲渡され、昭和32年から昭和60年頃まで現役車両として活躍していたそうです。
このほど、長崎の浦上車庫に残っていた最後の車両を小田原に里帰りさせる計画が、関係者の努力と長崎電気軌道の協力のもと実現しました。
2019年3月に長崎で「さよなら運行」して、2020年12月小田原に里帰りしました。本年2月に小田原城近くの国道1号線に面した報徳広場に設営・保存されています。車体のスカイ・ブルーは小田原市内を走っていた時のカラーとのこと。

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◆実はこのチンチン電車、もっと深い歴史があったのです。誕生は大正15年(1925)、最初の勤務地は東京王子電気軌道(現都電荒川線)でした。その後昭和27年(1952)に小田原市の路面電車に転身。ついで昭和32年(1957)から長崎勤務となり、晩年はまだ走行可能の状態で、浦上車庫内で余生を暮らしておりました。その間木製から鉄製に改修されるなど、何度か手を加えらましたが、2019年の長崎での「さよなら・ラン」を最後に、94年の長い歴史の幕を閉じることになりました。大正、昭和(戦前・戦後)、平成、令和と大きく変わる歴史の流れを見続けた貴重なチンチン電車だったと言えるでしょう。

2_20210512110301 (手前の像は二宮金次郎像)

 

2021年3月24日 (水)

桜を詠んだ古今の名歌(後)

2. 人の心・人生などを歌ったもの (続き)

花見にと 群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがには ありける   西行法師

明日ありと 思ふ心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは          親鸞聖人

敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜花             本居宣長
    (日本人の美意識、武士道精神を謳ったもの、最も好きな歌のひとつ)
いざ子ども 山べにゆかむ桜見に 明日ともいはば 散りもこそせめ     良寛

3. 恋愛など男女の心の綾を歌ったもの

あしひきの 山桜花日並びて かく咲きたらば いと恋ひめやも      山部赤人

春霞 たなびく山の 桜花 見れどもあかぬ 君にもあるかな       紀友則

山桜 霞の間より ほのかにも 見てし人こそ 恋しかりけれ        紀貫之

乙女子が 袖ふる山に千年へて ながめにあかじ 花の色香を      豊臣秀吉
   (女好きの秀吉らしい歌だが、家康は同景で上品な歌を残している)
咲く花を 散らさじと思ふ 御吉野は  心あるべき 春の山風      徳川家康

清水へ 祇園をよぎる桜月夜 今宵逢ふ人 みなうつくしき       与謝野晶子

4. 人の死と桜

願わくば 花の下にて春死なむ その如月の 望月の頃         西行法師

散る桜 残る桜も 散る桜                        良寛

風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残を いかにとやせむ     浅野内匠頭

 Dscf2089 本稿終り
 

  

桜を詠んだ古今の名歌(前)

今年は例年になく開花が早いようだ。小田原の見ごろは今週末頃か。しかし、今年も昨年同様、コロナの影響でお花見宴会はご法度。近くの桜の名所を逍遥し、古今の桜に纏わる和歌を想起して花を愛でようか
「日本人と桜は」いにしえより、深い縁で結ばれている。人はそれを和歌、短歌、童謡、歌謡など様々な形で表してきた。満開の桜を歌ったもの、情景の美しさや散り際の美しさ、人の心の中に分け入って、人生、恋愛、死、無常などの心理描写を歌ったものなど、数々の名歌がある。その中から自分の好みの20余首を選んでみた。

1. 桜の花の情景を歌ったもの

青丹よし 奈良の都は 咲く花の匂うがごとく 今盛なり         小野老

いにしえの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな      伊勢大輔

桜花 咲きにし日より 吉野山 空もひとつに かほる白雪       藤原定家

うすべにに 葉いちはやく 萌えいでて 咲かむとすなり 山桜花    若山牧水

さくら さくら 弥生の空は 見渡す限り
    霞か雲か 匂いぞ出ずる いざや いざや 見にゆかん      日本古謡

2. 人の心・人生などを歌ったもの

世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし      在原業平

花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 小野小町

高砂の 尾上の桜 咲きにけり とやまの霞 たたずもあらなむ     大江匡房

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ        紀友則

 (以下後編)

  


 

 

 

2021年3月12日 (金)

少年時代の心象風景(6)最終回

第六話 幻の荷馬車にぶら下がる。
◆中学校に上がって、通学距離がかなり伸びたが、30分とは掛からなかった。道路も次第に整備されて行った。アスファルト舗装される前の通学路。下校途中に屡々、大きな荷馬車に出くわした。馬方さんに曳かれ、尻尾を振り振り歩いていく。ある日、「今日は何も積んでいない。空だ。」友人たちと目配せして、一人が荷台の後ろにぶら下がる。また一人、更に一人。その雰囲気が馬方に伝わったのか、こちらを振り返ると、凄い形相で睨みつけ、大声で「コラッ!」と怒鳴られる。いったん、謝ってまた別の日に同じことを繰り返す。
何の変哲もない風景だが、田園風景ではない。古びたトラックやオート三輪も通る。周りは人家や工場、崖などが連なる。間もなく完全舗装され、バスが走るようになった。僅か1~2年の短い間の出来事だったが、なぜか忘れられない光景となっている。

第七話 貯木場で材木乗り
◆同じく、下校途中の道草の話。通学路の道路沿いに浦上川から水を引いた大きな貯木場があった。ラワン材などの角材が数本ごとに繋がれ、筏のようだった。大きな丸太もあった。これらの木材は輸入木材だったのだろう。この木材に乗り移ってユラユラ揺らす。木材の間から水面が見える。かなりのスリルだが、子供たちは無鉄砲だった。今では考えられない行為だが、当時は注意する人も殆どいなかった。これらの貯木場は現在は三菱重工の野球グラウンドやスポーツ施設、クラブハウスなどになっている。

第八話 工場の中のレトロな機関車
◆浦上川沿いの通学路の対岸は戦前から大きな製鋼所があり、戦禍で一旦破壊されたが、戦後すぐ復興した。我々が通学する頃は最盛期となり、1日中大きな音を立てて活況を呈していた。その工場の中を小さな機関車がコマ鼠のように動き回り、何か物は混んでいる。その機関車は教科書等で見る明治5年、新橋~横浜間を走ったあの機関車そっくりに見える。工場の中をSLが走る・・それだけで見ていて面白かった。
◆そもそも長崎はSL発祥の地だった。1865年、ト-マス・グラバーは西欧文明のデモンストレーションのためか、商売に直結させるためか、同年4月大浦海岸において、蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせた。当時の人は度肝を抜かれたことだろう。それからわずか7年後、東京~横浜間の鉄道を実用化したのだから、恐るべき能力の高さと言えよう。

【終わりに】今まで6回に亘り少年時代の取り留めもない話題を縷々綴ってきた。自分だけの脳裏に刻まれた風景を残して置きたいという思いで文章に記した。思えば、我々が少年時代「鉄腕アトム」などで見た夢物語だった未来の世界が、今悉く具現化されている。その間わずか60年~70年。文明の進化は留まるところを知らないようだ。その反面、あの頃の人と人との繋がりや絆は希薄になってきたようだ。これからの未来はどうなっていくのか、いくつかの憂いを抱えながら筆を折る。(本稿終り)

2021年3月11日 (木)

少年時代の心象風景(5)

第五話 シーボルトの軍服に接す

◆1955年、小学6年の時だった。担任の先生がI君と私を呼んで、長崎県立図書館が主宰する「市内の小学校の子供会」を作るということで、参加を勧められた。主に市内中心部の小学校の生徒17,8名が集まった。図書館の指導員数名のもとで、子供たちの自主性を尊重する形で、童話会、人形劇、コーラス、レクレーションなどを企画し、運営するコアのメンバーとして役割を持たされたが、ここではそのことが主題ではない。

◆当時の長崎県立図書館長は森永種夫さんといって、有名な郷土史家であり、高校、大学で教鞭に立ち、長崎奉行所に残された膨大な判決記録を解読して、その記録を「長崎犯科帳」として世に出した大変な学者だ。後にこの書をもとにTVドラマや映画ができたことは有名な話。
森永館長は大変温和な方で、我々子供達にも一人前の大人を扱うように接してくれた。図書館は大正時代にできた古びた洋館だったが、原爆によって本館西側が被災されたとのことだったが、この当時は緊急的に原状復帰されていた。

◆ある日、森永館長が普段は見られない蔵の中を特別に案内してくれた。薄暗い蔵の中、カビの臭いが鼻に衝く。そこには江戸時代の長崎奉行所から引き継がれてきた膨大な裁判の記録がうず高く積まれていた。目を引いたのがモールで飾られた軍服だった。シーボルトが着用していた軍服だという。その他にも彼が愛用していた日用品や文具などが多数あった。まさのこの時の体験が、数年前に読んだ吉村昭著の「ふぉん・しいほるとの娘」で臨場感が蘇ってきた貴重な体験だった。

◆5年後(1960年)、この古い建物は新しく立て替えられた。新装なった図書館には高校時代に何度か行ったが、特に記すべきことも無い。その後60年ほど経って県立図書館は大きく様変わりをすることをネットで知った。図書館部門は大村市に移転し、大村市図書館と合体して新しい県立図書館となり、2019年10月にオープン。史料関係部門はすでに近接する「長崎歴史文化博物館」に合体して、郷土資料センターとして、この5月にオープンするという。65年の時の流れはあっという間だ。しかし、確実に変化している。(続く)

2021年3月10日 (水)

少年時代の心象風景(4)

第四話 キリシタンの島の漁村風景
◆前回触れたネズミ島の対岸に小瀬戸という集落があった。(現在は小瀬戸町)ネズミ島との間は100mもなかった。桟橋からは海底の白砂が透き通って見えていた。子供の頃の話だが、小瀬戸の先に神ノ島という集落があった。この島に祖父母の家があって、幼稚園に通う間この家に住んでいた。戦前からこの島と小瀬戸の間を埋立て、陸続きにする工事が始まっていたが、戦争のため、中断されていた。

◆小学校の頃、神ノ島に行く手段は大波止から30~40分かけて、定期便に乗るしかなかった。勤め人も学生も皆利用していた。神ノ島~小瀬戸間は干潮時には大きな岩や石が姿を現し、満潮になればその一部が水面に頭を出すという状態だった。埋立て完了から何十年か経って、現在では広大な敷地に工業団地などが建っている。市の中央部から神ノ島町までのバスの便は格段に良くなっている。

◆話を子供の頃の神ノ島の体験に戻す。毎年夏休みには10日ほど弟と島で過ごした。近所の子供たちと裏の磯に行っては、泳いだり、潜ったり、巻貝などを獲ったりした。腹が減っては近所の子供が近くの畑からさつま芋を掘り出し、海水で洗っては「食え」と差し出す。生のまま齧った。収穫物は持ち帰り茹でてもらって、おやつになった。また大人たちの櫓漕ぎの小舟に乗せてもらって、釣りもやった。小魚が結構釣れた。赤銅色に焼けた青年が鉾を持って船から飛び降り、潜った。しばらくすると、鉾先にはクネクネと動く大きな蛸が突き刺っていた。今から思えば、貧しいながらも豊かな自然と共存した生活は、貴重な財産となった。

◆島の住民のほとんどはカソリック教徒。日曜日には島の中央にある教会に集まる。ミサが始まるが、これは苦手だった。通った幼稚園はこの教会の付属の幼稚園だったが、クリスマスのこと、学芸会の事、幼稚園の下の磯で遊んだことなど心象風景として残っている。
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磯浜で遊ぶ幼稚園生、女の子は着物姿が多い。マリア像は今も外港を見ている。

◆長崎港を囲む古くからの漁村や集落は、それぞれペーロン(ボート競走艇)を擁し、各漁村の名誉をかけて夏のペーロン大会に臨む。初夏から各艇は青年・壮年混合チームを作り、夕方から練習に余念がない。小学校1,2の頃、このペーロンに載せてもらったことがある。心地よい太鼓のリズムと船の揺れが子守歌になったのか、つウトウト眠ってしまった。文字通り波枕とはこのことだったのか。
余談だが、西高時代の同期のJ君は長崎大学時代、居住していた地域のチームに勧誘されてペーロンを漕いだという。定年後に聞いた話だが、羨ましい限りだった。ペーロンは現在では市内の企業、学校なども参加する一大行事となっている。(続く) 

2021年3月 9日 (火)

少年時代の心象風景(3)

第三話 ねずみ島遊泳教室の話
◆長崎港(大波止)を出港し、長崎の新ランドマークとなった「ながさき女神大橋」をくぐって、約4km、港口の西側に、かつて「ねずみ島」という市民に親しまれた小島があった。今は島の跡かたもない資材置き場と埠頭に変わっている。ただ島の中央部分にこんもりと茂った部分だけは残り、小さな公園になっているようだ。昔の姿を知っている人に対するエクスキューズみたいなものか。

◆「ネズミ島」・・変なネーミングの島だ。その謂れは、天領長崎深堀陣の真北(の方)にあたるからネズミ島だとか、そもそも鼠が多かったとか、対岸の小瀬戸に不審船を見張る番小屋があって、不寝番(寝ずの番)をして張ったからだとか諸説あるが、もっと簡単だと思う。誰が見ても島の形が鼠そっくりなのだ。細い砂州のようなものは尻尾そのものだ。

◆このねずみ島を水泳訓練・指導の場として設立されたのが、なんと明治35年(1902)。これが今に続く「長崎遊泳協会」だった。古式泳法を通して心身を鍛える水泳の道場ようなものだった。時代を降るに従い、新時代の競泳泳法や遠泳なども取り入れ、また長崎初の海水浴場としても広く市民に親しまれていった。戦時中と戦後の一時期に中断されたが、昭和22年(1947)、早くも再開された。

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長崎市制施行100周年史より(この船に乗ってネズミ島に渡った) 

◆小学校の3年か4年生の頃(昭和27,28年)、この遊泳会の初心者クラスに入れてもらった。籐のバスケットにお握りとおやつ、水筒を入れ、木札(許可証のようなもの)を持って友だちと一緒にダンベ船に乗り、島へ渡った。泳ぎの事はよく覚えていないが、何日かして中耳炎に罹り中断した。短い水泳教室だったが、その後、年1,2回は家族でねずみ島に海水浴に出かけた。忘れられない光景だ。

◆経済環境の変化はネズミ島周辺をも大きく揺るがすことになった。平地が少ない長崎は島を削り、周辺を埋めたて、陸地を増やしていくことが宿命のようなもの。昭和47年(1972)ネズミ島での水泳道場は70年の歴史を閉ざし、閉鎖された。翌1973年、長崎遊泳協会は市民総合プールに移行して、生徒数6000名を数える全国有数の水泳教室となった。

◆長崎遊泳協会は2004年、特定非営利法人(NPO)「長崎遊泳協会」となった。その組織の立ち上げに尽力したのが、1994年に理事長に就任した田中直英氏である。曾祖父の代から営々と水泳の普及、青少年の心身の鍛錬、会の維持・発展に活躍され、まさにボランテイアの先駆けだった。田中氏は我が西高同期生で、長崎人らしい面倒見のよい人物である。同窓会の世話役以外にも、長崎の教育界、経済界、商店街の発展などに大きく寄与してきた人物。地域社会からおおいに頼りにされている。長崎遊泳協会は来年創立120周年を迎えるということで、現在記念行事の準備に忙殺されているとのこと。
(参考資料:「長崎遊泳協会H.P」) ☆検索キーワード:「長崎遊泳協会」

2021年3月 8日 (月)

少年時代の心象風景(2)

第二話 道路工事のトロッコで遊ぶ

◆瓦礫の中の不思議な池の近くは、その後道路工事の現場となり、デコボコ状態が1kmほど続いていた。終戦後のことであり、まだ建設機械は少なく、人手に頼っていた。後年美輪明宏が長崎の宅地の基礎工事を歌った「ヨイトマケの唄」を出したが、この頃以降各地で見られた光景だった。道路工事では、牛馬や人がローラーで地面を均していた。泥を山盛りにした「トロッコ」を工夫が操縦しながら運んでいく。この光景が面白く、何時間も飽きもせず眺めていた。

◆ある日、工事が休みの時だった。悪ガキたちと一緒にトロッコに乗ってみようという事になり、見よう見まねで動かしてみた。ゴトッと音を出して動いた時は嬉しいという気持ちと同時に怖くなった。遊びはそこで中止し、一目散に逃げ帰った。高校時代に芥川龍之介の短編「トロッコ」を読んだ時、主人公の少年の心理とその時の自分の心象が重なり、彼の気持ちがよく理解できた。

◆因みに芥川の短編「トロッコ」は明治29年に建設された「豆相人車鉄道」を「軽便鉄道」にランクアップするためのレール拡幅工事を題材にしたものだった。明治41年に開通したSL「軽便鉄道」は熱海~小田原間を通るもので、現在の東海道線とは全く違う別物。今では車道となっているが、それも旧道となって、裏道的な存在となっている。

◆話を戻すと、この工事で完成した道路は現在では稲佐橋から三菱長崎造船所方面に延びる国道202号となり、メインのバス道路でもある。工事中の現場で遊んでいた西側に急勾配の数十段の階段がある。この階段の上から数10mのところに我が家があった。昭和26,7年頃の道路建設以前は崖そのものだった。道路工事の進展に伴い階段工事も進んだ。コンクリート舗装の前に土の坂に変わりつつあったが、いたずら小僧たちはこの急坂が格好の遊び場だった。板切れやダンボールをソリに見立て、坂を滑り降りては興じた。これも心象風景のひとつである。(本稿終り)

2021年3月 7日 (日)

少年時代の心象風景(1)

人には心に刻まれた心象風景というものがある。その風景を甦らそうとしても現実には不可能である。しかし脳裏から消え去ることは無い。むしろ年輪を重ねるにつれ、色濃く蘇るのである。生まれてから高校卒業まで長崎で過ごした。特に少年時代の思い出の中に、印象的ないくつかの場面がある。そうしたものを今のうちに記録に残して置きたい。(以下はこのシリーズの予定です)

第一話 瓦礫の中のオアシス
第二話 道路工事のトロッコで遊ぶ
第三話 ねずみ島の遊泳教室の話
第四話 キリシタンの島の漁村風景
第五話 シーボルトの軍服に接す
第六話 幻の荷馬車にぶら下がる
第七話 貯木場で木材乗り
第八話 工場の中のレトロな機関車 

第一話 瓦礫の中のオアシス
◆戦後の混乱がまだ多少残っていた昭和25年(1950)、長崎駅から徒歩15分ほど、稲佐山の麓の小学校に入学した。長崎港外の疎開先から、元住んでいた町に親子4人で越してきたが、以前の事は1~2歳のことであり、一切記憶にない。戦後5年経ったとはいえ、アチコチに戦争の爪痕は色濃く残っていた。人々の暮らし向きは楽ではなく、粗末な家に住み、食糧不足は続いていた。しかし幼い子供にとっては目に入るものすべてが現実であり、当たり前のように受け取る。そしていつの世もそうだが、子供は何処でも遊び場所を見つけ、遊び方を工夫し、元気に飛び回っていた。

◆我が家から10分もかからない浦上川河口沿いの焼け跡に、コンクリートの瓦礫が山のように積まれてあった。子供の眼からは10m以上あるように見えたが、実際には5~6mだったかもしれない。近所の悪ガキ数人で、「この上はどうなっているか探検しよう」ということになり、よじ登ってみた。難なく登れたが、頂上部の瓦礫の間から見えるその光景は全く想像を超えるものだった。

◆そこには想像もしなかった大きな池が広がっていた。しかも透明できれいな水だ。表面にさざ波が立っている。池の大きさは直径30mもあっただろうか。しかし、魚影はもちろんの事、水草の1本も見えない。不気味と言えば不気味。この水はどこから来たのか。雨水が溜まったものなか?不思議と言えば不思議な話だ。昭和25,6年頃の話だが、もう少し探求心があれば科学者になっていたかも(?)この瓦礫はしばらくして綺麗に片付けられ、その後バス会社の車庫やコンビニ等に様変わりしたようだ。(本稿終り)

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