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2019年6月16日 (日)

松の嘆き

  ◆東海道の松並木と言えば、広重の「東海道五十三次」を思い出す。全55図の内、4分の1の図柄に「松」が主軸に描かれ、また遠景に配置されたもの、その他の樹木と併用されたものを含めると、約半数に及ぶ。「松」は東海道のイメージ創出に大きな役割を占めていると言えるだろう。 「小田原宿」をテーマにした「酒匂川の渡し」にも遠景に松が描かれている。現国道1号線に面した小田原市酒匂に転居してきて13年になるが、国道に面して推定樹齢70、80年から150年以上になる黒松が30数本立っていた。樹高は10mから20数mにもなるだろうか。

◆この10数年の間に3本ほどの松が大きな切り株を残して伐採された。一つは台風による倒木、一つは松くい虫による被害だろうか、切り株の中ほどに大きな空洞が見られた。もう1本は建物の邪魔になったのか、伐採された直径は1mほどあった。こうした状況にあって、先日、松の枝や上部を伐採する工事が行われた。複数の作業員を動員し重機を利用して交通規制をかけ、3日ほどの作業日数を要した。切っ掛けは、大きな枝が建物に掛かり危険性が増すこと。松が落とす大量の枯葉や松かさの清掃の手間、台風等による大枝の落下や倒木の危険性、そして通りに面し松に隣接する建物や店舗からの要請が大きかったと思われる。
Dsc_0034 伐採作業中
◆工事が終わり、マンションの6階から見ると、見通しは確かに良くなった。しかし、枝落しされた松の傍らに立って見上げると、上半身を切断されたような、腕がもぎ取れたような、無残さを感じてしまう。無傷の松は5~6本になってしまった。
時代が幕末から明治になって、今や令和を迎え150年余が経った。世の中は大きく様変わりし、自然環境も大きく変わった。東海道の象徴だった松並木が次第に姿を消していったのも、時代の流れだったのだろう。今回部分伐採された松たちも、かつては東海道を行き来する旅人を眺めつつ、文明の変化を身をもって感じていたのかもしれない。
  Dsc_0032 伐採作業中
 
◆「松」は岩や砂だらけの海岸地帯のような荒地であっても、潮風に強く、風雪にも耐え、時間をかけて大きく成長する。肥沃な土地や堆肥などは苦手というから質実剛健そのものだ。松並木では日陰を作り旅人を和ませてきた。また防風林の役目を果たし、暮らしを守ってきた。日本各地で「白砂青松」と言われる景勝地を作り出し、日本の原風景のひとつにもなった。ところが昭和40年前後から、高度経済成長の影響だったのか、松の樹勢が弱まり、松くい虫が増え、「枯れ死」が問題視されるようになった。さらに道路の拡張、都市計画の進展で、松はドンドン伐採されていった。結局松を活かすも殺すも人間の都合によるもの。一抱えもある伐採後の松の枝の断面を見上げて、そんなことを考えさせられた。

Dsc_0046_1 伐採後の姿

2019年6月12日 (水)

《道東ツアー》 独断 ’ベストスポット’ ランキング (下)

前回に続いて、ランキングの4位から8位までをUPしました。

第4位】 尾岱沼の遊覧と野付半島のトレッキング
オホーツク海の大自然が造った最大級の砂州尾岱沼。尾岱沼港から小さな遊覧船で対岸のトドワラ桟橋まで渡る。途中アザラシ一家が干潟で寝そべってこっちを見ている。のどかなものだ。下船後野付半島ネイチャーセンターまでトレッキング。30年前は白く立ち枯れした多くのトドワラを観たが、今では数本経っているのみ。その代り原野が大きく広がった。短期間の自然の大きな変化を実感する。狭い道には両側にブッシュが広がり、ハマナス、エゾカンゾウなどの花々が見られ、空にはヒバリがさえずり、灌木の中で郭公が鳴いている姿を堂々と見せている。30年前には建物など考えられなかったが、立派な野付半島ネイチャーセンターが迎えてくれた。

【第5位】 釧路湿原の木道散策とノロッコ号からの湿原観察
今回の旅行の目的のひとつが「丹頂」との出会い。風連湖の展望台やバスの車窓から数回その姿を見た。釧路湿原は雨の中、ネイチャーガイドの案内で木道散策したが、見えず。さらに釧路駅からノロッコ号で釧路湿原を観察、最後の最後に比較的近くで丹頂のペアを発見したことはラッキー!

【第6位】 知床の自然、ウォーキングトレイル
知床自然センターからベテランガイドの案内で、約2時間のトレイル。森と草原を抜けた先に断崖絶壁の上部に至る。午前中海上から見上げたフレベの滝を見下ろす。眼下にオホーツク海が広がる。知床連山(羅臼岳から知床山に至る)の眺望がすばらしい。

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フレベの滝絶壁からオホーツク海を見下ろす。

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知床連山右端が羅臼岳、左端は知床岳 。

【第7位】 知床五湖 高架木道散策
知床五湖フィールドハウスから高架木道を通って、知床五湖に至る。よく整備された木道にはクマよけの電柵が張り廻らされている。今回は時間の都合で第一湖のみ。雪渓が残る知床連山の姿が素晴らしい。
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知床五湖から知床連山の北の端、知床岳を望む。

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知床五湖から知床連山の羅臼岳(右端)を望む。


【第8位】 厚岸味覚ターミナルの海鮮炭火焼バーベキュー
海を見下ろす高台のレストラン「コンキリエ」で、厚岸特産の大振りの牡蠣、初物の大振りのサンマ、シャケ、ホタテ、シシャモ、ハマグリなどの炭火焼は豪華。特に焼牡蠣の美味しさは絶品。これぞ北海道!

今回の「道東の秘境を巡る3泊4日の旅行」はほぼ満足のいくものだった。(終)

2019年6月11日 (火)

《道東ツアー》 独断 ’ベストスポット’ランキング(上)

先週、「道東の秘境を巡る3泊4日のツアー」に参加した。北海道東部は過去3度ほど訪れていたが、今回は季節も異なり、初めて訪れたところもある。今回の旅行でベストスポットを独断でランキングしてみた。

【第1位】 屈斜路湖温泉近くの津別峠での星空観賞
標高900mの峠はまだ寒さが残っているが、天候に恵まれた満天の星空の元、北斗七星や白鳥座などが驚くほど明るく大きく見えた。夏の大三角形をなす白鳥座のデネブ、こと座のベガ(織姫)、わし座のアルタイル(彦星)、さそり座、天の川などはこの時期・この時間(8:30~9:30pm)はやや低い位置にあったが、都会ではなかなか見られない夜空であり、ほぼ満足。

【第2位】 知床半島の最突端、知床岬までのクルージング
冬季は流氷観察で有名なオーロラ号に乗船して、知床半島の中間地ウトロ港から最先端の知床岬までの往復3時間45分のクルーズ。オホーツク海はナギで、漁師たちが利用する番屋以外、人を寄せ付けない大自然の地形が展開する。期待のクジラやシャチ、トド、ヒグマの姿は見られなかったが、イルカ、多くの海鳥などは見られた。火山活動が生み出した連続する断崖絶壁、奇岩、多くの滝は印象的。最先端の知床岬の先端部分にやや平地が見られたのは意外だった。
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オーロラ号から断崖絶壁と知床岳を見る
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知床岬先端と知床燈台(右側)

【第3位】 本土最東端の納沙布岬を初訪問
クナシリ島は30年前羅臼から望見した際、島の大きさや近さは実感した。今回は納沙布岬の先端に立って望見したが、島影はうっすら見える程度。むしろ歯舞諸島でもっとも本土に近い貝殻島燈台は納沙布岬から肉眼で見える程の(3.7km)近さに立っている。戦前、日本が海上航行安全のために硬い岩礁の上に設置したもの。
北方4島が旧ソ連に不法占拠された後、ロシア側の維持・管理が杜撰だったため、現在は傾いており、倒壊するのは時間の問題という。この灯台を遠望するうち、どう考えてもロシア領ということは納得できない。今も毎年日露漁業交渉が行われ、認可を得た小規模の漁船のみが高い入漁料を払って漁業を営むだけというから、理不尽であることこの上ない。この周辺の漁業は後継者問題もあり、廃れていく一方だ。この岬の突端に立ちガイドの説明を聞いて、改めて北方領土問題の深刻さを実感する。領土問題を象徴する大きなモニュメントの下には赤い炎がじっと燃え続けているが・・。(続く)
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納沙布岬灯台。左側に国後島がうっすら見える。
 
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北方領土返還を目指すモニュメント。下の台の上に赤い灯が燃えている。

2019年5月 4日 (土)

「平成」に積み残してきたもの

◆「令和」の時代が始まった。世の中が新しい気分になるのは結構なことだが、現実の世は1日で大きく変わるほど単純なものではない。平成の世に大きく変わったものは数多いが、変わらないのは日本の政治だ。戦後の一時期、昭和22年6月から翌23年2月にかけて、社会党片山哲を首班とする連立政権が成立したが、短命に終わった。以来昭和30年に、いわゆる55年体制と言われる保守政権の自民党対万年野党の社会党という構図が出来上がった。この体制は平成の世になり、同5年(1993)8月、野党8党・会派による「細川連立政権」が発足するまで、約40年続いた。

◆この間、金権政治、派閥政治、腐敗した権力構造などと批判されながらも、日米安保体制のもと、高度経済成長の波に乗って、国民の暮らしは向上し、日本の国際的地位は高まっていった。まさに昭和元禄と言われた時代だった。ところが、長く続いた一党独裁政権の弊害が顕著となり、政治改革が叫ばれるようになった。そうした中で「細川連立政権」が成立し、55年体制は崩壊したかに見えた。しかしこの政権は「反自民」というだけで集まった野合政権で、瓦解するのも早かった。一旦政権を失った自民党はなり振り構わぬ政権奪還を目指し、翌H6年6月に村山社会党委員長を首班とする「自社さ」連立政権を発足させた。

◆平成の世はバブルの絶頂期から始まり、バブルが崩壊すると、大震災・経済危機など数々の試練に直面。世界的には東西冷戦の終結で、安定した平和の時代の到来かと思いきや、逆に紛争や大規模テロが頻発、新たな無秩序が広がった。H20年にはリーマンショックという世界的金融危機が起こり、日本経済は出口が見えない長いトンネルに入ってしまった。政治の世界では政権交代可能な選挙制度の導入ということで、小選挙区制が施行され、3度の総選挙を経て、H21年(2009)9月、民主党が単独で過半数を大きく上回る大勝利を果たした。自民党以外の政党が単独で過半集を獲得した戦後初の政権が誕生。多くの人は(筆者も含めて)新しく発足した「鳩山内閣」に希望を託した。しかしその期待は後の菅内閣、野田内閣と三代続いた民主党政権に大きく裏切られる結果となった。

◆民主党政権の失敗は、沖縄辺野古基地の混迷化、東日本大震災と福島原発事故の対応の不味さ、尖閣諸島をめぐる対中国との稚拙な外交等、未熟さが表面化したものだが、要するに政策遂行能力の欠如、官僚機構に対する統治能力の欠如が主因だ。万年野党で染みついた批判体質、責任転嫁体質、財源の裏付けのない人気取り政策、バラバラの外交安保政策・・一口で言えば政権担当能力の欠如としか言いようがなかった。国民はバラ色の幻想を抱き、それに踊らされたが、その反動はH24年12月に第二次安倍政権が成立したことに現れた。その政権が6年4か月と史上最長の長きに亘って続いている現状を見ても、前民主党政権への絶望が大きかったことを物語っている。

◆今、野党は「安倍一強打倒!」とか「政権奪還!」とか「統一候補の擁立!」とか叫んでいる。離合集散を繰り返し、数の寄せ集めと「敵失と風頼み」で、「夢よ再び」という訳か。憲法、原発、外交安保などの各論になると意見はバラバラ、纏まらない。いや纏める気がない。奪還姿勢はポーズだけ、今叫んでいることは枝葉末節の事。前回敗戦の本質論に踏み込んでいない。国民は安倍政権に満足しているわけではない。政権担当能力のない野党よりは増しだという程度。本当に政権奪還を果たそうとするならば、目指す政権の旗印はこうで、顔はこうだ、と目に見える形で国民に示せるようでなけらばならない。結局、平成の世に積み残してきたもの、それは野党が政権担当時代に負った「多くの負の遺産」だ。その清算を果たさないまま、再度政権を任してもらおうなんてあまりにも厚顔無恥すぎる。

2019年4月25日 (木)

宇宙のことに思いを馳せる。(5)

宇宙に果てはあるのだろうか。あるとすればその先はどうなっているのか、誰でも一度は考える素朴な疑問だ。この問題を考える時、重要なのは宇宙の曲率時空の概念だと言う。
【宇宙の曲率】
地球を例にとって考える、地球は球形であるため、表面をどこまでもまっすぐ進むと、元いた場所に戻ってくる。即ち、果てがない。このような空間を「閉じた空間」と呼び、その曲率はになる。逆に曲率がの場合、またはちょうど0の場合には、その空間は無限に広がることになる。では、実際の宇宙の曲率はいったいどれくらいなのか?これまでの観測ではほぼ0(おそらくは0)であることが分かっている。空間を軸に考えると宇宙は無限大であると言えるだろう。

【宇宙の時空】
では、宇宙は無限なのかというと、もう一つの重要な軸である時間という次元を考えなければならない。宇宙は少なくとも、4つ以上の次元を持った時空間だ。従って、空間が無限大であっても、時間方向に果てがあるのかないのか、疑問が起こる。結論から言うと、その答えは「果てがある」ということだ。私達の宇宙は138億年前に始まったことが分かっている。それより前の宇宙は存在しない。但し、将来の方向には果てがあるかどうかはまだよく分かっていない。時間が有限であるということは、光の速さが有限である以上、観測できる範囲にも果てがあると言うことだ。「観測できる宇宙の果て」は地球から138億光年先にあることになる。

宇宙が始まる前】
宇宙に始まりがあったということは、その始まる前はどういう状態だったのかと疑問が湧く。宇宙が138憶年前のある瞬間に生まれたとする考えは、科学者にとって些か気持ちが悪いものらしい。宇宙が生まれた以降のことは物理学で理解できるが、物理学で理解できないその特別な瞬間《特異点》が存在すること自体、科学者にとっては気持ちが悪いことなのだ。このような特異点が生まれないような、より包括的な理論があるべきだ、と科学者は考える。宇宙の始まりという特異点を回避するための理論はホーキンス博士をはじめいくつか提唱されているが、未だ観測では確認されていない。
【宇宙の将来】

我々の宇宙は138億年前に始まったと考えられているが、ではこの先宇宙はいったいどのようになっていくのか。宇宙に終わりはあるのだろうか。様々な観測によって、現在の宇宙は加速度的に膨張していると考えられている。過去には膨張から収縮に転じて、最後には閉じる宇宙モデルや、無限の時間をかけて一定サイズに到達していく宇宙モデルなども考えられたが、現在では永遠に膨張を続けるという宇宙モデルがもっとも確からしいと考えられているようだ。しかし、この膨張を引き起こしているダークエネルギーの正体が未だに不明であることから、永遠にインフレーションが続くのか、あるいはあるサイズに達した段階で新たな状態に転移し、永遠の膨張とは違った展開になるのかは分かっていないと言う。私的には始めがあったのだから、終わりがある方がしっくりくるのだが・・。

 

2019年4月23日 (火)

宇宙のことに思いを馳せる。(4)

【宇宙の誕生を時系列的に見る】
宇宙はどのようにしてできたのだろうか。最も素朴な疑問で最も難しい疑問だろう。かつて宇宙は「無始無終の存在」、即ち始めもなく、終わりもないという見方もあったが、これは宗教的で科学的な説明とは言えない。宇宙が物質で構成されている以上、誕生があり、消滅もあるというのが現代宇宙論の主軸だ。宇宙は膨張しつつあるという事実は、もはや常識となっており、過去に遡れば宇宙は小さかったことを意味する。宇宙の成り立ちについて、JAXA宇宙航空研究開発機構のHPを参考に時系列まとめてみたが、実際にその過程を見た訳ではないので(笑)本当のところはよく分からない。
(1)今から約138憶年前、ビッグバンから宇宙は誕生した。
「無のゆらぎ」
から宇宙は誕生したと言う説が最も有力とされる。無のゆらぎとは、無と有の状態が両方とも同時に、ある確立をもって存在している状態を指す。無から有の状態になった宇宙の卵は、またすぐ無へと戻るのが普通だが、ある確立をもって無へと戻らず急激な膨張を始める宇宙があったと考えられている。それが、宇宙の始まりの瞬間、ビッグバンだ。ひとたび膨張を始めた宇宙は、その誕生直後に急激な膨張期、インフレーション期を迎えて、その長い歴史の第一歩を踏み出した。
(2)はじめの3分間で、宇宙の基礎ができあがった。
現在の理論では、誕生の100分の1秒後の宇宙は、超高温(1000億度)・超高密度で、大量の光子、ニュートリノ、電子の中に少数の陽子や中性子が混じった混沌とした状態であったとされ、この状態を「光の海」と呼んだ。
(3)3分46秒後、温度が9億度まで下がり、原子核の結合が見られた。
ヘリウムや水素の原子核の結合が安定して起き、このあと長い時間をかけて宇宙が冷えていき、銀河のもとになるガスができてきた。
(4)34分40秒後、温度は3億度、水素とヘリウムの比率は7:3となった。
現在の宇宙にある物質は、およそ3:1の重量比率の水素とヘリウムで構成されている。他の物質は、水素やヘリウムに比べればごくごくわずかに過ぎない。
(5)38万年後「宇宙の晴れ上がり」。温度3000度まで低下。
宇宙が誕生した直後の高温高圧の宇宙は、不透明な世界。宇宙全体を満たすプラズマが光の直進を妨げていたからだ。温度が3000度まで下がると、光が直進できるようになり、遠くまで見通せるようになった。これを「宇宙の晴れ上がり」と言う。
(6)100万年~10億年後、原始銀河が誕生。
近年の観測の結果、宇宙誕生から10億年後には、すでにある程度の大きさの銀河が多数できていたことが解ったという。即ち、125億光年の彼方にある銀河の様子を観察したところ、我々の銀河の25分の1ほどの小さいサイズの銀河が多数発見された。これらの銀河は生まれたばかりの銀河だと考えられている。このような小さな銀河が、その後100憶年もの時間をかけて合体・衝突しながら、私達が住む天の川銀河のように、10万光年ものサイズがある大きな銀河へと成長してきたと考えられている。
《評》億年単位のアバウトな宇宙の歴史にあって、無から有への誕生の瞬間が10のマイナス37乗秒後からマイナス35乗秒後のわずかな間に、一気に10の43乗倍の大きさに広がるという精緻な世界が特定できるということが理解の範囲を超えている。まさに宇宙の神秘だ。

2019年4月15日 (月)

宇宙のことに思いを馳せる。(3)

4月11日の朝刊各紙は「ブラックホールの撮影に初めて成功」というニュースが写真入りで大きく報じられた。このブログの宇宙シリーズの3回目はブラックホールを取り上げようと思っていた矢先のグッドタイミング。今から104年前、アインシュタインが「一般相対性理論」を発表、翌年ドイツの学者がそれを基にブラックホールの存在を予測した。しかし、その実態は重力が強すぎて光すら脱出できないので、「存在すれども姿は見えず」という謎の天体だった。そもそもブラックホールというから、形状は穴のようなものかと思いきや黒い球状のようなものだという

◆今回撮影に成功したのは地球から5,500万光年離れた「M87」という楕円銀河の中心部にある巨大なブラックホール。黒い穴の中心に太陽の65億倍の質量を持つ本体があるという。地球から最も近いブラックホールは我々の「天の川銀河」の中心にあり、2万6000光年の距離にある「いて座Aスター」と見られている。質量は太陽の400万倍もあり、この画像の撮影にも挑んでいるそうだが、早く成功して欲しいものだ。

◆さて、ブラックホールはどのようにしてできるのだろうか。超新星爆発を起こすような重い星の中でも、太陽の20倍を超えるような非常に重い星の場合、爆発後に残される中心核は自らの重力に耐え切れず、さらにドンドン潰れていく。こうして極限まで潰れた非常に密度の大きい天体が、ブラックホールと呼ばれる。
爆発した星の外層部分は宇宙空間に飛び散り、超新星残骸となって広がっていく。一方、中心部は超高温・超高密度の星、中性子星として残る。中性子星は太陽ほどの重さがあるが、その半径は10km程と大変小さい。太陽のような比較的軽い星が最後に辿る白色矮星の密度は1㎤あたり10t程と驚異的だが、中性子星の場合はなんと1㎤あたり、その100万~1000万倍というから想像を絶する。こうした中性子星の中の特に密度の大きいものがブラックホールの有力候補とされ、1970年に「はくちょう座X-1」がはじめてその候補に上がった。現在では観測が進み、ブラックホールの候補になる天体が10数個見つかっているという。

◆超新星の爆発の記録は、日本でも藤原定家の日記「明月記」に見られる。1054年、空に突然明るい星が現れ、昼間も輝き続けて3週間上も続いた。この記録はアメリカの先住民が描いたと思われる壁画にも残っている。太陽10億個以上の明るさに匹敵するその光は、おうし座の超新星(SN1054)が爆発したときのもの。その時の残骸が「かに星雲」と呼ばれる惑星状星雲である。その中心核が中性子星として再生されている。超新星は1つの銀河でおよそ100年に1つの割合で出現すると考えられている。我々の銀河系内では1604年に出現したのが最後で、現在のところまだ観測されていない。(続く)

2019年4月 7日 (日)

新元号「令和」について思うこと

◆新元号「令和」が発表されて1週間が経った。最初に聞いた時、「令」の字に関して「法令、司令、命令、令状」など法的な硬いイメージを連想した。しかし同時に、「令息、令嬢、令室」など人の親族を呼ぶ敬語としても使われているし、出展となった万葉集の一文には「令」には「善(よき)」の意味もあることを知り、違和感は薄らいだ。何より漢籍ではなく、初めて国書から選ばれたことに共感を持った。またレイワという音感にも今までにない新鮮なものを感じた。平成の時も、当初違和感を感じたが、使っているうちに慣れてきた。世論調査でも「令和」に好感を持っていると答えた人が64%、「馴染みにくい」と感じた人が31%だから、あとは慣れの問題だろう。

◆それはさて置き、「令和」フィーバーはここにきて少し収まった感があるが、まだ平成が終わった訳ではない。日本人の変わり身の早さには驚くばかりだ。今回改めて元号について考える機会が与えられたことは大きい。西暦とは別にその国独自の「元号」を保持している国は世界中で日本だけ。しかも1370年以上も継続していること自体、稀有なことであり、日本文化の独自性を表すものと言えよう。確かに西暦は単純な世界共通の表記であり、使用には便利fだ。しかし、「元号」という「天皇制」と一体化した日本独自の文化は貴重なものであり、これからも西暦との併用・共存を図っていくことは成熟した知恵ではなかろうか。

◆国民の多くが新元号に対して好意的であるのに対して、例によって例の如く共産党は「元号は君主が空間だけでなく、時間をも支配するという思想に基づくもの。憲法の国民主権の原則には馴染まない」と非難。社民党は「元号は象徴天皇制に馴染まない。安倍政権の目指す国民への規律や統制の強化が滲み出ている」と、これまた国民の率直な感じ方とはかけ離れている。これに気を良くしたのが韓国。「安倍政権の保守路線の強化を表すもの」などと難クセをつけている。この一事を見ても、共産・社民はどこを見て政治に臨んでいるか分かろうと言うもの。

◆一方中国の反応が面白い。新元号が日本の万葉集を典拠としたことを「脱中国化だ」と評価したが、その万葉集の典拠のもとは「後漢時代の趙衛の詩文集を参考にしたもの」と日本の学者が解説すると、やはり中国の文化の影響下にあるなどと、前言を翻す。これはいかに中国が自国の文化に疎いかを物語っている。中国外務省の報道官は新元号に関して、「日本の内政事情であり、コメントしない」述べた。これがまともな反応と言えよう。問題は4/27日から5/6日までの10連休。国民は喜ぶ人ばかりではない。政府は国民生活の混乱回避を重視すると言うが、果たして、医療や金融機関、保育施設などに支障はでないだろうか。本当に10連休にする必要があるのだろうか。

 

 

2019年3月24日 (日)

宇宙のことに思いを馳せる。(2)

◆子供の頃、故郷長崎でもよく晴れた夜の空には天の川が天空いっぱいに広がって見えた。天の川は「無数の星の集まりだろう」とは直感的に感じていたが、これが直径約10万光年の渦巻き状をした円盤型の銀河で、「天の川は私たちの住む銀河系を内部から見た姿である」と知っても、実感としては未だにピンとこない。何故なら地球から見て天の川はまるで別個のように遠い存在で、その中にいること自体、不思議で神秘的なことだからだ。太陽系はその天の川銀河の中心から約2万8000光年の距離にあると言うから、想像を遥かに超えた大きさだ。

◆太陽は天の川銀河のごく普通の恒星だが、その太陽から最も近い恒星がケンタウルス座の方向に地球から約4.2光年離れた赤色矮星で、明るさは約11等と大変暗く、肉眼では観測不可能という。天の川銀河は約2000億個の恒星と星間物質の集合体だが、こうした暗い星が大量にあるので、恒星の数は正確には分からないという。1光年は約10兆km、その10万倍の大きさが天の川銀河の大きさというから、まさに宇宙の大きさは想像を絶する。

◆ところが天の川銀河は宇宙に無数に存在する銀河の一つに過ぎない。天の川銀河の隣には大マゼラン雲(地球から16万光年)と小マゼラン雲(同20万光年)という小さめの銀河がある。どちらの銀河も天の川銀河の1割前後の大きさに過ぎない。その他にも矮小銀河と呼ばれる小さな銀河が、天の川銀河を中心にして半径40万光年ほどの範囲にいくつも見つかっていると言う。

天の川銀河より大きな銀河で、最も近い銀河はアンドロメダ銀河だ。地球からの距離は約250万光年。形状は同じく渦巻き円盤型をしており、差し渡しは約22万光年と天の川銀河の倍以上の大きさがある。その中には1兆個ほどの星が含まれていると言われ、この二つの銀河は近づきつつあり、約40億年後には衝突すると言われている。但し、星と星がぶつかることはまず無さそうで、両銀河は大きく変形して、いずれ一体化し、一つの銀河になると考えられているそうだ。

◆天の川銀河とアンドロメダ銀河、その他の矮小銀河(約50)をまとめて「銀河群」と呼ぶ。それより大きい銀河の集団は「銀河団」と呼ばれ、さらに大きな銀河の集団は「超銀河団」と呼ばれている。我々が住む銀河群はおとめ座超銀河団に属し、その大きさは1億光年ほどだという。これが宇宙の大規模構造と呼ばれているそうで、天文学者の間では高度な観測機器を駆使して、宇宙の構造について高度な観測研究が続けられているが、いまだ解明できていない部分が数多くあるという。

2019年3月11日 (月)

宇宙のことに思いを馳せる (1)

子供の頃は自分に見えているものが全てだ。太陽や月は球形で、宙に浮いている。人間が住む地球も同じように丸く、宙に浮いているということも、いつの間にかごく自然に受け入れていた。しかし、地球の反対側にいる人たちは何故落っこちないのか、不思議に思ったものだが、それも理科の時間を通して自然に理解が進んだ。齢を重ねるに従い、宇宙に関する興味も膨らみ、知識も増え、同時に分からないことも増えていった。

(1)太陽系のこと
太陽はごく普通の恒星で、誕生したのは約46億年前太陽系は太陽を中心にその重力によって、周囲を公転する天体全体のことで、謂わば太陽一族だ。太陽系を構成する天体は惑星8個、準惑星5個、それ等を公転する衛星が200余。40万個を超える小惑星、彗星、無数の小天体などからなる。最も外側の惑星である海王星までは約45億km。また最も外側の天体は太陽系外縁部と言われるもので、氷と岩石で構成された小天体が存在しており、これまで約1400個が発見されているという。準惑星に格下げされた冥王星は太陽系外縁天体の中では最大級の天体。太陽からの距離は平均約59億kmも離れている。


【太陽の規模と構成】 太陽の半径は約70万km、中心核の温度は1500万度。太陽の中心から地球まで約1億5千万km(光速で8分20秒)。中心核では水素がヘリウムに返還する核融合反応を起こし、そのエネルギーは、わずか1gの水素から、石炭20tを燃やすのと同じだけのエネルギーが得られるというから、まさに無尽蔵だ。太陽の質量は実に膨大で、太陽系の全質量の99.86%を占める。残りの0.14%は木星や土星などの4つの巨大惑星が占め、地球などは吹けば飛ぶようなちっぽけな存在でしかない。太陽系内の全ての天体は太陽によって重力的に束縛されている。太陽の重力は約2光年先に及ぶと推定されており、その辺りが太陽系の果てらしい。

【太陽の誕生】 太陽などの恒星は銀河の中の暗黒物質の中で生まれる。暗黒物質とはガスや塵が集まった黒い雲のようなもので、その大部分は水素分子が占めており、竜巻が起こる原理でガス雲の渦ができ、やがて恒星の卵ができる。恒星の卵は約1000万年以上かけて高温高圧の状態となり、中心部が1000万度を超えると核融合反応を起こし、中心部が発火して自ら光を放つ恒星となり、以後数十億年~数兆年に亘って核融合しながら宇宙に燦然と輝き続ける。

【太陽の最終段階】 無尽蔵のパワーを誇る太陽もおよそ50億年後には燃料である水素も底をつきはじめ、次第に周辺へ核融合の領域を広げていく。その結果、膨張が始まり、表面温度が下がって次第に赤みを帯びた色に変化し、直径は今の200倍、明るさは2000倍に上昇。「赤色巨星」となって、地球は飲み込まれていくという。最後は「惑星状星雲」へと変貌してその一生を終える。そして次の恒星誕生の原料となるのだ。(続く)

 

 

2019年2月22日 (金)

はやぶさ2号「リュウグウ」へタッチダウン

◆探査機「はやぶさ2号」が小惑星「リュウグウ」へ見事 着陸に成功した。2014年12月3日に地球を出発して、4年と2か月余。降下開始が5時間ほど遅れたが、最終的に予定通り着陸して、サンプル採取も成功したようだ。初代「はやぶさ」は多くのトラブルを克服して劇的な帰還を果たし、多くの感動を与えた。2号は先輩の苦労を学習し、今のところ順調にミッションを果たしている。後2回ほど石や砂のサンプリングに挑戦するが、無事に地球に持ち帰って欲しいものだ。宇宙のことは小さい時から、凄く興味があった。今回の壮大な計画に関し、そもそも小惑星とは何なのか、成り立ちや分布についてJAXAのHP等を参考に調べてみた。

小惑星の成り立ち : 小惑星の多くは火星と木星の間にある「小惑星帯」に位置している。その成り立ちは、太陽系が誕生したころには無数にあった微惑星のうち、この領域にあったものだけが惑星へ成長しきれずに、取り残されたものだと考えられている。しかし、中には一つの天体が破壊されてできた「かけら」だと考えられている小惑星群もあるようだ。とくに大きなものを除いて、先の「イトカワ」のように殆どがいびつな形をしている。 

惑星になりきれなかった天体たち :小惑星は主に火星と木星の間の軌道を公転する無数の小天体で、その数は軌道が分かっているものだけでも40万個を超え、現在も次々と発見されていると言う。小惑星は岩石と砂でできたもの、殆ど金属でできているもの、金属と岩石が混ざりあったもの、炭素質が多いものなど様々な種類がある。いずれも太陽系が誕生した頃の残骸で、初期の太陽系の様子をとどめていると見られ、太陽系誕生の歴史を明らかにすることができるという。小惑星の中には衛星を持つものが数多く発見されている。初めて衛星が発見された小惑星はイダで、木星探査機「ガリレオ」によって発見された。天空にあるからこれを「イダテン」と言う。(冗談です)

地球接近天体 :小惑星の中には、地球軌道にまで近づくものもあり、地球接近天体と呼ばれている。惑星が誕生した時と同様に小惑星帯に漂う岩塊もよく衝突し、軌道がずれたりする。中には木星の重力に影響されて進路を変え、楕円軌道を描きながら地球に接近するものが出てくる。仮に直径1kmの小惑星がぶつかったとしたら、地球温暖化どころの話ではない。恐竜が絶滅したときのように、人類滅亡の時になりかねない。地球への衝突に対応するために、ハワイにあるNASAの超高性能の望遠鏡が特に危険視される小惑星のほか、様々な軌道、距離、大きさの地球接近天体の観測を続けている。(今後、数回に分けて、宇宙のことに言及してみたい。)・・・続く

2019年1月19日 (土)

人力車の話題

◆近年、京都・奈良・鎌倉・浅草などの多くの観光地で、人力車をよく見かけるようになった。若い女性や中高年夫婦、外国人客などが座席に座って、膝に赤い毛氈を掛け、それを若い男性の車夫が一人で引く。意外とイナセで格好いい。調べてみると1970年、飛騨高山で利用されたのが最初で、次第に全国の有名観光地に広がり、伊東や道後といった温泉街でも見かけられるようになった。観光名所をコースで遊覧し、車夫がガイドの説明を兼ねるケースも多いらしい。

◆人力車が日本に登場するようになったのは、明治2年(1868)のこと。発明者は和泉要助という男だった。彼は外国人が乗る馬車にヒントを得て、馬の代わりに人力で走らすことを考えた。試行錯誤の上試作車を走らせて、東京の話題に上った。彼は知人二人の協力を得て完成させ、東京府に営業の認可を得て、翌明治3年に日本橋の袂に「御免人力車処」の幟を立てて開業したとされる。日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より早く、小回りが利き、馬よりも人間の労働コストの方がはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。

◆1870年には東京府は発明者と見られる3名に人力車の製造と販売の許可を与え、運転免許証の発行が開始された。人力車は急速に普及し、1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消した。逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な輸送機関になった。職を失った駕籠かき達の多くが人力車の車夫に転職したのは当然の成り行きだった。19世紀末には日本に20万台を超す人力車があったという。因みに1880年代にはインドに輸出され、東南アジアにも広がった。また中国では日本製の人力車が爆発的に広がり、国産化されるようになって、上海には大小100を超える人力車工場があったという。

Photo_2◆人力車は都市部で路面電車が普及し、乗り合いバスやタクシーが出現するようになると衰退の一途を辿るようになった。都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃をピークに減少し、人力車の姿は殆ど見られなくなった。ところが、1950年頃(昭和25年)、長崎駅前に古びたカーキ色の幌を被った人力車が10~20台ほど並んでいた。みすぼらしいナリをした中年の男達が、客待ちでたむろしている姿を目撃したのだ。当時小学校1、2年頃で気恥ずかしい気になった。あとで分かったことだが、戦後、車両の払底・燃料難という事情から、お蔵入りの人力車が僅かに復活した例があったとのことだが、長崎駅前で見た光景はその一例だったのだろう。

◆何故、気恥ずかしい気になったのか。多分、人を馬車並みに扱う乗り物自体が前近代的であり、東南アジアの光景を何かで見ていたのだろう。そんな人力車が映画の世界ならともかく、21世紀を迎えた昨今、颯爽と蘇るとは思いもよらなかった。歴史とは、文化とは分からないものだ。しかし、何故今「人力車」の話題なのか。それは書いた本人にもよくわからない。   (参考資料:ウィキペディア)

2018年12月27日 (木)

師走の入院体験記

◆12月に入って、その方面では有名な横浜のM病院に入院した。1~2年ほど前から、その症状は度々顕在していたが、今すぐどうということはなく、手術・入院が嫌で放置していたもの。近年技術の進歩によって、日帰り手術もあり得るとの情報もあり、家人の強い勧めもあって、8月末頃渋々診察を受けた。その結果、そのような初期の段階はとっくに過ぎており、入院・切除しかないという見立て。ベッドの空き具合や彼此の都合を勘案し、あれよあれよという間に12月2日入院、期間は2週間という予定が組まれてしまった。

◆有名な専門病院だけあって、老若男女・遠近を問わず「門前市を成す状況」。それにしても、この種の患者が日本人になんと多いことか。入院翌日、朝一番に手術は始まった。局所麻酔のため痛さは全くない。20~30分で終わったが、身動きができない。足が全く別人のものようにパンパンに腫れ上がったような感覚が広がる。小水はベッドに横になったまま、尿瓶に出してくれという。尿意はあっても、横になったままでベッドの上で出せるものではない。その日の夜、しかるべき処置を講じて、やっと排出することができた。

◆病院でのメインの仕事は「食事と排泄」。まるで檻の中の動物だ。但し、排泄が最大の難関で、術後4、5日あたりに、七転八倒するほどの痛みが襲った。それでも術後2日目の5日午後には早くも入浴可となる。家庭風呂のような個室の風呂が10室ほどあり、大きな気泡がボコボコ泡立っている。係の女性が一人終わるごとに浴槽を洗い、湯を入れ替える。術後に入った最初の風呂が今まで入ったどんな名湯より、最高に気持ちよい風呂だった。風呂は1日1回だが、この病のアフターケアは患部の温浴がよいとのことで、1日に5~6回座浴を個室のトイレで行う。

◆食事は減塩と食物繊維中心の健康食事ながら、魚・肉も適当に献立され、薄味ながらしっかりとした味付け。運動は殆どしないのに、食事の時間になる頃には空腹を感じる。そのように配慮された献立なんだろう。毎日三食ともほぼ完食。病院食は不味いという先入観があったが、それは払拭された。退院前夜の夕食は豪華な「祝い膳」が用意され、嬉しい心遣い。

◆さて、入院生活は退屈なはず。読書と音楽で優雅な時間が持てるものと期待し、本やCDを持ち込んだものの、豈図らんや鈍痛、激痛で集中力が持続しない。昼間は看護師やスタッフが入れ替わり立ち代わり入室し、夜は夜で異常ないか各室を見て回る。時事に疎くならないよう、差し入れられた新聞に目を通し、TVの情報にも触れる。これから読書という午後9時には何と消灯という決まり。結局読書は予定の1/4程度しか果たせず仕舞。唯一の難点は空調完備のためか、窓にロックが掛かり、外出も不可のため外気が吸えないこと。寝具の入れ替えの際、スタッフが窓を開錠するが、その時が唯一外の空気を吸えるチャンスだ。横浜駅近くの立地条件だが、冬の冷たい空気は美味しく感じられ、自然のありがたさを実感する。

◆人間生きていくためには、必要なものを摂り入れ、不要になったら排出する。入り口と出口が首尾一貫して繋がっているが、「首」に比べて「尾」の方は軽視されがちである。その結果、様々な支障を来し、出口を専門にする病院が繁盛することになる。まさに「終わりよければ全て良し」の金言を改めて認識した2週間だった。

2018年11月26日 (月)

秋の京都・奈良、お気に入りのスポット(2)

正倉院展】 今回の旅行の目的の一つである「正倉院展」は70回を数える節目の展覧会。比較的に入場者が少ない夕方の時間帯だったが、それでも盛況を極めていた。目玉展示品である玳瑁(タイマイ)螺鈿八角箱は想像した以上に大きなもので、平螺鈿背八角鏡と並んで、とても1300年ほど前に制作されたものとは思えないほど精巧で綺麗な細工物だった。また、沈香木画箱犀角如意等、華麗な工芸品が目を楽しませてくれた。その他にも光明皇后が履いたと言われる室内履き、陶器製の鼓、和琴の原型を類推させる新羅琴など、例年以上に充実した展示内容だった。

【興福寺の中金堂】 710年の創建以来、度重なる焼失・再建を経て平成30年の今年、8年の工期を経て創建当時の様式で復元された。朱塗りの柱、白壁、金箔のシビなど全てが真新しく、年月を経た重厚さは感じられない。中央に安置された本尊釈迦如来坐像は江戸時代の1811年に制作された木造寄木造りで、これまた金ピカ過ぎてしっくりこない。むしろ本尊の周囲に配された四天王像(国宝)、吉祥天・大黒天薬王・薬上の二菩薩は重要文化財に指定され、周囲の脇役の方がメインキャストに見えてくる。
Dscf2490 復元された中金堂

【その他】 京都の永観堂は紅葉が見事、石庭の天竜寺はじっくり鑑賞するには最高の庭園だが、いずれも押し寄せる東アジア系の観光客のため、興趣が削がれてしまう。
南禅寺の三門は初めて登楼したが、地上22m、「絶景かな、絶景かな」と石川五右衛門の歌舞伎の台詞で有名なだけのことはある。楼の中を垣間見ることはできるが、中に入ることはできず、これまた半減だ。奈良の迎賓館と言われる奈良ホテルに宿泊。多くの皇室の賓客が定宿にしているだけに高級感溢れ、ディナーのフレンチは洗練された味で、星五つか。

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南禅寺三門二階回廊から京都市内を望む。

【余談】 京都から奈良へ移動途中、ベテランバスガイドさんから聞いた話。正岡子規の「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句は実際には東大寺門前の旅館に泊まった時に詠んだ句で、最初は法隆寺ではなく東大寺だったと言う。翌日、斑鳩の「法隆寺」を訪問した時に、「待てよ、東大寺より法隆寺の方が語感がいいな」ということで、修正したものだったとか。秋の京都・奈良を訪ねる2泊3日のやや贅沢なツアーではあった。(終わり)

2018年11月25日 (日)

秋の京都・奈良、お気に入りのスポット(1)

Dscf2455 銀閣寺 「観音殿」

銀閣寺】 足利義政が造営した銀閣寺。波紋を表現した銀沙灘と白砂で造成した向月台を中心とした庭園の素晴らしさは言うまでもないが、できれば雑踏の中ではなく、満月の夜に少人数で鑑賞したいもの。二層の国宝「観音殿」は銀閣寺の代表だが、今回特別公開のもうひとつの国宝「東求堂」と本堂内をガイドさんの説明付きで拝観することができた。
簡素な書院造の本堂と広間は与謝蕪村、池大雅、富岡鉄斎らの襖絵が、地味だが格調高い東山文化の香りを演出している。

本堂と渡り廊下で繋がった「東求堂」は義政の持仏堂で、檜皮葺きの現存する最古の書院造りとのこと。北面東側の四畳半は「同仁斎」と呼ばれ、草庵茶室の源流、四畳半の始まりだそうだ。いわゆる書斎と茶室を兼ねたような部屋で、障子を左右に少し開くと、庭園の一部が自然の掛け軸となって、四季の移ろいを奏でてくれる。
さらに渡り廊下で結ばれた「泉殿」は香座敷で、義政が「お香」や「歌」を楽しんだとされる。平成8年改築の際、日本画家の重鎮奥田元宋画伯が三年の歳月をかけて完成させた襖絵の集大成で飾られている。日本の四季を自然な色調で描いた大作は素人目にも分かりやすい。永く後世に残る傑作となるだろう。やはり銀閣は素晴らしい。

Dscf2447 銀閣寺 「東求堂」

Dscf2461 白砂の「向月台」


【嵐山大覚寺】 抒情歌「女ひとり」の中でも歌われた「大覚寺」を訪れたのは初めて。嵯峨天皇の離宮嵯峨院が真言宗大覚寺となり、今年は嵯峨天皇紺紙に金文字で勅封した般若心経」が浄書されてから1200年にあたるという。また60年に一度の開封法会の年ということで、日本人観光客が多く、外国人の姿は少なかった。外国人には難しすぎるということか。このようなスポットは今の京都では穴場と言えよう。
普段、勅封心経殿に奉安されている嵯峨天皇(平安時代)はじめ、後光厳(南北朝)、後花園、正規町(以上室町)、光格(江戸時代)各天皇勅封の般若心経が他の寺宝とともに一堂に展示され、見応えがあった。また境内の大伽藍には寝殿造り、書院造りの堂宇がいくつも配され、唐の洞庭湖を模したという「大沢の池」が壮大な景観を演出している。想像以上に規模の大きな寺院だった。(続く)
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大覚寺 「大沢の池」

2018年11月21日 (水)

古都の秋、散策雑感

♪ 京都~ 嵐山 大覚寺~ 恋に疲れた 女がひとり~ ♪

この歌の雰囲気が好きで、先日古都の秋を巡ってきた。小春日和の京都・奈良、ともに秋の行楽真っ盛り。和服姿の若い女性が二人、三人と連れ立って歩く姿をよく見かけた。街中で和服の貸衣装屋さんに群がっている女性たちを目撃。確かに俄仕立てというか、板についていなのが見てとれる。「女ひとり」の歌のようなムードとはかなりかけ離れているが、それでも日本の若い女性がひと時でも和服に馴染んで、京の街をそぞろ歩きすることは、本人にとっても、日本の将来にとっても良い結果をもたらすに違いない。

◆東アジアや東南アジアからの観光客の和服姿もよく見かけるが、様になっているかどうかは別にして、異文化交流の一端として大目に見よう。頂けないのが、大勢で群がり、大きな声でわめき立てる輩。中には人混みの中で大きなスーツケースを引っ張って歩く連中がいることだ。この感覚は全く理解できない。どこに行ってもこうした観光客に遭遇する。国が外国人観光客誘致目標3000万認を掲げ、推進する一方で、その負の効果が増大するのは自然の成り行きだろう。

◆先日TVが嵐山の美しい竹林で、孟宗竹の表面に落書きの傷の跡があったことを報じていた。内容からして外国人らしい。その現物を見た。緑の粘着テープを貼って目隠ししていたが、実に痛ましい。人の流れが絶えないこの竹林には人力車専用の道路があって、乗ったまま楽しんでいる観光客も多い。竹林と人力車とくれば、あの健康飲料のCMを思い出すが、この竹林は20~30年前に意図的に造られたものだという。
負の側面といえば、祇園や錦市場に大挙する外国人観光客の影響で、常連客が迷惑を受け、売り上げ減になっているという。これに関しても何らかの手を打たなければ、双方にとって不幸なことに繋がってしまう。


◆今回の旅行で特に嵐山の渡月橋、竹林、天竜寺などで東アジア系の観光客の多さが目立ったが、東山の琵琶湖疎水沿いの「哲学の道」、紅葉が美しい「永観堂」、「南禅寺」、「銀閣寺」、「奈良公園」などは他にも欧米系の観光客も多く見られ、さすが古都ならではの感を持った。(続く)
Dscf2453 木漏れ日が差す銀閣寺庭園

Dscf2468 永観堂の庭園

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南禅寺境内の琵琶湖疎水の水道橋の下、和服姿の若い女性たちが集う



2018年10月18日 (木)

韓国と北朝鮮 根っこは同じ

文在寅韓国大統領は、フランスのマクロン大統領と会談した際、北朝鮮は「米国が相応の措置を取れば、現在保有している核兵器と核物質をすべて廃棄する用意がある」と語ったという。(そんなことは今年6月「シンガポール米朝首脳会談」の共同声明で、「北朝鮮は朝鮮半島の完全な非核化に向けて取り組む」と謳ったはずだ。何をいまさら。本当にやる気があるなら条件を付けずに、具体策を示せと言いたい)

◆さらに続けて「金委員長は誠実で冷静、礼儀正しい」と評し、「国際社会が依然として疑念を持っていることに不満を感じている」と主張。「困難の末に合意にこぎつけたこれらの努力へ、報いるべき時が来た」と述べ、「非核化は正しい決断だったと保証する必要がある。金委員長が核兵器の廃棄に向け、戦略的な決断をしたことを確信した」と仏紙に述べたという。(早く朝鮮戦争終結宣言をせよと言うことか)

◆文氏に言いたい。いくら同胞とはいえ、年下の若造にそこまで懐柔されたのかと。「国際社会が依然として持っている疑念」とは何か、祖父・父親という独裁者の血を引く三代目が誠実で冷静、礼儀正しいという人物ならば、政敵とは言え叔父を粛清し、兄貴を白昼堂々と暗殺するだろうか。北朝鮮は今年核兵器とミサイルの実験を停止しているが、核実験場を爆破した際に国際査察官を招くと言う約束を反古にした。舌先三寸で相手を惑わす得意技は衰えていない。口先だけの核廃棄で、世界中が経済制裁を解くならば、北にとって文大統領は功績大なりとして表彰状ものだ。

◆文氏がいみじくも述べているが、金正恩が核兵器の廃棄に向けて、戦略的な決断をしたとはまさに言い得て妙。「核兵器の廃棄」を餌に様々な交渉で、取るものだけ取って究極的なもの大切に仕舞い、いざと言うときの切り札にとって措く。ということはいずれ南北が統一されれば、統一された朝鮮半島は核保有国となり、米・中・露とは対等に立ち向かい、日本を下に見ることができる。なるほど「核兵器の廃棄に向け戦略的な決断」とはそういうことだったのか。文氏が揉み手をして、金正恩に寄り添う姿に納得がいくではないか。

◆「恨」の国、朝鮮半島。日本から受けた恨みは2000年経っても忘れることはできないと前大統領は言った。ところが、1950年に38度線を超えて朝鮮戦争を勃発させた北朝鮮。1987年、北の工作員によって乗員・乗客115名が命を絶った大韓航空爆破事件。こうした北による数々の事件・暴力・拉致などはすべて水に流すという大寛容の精神を文氏は持っているらしい。その一方で、1965年の「日韓基本条約」、1998年の「日韓共同宣言」、2015年の「最終的かつ不可逆的な合意」という「反省と未来志向に向けた国と国の取り決め」には不誠実だ。逆に、慰安婦問題、竹島問題、歴史認識問題などは韓国国民の世論だとして繰り返し利用しながら、金正恩と協調して世界平和を演出する。韓国歴代大統領は不幸な結末を招いた歴史があるが、もともと朝鮮半島のDNAを引き継ぐ二人、果たして文大統領は?そして金正恩の将来とは?

2018年10月10日 (水)

長崎ブラリ街歩き(後)

◆長崎駅前の高架広場を横切った辺りの一帯を西坂と呼んだ。この辺りを歩いているうちに、ビルとビルの隙間から何やら大きな観音様の像が見えた。思わず狭い石段を登り、境内に立って驚いた。「えっ!何これ?」、なんともグロテスクな亀の像の上に巨大な観音像が立っている。調べてみるとこの寺は1628年に建立された福済寺という寺院で、興福寺崇福寺、と合わせて「三福寺」と呼ばれる黄檗宗の由緒ある寺院だった。また後述する聖福寺と合わせて「長崎四福寺」と呼ばれる寺院でもある。興福寺、崇福寺は既知の寺院で子供の頃から馴染みがあったが、迂闊にも福済寺は知らなかった。戦前は本堂などの建築物は国宝に指定されていたが、長崎市への原爆投下で焼失したと言う。

Photo (万国霊廟長崎観音像)

◆しかし、何で亀の上に観音様が? 実は1979年(昭和54)に平和を祈願して建立されたもので、「万国霊廟長崎観音」が正式名称とのこと。中国の謂れによるものだそうだが、亀の形をした霊廟を台座として建っている姿はいかにも奇妙だ。高さは18m(地上から34m)、重さは35tあるという。昭和54年といえば東京で社会人になって10年余。その後何度も帰省していたが、終ぞ知ることがなかった。40年ほど昔にできたとは思えぬほど真新しく、ひょんな切っ掛けで知ることとなった。内部には地球の自転を示す「フーコーの振り子」(長さ25.1m「で日本最大級)が取り付けられているという。今度行ったときに覗いてみよう。

福済寺は坂本龍馬が初めて長崎に滞在した時の宿泊所。また勝海舟は長崎海軍伝習所時代に福済寺の隣の本蓮寺に滞在した。また数100m離れたところには「いろは丸事件」の談判が行われた聖福寺(国の重要文化財多数)があり、維新の志士たちが闊歩したゆかりの地となっている。
Dscf3680 聖福寺山門

◆長崎駅前の西坂の丘の斜面に沿った細長い地域は、歴史的に由緒ある寺院仏閣、教会などが点在する。1597年2月5日、秀吉の命により西坂の丘で殉教した二十六聖人を記念して、記念館と記念碑(レリーフ像)が建つ。それに付随して建つ双塔のデザインの小さな教会「記念聖堂」が印象的だ。「聖フィリイポ教会」と称するこの教会のデザインは「スペインゆかりの地に立つ現代建築」というテーマで、サグラダ・ファミリア教会で知られるガウディのスタイルを意識的に取り入れたというが、ちょっとオーバーじゃないかという感じ。いずれにしろ、長崎の街は古いもの新しいもの、いろいろ取り混ぜ、進化しているようだ。(本稿終り)
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「二十六聖人記念聖堂」

2018年10月 9日 (火)

長崎ブラリ街歩き(前)

◆所用があって、先週長崎に行ってきた。台風24号が過ぎ去った長崎の街は秋空に覆われ、真夏日そのもの。所用を済ませ、帰りのフライトまではまだ時間があるので、ブラ歩きする。長崎は行くたびにどこか変わっており、新しい発見がある。

◆長崎県庁が今年初め、新庁舎に移転したと言う。まず外観だけを傍観した。場所は浦上川の河口、長崎港の最奥部にあたるところで長崎駅から徒歩5分、周りが水辺の絶好のスポットである。近年、各県の県庁舎は外観が立派で大振りなのに対し、意外と小さく地味で、控えめな造りである。それもそのはず、地上8階建て、それほど自己主張をしていない。長崎港が奇抜なデザインの建築物に取り囲まれているから、それほど目立たないのだろう。ただ、窓に木目調の縦の桟が不規則に並んでいるのが気になるというか、印象に残るデザインだ。新しい建物だが、シックで落ち着いた雰囲気を出しており、西側の浦上川と南側の長崎港という両面が水面(みなも)に接した立地は、他ではあまり見られない情景ではなかろうか。

Photo 新装なった長崎県庁

◆浦上川は子供の頃、黒く濁って汚かった。戦後日本の都市河川の御多分に漏れず、工場排水、生活排水が影響していたのだろう。昭和20年8月9日、この川の2km上流では水を求める多くの人が川に入り、無数の焼死体が浮かんでいたという。2歳に満たなかったが、この地にいたことは確かだった。73年後の今、水は青く綺麗で、河口の岸には遊歩道が通り、街路樹が植えられている。平和が当たり前の世の中になって、その有難さが見失われがちだが、忘れてはならないことだと思いを新たにする。

◆小学校から高校まで、少年時代と多感な青春時代の一時期をこの地で過ごした。特に小学校時代の思い出は昨日のことのように思い出される。友達と遊んだあの場所、行き来した友人宅、商店街、風呂屋さん・・今どうなっているんだろう。60数年ぶりにそれら思い出の地を巡ってみた。入り組んだ狭い道路、商店街などの区画割、古い人家など、ほぼ昔の面影を残しているが、半分以上は姿を変えている。そして何より活気が感じられない。友人5~6人の家があった場所は分かるものの、姿は変わり、一人として在住していない。これが時の流れというものだろう。(続く)

2018年9月15日 (土)

自民党総裁選と憲法論議(後)

安倍総理は9条(1)項の「平和主義」と(2)項の「戦力不保持」はそのまま維持し、新たに9条の2として「自衛隊の存在」を明記し、法的根拠を与えようとする考えを打ち出した。即ち、現実をそのまま認め、宙ぶらりん状態の自衛隊を正式に認知しようというもの。これなら現状と大きく異ならず、比較的国民に受け入れられやすいと判断したのだろう。
        ◇         ◇         ◇

ところが、この案に対しては「実質、現状が変わらないのであれば、何も憲法を改正する必要がないではないか」と、左派系政党をはじめ、憲法改正反対派から声が上がる。また、安倍さんは「史上初めて憲法改正した総理として名を残す考え」ではないかと、穿った見方する人もいる。しかし、もっとも大きなポイントは、(2)項の「戦力不保持と交戦権の否認についてそのままにした上、いくら憲法上に自衛隊を明記しても、戦力ではないという従前からの主張の矛盾については、何ら解決策にはなっておらず、対立の図式は変わらない。
        ◇         ◇         ◇
対立候補の石破氏はまさにこの点を突き、安倍さんの提言は「まやかし」であるとして、大胆にも(2)項の「戦力不保持と交戦権の否認」を削除し自衛隊を通常の軍隊であることを明記し、保持を定める。その上で国際法上の「交戦権」を認めようとするもの。もちろん自衛隊の暴走を防ぐため、文民統制(国会や内閣による)の原則を明確に定めるという。
        ◇         ◇         ◇
さて、どちらの議論が正しいか。理論的には石破氏の提言が正しい。自衛隊は軍隊ではないなどという非現実的なところを改め、矛盾がなくなり、スッキリした形になる。しかし、この憲法案だと、反対勢力から逆に「戦争ができる国にしようとしている」などと喧伝され、それに乗じて、中・韓・北朝鮮あたりから「右傾化だ、軍国主義の復活だ」などと逆宣伝されるだろう。そして(1)項で平和主義の貫徹を謳っているにも拘らず、そのことには目もくれない。その辺りを意識してか、持論の改正案については、「緊急課題ではない、理解無き憲法改正をスケジュール感ありきでやるべきではない。」とトーンダウンしている。これはこれで「機を見るに敏」な政治家の姿勢をよく表している。ではいつ理解を得られるのか?
        ◇         ◇         ◇
結局総理の案は「現実」を直視した案で、自衛隊員の立ち位置について「」に訴えた形ではあるが、根本的な矛盾を孕んだままであるのに対し、石破氏の案は「理想」を追求した案で正論ではあるが、現実性に欠けるきらいがある。これほど難しい安全保障や憲法改正について国民に判断せよといっても簡単ではない。為政者は安全保障上の長期的ビジョンと国益を第一とした外交方針を示したうえ、そのための憲法改正の必要性を丁寧に説明して、理解を得るしかない。このまま何もせず、放置したままで、「他国侵略の難」が起こったときに、「時すでに遅し」では済まされない。(終)

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